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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

 略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

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破壊されたニックベルト…スタン・ハンセンによるベルト轢き潰し事件!

 5月18日 新日本プロレス後楽園ホール大会で内藤哲也が自ら保持しているIWGPインターコンチネンタル王座を鉄階段に叩きつけ、また試合後には鉄柱めがけて投げつけるなど破壊行為を行い、ベルトは上部の部分がひん曲がってしまった。前シリーズから内藤はベルトをサッカーボール代わりにして蹴飛ばしながら入場する行為を行い、賛否を呼んでいる。内藤にしてみればヒール的立場だからこそ出来る行為でもあり、賛否も反響のうちにぐらいしか考えてない。だがオカダ・カズチカが試合スタイルを変えたことで再評価を受け、ケニー・オメガの台頭、打ち消したはずの棚橋弘至が田口ジャパンを通じて存在感を残したことで内藤なりに焦りも感じているのも事実だと思う。


 ベルト破壊行為はいろんな例があるが、一番印象的だったのはスタン・ハンセンによるAWA世界ヘビー級ベルト破壊事件だ。


 85年12月にスタン・ハンセンはリック・マーテルを逆エビ固めで下しAWA世界王座を奪取した。当時のAWAは昭和59年頃から始まったWWF(WWE)による全米侵攻のターゲットにされ、ハルク・ホーガンを始めとする選手・スタッフが引き抜かれたことで組織として衰え始めていた。AWAはニック・ボックウインクルの長期政権に終止符を打って、ジャンボ鶴田が王者となり、鶴田を破ったリック・マーテルが王者になることで若返りを図ろうとしていた。王者となったマーテルはNWA世界ヘビー級王者だったリック・フレアーと日本でダブルタイトル戦を行うなど活躍していたが、ベビーフェース的なカラーがAWAのファンから支持されず、王者としての力量も不足していた。そこでAWAは全日本プロレスでヒール的な立場にいたハンセンに白羽の矢を立てた。


 ハンセンが主戦場にしていた全日本もAWAでの影響力を誇示できると考えてハンセンを出向という形で送り出しが、全日本はあくまでハンセンを貸し出していたに過ぎず、またハンセンも主戦場は全日本で、アメリカでは特定の主戦場をおかずフリーランスとしていたことからあくまで全日本のスケジュールを優先にした。これは新日本とDDTにおける飯伏幸太の二団体同時契約に似ているが、ハンセンもあくまで全日本の所属としてAWAに上がっていたに過ぎなかったのかもしれない。だがハンセンはAWAエリアを優先にしなかっただけでなく、日本でも防衛戦を行っていたことで、ハンセンとAWAの間に亀裂が生じる。


 86年6月にカナダ・デンバーにてハンセンがニックとの防衛戦を行おうとして会場入りしたが、前日の試合で反則暴走をしたとして出場停止処分とされ会場から追い返された。2日後にAWAがハンセンが防衛戦をドタキャンしたため王座を剥奪、新王者としてニックを指名したことを発表すると、AWAの不意打ち的なやり方にハンセンは激怒、ハンセンはベルト返還に応じず、そのまま全日本でAWA王者として防衛戦を行うも、AWAはハンセンを告訴する構えを見せたため、ハンセンはAWAへの報復の意味を込めて、ベルトをトラックでひき潰しAWAへ突き返し、馬場さんもハンセンを咎めもせず全日本に参戦させた。おそらくだがハンセンから事情を聴いた上で咎めもしなかったのだろうが、馬場さんにしてもAWAの権威は完全に落ちたと思わざる得なかったのかもしれない。


 AWA王座はニックの手に戻るも、使用されたベルトはかつて鶴田に渡ったニックベルトではなく、初代のベルトをモチーフにしたベルトだったこともあり、ハンセンによって思い入れのあるニックベルトを破壊されたことを知ってニック自身も落胆、ベルトはニックの手で修復したがひん曲がったプレートは元に戻らず、ニックはニックベルトを個人所有として二度と腰にベルトを巻いてリングに登場することはなかった。またAWAもピークの過ぎたニックでは立て直すことは出来ず、ニック自身も1987年5月にカート・ヘニングに王座を明け渡した後は二度と王座に就くことはなく、9月の全日本・新潟大会でラストマッチを行いひっそりと引退、長年活躍したAWAと距離をとり、ロードマネージャーとしてWWEと契約、AWAも権利関係を全てWWEに売却して1991年に閉鎖した。


