忍者ブログ

伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

 略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

伊賀忍者市場

伊賀忍者市場Yahoo!店

LINEアカウント

伊賀プロレス通信LINEアカウント

ツイッター

ツイッター

Facebook

RSS

全日本プロレスチケット販売

プロレスリングNOAHチケット販売

ZERO1チケット販売

カレンダー

03 2017/04 05
S M T W T F S
4 7
9 12 13
16 18 22
27 28 29
30

カテゴリー

ブログランキング

ブログ村

忍者アクセスランキング

プロフィール

HN:
伊賀
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R

アクセス解析

忍者カウンター

天龍源一郎と橋本真也

 長州力を降した天龍源一郎は新日本のシリーズにスポットながら参戦するようになったが、越中ら反選手会同盟だけでなく他の新日本プロレス勢と対戦も課せられた。


 1993年2月の札幌大会で天龍は阿修羅・原、石川敬士と組んで武藤敬司、橋本真也、野上彰組と対戦し、ファンは天龍vs武藤の対決に注目したが、天龍に立ちはだかったのは武藤ではなく橋本だった。


 当時の橋本はグレート・ムタとしてIWGPヘビー級王座となった武藤、G1 CLIMAX二連覇という偉業を達成していた蝶野正洋と比べ停滞しスランプに陥り、この年の東京ドーム大会でもメインカードから外されていた。


 試合は先発を買って出た橋本が天龍を挑発、天龍が先発するが橋本は強烈なキックを浴びせ天龍からダウンを奪い、ファンに大きなインパクトを与える。


 試合は石川がノド輪落としで野上を降したが、完全に試合の主役を奪った橋本は引き揚げようとする天龍を挑発し控室まで殴りこみをかけ天龍との対戦をアピール、橋本はシリーズを突如欠場しWARの会場に乗り込んでまで天龍との対戦を迫った。


 天龍と橋本は6月17日WARの日本武道館で対戦。両者共小細工なしの真っ向勝負を展開、橋本も自分の全てを叩き込むようにジャーマンやおきて破りのパワーボムまで繰り出すが、天龍は浴びせ蹴りを初公開した後でパワーボムで降し勝利を収め、8月の新日本プロレス・両国大会でも二人は再戦するも天龍が勝利を収めた。


 その後で橋本はムタを降しIWGPヘビー級王座を奪取、翌年の1994年2月にノンタイトルながらも天龍と対戦し初フォール勝ちを収め、天龍との戦いは橋本時代到来のきっかけとなった。

PR

天龍源一郎と反選手会同盟


 WARを旗揚げした天龍源一郎だったが、旗揚げ前に「引退試合は長州力とやりたい」と発言してから長州も呼応したことで新日本プロレスに急接近し始め、対長州の気運が高まるかと思いきや、天龍の前に越中詩郎率いる“反選手会同盟”後の平成維震軍が立ちはだかった。


 天龍と越中は全日本プロレス時代からの関係で天龍はトップ選手だったが、越中はジャイアント馬場の付き人だった。メキシコ修行中の越中は新日本プロレスへ移籍を決意、越中は筋を通すため帰国し馬場も引きとめようとしたが、天龍が馬場を説得し馬場は渋々越中の退団を認め、天龍は退団する越中に餞別として餞別としてつかみきれないほどの一万円札を越中のポケットにねじ込んだ。越中にしてみれば天龍は恩人だが皮肉にも敵として天龍に立ちはだかり木村健悟、青柳政司、斎藤彰俊と共にWARのリングに乗り込んだ。


 WARに乗り込んだ越中らは早速WARを蹂躙、2戦目から天龍が対新日本に加わるも越中ら“反選手会同盟”の勢いに押され完敗、懐刀だった阿修羅原や冬木弘道も負傷欠場してしまい、新日本の勢いの前に天龍率いるWARは窮地に立たされる。


 背水の陣へと追いやられた天龍は1992年10月23日の後楽園大会で北原光騎と組んで越中、木村を迎え撃った、自分も今でも憶えているが越中は完全にアウウェイ(敵地)を意識してか木村と共にラフファイトを展開して天龍ファンの怒りを煽り、ファンは越中らに物を投げつけるなど館内は殺伐した雰囲気となる。(後になってわかったことだが新日本ファンと天龍ファンの間でケンカにもなったという)
 試合も北原が捕まる展開となるが、天龍が盛り返し青柳、彰俊の介入も対抗戦に乗り気でなかった石川敬士を始めとするWAR勢が懸命に阻んで大乱闘となる。最後は天龍が越中をパワーボム2連発で降して改めて新日本プロレスへ乗り込むことをアピールした。


 天龍は新日本プロレスに参戦し12月大阪で行われた越中とのシングル戦に勝利したあとで、翌年1月4日では久しぶりに長州と対決、パワーボムで降し長州から初フォールを奪った。

SWS解散・分裂という挫折を味わうも、天龍はWAR設立へ走り出した。

 SWSは1992年6月に分裂・解散となった。オーナーである田中八郎氏から押し付けられた形で社長に就任した天龍源一郎は、私的なトラブルから全日本プロレスを解雇され北海道で隠遁生活を送っていた阿修羅・原を復帰させ“龍原砲”が復活、またユニバーサルプロレスリングからウルティモ・ドラゴンを獲得し、WWFとの提携でトップ選手が参戦するなどSWSは軌道に乗ったかに見えたが、内部では派閥闘争の火種が燻り続けていた。


