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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

 略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

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ドン・中矢・ニールセン

 前田日明との異種格闘技戦で激闘を演じたドン・中矢ニールセンさんが死去した、享年57歳。ニールセンさんは17日発売の「逆説のプロレス」でインタビューに答えたばかりだった。


 ニールセンさんの初来日は1986年10月9日、新日本プロレスで開催された「INOKI 闘魂 LIVE」で前田と異種格闘技戦で対戦、前田も1ヶ月前のオファーだったこともあって準備期間が少なく、新日本側に不信感を抱いている中でニールセンと対戦、ニールセンの打撃を喰らった前田はダウンするなど窮地に立たされるが、前田は逆片エビ固めでタップを奪い勝利、敗れたニールセンも高く評価され、またメインだったアントニオ猪木vsレオン・スピンクスの異種格闘技戦が大凡戦に終わったことで、なおさら前田vsニールセンが際立ちファンからの評価を受けた。


 その後新日本マットに1988年に2度参戦し山田恵一、藤原喜明相手に異種格闘技戦を行い勝利を収めるが、肝心のキックでは1989年にケビン・ローズ、ロブ・カーマンに敗れて2連敗を喫し、K-1所属だった佐竹雅昭のキックデビュー戦の相手を務めるが1RKO負け、K-1にも参戦して佐竹と再戦するがまたしても1RKO負けを喫し、藤原組に参戦して藤原と再戦してレフェリーストップで勝利を収めるが、ウェイン・シャムロックには敗れた。そして1994年にリングスに参戦する予定だったが2度にわたってキャンセル、ニールセンの名前を聞くことはなく、引退後はタイにてカイロプラクティックを経営していた。


 改めて振り返ると異種格闘技戦で強さを発揮しても、本業のキックでは結果を出せず、ある意味プロレスキラー的存在だった。そして「逆説のプロレス」でインタビューに答えていたときは元気そうにしているんだと思っていたが…57歳は若すぎるとしか言いようがない。ご冥福をお祈りします。
 


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倍賞鉄夫氏死去…言いたいことは全て墓の中へ持っていった



 新日本プロレスの2代目リングアナであり、アントニオ猪木の元妻・倍賞美津子さんの実弟、そして猪木事務所の社長だった倍賞鉄夫氏が死去した。


 自分がプロレスファンを始めた頃にはリングアナではなくフロント入りをしていたが幹部の一人として辣腕を振るい、新日本プロレスを支えてきた。


 しかし猪木が猪木事務所を設立すると社長に就任、藤田和之や小川直也を所属させ、猪木の懐刀の一人として外部から新日本を牛耳ったことで悪評を買ってきたが、実際は猪木のかかる経費の工面に苦労していたという。しかし猪木が猪木事務所が自分の金を不正に流用しているとして、サイモン・ケリー氏を使って、倍賞氏の留守中に権利関係を持ち出させてユークスに譲渡してしまうと、猪木事務所は閉鎖に追いやられ、自身の留守中に猪木の権利関係を持ち出された倍賞氏は東京ドーム大会のバックステージでサイモン氏に詰め寄ったが相手にされなかったという。


 その後倍賞氏の消息は聞くことはなかったが、上井文彦さんによると脳梗塞で倒れ、口も利けないどころか、手も使えないなど寝たきりの状態となっていたという。上井さんは「倍賞さんに猪木さんのことを書かせたら、凄いこと本になっていたかも」と答えてくれていたが、結局言いたいことは言えないまま墓の中へ持っていってしまったと思わざる得なかった。


 そして今の猪木は自身が作った団体であるIGF相手に不正を糾弾している、これを見て倍賞氏はサイモン氏に「オレの気持ちがわかったか!」と思い、猪木にも「また同じことを繰り返しているのですか?」と言いたかったのではないだろうか・・・


ご冥福をお祈りします

ミスター・ポーゴ

 
ミスター・ポーゴ
 
新日本プロレス、国際プロレス、FMW、W☆INGなどで活躍し、大仁田厚の一番の敵役だったミスター・ポーゴ(本名・関川哲夫さん)が死去した。享年66歳。5月にポーゴさんは医療性脊椎後弯症のため入院、手術を受けていたが出血量が多く、手術は中断となって入院生活が続き、22日に再手術を受けていたが麻酔の際に不整脈が発生、脳梗塞も併発して危篤状態に陥っていたという。


 ミスター・ポーゴは1972年3月に新日本プロレスでデビューも、山本小鉄に疎まれてすぐ退団、その後海外を渡り歩き、1976年に一時的に国際プロレスに定着、1986年からはケンドー・ナガサキとのタッグで新日本に参戦、IWGPタッグ王座に挑戦、、途中からは若松市政をマネージャーに従えていたが、長州の提唱した世代闘争が起きてからは主軸から外れ、ナガサキや若松と共にフェードアウトしてからはプエルトリコを主戦場にしたが、プエルトリコマットの不振もあって帰国、地元のプラスチック成形工場で働いていた。


