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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

天龍革命の原動力となった“龍原砲”

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天龍革命の原動力となった“龍原砲”


 天龍源一郎のパートナーといえば真っ先に思いつくのは阿修羅原の存在、天龍は全日本時代ではジャンボ鶴田やスタン・ハンセンとも組んできたが、ベストパートナーといえば阿修羅原しかいない。


 二人が出会ったのは昭和56年、天龍はまだ第3の男として売り出されたばかりに対し、原は所属していた国際プロレスが崩壊しラッシャー木村らと共に新日本プロレスに参戦する予定だったが、新日本での扱いがジュニアヘビー級だとわかると原は新日本参戦の話を蹴り、引退して故郷である長崎へ帰るつもりだった。そこで原と新日本と揉めたこと聞きつけたジャイアント馬場が門馬忠雄氏を介して全日本入りを薦め、原は全日本移籍を決めた。


 天龍と原は2度対戦、意気投合したとしてタッグを結成し昭和56、57年に2度に渡って世界最強タッグ決定リーグ戦にエントリー、昭和57年度にはハンセン、ブルーザー・ブロディの超獣コンビから反則勝ちながらも大金星を挙げた、二人を組ませた理由としては天龍が第3の男なら、原は第4の男として売り出したいという全日本の思惑も絡んでいたからだった、


 しかし天龍が鶴田との鶴龍コンビが主になってくると、原は中堅に留め置かれて天龍との差が開いてしまい、私的なトラブルから失踪し解雇されるが、天龍のとりなしでフリーという形で全日本に復帰するも、二人は敵対関係となってリングで対戦した。


 長州力が新日本プロレスへUターンし全日本は再び日本人vs外国人路線が主流になり始めると、危機感を抱いた天龍は天龍革命を掲げて原と再び組み龍原砲を結成、龍原砲の活躍は今更触れないが、最初は二人だけの戦いが川田利明、サムソン冬木を巻き込んで天龍同盟となり、全日本に一大ムーブメントを巻き起こした、天龍にとっても龍源砲でのタッグが一番輝いていた時期だったのではと思う。


 だが龍原砲も長くは続かなかった、原が再び私的なトラブルから失踪し全日本を解雇され、全日本での龍原砲は唐突な形で終焉を向かえ、それと共に天龍革命に翳りが見え始めた。

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