天龍源一郎
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天龍源一郎と橋本真也
長州力を降した天龍源一郎は新日本のシリーズにスポットながら参戦するようになったが、越中ら反選手会同盟だけでなく他の新日本プロレス勢と対戦も課せられた。
1993年2月の札幌大会で天龍は阿修羅・原、石川敬士と組んで武藤敬司、橋本真也、野上彰組と対戦し、ファンは天龍vs武藤の対決に注目したが、天龍に立ちはだかったのは武藤ではなく橋本だった。
当時の橋本はグレート・ムタとしてIWGPヘビー級王座となった武藤、G1 CLIMAX二連覇という偉業を達成していた蝶野正洋と比べ停滞しスランプに陥り、この年の東京ドーム大会でもメインカードから外されていた。
試合は先発を買って出た橋本が天龍を挑発、天龍が先発するが橋本は強烈なキックを浴びせ天龍からダウンを奪い、ファンに大きなインパクトを与える。
試合は石川がノド輪落としで野上を降したが、完全に試合の主役を奪った橋本は引き揚げようとする天龍を挑発し控室まで殴りこみをかけ天龍との対戦をアピール、橋本はシリーズを突如欠場しWARの会場に乗り込んでまで天龍との対戦を迫った。
天龍と橋本は6月17日WARの日本武道館で対戦。両者共小細工なしの真っ向勝負を展開、橋本も自分の全てを叩き込むようにジャーマンやおきて破りのパワーボムまで繰り出すが、天龍は浴びせ蹴りを初公開した後でパワーボムで降し勝利を収め、8月の新日本プロレス・両国大会でも二人は再戦するも天龍が勝利を収めた。
その後で橋本はムタを降しIWGPヘビー級王座を奪取、翌年の1994年2月にノンタイトルながらも天龍と対戦し初フォール勝ちを収め、天龍との戦いは橋本時代到来のきっかけとなった。PR -
天龍源一郎と反選手会同盟
WARを旗揚げした天龍源一郎だったが、旗揚げ前に「引退試合は長州力とやりたい」と発言してから長州も呼応したことで新日本プロレスに急接近し始め、対長州の気運が高まるかと思いきや、天龍の前に越中詩郎率いる“反選手会同盟”後の平成維震軍が立ちはだかった。
天龍と越中は全日本プロレス時代からの関係で天龍はトップ選手だったが、越中はジャイアント馬場の付き人だった。メキシコ修行中の越中は新日本プロレスへ移籍を決意、越中は筋を通すため帰国し馬場も引きとめようとしたが、天龍が馬場を説得し馬場は渋々越中の退団を認め、天龍は退団する越中に餞別として餞別としてつかみきれないほどの一万円札を越中のポケットにねじ込んだ。越中にしてみれば天龍は恩人だが皮肉にも敵として天龍に立ちはだかり木村健悟、青柳政司、斎藤彰俊と共にWARのリングに乗り込んだ。
WARに乗り込んだ越中らは早速WARを蹂躙、2戦目から天龍が対新日本に加わるも越中ら“反選手会同盟”の勢いに押され完敗、懐刀だった阿修羅原や冬木弘道も負傷欠場してしまい、新日本の勢いの前に天龍率いるWARは窮地に立たされる。
背水の陣へと追いやられた天龍は1992年10月23日の後楽園大会で北原光騎と組んで越中、木村を迎え撃った、自分も今でも憶えているが越中は完全にアウウェイ(敵地)を意識してか木村と共にラフファイトを展開して天龍ファンの怒りを煽り、ファンは越中らに物を投げつけるなど館内は殺伐した雰囲気となる。(後になってわかったことだが新日本ファンと天龍ファンの間でケンカにもなったという)
試合も北原が捕まる展開となるが、天龍が盛り返し青柳、彰俊の介入も対抗戦に乗り気でなかった石川敬士を始めとするWAR勢が懸命に阻んで大乱闘となる。最後は天龍が越中をパワーボム2連発で降して改めて新日本プロレスへ乗り込むことをアピールした。
天龍は新日本プロレスに参戦し12月大阪で行われた越中とのシングル戦に勝利したあとで、翌年1月4日では久しぶりに長州と対決、パワーボムで降し長州から初フォールを奪った。 -
SWS解散・分裂という挫折を味わうも、天龍はWAR設立へ走り出した。
SWSは1992年6月に分裂・解散となった。オーナーである田中八郎氏から押し付けられた形で社長に就任した天龍源一郎は、私的なトラブルから全日本プロレスを解雇され北海道で隠遁生活を送っていた阿修羅・原を復帰させ“龍原砲”が復活、またユニバーサルプロレスリングからウルティモ・ドラゴンを獲得し、WWFとの提携でトップ選手が参戦するなどSWSは軌道に乗ったかに見えたが、内部では派閥闘争の火種が燻り続けていた。
