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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

 略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

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阿部四郎

 全日本女子プロレスでダンプ松本率いるヒールユニット「極悪同盟」寄りの不公平レフェリングを展開し、極悪レフェリーとして名を馳せた阿部四郎さんが肺炎で死去した、享年76歳。


 阿部さんが活躍したのはクラッシュギャルズ全盛期の全日本女子プロレス、当時の自分は大阪に住んでいたが、全日本女子プロレス中継は全国ネットではなくローカル局であるサンテレビを通じて放送していたが、いつ放送するかわからず不定期で何ヶ月遅れでの放送だったリアルタイム性に欠け、一時は30分枠で関西テレビで放送された時期もあったが短期間で終わってしまったことから、クラッシュ全盛期の女子プロレスはミーハーな女子ファンの多さもあって入り込めず、たまに見る程度だった。


 その中で阿部レフェリーはダンプ率いる極悪同盟の反則をわざと見逃し、ベビーフェースであるクラッシュをフォールするときは高速カウント、極悪同盟側がカバーされると超低速カウントとアンフェアぶりを徹底させたことでファンの憎悪を買っていたが、自分が見たときはこんなレフェリーがいるの?と思わせた。だがたまにベビーフェース同士の試合も裁くこともあり、そのときはきちんとしたレフェリングぶりを披露していた。


 全日本プロレスの名誉レフェリーである和田京平レフェリーは「レフェリーはオーケストラで例えるなら、奏でる音楽を調節するための指揮者でなければならない」と答えたことがあったが、今思えば阿部レフェリーの極悪レフェリングぶりも、試合を盛り上げるために敢えて極悪寄りに調節して裁き、ファンを盛り上げていたのかもしれない。


晩年はIWA JAPANを中心に裁き、「めちゃ×2イケてるッ!」の「格闘女神MECHA」コーナーで岡村隆史扮するレフェリー「岡村四郎」との競演を果たして極悪レフェリングを披露したりしていたが、もうテレビで見ることはないとなると寂しくなる。


 最後に阿部四郎レフェリーは極悪なれど、ファンをきちっと盛り上げた名レフェリーでもあった。


 ご冥福をお祈りします。


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ワールドプロレスリングの名解説者 桜井康雄

東京スポーツ新聞社元編集局長でテレビ朝日系「ワールドプロレスリング」で解説者を務めていた桜井康雄さんが10日に死去したことが明らかになった、享年80歳。


桜井さんは心臓疾患を抱えており、ペースメーカーを手術を行ったが感染症を引き起こしたという。


桜井さんは自分がプロレスファンを始めた昭和56年から実況・古館伊一郎、解説・山本小鉄、桜井康雄とのトリオで金曜8時時代の「ワールドプロレスリング」を支えてきたが、力道山時代からプロレス記者ととなり、プロレス界の裏側を見てきた。


特にこの頃の東京スポーツはプロレス界に力を持っていた時代で、新日本が桜井さんなら、全日本プロレスは山田隆氏(故人)、昭和56年に崩壊した国際プロレスは門馬忠雄氏と東スポ系の記者がプロレス中継の解説を独占、猪木を押していた桜井さんはマスコミ側のブレーンの一人として新日本プロレスに携わっていた。


小鉄さんも2010年に死去、金曜8時の時代はもう昔になってしまった・・・


ご冥福をお祈りします



ロン・バス

ロン・バス 全日本プロレスで活躍したロン・バスさんが死去した、享年68歳


ロン・バスさんは初来日は1979年の国際プロレスでラッシャー木村の保持するIWA世界ヘビー級王座に挑戦したが、1982年からは全日本プロレスに参戦、ジョージアで抗争を繰り広げていたスタン・ハンセンとウマが合ってブルーザー・ブロディが来日していないときは、正パートナーとなり、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田組からインターナショナルタッグ王座を奪取、5日後には馬場&鶴田組奪還され、5日天下となったものの、超獣コンビには成しえなかった偉業でもあり、ハンセンにしてみれば全日本ではブロディ、テッド・デビアスに次ぐ安心して組めるパートナーだったのかもしれない。


