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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

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なぜブルーザー・ブロディは新日本プロレスに移籍したのか?

ブルーザー・ブロディが死去して29年目、来年はいよいよ30年目を迎える。


ブロディがプロモーターと揉めるトラブルメーカーだったというのは、ご存知方のファンが多いと思うが、そのブロディがどうしても逆らうことが出来ないプロモーターだったのはテキサス州ダラスのプロモーターだったフリッツ・フォン・エリックと全日本プロレスのジャイアント馬場だった。しかしブロディは1985年3月に全日本を裏切って新日本プロレスへ移籍した。


ブロディは1987年に全日本プロレスへ復帰する際に、全日本プロレスの所属だったザ・グレート・カブキに「ブッチャーに騙されたんだ」と新日本移籍の手引きをしたのはアブドーラ・ザ・ブッチャーで、ブッチャーに騙されていたとカブキに弁解していたが、最近になって新日本移籍を手引きしたのはエリックだったことが明らかになった。


1985年の新日本プロレスはWWF(WWE)との提携関係は継続していたが、莫大なブッキング料をせしめられるだけでなく、これまで新日本の常連だったハルク・ホーガンなどの大物が頻繁に参戦できなくなるなど、新日本にとって不利な条件を飲まされていた。WWFに頼らず独自の外国人エースを欲した新日本はNWAから脱退したばかりだったエリックのプロモーションであるWCCWに目を付け業務提携を結んだ。


ブロディは基本的にアメリカでは一地区に定着せず、渡り鳥のように各テリトリーを渡り歩いていたが、WWFの全米侵攻によりテリトリー制度が崩壊、活躍する場が少なくなったブロディは古巣であるダラスのWCCWやAWAなどアメリカでの主戦場にせざる得なかった。NWAとも切れたことで全日本プロレスとの縁が切れたエリックはブロディに業務提携の第1弾として新日本に参戦するように指示、だが全日本に愛着も感じていたブロディもさすがに戸惑いを隠せなかった。


ブロディは2月から開幕する「激闘!エキサイトウォーズ」に参戦、エリックからは「馬場に気づかれないように、シリーズ中は平静を装うこと、新日本への移籍はセンセーショナルなものにすること」と指示されていたが、ブロディ自身はまだ新日本との契約は結んでいなかったのもあって移籍することにまだ躊躇しており、馬場さんからのギャラアップを含めた引き止めを待っていたが、実は馬場さんも前年末からエリックが新日本に接近しブロディが新日本に移籍することを察知しており、ブロディはハンセンや長州ほど集客力がなかったこともあって、引き止めるつもりもなった。つまり馬場さんの中ではブロディの離脱は想定内だったのだ。


馬場さんからの引き止めもなかったブロディは最終戦である3月14日の愛知県体育館大会で怒りが爆発、ブロディはラッシャー木村、鶴見五郎の国際血盟団と組んで馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎組と対戦したが、試合途中でバックステージに下がって試合を放棄してしまい、一旦アメリカへ戻った後で、1週間後の新日本プロレスの後楽園大会にベートーベンの「運命」と共にブロディが現れ、アントニオ猪木に対して対戦を要求した。このときの馬場さんはブロディの離脱は想定内と考えていたことから慌てず平静を保っていた。


新日本プロレスマットでは移籍時のインパクトや猪木との激闘でブロディの商品価値が上がったかに見えたが、この時期の新日本プロレスは長州ら大量離脱の影響もまだ残っており、思ったより集客に繋がらなかった。このことが一因にもなったのか新日本とブロディの間で亀裂が生じ、遂にIWGPタッグリーグ戦最終戦をドタキャンという形でトラブルを起こし、新日本から永久追放され、ブロディがIWGPタッグリーグ戦のギャラが未払いだったこともあって、新日本とは一時的に和解して再び参戦したものの、'86ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦への出場を来日直前でドタキャンしたことで、新日本は再びブロディを永久追放を宣言、この時期には新日本と全日本の間に引き抜き防止協定が結ばれ、ブロディも防止協定のリストに入っていたこともあって、ブロディは日本マットから締め出されてしまった。


ブロディはアメリカやプエルトリコなどを主戦場にせざる得なくなったが、ダラスのWCCWもゲスト参戦していたAWAも観客動員が低迷、WWFの全米侵攻の影響でテリトリー制も崩壊し、ブロディのようなフリーランスで活躍できる場も少なくなっていた。またWWFやジム・クロケットの一プロモーションと化していたNWAからもブロディはトラブルメーカーとして敬遠され、またブロディ自身も自身のスタイルをいじられるのを嫌って敬遠していた。そこでブロディは生活や自身のスタイルを壊されないためにエリックやカブキを通じて全日本との和解を選択、一度裏切った馬場さんに頭を下げることはブロディにとっても最大の妥協だった。