1992年3月に入ってから反天龍派に押し切られる形で現場責任者であるザ・グレート・カブキが突如辞任、反天龍派の谷津嘉章も選手会長を辞任し会見で天龍批判を展開したことで『レボリューション』と反天龍派である『パライストラ』『道場・激」は亀裂が深まり修復不可能となってしまう。フロントでも団体運営に嫌気を刺した田中オーナーが8月に予定していた興行をキャンセルしSWS解散へと動き出す。
SWS最後の後楽園大会を終えた天龍は『レボリューション』のメンバーと共にリング上で挨拶するが、天龍を心配したファン200人が会場に残っていた、天龍はファンに『俺は絶対裏切らないから・・・ここは帰ってくれ。俺は絶対に嘘つかないよ。信じてくれ・・・」とファンに語りかけるとファンから声援と拍手が贈られ、天龍は改めてファンのありがたみを知った。
そしてSWSは二派に分裂することが決定したが、天龍ファンからの支持を受けた天龍は新団体『WAR』を旗揚げすることを決意、反天龍派も『NOW』の旗揚げに動き、SWSのオーナー会社であるメガネスーパーは期間限定ながら双方の団体に資金援助することになったが、反天龍派は足並みが揃わずエース候補だったジョージ高野、高野俊二の高野兄弟が週刊誌にメガネスーパー批判を展開したことで旗揚げ前に離脱し『PWC』を旗揚げ、SWSは実質上3つに分裂したが、天龍は後を振り向かず前へ歩き始めた。 -
天龍源一郎とWWF
話は一旦さかのぼってSWSは旗揚げしてすぐにアメリカの最大のプロレス団体WWF(WWE)と提携を結び、1991年3月には合同で東京ドーム大会を開催した。
その天龍は1991年に開催された「レッスルマニア7」に北尾光司を伴いSWS代表として参戦、過去6回「レッスルマニア」が開催されたが日本人で最初にレッスルマニアに出場したのは天龍だった。
天龍は北尾と組みスマッシュ&クラッシュのデモリッションと対戦、試合は緊張のためか動きがぎこちない北尾と比べ、天龍が逆水平チョップやドロップキックを乱打するなど大暴れし、最後は天龍がパワーボムで勝利を収め、WWE内でも評価を高めた。
武骨なイメージを持つ天龍だが、武者修行時代からアメリカで何度も試合をしていることからアメリカンプロレスにも対応できる幅の広さをもち、全日本プロレス時代にNWAのジム・クロケット・プロモーションに参戦したときは、クロケットが天龍を高く評価して長期滞在を薦められ、また1990年に開催された『日米プロレスサミット』ではランディ・サベージとも好勝負を展開した。
天龍は1993年にはSWS、1994年にはWAR代表として「ロイヤルランブル」に参戦、1991年12月に開催されたSWS2度目の東京ドーム大会ではハルク・ホーガンとも対戦し、プロレス大賞のベストバウト賞を獲得するなど、WWFでも認められるスーパースターへとなっていった。 -
天龍の苦悩・・・・外からだけでなく内からのバッシングに悩まされる
1990年10月9日、横浜アリーナでSWSが旗揚げするも、週刊プロレスのバッシングは治まらず、試合内容や演出まで酷評するも、遂にSWSは週プロに対して取材拒否を通達、週プロのバッシングはひとまず終息した。
しかし次に天龍にまっていたのはSWS内からのバッシングだった、SWSには全日本だけでなく新日本プロレスからも選手が引き抜かれ、また全日本から引き抜かれた選手の中にも、元国際プロレスや元ジャパンプロレスと外様が中心という寄せ集めで、ほとんどが天龍を慕って退団したわけではなかった。
天龍は相撲にちなんで部屋同士の対抗戦をカード編成の主体とした相撲部屋制度を提案し採用されると、天龍を慕って集められた『レポリューション』、ジョージ高野ら元新日本プロレスが中心となった『パライストラ』、谷津嘉章やケンドー・ナガサキなど元国際やジャパンまた全日本が中心となった『道場・激』と選手らが振り分けられたが、天龍が提案した部屋別制度が派閥に変わり、また現場責任者が「レポリューション」のザ・グレート・カブキが担当し、天龍中心のマッチメークを組むことから『パライストラ』、『道場・激』らから反発を受けるようになった。