 マット界から失業していたポーゴを大仁田が目をつけFMWに誘い、ヒール軍団のトップとなって大仁田と血で血を争う抗争を展開、今思えば敵役とはいえ遅咲きのブレイクだった。ポーゴはFMW離脱しW☆INGに参加し松永光弘相手にファイヤーデスマッチで対戦、この頃はベビーフェースとして活躍していたが、93年からはFMWに戻りヒールとして大仁田とのを再開、火炎噴射や鎖鎌を使って大仁田を苦しめ、様々なデスマッチで対戦した。


 大仁田が2回目の引退後もしばらくはFMWに定着したものの、大仁田のいないFMWは肌に合わず、しばらくして離脱、大日本プロレスに参戦して松永との抗争を再開、初代BJWデスマッチヘビー級王者となって大日本デスマッチ路線の礎を築いた。


 その後地域密着型プロレスWWSを旗揚げ、地元の伊勢崎を中心に活動していたが、近年は体調不良が目立つようになっていたが、現役はあくまで続けていた。


 自分も新日本参戦時からポーゴを見てきたが、一番輝いていたのは大仁田体制のFMW時代、大仁田との戦いがあったからこそ今日のポーゴがあった、大仁田にとってのポーゴは敵対しながらも腐れ縁のような関係、またポーゴにも同じことが言える。タイガーマスクがダイナマイト・キッドが最大の敵役だったように、大仁田にとってポーゴは最高の敵役だった。


ご冥福をお祈りします



阿部四郎

 全日本女子プロレスでダンプ松本率いるヒールユニット「極悪同盟」寄りの不公平レフェリングを展開し、極悪レフェリーとして名を馳せた阿部四郎さんが肺炎で死去した、享年76歳。


 阿部さんが活躍したのはクラッシュギャルズ全盛期の全日本女子プロレス、当時の自分は大阪に住んでいたが、全日本女子プロレス中継は全国ネットではなくローカル局であるサンテレビを通じて放送していたが、いつ放送するかわからず不定期で何ヶ月遅れでの放送だったリアルタイム性に欠け、一時は30分枠で関西テレビで放送された時期もあったが短期間で終わってしまったことから、クラッシュ全盛期の女子プロレスはミーハーな女子ファンの多さもあって入り込めず、たまに見る程度だった。


 その中で阿部レフェリーはダンプ率いる極悪同盟の反則をわざと見逃し、ベビーフェースであるクラッシュをフォールするときは高速カウント、極悪同盟側がカバーされると超低速カウントとアンフェアぶりを徹底させたことでファンの憎悪を買っていたが、自分が見たときはこんなレフェリーがいるの?と思わせた。だがたまにベビーフェース同士の試合も裁くこともあり、そのときはきちんとしたレフェリングぶりを披露していた。


 全日本プロレスの名誉レフェリーである和田京平レフェリーは「レフェリーはオーケストラで例えるなら、奏でる音楽を調節するための指揮者でなければならない」と答えたことがあったが、今思えば阿部レフェリーの極悪レフェリングぶりも、試合を盛り上げるために敢えて極悪寄りに調節して裁き、ファンを盛り上げていたのかもしれない。


晩年はIWA JAPANを中心に裁き、「めちゃ×2イケてるッ!」の「格闘女神MECHA」コーナーで岡村隆史扮するレフェリー「岡村四郎」との競演を果たして極悪レフェリングを披露したりしていたが、もうテレビで見ることはないとなると寂しくなる。


 最後に阿部四郎レフェリーは極悪なれど、ファンをきちっと盛り上げた名レフェリーでもあった。


 ご冥福をお祈りします。


ワールドプロレスリングの名解説者 桜井康雄

東京スポーツ新聞社元編集局長でテレビ朝日系「ワールドプロレスリング」で解説者を務めていた桜井康雄さんが10日に死去したことが明らかになった、享年80歳。


桜井さんは心臓疾患を抱えており、ペースメーカーを手術を行ったが感染症を引き起こしたという。


桜井さんは自分がプロレスファンを始めた昭和56年から実況・古館伊一郎、解説・山本小鉄、桜井康雄とのトリオで金曜8時時代の「ワールドプロレスリング」を支えてきたが、力道山時代からプロレス記者ととなり、プロレス界の裏側を見てきた。


特にこの頃の東京スポーツはプロレス界に力を持っていた時代で、新日本が桜井さんなら、全日本プロレスは山田隆氏(故人)、昭和56年に崩壊した国際プロレスは門馬忠雄氏と東スポ系の記者がプロレス中継の解説を独占、猪木を押していた桜井さんはマスコミ側のブレーンの一人として新日本プロレスに携わっていた。


小鉄さんも2010年に死去、金曜8時の時代はもう昔になってしまった・・・


ご冥福をお祈りします



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