忍者ブログ

伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

 略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

伊賀忍者市場

伊賀忍者市場Yahoo!店

ロゴ

伊賀プロレス通信

LINEアカウント

伊賀プロレス通信LINEアカウント

ツイッター

ツイッター

Facebook

RSS

全日本プロレスチケット販売

プロレスリングNOAHチケット販売

ZERO1チケット販売

カレンダー

05 2017/06 07
S M T W T F S
3
7
15
25 26 27 28 29 30

カテゴリー

ブログランキング

ブログ村

忍者アクセスランキング

プロフィール

HN:
伊賀
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R

アクセス解析

忍者カウンター

ミスター・ポーゴ

 
ミスター・ポーゴ
 
新日本プロレス、国際プロレス、FMW、W☆INGなどで活躍し、大仁田厚の一番の敵役だったミスター・ポーゴ(本名・関川哲夫さん)が死去した。享年66歳。5月にポーゴさんは医療性脊椎後弯症のため入院、手術を受けていたが出血量が多く、手術は中断となって入院生活が続き、22日に再手術を受けていたが麻酔の際に不整脈が発生、脳梗塞も併発して危篤状態に陥っていたという。


 ミスター・ポーゴは1972年3月に新日本プロレスでデビューも、山本小鉄に疎まれてすぐ退団、その後海外を渡り歩き、1976年に一時的に国際プロレスに定着、1986年からはケンドー・ナガサキとのタッグで新日本に参戦、IWGPタッグ王座に挑戦、、途中からは若松市政をマネージャーに従えていたが、長州の提唱した世代闘争が起きてからは主軸から外れ、ナガサキや若松と共にフェードアウトしてからはプエルトリコを主戦場にしたが、プエルトリコマットの不振もあって帰国、地元のプラスチック成形工場で働いていた。


 マット界から失業していたポーゴを大仁田が目をつけFMWに誘い、ヒール軍団のトップとなって大仁田と血で血を争う抗争を展開、今思えば敵役とはいえ遅咲きのブレイクだった。ポーゴはFMW離脱しW☆INGに参加し松永光弘相手にファイヤーデスマッチで対戦、この頃はベビーフェースとして活躍していたが、93年からはFMWに戻りヒールとして大仁田とのを再開、火炎噴射や鎖鎌を使って大仁田を苦しめ、様々なデスマッチで対戦した。


 大仁田が2回目の引退後もしばらくはFMWに定着したものの、大仁田のいないFMWは肌に合わず、しばらくして離脱、大日本プロレスに参戦して松永との抗争を再開、初代BJWデスマッチヘビー級王者となって大日本デスマッチ路線の礎を築いた。


 その後地域密着型プロレスWWSを旗揚げ、地元の伊勢崎を中心に活動していたが、近年は体調不良が目立つようになっていたが、現役はあくまで続けていた。


 自分も新日本参戦時からポーゴを見てきたが、一番輝いていたのは大仁田体制のFMW時代、大仁田との戦いがあったからこそ今日のポーゴがあった、大仁田にとってのポーゴは敵対しながらも腐れ縁のような関係、またポーゴにも同じことが言える。タイガーマスクがダイナマイト・キッドが最大の敵役だったように、大仁田にとってポーゴは最高の敵役だった。


ご冥福をお祈りします



PR

阿部四郎

 全日本女子プロレスでダンプ松本率いるヒールユニット「極悪同盟」寄りの不公平レフェリングを展開し、極悪レフェリーとして名を馳せた阿部四郎さんが肺炎で死去した、享年76歳。


 阿部さんが活躍したのはクラッシュギャルズ全盛期の全日本女子プロレス、当時の自分は大阪に住んでいたが、全日本女子プロレス中継は全国ネットではなくローカル局であるサンテレビを通じて放送していたが、いつ放送するかわからず不定期で何ヶ月遅れでの放送だったリアルタイム性に欠け、一時は30分枠で関西テレビで放送された時期もあったが短期間で終わってしまったことから、クラッシュ全盛期の女子プロレスはミーハーな女子ファンの多さもあって入り込めず、たまに見る程度だった。


 その中で阿部レフェリーはダンプ率いる極悪同盟の反則をわざと見逃し、ベビーフェースであるクラッシュをフォールするときは高速カウント、極悪同盟側がカバーされると超低速カウントとアンフェアぶりを徹底させたことでファンの憎悪を買っていたが、自分が見たときはこんなレフェリーがいるの?と思わせた。だがたまにベビーフェース同士の試合も裁くこともあり、そのときはきちんとしたレフェリングぶりを披露していた。