『パライストラ』『道場・激』ら反天龍派は社長だった田中八郎氏に直訴し、田中社長も丸く治めようとして現場に介入するなど、外だけでなく内からのバッシングにも天龍は悩まされるようになった。
その中で『レポリューション』所属だった北尾光司が対戦相手のジ・アークシェイク・ジョン・テンタに対して試合無視のセメントを仕掛け、試合後には“八百長野郎”と言い放つ事件が起きてしまう。背景にはカブキの指示に従わず折り合いが悪くなっていた北尾に反天龍派が“焚きつけた”ことが真相だったが、事件は内からの天龍バッシングに利用され、天龍は責任を取る意味で取締役を含めた全役職辞任を申し出るが、この時の天龍は全て投げ出したかったのではないかと思う。
しかし北尾の解雇だけに留まり、田中社長は会長に下がって天龍が社長に就任、部屋別制度も一旦棚上げとなり、部屋別にこだわらないカード編成となったが、実際は田中氏がSWSを天龍に押し付けて下がったに過ぎず、また全てが丸く治まったわけでなく、派閥闘争の火種は燻ったままだった。 -
全日本を去った天龍を待ち受けていたのは“週刊プロレス”からのバッシングだった
1990年4月、ジャンボ鶴田に敗れた天龍源一郎は全日本プロレスを退団し、メガネスーパーが設立した団体SWSへ移籍した。
1989年の天龍は盟友である阿修羅・原が全日本を解雇されるも、6月にジャンボ鶴田を破って三冠統一ヘビー級王座を奪取し、またスタン・ハンセンとの“龍艦砲”で世界タッグ王座も奪取、そして前年の11月に師匠であるジャイアント馬場からもフォールを奪い、世界最強タッグにも優勝するなど、レスラーとしては充実した1年を迎えたはずだったが、1990年に入ってからマンネリからくる閉塞感を感じるようになり、マンネリを柴田惣一氏に指摘された天龍は天龍同盟を解散してしまった。
そんな状況の中でメガネスーパーのエージェントになっていたケンドー・ナガサキからSWSへの移籍の勧誘を受ける、最初こそ天龍は返事を保留していたが、待遇面での不満も重なり、ジャンボ鶴田に敗れた天龍は全日本を退団したが待っていたのは全日本プロレスや天龍をプッシュしていた週刊プロレスからのバッシングだった。
ジャイアント馬場から礼金を貰った当時の編集長だったターザン山本氏が当時バブル景気だったこともあって、SWSを『金権プロレス』と批判、天龍に対しても『金で動いた』など書きたて、円満で退団した天龍を全日本を裏切ったかのように書きたてた。
更に全日本から選手・スタッフが次々と全日本から退団また退社する事態も起きた、全日本を退団する選手の中には天龍を慕って退団する選手もいれば、馬場への不満や、SWSでの待遇の良さに魅力を感じた選手もおり、この事態も週刊プロレスが天龍が勧誘したかのように書きたてたが、実際に天龍が勧誘したのは付き人だった折原昌夫だけだった。
週刊プロレスからのバッシングが鳴り止まないうちにSWSが旗揚げするも、天龍が待っていたのか“SWS内”からのバッシングだった。 -
天龍革命の原動力となった“龍原砲”
天龍源一郎のパートナーといえば真っ先に思いつくのは阿修羅原の存在、天龍は全日本時代ではジャンボ鶴田やスタン・ハンセンとも組んできたが、ベストパートナーといえば阿修羅原しかいない。
二人が出会ったのは昭和56年、天龍はまだ第3の男として売り出されたばかりに対し、原は所属していた国際プロレスが崩壊しラッシャー木村らと共に新日本プロレスに参戦する予定だったが、新日本での扱いがジュニアヘビー級だとわかると原は新日本参戦の話を蹴り、引退して故郷である長崎へ帰るつもりだった。そこで原と新日本と揉めたこと聞きつけたジャイアント馬場が門馬忠雄氏を介して全日本入りを薦め、原は全日本移籍を決めた。
天龍と原は2度対戦、意気投合したとしてタッグを結成し昭和56、57年に2度に渡って世界最強タッグ決定リーグ戦にエントリー、昭和57年度にはハンセン、ブルーザー・ブロディの超獣コンビから反則勝ちながらも大金星を挙げた、二人を組ませた理由としては天龍が第3の男なら、原は第4の男として売り出したいという全日本の思惑も絡んでいたからだった、