その後ばったりと名前を聞かなくなっていたが、アメリカ各地にも転戦。WWFにも登場して、近年は引退していたものの、エキシビジョンマッチで試合を行っていたという。


ご冥福をお祈りします

イワン・コロフ

WWF、日本プロレス、国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスで活躍しロシア人キャラで悪役レスラーとして活躍したイワン・コロフさんが死去した、享年74歳。


1971年にコロフさんはブルーノ・サンマルチノを破って短期政権ながらもWWWF(WWE)世界ヘビー級王者になったことでトップスターとなり、日本プロレスではジャイアント馬場さんの保持するインターナショナルヘビー級王座、国際プロレスではストロング小林の保持するIWA世界ヘビー級選手権、新日本プロレスではアントニオ猪木の保持するNWFヘビー級王座にも挑戦するなど日本でもトップ外国人選手として扱われた。


1978年3月に新日本に参戦するが、蔵前国技館大会で藤波辰己の保持するWWFジュニアヘビー級王座にエル・カネックが挑戦する予定だったが、カネックが当日になって試合をドタキャンし帰国していたため、既に前座で試合を終えていたコロフさんが代役を買って出てノンタイトルながら藤波と対戦、ドラゴンスープレックスで敗れるも、この試合が新日本でのラストマッチとなった。


コロフさんはその後日本マットから遠ざかるも、1990年1月に全日本プロレスに来日したが、自分はこの時でしか印象はなく、この時は高木功に付け狙われた天龍源一郎とや小橋健太の7番勝負がシリーズの中心で、ピークが過ぎていたのもあって目立った活躍はなかった。1992年にW☆INGにも来日してヘッドハンターズとも対戦したが、これが最後の来日となり2年後に引退した。


先日もWWFで活躍しキラー・カーンさんの現役最後の対戦相手となったジョージ・スチールさんも死去したが、往年の名選手の訃報が続いている・・・


ご冥福をお祈りします、

チャボ・ゲレロ

元NWAインターナショナルジュニアヘビー級王者で新日本プロレスや全日本プロレスに来日したチャボ・ゲレロさんが肝臓ガンで死去した、享年68歳。


チャボは昨年8月に大仁田厚の「ファイヤープロレスリング」に来日し、また11月の全日本プロレスの両国大会でも参戦して元気に試合をしていたのだが、亡くなる1ヶ月前に肝臓ガンが見つかり入院していたという。


自分がチャボ・ゲレロというレスラーをTVで初めて見たのは全日本プロレスに移籍してからの昭和56年で、当時のジャイアント馬場体制の全日本プロレスが新日本のベルトだったインターナショナルジュニアヘビー級王座ごとチャボを引き抜き、この年の9月に福山でドスカラスと防衛戦を行ったが(結果は3本勝負で1-1の後で両者リングアウト)、初来日も意外にも全日本でアントン・ヘーシングと対戦していた。


昭和57年になると海外武者修行中だった大仁田に敗れベルト明け渡し、大仁田とのベルトをかけた抗争で全日本ジュニアを盛り立てていったが、大仁田が左膝蓋骨粉砕骨折で長期欠場となると、チャボの抗争相手は渕正信やマイティ井上に代わり、井上に王座を明け渡した後で、昭和60年10月に王者となった二代目タイガーマスク(三沢光晴)に挑戦して敗れたのを契機に役目を終えたかのように全日本を去り、二代目タイガーもこの試合を最後にヘビー級へ転向するために王座を返上、インタージュニア王座も封印され世界ジュニアヘビー級王座となった。


インタージュニア王座は元々新日本が作ったベルトでチャボが王者だった木村健悟を破って獲得したものだが、チャボ自身が持ち込んだベルトが全日本の意向で封印される、チャボはどう思ったのだろうか・・・


その後SWSやWAR、新日本プロレス時代のライバルである藤波辰爾が主宰する「無我」にも参戦、WWEではチャボ・クラシックの名前で登場しチャボ・ゲレロ・ジュニアのマネージャー役となって弟であるエディ・ゲレロと抗争を展開した。


11月の全日本両国大会に参戦しテーマ曲である「カリフォルニア・ハッスル」が流れたときは懐かしさを感じたが、突然の訃報は残念としか言いようがない


ご冥福をお祈りします

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