 全日本プロレスの名誉レフェリーである和田京平レフェリーは「レフェリーはオーケストラで例えるなら、奏でる音楽を調節するための指揮者でなければならない」と答えたことがあったが、今思えば阿部レフェリーの極悪レフェリングぶりも、試合を盛り上げるために敢えて極悪寄りに調節して裁き、ファンを盛り上げていたのかもしれない。


晩年はIWA JAPANを中心に裁き、「めちゃ×2イケてるッ!」の「格闘女神MECHA」コーナーで岡村隆史扮するレフェリー「岡村四郎」との競演を果たして極悪レフェリングを披露したりしていたが、もうテレビで見ることはないとなると寂しくなる。


 最後に阿部四郎レフェリーは極悪なれど、ファンをきちっと盛り上げた名レフェリーでもあった。


 ご冥福をお祈りします。


ワールドプロレスリングの名解説者 桜井康雄

東京スポーツ新聞社元編集局長でテレビ朝日系「ワールドプロレスリング」で解説者を務めていた桜井康雄さんが10日に死去したことが明らかになった、享年80歳。


桜井さんは心臓疾患を抱えており、ペースメーカーを手術を行ったが感染症を引き起こしたという。


桜井さんは自分がプロレスファンを始めた昭和56年から実況・古館伊一郎、解説・山本小鉄、桜井康雄とのトリオで金曜8時時代の「ワールドプロレスリング」を支えてきたが、力道山時代からプロレス記者ととなり、プロレス界の裏側を見てきた。


特にこの頃の東京スポーツはプロレス界に力を持っていた時代で、新日本が桜井さんなら、全日本プロレスは山田隆氏(故人)、昭和56年に崩壊した国際プロレスは門馬忠雄氏と東スポ系の記者がプロレス中継の解説を独占、猪木を押していた桜井さんはマスコミ側のブレーンの一人として新日本プロレスに携わっていた。


小鉄さんも2010年に死去、金曜8時の時代はもう昔になってしまった・・・


ご冥福をお祈りします



ロン・バス

ロン・バス 全日本プロレスで活躍したロン・バスさんが死去した、享年68歳


ロン・バスさんは初来日は1979年の国際プロレスでラッシャー木村の保持するIWA世界ヘビー級王座に挑戦したが、1982年からは全日本プロレスに参戦、ジョージアで抗争を繰り広げていたスタン・ハンセンとウマが合ってブルーザー・ブロディが来日していないときは、正パートナーとなり、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田組からインターナショナルタッグ王座を奪取、5日後には馬場&鶴田組奪還され、5日天下となったものの、超獣コンビには成しえなかった偉業でもあり、ハンセンにしてみれば全日本ではブロディ、テッド・デビアスに次ぐ安心して組めるパートナーだったのかもしれない。


その後ばったりと名前を聞かなくなっていたが、アメリカ各地にも転戦。WWFにも登場して、近年は引退していたものの、エキシビジョンマッチで試合を行っていたという。


ご冥福をお祈りします

イワン・コロフ

WWF、日本プロレス、国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスで活躍しロシア人キャラで悪役レスラーとして活躍したイワン・コロフさんが死去した、享年74歳。


1971年にコロフさんはブルーノ・サンマルチノを破って短期政権ながらもWWWF(WWE)世界ヘビー級王者になったことでトップスターとなり、日本プロレスではジャイアント馬場さんの保持するインターナショナルヘビー級王座、国際プロレスではストロング小林の保持するIWA世界ヘビー級選手権、新日本プロレスではアントニオ猪木の保持するNWFヘビー級王座にも挑戦するなど日本でもトップ外国人選手として扱われた。


1978年3月に新日本に参戦するが、蔵前国技館大会で藤波辰己の保持するWWFジュニアヘビー級王座にエル・カネックが挑戦する予定だったが、カネックが当日になって試合をドタキャンし帰国していたため、既に前座で試合を終えていたコロフさんが代役を買って出てノンタイトルながら藤波と対戦、ドラゴンスープレックスで敗れるも、この試合が新日本でのラストマッチとなった。


コロフさんはその後日本マットから遠ざかるも、1990年1月に全日本プロレスに来日したが、自分はこの時でしか印象はなく、この時は高木功に付け狙われた天龍源一郎とや小橋健太の7番勝負がシリーズの中心で、ピークが過ぎていたのもあって目立った活躍はなかった。1992年にW☆INGにも来日してヘッドハンターズとも対戦したが、これが最後の来日となり2年後に引退した。


先日もWWFで活躍しキラー・カーンさんの現役最後の対戦相手となったジョージ・スチールさんも死去したが、往年の名選手の訃報が続いている・・・


ご冥福をお祈りします、

Copyright©伊賀, All Right Reserved.
Powered by : Ninja Blog
Template-Design : ガスボンベ