しかし天龍が鶴田との鶴龍コンビが主になってくると、原は中堅に留め置かれて天龍との差が開いてしまい、私的なトラブルから失踪し解雇されるが、天龍のとりなしでフリーという形で全日本に復帰するも、二人は敵対関係となってリングで対戦した。
長州力が新日本プロレスへUターンし全日本は再び日本人vs外国人路線が主流になり始めると、危機感を抱いた天龍は天龍革命を掲げて原と再び組み龍原砲を結成、龍原砲の活躍は今更触れないが、最初は二人だけの戦いが川田利明、サムソン冬木を巻き込んで天龍同盟となり、全日本に一大ムーブメントを巻き起こした、天龍にとっても龍源砲でのタッグが一番輝いていた時期だったのではと思う。
だが龍原砲も長くは続かなかった、原が再び私的なトラブルから失踪し全日本を解雇され、全日本での龍原砲は唐突な形で終焉を向かえ、それと共に天龍革命に翳りが見え始めた。 -
天龍源一郎とUNヘビー級王座
天龍源一郎はIWGPや三冠統一ヘビー級王座など数々のベルトを巻いたが、意外と短期政権に終わっている。その天龍が最も長く巻いた王座は三冠王座の一つであるUNヘビー級王座だった。
天龍は第三の男として覚醒後するもリック・フレアーの保持していたNWA世界ヘビー級王座、ミル・マスカラスのIWA世界王座、ブルーザー・ブロディのインターヘビー級王座、ケリー・フォン・エリックのミズーリ州王座まで挑戦したがシングルの王座は奪取できなかった。
昭和58年にジャンボ鶴田がインター王座奪取専念を理由にそれまで保持していたUN王座を返上、ジャイアント馬場さんは天龍に王座奪取のチャンスを与えたが、この時の天龍は「ジャンボのお下がりか」と乗り気でなかったという。
王座決定戦も当初はテッド・デビアスとジェリー・ローラーの間で行われ、その勝者に天龍が挑戦する予定だったがローラーの来日が中止、ローラーの代わりに天龍とデビアスの間で王座決定戦が行われるも、天龍は敗れデビアスが新王者となり、ベルトは海外へ流出してしまった。
UN王座はデビアスからマイケル・ヘイズ、そしてデビット・フォン・エリックへと渡り、デビットに天龍が挑戦することになったが、来日したデビットは急死してしまい王座はまた返上、天龍とリッキー・スティンボードとの間で急遽王座決定戦が行われ、天龍はグラウンドコブラで3カウントを奪いやっとシングルのベルトを獲得した。
以降UNベルトは天龍の代名詞的なタイトルとなり、1度は返上するもスタン・ハンセンに敗れるまで2年2ヶ月に渡り計10度も王座を防衛して権威を高め、三冠ベルトの一つとして組む込まれた。 -
“外敵”長州力を迎え撃った天龍源一郎
昭和60年に新日本プロレスを離脱、ジャパンプロレスへと移籍した長州力が全日本とジャパンとの業務提携で全日本プロレスへと参戦、今まで日本人vs外国人が主だった全日本に日本人抗争に波が押し寄せてきた。
その長州を先陣を切って迎え撃ったのは天龍源一郎、長州にいきなりジャンボ鶴田をぶつけなかったのは、「鶴田と長州を一緒にしてもらいたくない」というジャイアント馬場さんなりの考えがあったからかもしれない。
長州と天龍が初めてシングルで対戦したのは昭和60年2月20日の大阪城ホールでのジャパン主催興行、天龍はこの試合でパワーボムを初披露するが決め手にはならず、場外でのリキラリアットを喰らうと、エプロン際でバックドロップを喰らってしまいリングアウト負け、2度目は6月21日日本武道館で対戦するも反則勝ちとなって1勝1敗、しかし長州が次第に鶴田戦や天下獲りへの野望へとシフトしていったため、長州との抗争は一旦中断、天龍は谷津嘉章との抗争でお茶を濁すようになる。
全日本マットで最後に対決したのは1年後の昭和61年9月3日の大阪城ホール、試合は天龍の反則勝ちだったが、この時天龍は長州が新日本に戻るのではと予感していたという。
天龍の予感が当たったのか昭和62年にジャパンプロレスが分裂し長州は新日本へUターンしてしまい、天龍と長州が再びシングルで対戦するのは平成5年1月4日新日本プロレスのリングだった。 -
天龍源一郎の全日本プロレスでの“ライバル”ジャンボ鶴田”