馬場さんに頭を下げたブロディは1987年にNWA世界ヘビー級王者だったリック・フレアーのドタキャンで代役という形で全日本マットに突如登場、新日本もブロディを2度と呼ぶつもりもなかったため防止協定のリストから外し事を荒立てることもなく、円満という形で全日本マットに戻ることが出来た。全日本に復帰したブロディは新日本へ移籍前のトゲトゲしさがなくなり、扱いやすくなっていたという。


しかしこの時期にはブロディも引退を考え始め、幼児の育成施設の経営の準備をしていたという。ブロディが引退を考え始めたのは、フリーランスながらも一個人で客を呼べる時代ではなくなり、WWFのような団体のブランドで客呼ぶ時代になったことで、ブロディ自身が「もう自分の時代ではない」と見切りをつけ始めたからなのだろうか・・・
<参考資料 GスピリッツVol.18 「特集ブルーザー・ブロディ」、日本プロレス事件史「反逆・決起の時」

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全日本プロレスで開催された「3軍対抗戦」…鶴田、最後の三冠戦

 DRAGON GATEで開催される「5ユニットによる敗者ユニット解散をかけた対抗戦」で、1992年全日本プロレス「新春ジャイアントシリーズ」で開催された「92新春三軍対抗戦」について改めて振り返ってみたい。


 1992年全日本プロレスは「新春ジャイアントシリーズ」にて超世代軍(三沢光晴、川田利明、小橋健太、菊地毅)、鶴田軍(ジャンボ鶴田、田上明、渕正信、小川良成)、ハンセン軍(スタン・ハンセン、ジョニー・エース、ジョー・ディートン、ビリー・ブラック)による「'92新春三軍対抗戦」を開催した。ルールはシリーズ中にシングル、タッグ、6人タッグの試合形式による対抗戦を行い、対抗戦終了時点での最高勝率チームを優勝とされ、優勝したチームには、テリー・ゴーディ&スティーブ・ウイリアムス組が保持している世界タッグ王座への優先挑戦権が与えられることになった。世界タッグ王座は昨年度の最強タッグが開幕するまでは三沢&川田組が保持していたが、当時の最強タッグのルールで開幕前に王座は返上、前王者だったゴーディ&ウイリアムス組が三沢&川田組を破って優勝し王座を奪還していた。


 超世代軍、鶴田軍もお馴染みのメンバーとなったが、ハンセン軍の副将格にエースが起用された、ハンセンのパートナーは昨年の最強タッグまではダニー・スパイビーだったが、2年連続で最強タッグの優勝を逃しただけでなく、スパイビー自身の伸び悩みもあってチームを解消した、エースの抜擢は将来性に期待したのもあったが、自分らはエースにハンセンのパートナーが務まるのかどうか不安があり、また残りのメンバーもディートンやブラックでは、超世代軍、鶴田軍と比べると戦力不足なのではという不安も抱かせた。


 三軍対抗戦は1月2日後楽園大会での開幕戦鶴田軍-5戦3勝2敗、超世代軍-7戦3勝4敗、ハンセン軍、6戦3勝3敗と序盤は鶴田軍がトップに立つも、中盤からは超世代軍も巻き返し、15日の後楽園大会が終わった時点では超世代軍-17戦10勝7敗、鶴田軍-14戦7勝7敗、ハンセン軍-15戦6勝9敗と逆転、22日の半田大会が終わった時点で超世代軍-28戦17勝11敗、鶴田軍-25戦12勝13敗、ハンセン軍-21戦8勝13敗と超世代軍が鶴田軍を大きく突き放す。しかし24日後楽園での鶴田&田上&渕vs三沢&川田&小橋での6人タッグ頂上対決を鶴田軍が制してから鶴田軍が巻き返し、最終戦直前で鶴田軍-32戦17勝13敗 超世代軍-34戦19勝15敗 ハンセン軍-28戦9勝17敗・勝率.357と逆転して優勝マジック1が点灯、超世代軍は1敗も落とせない状況で最終戦を迎えてしまった。