AWAベルト
 ニックは2015年11月14日に死去後にニックベルトが日本人コレクターの手に渡っていたことが「Gスピリッツ」にて明らかになった。自分にとってAWA王者はガニアよりニックの方が印象深く、またニックが巻いていたベルトの方が一番印象深かった。ニックは晩年「たとえ(ベルト)が私の手を離れても、私以外のものでもない。これはニック・ボックウインクルのためのベルトなんだ」とニックベルトの裏にサインを記した。例え誰が巻こうが潰そうが自分の魂がこもっている限りは自分の魂が込められているんだと言いたかったのかもしれない。
(参考資料=「GスピリッツVol.38小泉悦次「ジャイアント馬場の海外行脚」「GスピリッツVol.39 清水勉「検証"ニックベルト”と呼ばれた3代目AWA世界ヘビー級王座」より)

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1981年・なぜジャンボ鶴田は全日本プロレスを辞めるつもりだったのか?

 GスピリッツVol.42「特集・ジャンボ鶴田」(今回の参考文献)でタイガー戸口が全日本を退団し、新日本プロレスへ移籍しようとした際に、鶴田も「戸口さんが辞めるなら、自分もこんな会社辞めますよ!」と言い出し、辞表も準備していたことを明かしていた。


 理由は戸口にも明かさなかったが、鶴田が亡くなったことで永遠の謎となった。しかし自分なりに考察すると、理由はジャイアント馬場さんを震撼させたクーデター事件だった可能性が高いと見ている。


 1977年末に当時全日本プロレスのNo3的存在だったサムソン・クツワダがジャンボ鶴田を中心とした新団体設立を計画、その上でジャイアント馬場だけでなくアントニオ猪木に対して高額な引退準備金を用意して引退させ、世代交代も図ろうとしていた。


 しかしクツワダは馬場以外の選手に声をかけたこともあって、馬場が計画を知ることになりクツワダを解雇、新日本だけでなく国際プロレスにも通報したことでクツワダはマット界から追放となったが、鶴田には厳重注意だけでお咎めはなかった。


 クーデター事件に関してはGスピリッツVol.42「特集・ジャンボ鶴田」での各自の証言を照らし合わせると、今思えば鶴田に馬場さんだけでなく猪木を押しのけて日本マット界のトップに立つ野心というものはなく、政治面は馬場さんに任せておいて純粋にプロレスを楽しみたい、一レスラーでいたいという考えだったのではないだろうか、そう考えるとクーデター事件は鶴田は首謀者の一人ではなく、クツワダが勝手に鶴田の名前を使ったに過ぎず、たとえ鶴田に話を持っていたとしても、鶴田は当たり障りのない返事をしたが、クツワダはそれを同調したと受け止めたと考えるのが自然なのではとも思う。


 クーデター事件後馬場と鶴田の師弟関係はおかしくなり、鶴田は馬場の関連会社の役員にさせられるだけでなく、他の選手からも隔離され、常に馬場と行動共にさせられるようになった。馬場さんにしてみれば隔離することで変な気を起こさせないようにしたのだろうが、鶴田にしてみれば信用していた馬場さんに信用されなくなったことのショックの方が大きかったかもしれない。


 また昭和56年に日本テレビが経営不振の全日本にテコ入れをすることになり、松根光雄氏が社長に送り込まれると、松根氏は全日本は馬場に任せられないと判断し鶴田への世代交代を計画、鶴田にエース兼任でブッカーも任せようとしていたが、鶴田は思い悩んだという。この理由はいろいろあったのだろうが、世話になっている馬場と松根氏の間で板ばさみになっていたのと、ブッカー業はやったことはなく、今まで他の選手から隔離されていたのもあって現場をまとめ上げる自信がなかった。だから全てを投げ出したい気持ちになって一時は辞表を出そうとするまで追い詰められていたのではないだろうか…


 鶴田が最終的に全日本に留まった理由は佐藤昭雄の存在があった。鶴田はたまたまアメリカから帰国していた佐藤にブッカー業のことを相談すると、ブッカー業はなんたるかを説明する佐藤を見て適任と考え、松根氏に佐藤をブッカーに推薦、佐藤もブッカー業に興味があったため引き受けることになったが、今思えば佐藤の存在がなければ鶴田は全日本を去っていたと思う。


 鶴田は最終的には全日本でレスラー人生を全うしたが、鶴田が天龍源一郎や長州力のように馬場さんや猪木を押しのけてマット界の頂点に立つ野心があったら、またマット界の歴史が大きく変わっていたことは間違いないだろう。