11月のプロレスクラシックでは天龍引退を記念してジャンボ鶴田との鶴龍対決が特集されたが、鶴田との対戦は天龍がデビューして6年目の昭和57年に「第10回チャンピオンカーニバル」で実現、試合は30分フルタイムドローだった、当時の天龍はまだ売り出したばかりで鶴田との差があるのではと思われていたが鶴田相手に引き分けたことで天龍は「プロとして飯を食っていける」と実感したという。
二人が再戦したのは翌年4月20日の東京体育館でリーグ戦の公式戦ではなく単なるシングルマッチとして唐突に組まれ、この試合も30分フルタイムドローとなるもザ・ファンクスvsスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディがメインたったこともあって注目される試合ではなかった、二人の対決は全日本ではリーグ戦が行われなかったこともあり、鶴龍コンビを結成したのもあって対戦することはなかったが、本格的に対戦するようになったのは、天龍が天龍革命を起こしてからだった。
二人の対戦成績は4勝3敗2分で鶴田の勝ち越し、鶴田が2度フォールを奪ったのに対し天龍は1度しかシングルでフォール勝ちを奪えなかったが、天龍が始めて鶴田からシングルでフォール勝ちを奪った1989年6月9日の武道館での三冠戦は一番のベストバウトで天龍にとって重みのある試合だったと思う。 -
天龍源一郎のパワーボムはオリジナルホールド
天龍源一郎の必殺技といえばパワーボムが思い浮かぶ、パワーボムは元々“鉄人”ルー・テーズが元祖だが、今で言う投げっぱなしの形で使われ力道山や豊登を破ったものの、テーズはパワーボムをなぜか嫌っていたという、パワーボムをテーズがテリー・ゴーディに伝授、日本で始めて喰らったのは天龍だった。
昭和58年ごろの天龍は延髄斬りやDDT、テキサス・クローバーホールドを必殺技にしていたが、これぞ天龍という必殺技にはめぐり合っていなかった、8月にゴーディが来日を果たしタッグで天龍が迎え撃ち、天龍はゴーディのパワーボムを喰らってフォール負けを喫したが、天龍はダメージ以上に衝撃を受けたという。
天龍は早速パワーボムの会得しようとするが、ゴーディのパワーボムは肩膝をついて落とすスタンプ型では膝に負担がかかる、ゴーディもそのためか膝の手術を受けていた、天龍は相撲の股割を応用して両足の裏をつけたまま膝を曲げてしゃがみこみ、落下のダメージよりも体重を乗せてがっちりエビで固めることの方を重視した「ホールド型」に改良した。
以降天龍のパワーボムは天龍の代表的な必殺技になり、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田だけでなくアントニオ猪木や長州力まで破る代名詞的な技となった。
そして天龍がパワーボムを最後にフィニッシュに使ったのは2002年7月17日、全日本プロレス大阪大会での小島聡戦、腰を悪くした天龍はパワーボムを使わなくなり53歳やラリアットをフィニッシュにしていたが、小島が全てクリアしたため天龍は奥の手としてパワーボムを解禁し小島を降した。
天龍は引退試合でのオカダ・カズチカ戦でパワーボム解禁を予告した、天龍の代名詞と言われたパワーボムが果たしてオカダに決まるのか? -
“模倣”から始まった天龍源一郎
天龍源一郎を始めてTVで見たのは昭和56年、自分がプロレスファンを始めたときだった。当時のTV中継は新日本プロレスの「ワールドプロレスリング」が金曜8時から放送していたのに対し、全日本プロレスの「全日本プロレス中継」は土曜日5時半からの放送、新日本がゴールデンタイムで見るプロレスなら、全日本プロレスは夕方から見るプロレスだった。
対戦カードはジャイアント馬場、ジャンボ鶴田が保持するインターナショナルタッグ王座にビル・ロビンソンが天龍と組んで挑戦、自分はなぜ日本人が外国人と組むのかと不思議がっていた。
ロビンソンのパートナーは当初ディック・スレーターが予定されていたが、スレーターが交通事故の後遺症が出て途中帰国してしまい、代役として当時まだ覚醒していなかった天龍に白羽の矢が立った。
天龍はロビンソンのアドバイスを受けて、アントニオ猪木の必殺技である延髄斬りや卍固めを披露、自分はなぜ猪木の技を使うんだと思ったが、猪木の技を模倣したことにより、天龍はファンに大きなインパクトを与えた。
試合には敗れたものの、天龍は全日本の第三の男としてもポジションを確保し“Mr.プロレス”への第一歩を示した。