最終戦の千葉大会は田上&小川vs川田&菊地、三沢&小橋vsエース&ブラック 三冠統一ヘビー級選手権(王者)鶴田vs(挑戦者)ハンセンが三軍対抗戦として行われたが、田上組vs川田組は田上がノド輪落としで菊地を下し勝利、この時点で鶴田軍の優勝が決定となる。三沢組vsエース組は消化試合となって三沢組が勝利も、勝った三沢に笑みはなかった。しかしメインの鶴田vsハンセンの三冠戦は、鶴田のジャンピングニーを喰らっても倒れなかったハンセンがそのままウエスタンラリアットを浴びせ3カウントを奪い王座を奪取、鶴田軍が優勝しても大将の鶴田が三冠王座転落で素直に喜べず、ハンセンもハンセン軍の戦力不足が響いてか負けが込み1度も首位に立てなかったが、最後でハンセンが三冠王座を奪取することで一矢報いた。だがハンセンに敗れた試合が鶴田にとって最後の三冠戦となった。



 シリーズ終了後には専修大学レスリング部主将の秋山準(当時は秋山潤)の入団が発表されたが、今思えば1992年の新春ジャイアントシリーズは鶴田の三冠王座転落、秋山の入団を考えると、時代の移り変わりを予感させたシリーズだった。


 最後に優勝した鶴田軍は鶴田&田上でゴーディ&ウイリアムス組に挑み、鶴田がバックドロップでウイリアムスを降し世界タッグ王座を奪取したが、まだこの時点では鶴田はまだまだ健在を思わせていた・・・

猪木の泥仕合劇の根本…東京プロレス分裂劇

アントニオ猪木とIGFの間で告発合戦が繰り広げられ、泥仕合の様相を呈しているが、オールドファンからしてみれば"またか"と思う人が多いのではないだろうか。


一番古い話とすれば、猪木がかつて参加した東京プロレスの内紛劇による泥仕合がある。


1965年年末に日本プロレスの社長だった豊登が社長を辞任したが、実際はギャンブルによる横領が発覚しての追放で、日本プロレスを追われた豊登は新団体設立へ動き始めた。だが豊登に追随したのは付き人として常に豊登と行動していた田中忠治と、まだ若手だった木村政雄(ラッシャー木村)、斎藤昌典(マサ斎藤)、北沢幹之だけで、主力は誰も追随しなかった。選手層の薄さを危惧した豊登は、弟分として可愛がっていたアントニオ猪木の獲得に動き、凱旋帰国に向けてハワイでトレーニングしていた猪木をハワイまで出向いて勧誘し、猪木に対して「日本に戻っても馬場の下として扱われる」「新団体の社長はおまえだ」と口説き、猪木も「人に使われるのは嫌だった」という気持ちもあって豊登の誘いを受け、新団体・東京プロレスに参戦することになった。


しかし帰国していた猪木に待ち受けていたのは現実で、資金はなく豊登自身も既に借金を抱えていたが、猪木は同じく豊登から誘われフロントして参加していた新間寿氏とともに旗揚げへと動き始め、猪木自身は外国人選手を集めるために、日本プロレスの妨害の網をくぐってNWA会長だったサム・マソニック氏に直談判、ジョニー・バレンタインやジョニー・パワーズら6選手のブッキングに成功、日本プロレスもまだNWAには加盟していなかったことで、まさしく盲点を突いた行動だった。資金も猪木や新間氏などがどうにかかき集め、10月12日蔵前国技館で旗揚げ戦を行い、11000人を集め大成功を収めたものの、肝心の売り上げのほとんどが豊登に持っていかれてしまい、ギャンブルに使われたことでほとんど残らなかった。


旗揚げ戦は成功したものの、フロントやプロモーターも素人だったこともあって不手際を連続、大会の中止が相次ぎ、TV中継もなかったこともあって、開催できたとしても不入りの状態が続いた。おまけに豊登は僅かな売り上げを持ち出し、プロモーターにも借金をしてまでギャンブル通いを続け、猪木の元にも借金取りが来るようになり、5000万も借金を背負うハメになった。


さすがの猪木も堪忍袋の尾が切れて、豊登の子分だった田中を除く選手らを引き連れ、東京プロレスとは別の「東京プロレスリング株式会社」を設立、豊登の行状に飽きれていた新間氏も猪木派に加わろうとしたがプロモーターから売上金を回収できなかったとして、豊登一派の一人とされ、猪木は豊登と新間氏を業務上背任横領で告訴し、豊登と新間氏も「横領の事実はない」として、「猪木の生活費や当時の夫人が買い物をしたものを会社の経費で落としている」と逆告訴、この泥仕合による東京プロレスの分裂が決定的となった。