 今年で17年目を迎えた鶴田の命日、鶴田は天国で馬場さんや三沢光晴と共に現在のマット界をどう眺めているのだろうか・・・・

ベイダー誕生30周年、今振り返る両国暴動

 藤波辰爾、ベイダー
  先日にドラディション大阪大会の試合後に藤波辰爾とベイダーのトークショーが行われ、ベイダーは席上で今年はベイダーというキャラが誕生して30周年を迎えたことを明かしたが、今年でベイダーの誕生と両国暴動から30年を迎えようとしていた。


 ベイダーことレオン・ホワイトが来日したのは1987年12月、TPG(たけしプロレス軍団)が送り込む新日本プロレスへの刺客として来日した。きっかけになったのはビートたけしが東京スポーツで「プロレス新団体設立」をぶち上げたのが発端で、新日本プロレスが興味を抱き、マサ斎藤を参謀役に据えて、TPGの刺客が猪木へ挑戦するという計画だった。当時の新日本プロレスは「ワールドプロレスリング」が月曜8時に放送されていたものの、裏番組に押されて視聴率が低迷し、またたけしもフライデー襲撃事件から復帰したばかりでテレビ朝日が放送していた「スポーツ大将」を含めてレギュラー番組が一時的に低迷していた時期でもあったことから、互いのテコ入れということで利害が一致していたのかもしれない。


 そこで抜擢されたのはレオン・ホワイトだったが当時はAWAのリングに上がっており、王者だったスタン・ハンセンと対戦していたことから全日本プロレスも狙っていたが、斎藤がAWAに参戦していたこともあって、AWAは全日本から新日本に乗り換え始め、ホワイトも斎藤のルートで新日本が獲得した選手だった。


 来日したホワイトはマスクと甲冑を手渡されたという、マスクと甲冑は『ギブアップまで待てない!ワールドプロレスリング』時代に企画としてテレビ製作側から制作されたキャラクターだったが、『ギブアップまで待てない!ワールドプロレスリング』が通常のプロレス中継に戻ったことで没となっていた、そのキャラクターを東スポ側が生かしそうとして誕生したのはビッグバン・ベイダーだった。コスチュームや甲冑を手渡されたベイダーは「自分の身に重大なことが起ころうとしている」とトークショーで語っていたが、これから起きる修羅場だけは、さすがのベイダーも予期していなかったと思う。


 1987年12月27日に新日本は両国国技館大会でビックイベントを開催メインは猪木の保持するIWGPヘビー級選手権に世代交代をかけて長州力が挑戦、ベイダーは斎藤と組んで藤波辰己、木村健悟組と対戦となり、テレビ朝日も2時間の特番を組んだ。
 当時の新日本は「ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦」は藤波&木村が優勝するものの、シリーズ中に前田日明が長州顔面蹴撃事件で謹慎処分を受けたことで暗い影が差し込み、タッグリーグを負傷欠場した長州も復帰第1戦がいきなり猪木とのタイトルマッチだった。


 試合は藤波vsベイダー組になるとベイダーのセコンドにはたけし軍団だけでなく、たけし本人も登場し、TPGの渉外的役割だったガタルカナル・タカやダンカンが「我々の挑戦状を自ら受け取ったのだから、ベイダーと戦うべき人はアントニオ猪木さんのはずです」「あんたらアントニオ猪木の逃げる姿を見に来たのか?あんたら猪木を卑怯者にしていいのか?やらせろーっ!やらせてくださーい!やらせてくれー!」挑発し、斎藤も「猪木!この男(ベイダー)と戦え!俺がわざわざアメリカから連れてきた男だ!怖いか?猪木!出てこーい!」と挑発すると、長州が現れて師匠であるマサ斎藤に詰め寄り、斎藤もなだめているところで、猪木が現れ「受けてやるかコノヤロー!(お客さんに対し)どーですか!(挑戦者と対戦してもいいか)」とアピールしたことで、カードも猪木vs長州から猪木vsベイダーに変更してしまう。猪木は長州に「オマエとの対決はお預けだ」と引き下がるように求めるが、長州は納得しないどころか、猪木vs長州見たさに会場に訪れたファンも納得せず、「やめろコール」が巻き起こる。だが強行的に猪木vsベイダーにカードが変更され、長州は斎藤と組んで藤波組と対戦するが、納得しないファンからは試合中にも関わらず物が投げ込まれる異様な雰囲気となり、試合は長州が6分足らずで木村をリキラリアットで下すも、試合後に長州が「オレが猪木を倒す」とアピールした後で、猪木が現れ、長州との対戦を受けることになり、5分間のインターバルの後で猪木vs長州戦が行われた。