 1992年3月に入ってから反天龍派に押し切られる形で現場責任者であるザ・グレート・カブキが突如辞任、反天龍派の谷津嘉章も選手会長を辞任し会見で天龍批判を展開したことで『レボリューション』と反天龍派である『パライストラ』『道場・激」は亀裂が深まり修復不可能となってしまう。フロントでも団体運営に嫌気を刺した田中オーナーが8月に予定していた興行をキャンセルしSWS解散へと動き出す。


 SWS最後の後楽園大会を終えた天龍は『レボリューション』のメンバーと共にリング上で挨拶するが、天龍を心配したファン200人が会場に残っていた、天龍はファンに『俺は絶対裏切らないから・・・ここは帰ってくれ。俺は絶対に嘘つかないよ。信じてくれ・・・」とファンに語りかけるとファンから声援と拍手が贈られ、天龍は改めてファンのありがたみを知った。


 そしてSWSは二派に分裂することが決定したが、天龍ファンからの支持を受けた天龍は新団体『WAR』を旗揚げすることを決意、反天龍派も『NOW』の旗揚げに動き、SWSのオーナー会社であるメガネスーパーは期間限定ながら双方の団体に資金援助することになったが、反天龍派は足並みが揃わずエース候補だったジョージ高野、高野俊二の高野兄弟が週刊誌にメガネスーパー批判を展開したことで旗揚げ前に離脱し『PWC』を旗揚げ、SWSは実質上3つに分裂したが、天龍は後を振り向かず前へ歩き始めた。

天龍源一郎とWWF

 話は一旦さかのぼってSWSは旗揚げしてすぐにアメリカの最大のプロレス団体WWF(WWE)と提携を結び、1991年3月には合同で東京ドーム大会を開催した。


 その天龍は1991年に開催された「レッスルマニア7」に北尾光司を伴いSWS代表として参戦、過去6回「レッスルマニア」が開催されたが日本人で最初にレッスルマニアに出場したのは天龍だった。


 天龍は北尾と組みスマッシュ&クラッシュのデモリッションと対戦、試合は緊張のためか動きがぎこちない北尾と比べ、天龍が逆水平チョップやドロップキックを乱打するなど大暴れし、最後は天龍がパワーボムで勝利を収め、WWE内でも評価を高めた。


 武骨なイメージを持つ天龍だが、武者修行時代からアメリカで何度も試合をしていることからアメリカンプロレスにも対応できる幅の広さをもち、全日本プロレス時代にNWAのジム・クロケット・プロモーションに参戦したときは、クロケットが天龍を高く評価して長期滞在を薦められ、また1990年に開催された『日米プロレスサミット』ではランディ・サベージとも好勝負を展開した。


 天龍は1993年にはSWS、1994年にはWAR代表として「ロイヤルランブル」に参戦、1991年12月に開催されたSWS2度目の東京ドーム大会ではハルク・ホーガンとも対戦し、プロレス大賞のベストバウト賞を獲得するなど、WWFでも認められるスーパースターへとなっていった。

天龍の苦悩・・・・外からだけでなく内からのバッシングに悩まされる

 1990年10月9日、横浜アリーナでSWSが旗揚げするも、週刊プロレスのバッシングは治まらず、試合内容や演出まで酷評するも、遂にSWSは週プロに対して取材拒否を通達、週プロのバッシングはひとまず終息した。


 しかし次に天龍にまっていたのはSWS内からのバッシングだった、SWSには全日本だけでなく新日本プロレスからも選手が引き抜かれ、また全日本から引き抜かれた選手の中にも、元国際プロレスや元ジャパンプロレスと外様が中心という寄せ集めで、ほとんどが天龍を慕って退団したわけではなかった。


 天龍は相撲にちなんで部屋同士の対抗戦をカード編成の主体とした相撲部屋制度を提案し採用されると、天龍を慕って集められた『レポリューション』、ジョージ高野ら元新日本プロレスが中心となった『パライストラ』、谷津嘉章やケンドー・ナガサキなど元国際やジャパンまた全日本が中心となった『道場・激』と選手らが振り分けられたが、天龍が提案した部屋別制度が派閥に変わり、また現場責任者が「レポリューション」のザ・グレート・カブキが担当し、天龍中心のマッチメークを組むことから『パライストラ』、『道場・激』らから反発を受けるようになった。
『パライストラ』『道場・激』ら反天龍派は社長だった田中八郎氏に直訴し、田中社長も丸く治めようとして現場に介入するなど、外だけでなく内からのバッシングにも天龍は悩まされるようになった。


 その中で『レポリューション』所属だった北尾光司が対戦相手のジ・アークシェイク・ジョン・テンタに対して試合無視のセメントを仕掛け、試合後には“八百長野郎”と言い放つ事件が起きてしまう。背景にはカブキの指示に従わず折り合いが悪くなっていた北尾に反天龍派が“焚きつけた”ことが真相だったが、事件は内からの天龍バッシングに利用され、天龍は責任を取る意味で取締役を含めた全役職辞任を申し出るが、この時の天龍は全て投げ出したかったのではないかと思う。


 しかし北尾の解雇だけに留まり、田中社長は会長に下がって天龍が社長に就任、部屋別制度も一旦棚上げとなり、部屋別にこだわらないカード編成となったが、実際は田中氏がSWSを天龍に押し付けて下がったに過ぎず、また全てが丸く治まったわけでなく、派閥闘争の火種は燻ったままだった。

Copyright©伊賀, All Right Reserved.
Powered by : Ninja Blog
Template-Design : ガスボンベ