しかし東京プロレスで起きた泥仕合も、よく見ればIGFに起きている泥仕合に似ているのではないだろうか?。昨年で東京プロレスが旗揚げして50周年となったが、50年経ってからもまた同じことが起きているとは・・・
(参考資料=GスピリッツVil.41 特集・東京プロレス)

中邑真輔による猪木への挑戦発言・・・呪縛から脱するための大いなる賭けだった

 2009年9月27日の神戸ワールド記念ホール大会で真壁刀義を降しIWGPヘビー級王座を奪取した中邑真輔が「聞いてくれ! 言いたいことがある。新日本プロレスの歴史、すべてのレスラーの思い、このIWGPにはこもっている。その思い入れはある。ただ、輝き。このIWGPに、昔のような輝きがあるか? 俺はないと思う。足りない! 猪木--!! 旧IWGP王座は俺が取り返す! 時代も変われば、プロレスも変わります! それでも俺はやります! ついて来る奴はついて来てください!」とアピールした。


 この頃の中邑は2008年1月4日の東京ドームで棚橋弘至を破ってIWGPヘビー級王座を防衛、2月17日の両国大会にはカート・アングルを破り王座防衛と共に、IGFに流出していた三代目IWGPベルトを回収に成功。棚橋との再戦を制したことで中邑時代到来かと思われたが、4月27日の大阪で全日本プロレスの武藤敬司に敗れ王座から転落、10月両国で行われた再戦でも破れIWGP戦線から大きく後退、2009年1月4日の東京ドーム大会で棚橋が武藤を破ってIWGP王座を奪還し、2月15日に中邑が棚橋に挑戦するも敗れ、ライバルである棚橋に差をつけられるどころか、タイトル戦線やトップ争いからも大きく後退してしまった。
 そこで中邑は立ち位置を変え、矢野通ら旧GBHメンバーと共に反体制ユニットCHAOSを結成、この頃から顔面への膝蹴り"ボマイェ”を使用するようになり、この年のG1 CLIMAXでは準決勝ではボマイェで棚橋を破ったものの、決勝では真壁を敗れ準優勝に終った。ところがG1準決勝で中邑のハイキックを顔面に食らった棚橋が眼窩内側壁骨折で負傷したため王座は返上となり、9・27神戸で行われる予定だった棚橋vs真壁のIWGPヘビー級選手権試合は、真壁vs中邑による王座決定戦に変更となった。思わぬ形でチャンスを得た中邑は真壁をボマイェで破ってリベンジを果たし王座奪取に成功、その後でマイクで猪木への挑戦をアピールしたのだ。


 この中邑の事前予告もないアピールは新日本プロレスを震撼させた、この頃の新日本プロレスはユークスの連立子会社となっていた時代で、創始者であり象徴だったアントニオ猪木じゃユークス体制と経営方針で対立し新日本を離脱してIGFを設立、猪木という象徴を手に入れたIGFは"新日本にはストロングスタイルはない"など様々な形で挑発したが、棚橋エース路線が固まってからは棚橋自身も「猪木の神通力はもう通用しない!」といわんばかりに猪木の名前を口にしなくなり、また新日本も猪木の存在すら封印したことで、新日本とIGFとの軋轢も沈静化して平行線となっていたが、中邑のアピールで両団体の軋轢が再燃されることが予想され、またワールドプロレスリングでもカットされることもなく放送されたことで、ファンだけでなくマスコミも中邑だけでなく猪木の出方を注目した。


 特に色めきだったのはIGFだった。当時GMに就任していた宮戸優光は会見で「会長承諾のもとに前回会見をしたわけですけども、リング上からチャンピオンが猪木会長を名指しで“挑戦”という言葉を使って、旧IWGPベルトを獲り返すと言った以上、長く放置しておくわけにもいかない。向こうは『IGFは関係ない』と言うんでしょうけど、猪木会長=IGFというのは誰もがわかる話でしょうし、リングが絡んでくるのは当然」として中邑発言をIGFへの挑戦と受け止め受けて立つ姿勢を示し、11月3日のIGF・TDC大会への来場を求めた。しかし中邑は「IGFの理論にスリ変えられては困る。自分としてはマジで猪木さんとやりたい。悪いけどJCBには行かないよ」とあくまで標的はIGFではなく猪木としたためIGF側の要求を拒否、事態は混沌化していった。そうなってくると猪木本人の見解を待つしかなかったのだが、肝心な猪木は姿を見せようとせず、IGFも"IGFの見解こそ猪木の見解"と振りかざすだけだった。