 猪木vs長州が行われたことでファンも納得したかに見えたが、試合も猪木が鉄柱攻撃で流血に追い込み、頭突きから卍固めで捕獲するも、セコンドの馳浩が救出に駆けつけたため、6分6秒で長州の反則負けとなり、あっけない結末にファンの怒りは再び爆発してしまう。そんな状況の中で猪木はベイダーと対戦するも、さすがに完全にピークを過ぎた猪木では長州、ベイダー相手のダブルヘッダーは無茶であり、2分49秒であっさり敗れてしまう。
 この結末にファンが激怒し敗れた猪木に罵声を浴びせるだけでなく物を投げつけ、国技館の升席やイス席を破壊し、中には火を投げつけたファンもいた。ベイダーもトークイベントで「火を投げつけたファンに驚いた」「日本のファンは直ぐヒートアップすると暴動になり火をつけるのが当たり前だ」と振り返っていたが、ベイダーも暴動という異様な光景にさぞかし驚いていたと思う。


 ビートたけしとたけし軍団はベイダーの試合を見ないまま逃げるように会場を後にし、猪木は控室へ下がり、田中秀和リングアナが涙ながらファンに土下座するも、それでもファンは納得せず、猪木は再び現れて「「みんな今日はありがとう。長州選手とは今一度、正々堂々と戦います。みんなの期待を裏切りません」とコメントしたことでファンの怒りはエスカレートし物を投げつけた・・・


 なぜ猪木は突然カードを変更したのか?猪木の環状線の理論でいえばプロレスファン層より一般ファン層を取り込むためにどうアピールするかを常々考えていたことを考えると、プロレスファン層をターゲットにした猪木vs長州よりも、一般ファン層をターゲットにしたビートたけしを相手にした方が外の部分である一般層にアピールできると考え、あえてサプライズとハプニングという劇薬を投入するも、あくまで猪木vs長州を見たかった現場のファンが劇薬を拒んでしまった。大きな読み違いをしてしまった猪木は、長州やベイダーを相手にダブルヘッダーを行うことで軌道修正を図ったが、長州戦は不完全燃焼、ベイダー戦は惨敗に終わったことで軌道修正に失敗し暴動に至ってしまった。さすがの猪木も良かれと思って使った劇薬が悪い作用に働いてしまったことで落胆していた、だが悪い作用はこれだけでは終わらなかった。
 
 特番も視聴率もビートたけし効果もあって二桁を記録するなど裏番組である「笑っていいとも年末特大号」に対して健闘はしたが、暴動騒ぎで国技館を管理する日本相撲協会が升席などが破壊されたことで怒り、新日本に対してら多額の損害賠償を請求だけでなく、無期限で国技館の貸し出しを無期限で禁止を通達する。本来なら間に立つべきテレビ朝日も「相撲ダイジェスト」を放送していたことでの相撲協会への配慮からか新日本を庇うこともなかったが、猪木の後ろ盾になっていた三浦甲子二専務も死去していたことも大きく影響していたのかもしれない。またビートたけしもプロレスから撤退、通常枠のワールドプロレスリングの視聴率も苦戦のままで4月からのゴールデンタイムからの降格も決定するなど、猪木の投入した劇薬も結局は打ち上げ花火に終わってしまった。


 しかし猪木の投入した劇薬で成果を出したのはベイダーで、劇薬を利用して新日本プロレスのトップ外国人選手へと伸し上った。今年でベイダーというキャラが誕生して30周年、ベイダーにとって猪木の劇薬はまさに起爆剤でもあった。


 (参考資料 ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史 「暴動・騒乱」より)

もう一つのドラゴンヒストリー・・・無我と西村修

 スポーツ報知で藤波辰爾のデビュー45周年を記念して「ドラゴンヒストリー」が連載されているが、その中で触れていなかったのは、かつて藤波が新日本内で旗揚げした"無我”と西村修の存在、無我は自身が掲げた理想でもあったが悪い思い出でもあることから、ストーリーの今後の展開を見てもおそらくもう触れることはないだろう。