 その猪木本人は実は腰椎すべり症の受け入院しており13時間に及ぶ大手術を受けており、騒動から蚊帳の外に置かれていた。退院し会見に応じたが、猪木が中邑へ出した答えは「オレは引退してるし、早く実現しろとかそういう感じにならない。オレが出て行くわけねぇだろ」と中邑の挑戦発言は歓迎はするも引退を理由に対戦を拒否するという消極的な態度だった。また宮戸もSAMURAI TVの生番組に出演した際に自身が出した見解はIGF側が用意したものであったことを明かし「未だにリング上の話なのかどうか中邑の真意を図りかねる。」「IGFは先走ってリングの話に直結させすぎた。」としてリセットを宣言する。そして中邑は「(猪木の)口から発せられたのは、『俺は出ねぇ』『引退している』『できるわけねぇ』って。要はノーでしょう。正直ショックでね。すぐにコメントってわけにもいかなかったですよ。」とこれ以上の深追いは必要とないとして、抜いた刀を矛へ納めた。


 中邑の狙いは何だったのか?棚橋が中邑発言に関して「ストロングスタイルの呪いにかかっている」と答えたが、中邑はデビュー前から猪木の直接指導を受けた最後の弟子、猪木に接することで大きく影響を受け、また猪木も中邑を大きく期待していた。だが2004年11月の大阪ドーム、メインカードに棚橋vs中邑がファン投票で選ばれたのにも関わらず、ファン投票の提唱者であった猪木が鶴の一言で大会数日前に突如カードが変更され、猪木の決定に大きな不満を抱いていた中邑は中西学と組んで藤田和之、ケンドー・カシン組と対戦し、藤田に蹴られまくって敗れると、中邑の不満を知っていた猪木は突如殴りつけたことで、師弟関係に亀裂が生じ、中邑も"猪木がまた殴ってきたら殴り返す"と周囲に告げ、一時引退まで考えるほど荒れた。この事件をきっかけに中邑は猪木か離れていくも、猪木という存在が付いてまわり、ユークス期になって新日本から猪木が離れても、中邑には猪木といういつまでも纏わりついていた。中邑の猪木への挑戦発言は、猪木という呪縛から脱するための大きな賭けでもあった。そして猪木が対戦を避けたことで中邑は賭けに勝ち、猪木という呪縛から脱することが出来た。


 だが収まりがつかなかったのはIGFだった。猪木からのGOサインを期待していたIGFは拍子抜けするどころか、「猪木の了承を得ている」と振りかざして新日本や中邑を挑発するだけでなく、また11・3TDC大会に中邑が現れるとPRしてしまっていたためしまっていた手前引っ込みがつかなくなっていたのだ、新日本11月1日後楽園大会にジョシュ・バーネットを始めとするIGFに参戦している選手達が来場し、中邑が入場すると一触即発の雰囲気となったが、特にアクションは起こさず、HP上や新日本の会場に来場して挑発するなど中邑バッシングを展開するも、子供じみた行為に中邑どころか新日本すら相手にしなかった。


 中邑は新日本の象徴は棚橋に任せて、自身の個性を高めることでレスラーとしてステータスを高め、新日本プロレスのトップとして君臨したが、新日本プロレスの枠組みさえも飛び越えて、WWEに挑戦することで世界の中邑にまで昇り詰めてしまった。猪木への挑戦発言は新日本プロレスを脱猪木を鮮明にするだけでなく、中邑自身も呪縛から逃れ、更なる飛躍へのきっかけとなった事件でもあった。


 ただ一つ気になることがある、入院中の猪木は本当に中邑発言を知らなかったのか?本当に知らされていなかったのであれば「オレが出て行くわけねぇだろ」と答えざる得なかったのかもしれないが、知っていたとなれば、猪木自身を蔑ろにするだけでなく、名前まで勝手に利用し事を始めようとしたIGFに対して面白くないものがあったのでは・・・・

新日本、IGFの骨肉の10年間はここから始まるも、10年後また猪木は同じことを繰り返していた

 2005年11月に新日本プロレスのオーナーだった猪木は敵対的買収から防ぐために、経営危機に陥っていた新日本を売却した。売却前の新日本は猪木がオーナーでありながらも猪木事務所を本拠にして外部から院政を敷いて新日本に干渉し続けていたが、執行役員として在籍していた上井文彦氏が新日本と猪木事務所側の調整役となり、双方のパワーバランスは保たれていた。ところが猪木が新日本の経営改善のために送り込んだ草間政一氏が社長に就任し、経理面で不明瞭さを理由に上井氏を退社に追い込んでしまうと調整役がいなくなったことで、これまで押さえられてきた猪木事務所からの干渉を抑えられなくなってしまい、また草間氏も猪木の意に反して新日本内の不正を正そうとしたため失脚に追いやられ、猪木は自分の意見を反映させやすいように娘婿であるサイモン・ケリー氏を社長として送り込んだが、失脚した草間氏も猪木や新日本への報復として夕刊紙や著書にて猪木を批判するだけでなく経営状態も暴露、かねてから噂されていた新日本の経営危機が表面化してしまった。


 猪木がなぜユークスに新日本を売却したのか、猪木は事業や投資による失敗で借金返済を抱えていたが、猪木の院政体制の堅守のためだったと思う。猪木は「自分あっての新日本プロレスであり、オレ抜きでやっていけるわけがない」と考えていたことから、"新日本の再生は自分自身の手で再生させる、ユークスはその手助けをすればいい"と考えいたのではないだろうか?、猪木は年明けには商標など権利関係を持ち出し猪木事務所を解散に追いやっていたが、猪木は一発逆転の大ホームラン級のイベントを成功させれば、新日本は再生し新日本や自身の売却していた権利関係も買い戻せる。おそらくだがユークスへの売却は新日本と権利関係を担保にして金を借りた程度しか考えておらず、猪木はビックイベントを当てた上で新日本や権利関係も買い戻すつもりだったのかもしれない。


 しかし当時はライブドアや村上ファンドの影響で企業買収、M&Aが叫ばれ始めた影響でガラス張りの経営が叫ばれていた時代になっており、上場企業であるユークスもガラス張りの経営への改善を条件にして新日本を買収し当然ながら経営状態も調べたが、隠された負債や経理による不正も次々と明るみになり、ユークスは補填するために更なる金をつぎ込むハメになってしまってしまった。だが当の猪木は新日本に干渉し続け、バングラディッシュ大会を開催するために新日本から金を引き出そうとしていた。
 ところがバングラディッシュ大会は新日本の主催ではなく現地プロモーターによる売り興行で、開催までに莫大な経費がかかっていたことがわかると、ユークス体制となった新日本は中止を決定するが、猪木はサイモン氏を通じてバングラディッシュ大会の必要性をユークス体制に訴えるも、多額の金を新日本につぎ込んでいたユークスは無駄な金を出せず、バングラディッシュ大会の中止を公式発表したことで、猪木と新体制となった新日本との対立が生じるようになった。


 その猪木が「イノキ・ゲノム~格闘技世界一決定戦2006~」の9月1日に猪木vsアリが行われた日本武道館で開催を発表、社長だったサイモン氏は設立し新日本が全面バックアップすることをアピールしたが、この年には猪木が提唱したバングラディッシュ大会が中止に追いやられるだけでなく、猪木の管轄だったロス道場も経理の不明瞭さを理由にリストラ対象に入ってしまっていたことから、一発逆転を狙った猪木の意向が反映されたイベントであることは明らかだった。
 ところが「イノキ・ゲノム2006」の開催は新日本だけでなくユークスにも承諾もしていないことが明るみになり、新日本の名前を勝手に使った猪木に対して「イノキ・ゲノム2006」には協力しないことを表明する。
 猪木にしてみれば"オレの会社なのに、なぜ新日本の名前を使ってはいけないんだ!”と怒っただろうが、猪木が新日本を売却した時点で新日本は猪木のものではなくなっていたが、猪木にはその自覚がすらなく、またユークスも新日本の買収だけでなく再建に向けて莫大な金をつぎ込んでしまったことから、成功の可能性がかなり低い一発逆転のプランにはどうしても乗ることが出来なかったのだ。


 そのユークスの読みがあたったのか「イノキゲノム2006」は開催発表と同時に杜撰さも露呈、出場予定選手に入っていたビックマウスラウドの村上和成、柴田勝頼が事前交渉もないまま出場予定選手と発表されたことで怒り、発表して数分後に出場拒否を表明。小川直也や藤田和之もPRIDEとの契約があったことから出場出来ないなど早くも暗雲が垂れ込め始める。、
 負の連鎖はこれだけでは終わらなかった。7月に月寒グリーンドームにてIWGPヘビー級王座をかけて棚橋弘至と防衛戦を行う予定だったブロック・レスナーが防衛戦を拒否しドタキャンをする事件が発生。レスナーは猪木事務所を通じて新日本に参戦していたが、猪木事務所が閉鎖後は新日本が契約を引き継ぎ、猪木だけでなくサイモン氏も新日本再生の切り札としてプッシュしていたが、相手の技を受けずに一方的に勝つスタイルはファンから支持されず、観客動員低下の一因となり、またシリーズにはフル参戦しないどころか、僅か数試合だけで莫大なギャラと支払うなどレスナー側有利な契約を結んでしまっていたことから、新日本にとっては再生の切り札どころか金食い虫と化してしまっていた。


 レスナーがなぜドタキャンをしたか理由は明らかになっていない、来日にあたってサイモン氏が交渉にあたっていたが、レスナーはHERO'Sを要するFEGからオファーを受けていたこともあって、FEGからの話やIWGPベルトを盾にしてギャラアップを要求し、サイモン氏も「イノキゲノム2006」にとってはレスナーは大事な選手であることから、新日本に対してギャラアップに応じるように説得するも、新日本の答えはNOでレスナーに対してギャラアップに応じないどころか月寒大会をもって契約打ち切りを通告するように指示、ギャラアップに失敗したレスナーは怒り札幌大会のドタキャンとベルトの返還拒否という報復処置に出た。だが当時の新日本の事情とレスナー自身がプロレスよりMMAの方がビジネスになると考え始めていたことから、参戦か拒否かどちらにしても、「イノキゲノム2006」には参戦する気はなく、来日して棚橋戦を行っていたとしても、新日本との契約も打ち切るつもりだったのかもしれない。


 レスナーのドタキャンが正式に発表され、渡米中だったサイモン氏に代わり菅林直樹副社長が現場にて対応、猪木も駆けつけてファンに挨拶することで火消しに追われたが、失態続きの新日本はファンからソッポを向かれ、開催された王座決定トーナメントでは棚橋弘至が王者となるも、ファンは棚橋プッシュと揶揄し支持しなかった。それでもユークス体制の新日本は棚橋を新たなる象徴と掲げて、棚橋エース路線を推進し始める。
 一方アメリカから戻ったサイモン氏は会見でレスナーに対して永久追放を宣言したが、「イノキゲノム」の中心選手の一人であり、またレスナーエース路線を推進していた猪木やサイモンにとってはレスナーのドタキャン事件は大打撃であり、またレスナーと交渉しながらもIWGPベルトを回収できず、サイモン氏の発言力は一気に低下、猪木の意向も通らなくなっていくも、それでも猪木は「イノキゲノム2006」に一発逆転をかけて開催へ奔走するも、負の連鎖はまだまだ終わらなかった。


 今度は会場を予定していた日本武道館が押さえられていないことが発覚する。サイモン氏は新日本プロレス名義で日本武道館を押さえていたのだが、日本武道館は東京都の管轄でよほどの後援がない限り押さえられない会場であったことから、おそらくだが後援をしてくれるはずの新日本が協力しなくなったことで、東京都の判断で予約を取り消したとみていいのかもしれない。
 これに慌てた猪木は「アリ親娘の来日交渉、国内の地上波テレビと米国のFOXスポーツネットなど海外テレビ局との交渉、そして30周年にふさわしいカード編成のため準備期間が必要」を理由に10月に延期、スポンサー探しに奔走するが結局見つからなかったことで武道館を押さえることが出来ず、その最中に猪木のライバルである大木金太郎が死去したことで、猪木vsアリの記念イベントから大木の追悼イベントとして韓国で「イノキゲノム2006」を開催することを目論むも開催できなかった。


 2007年新日本プロレスは全日本プロレスの協力の下で1・4東京ドーム大会が開催されるも、これまで必ずといって東京ドーム大会には顔を出していた猪木はプロレス界撤退を宣言して現れず、このままマット界から撤退するのではと思われていた。2月20日の「アントニオ猪木の誕生日を祝う会」で星野勘太郎が「「こじんまりとしたプロレスが発展しても仕方ない。猪木会長の力で戻してほしい」猪木にプロレス復興の嘆願書を手渡した。しかし猪木はサイモン氏ら一部スタッフを引きずり込み新日本から飛び出して新団体「IGF」旗揚げへと動き出した。「やるからには俺が旗を振るしかない。大衆とのズレは生じるがプロレス界をどうしていくのか危機に立ち向かうには理念がないと。もう一度元気にするための軌道修正をする」と恒例だった成田会見で記者団に答え、自身の手でプロレス人気を復活させると意気込んでいたが、後になって新日本を買い戻そうとして交渉するも失敗し、ユークスが新日を他に売ろうとした事実を暴露し「許せない」と激怒したが、プロレス界復興だけでなくバングラディッシュ遠征の中止や、ロス道場とレスナーのリストラ、「イノキゲノム」を潰し、自身のやり方を否定したユークスへの怒りも入り混じっていたのだ。


 しかしその猪木に追随したのはサイモン氏ら一部のスタッフだけで、選手らは誰も追随せず、棚橋も「もうアントニオ猪木の神通力は通じない」と猪木へ三行半を突きつけた。猪木が敢えて選手らに声をかけなかったのは、「自分が行動を起こせばユークスに対して不満を持っている選手らは自分に追随してくるはず」という考えもあったのかもしれない、だがこの頃になると猪木の目指すプロレスと棚橋らの目指すプロレスとで隔たりが生まれ、埋めがたいものになっていたが、新日本は猪木への気遣いもあってか声にすることはなかった。だが猪木自ら新日本を離れたことで、棚橋らは自分らの目指すプロレスへ舵を切るには今しかないと考えて、脱・猪木へ舵を切った。猪木は「レベルが低い。批判は批判で受けるけど、引き抜きなんかしない。上がりたい奴は上がればいいだけ」とコメントしていたが、"なぜ誰一人オレについてこなかったんだ"という思いもあったはず、それだけ猪木と新日本の方向性にズレが生じていたことを猪木は気づいていおらず、それをまたユークスからの圧力と決めつけるようにして怒りをぶつけていた。


 6月29日にIGFは旗揚げしカート・アングルvsブロック・レスナーによる3代目IWGP王座かけた試合を実現させ、ジョシュ・バーネット、マーク・コールマン、ケビン・ランデルマン、小川直也や田村潔司、安田忠夫などが参戦。観客動員も8426人を記録、IGFで取締役となったサイモン氏も「観客数は実数で発表していると公表したが後に旗揚げの観客数は手違いで少なめに発表してしまった」と告白するなど大成功を収めた。猪木にしてみれば"ユークスよ、オレの力を見たか"と実感していたのかもしれない。だがこの成功も一時だけのもので年数が経過すると満員と謳っても空席が目立つようになり、猪木が本来獲得を狙っていた藤田和之やジェロム・レ・バンナやピーター・アーツなどのK-1ファイターなども参戦するようになったが、猪木の目指す格闘プロレス路線は一部マニアに受けるだけでプロレスファン全体を取り込むまでには至らず、次第に観客動員も満員マークもつかないことも多くなり、猪木の影響力もDRAGON GATEやDDT、大日本プロレスなど猪木の影響力を受けない団体も台頭し始めたことで低下、IGF内にだけに及ぶだけとなっていった。


 猪木が去った後の新日本は猪木が抜けた影響だけでなく、長年に渡っての内紛に辟易していた影響もあって離れたファンも多く、新しい象徴となった棚橋も「新日本の棚橋プッシュ」と皮肉られてファンから支持されず、観客動員も苦戦強いられた。この年11月に行われた両国大会では6000人と過去ワーストを記録するも、メインで行なわれた棚橋vs後藤洋央紀戦では両者共命を削り合うような激戦を展開したことで新日本の目指すプロレスに手ごたえを掴み、、この間にもユークスが新日本の経営改善に着手、様々な企画に取り組んで試行錯誤を繰り返しながらもV字回復へのきっかけを作り上げていった。経営改善に成功したユークスはブシロードへと新日本を売却、様々なテコ入れを受けた新日本はスター選手による個人商店から脱却して企業プロレスへと変わり、新しい客層を増やしたことで新たなる黄金時代を迎えようとしていた。


 そして昨年にはマカオで行われる予定だった「猪木vsアリ40周年世界大会」が再三延期となる事態が起き、しばらくして猪木が自身の権利を持ち出してコーラルZを設立、自身が10年前に設立したはずだったIGFに絶縁を突きつけたが、今思えば10年前と同じような光景がまた猪木によって繰り返されていたのだ。この10年の間に新日本は変わったのだが、猪木だけは10年間時が止まったままなのかもしれない。

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