 1995年に闘魂三銃士(武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也)の台頭もあって、新日本プロレスでの今後の方向性を見失った藤波は「古き良き時代のプロレスの復活」、「1800年代の伝統あるプロレスを蘇らせる」をコンセプトに新日本の1ブランドとして無我を設立、新日本からの帰国命令を拒否し海外に留まっていた西村修を帰国させ、イギリスのジミーライレージムとも提携を結び、10月29日大阪・南港のATCホールでとして旗揚げし、藤波は旗揚げ戦ではタリー・ブランチャードをドラゴンスリーパーで降し、この頃FMWを離れ新日本でデビューした際に藤波がデビュー戦の相手を務めたミスター・ポーゴや、ジュニア時代のライバルである剛竜馬が観戦に訪れ参戦を取り沙汰されたが、藤波はスタイルの違うポーゴや、絶縁していた剛を上げる気はなかった。無我は倉島信行や正田和彦(MAZADA)竹村豪氏を輩出、藤波が新日本の社長に就任したことで興行数が低下すると、新日本内でも台頭してきた西村が中心となり無我は継続された。


 2005年に新日本がユークス体制になると新体制は選手・スタッフの契約内容を見直し、それによって西村修や田中秀和リングアナが新日本を退団、吉江豊やヒロ斎藤と共に無我をコンセプトにした新団体設立へと動くと、藤波も新日本を退団して合流して「無我ワールド・プロレスリング」を旗揚げ、そのまま社長に就任したが当初は西村と田中リングアナは藤波を誘うつもりもなかった。だが社長になる人間が不在だったため社長経験のある藤波をそのまま社長に据えるも、西村は一番後に合流してきた藤波が社長に就任することに不満だった。

 無我は旗揚げしたが興行数も少なく観客の入りも芳しくない状況となると、全ての責任は藤波にあると思い込んだ西村は他の選手にクーデターを持ちかけるが、以前から西村の身勝手さに呆れていた選手らは誰も賛同せず、2007年10月に無我内で孤立した西村は若手だった征矢を引き連れ突如全日本へ移籍、移籍の際には無我の経営に携わっていた藤波伽織夫人を名指しで批判するだけでなく、自身で勝手に登録した無我の商標まで持ち出したことで、藤波に無我の名称を使えないようにした。


 藤波は伽織夫人まで批判されただけでなく、自身が名づけた無我の名称も取り上げた西村に怒り絶縁、団体名もドラディションに改めた。新日本の一ブランドとしてスタートした無我だったが、今でも思うことは団体にすべきではなく、藤波が選手を育成する道場レベルに留めるべきだったのではと思うし旗揚げ戦を観戦してきた自分とすれば現在でも残念でならない。

優勝してもIWGPには挑戦出来ない・・・意味のなさから「NEW JAPAN CUP」が始まった

2005年1月に新日本プロレスが第1回「NEW JAPAN CUP」の開催を発表した。


当時の渉外部長だった田中秀和氏は「このNEW JAPAN CUP~新日本無差別級トーナメントを、今年から新たな<春のG1>という形で新たな戦いの場を作っていきたいと思っています。G1という形がとても大きくなってしまったので、敢えてG1という名称は使いませんが、春はトーナメント、夏はリーグ戦で、選手一人一人がアピールし、力を競ってもらいたいです。」と趣旨を説明したが、G1 CLIMAX=リーグ戦というものが定着していたファンの反応は今ひとつだった。


また新日本プロレスの展開もNJCの存在を薄くした要因になった、当時のIWGPヘビー級王者は全日本プロレスの所属だった小島聡で、3月26日の両国大会では中邑真輔を相手に時間切れ引き分けで防衛するが、同日に開催された挑戦者決定トーナメントで前王者だった天山広吉が優勝、5月14日の東京ドーム大会での挑戦を決めたことで、なぜ"挑戦者決定トーナメントをやったのに、またトーナメントなんかやるの"と開催の意義も問われた。


NJCが開幕、蝶野正洋、中西学、タイガーマスク、棚橋弘至、後藤洋央紀、スコット・ノートン、吉江豊、ケンドー・カシン、中邑真輔、獣神サンダー・ライガー、天山広吉、稔、西村修、柳澤龍志、金本浩二、永田裕志などヘビー、ジュニアの枠を超えて16選手がエントリーし、最終戦の4月26日大阪府立体育会館大会まで勝ちあがったのは天山、中西、カシン、棚橋で、IWGP王座への挑戦が決定している天山にしてみれば優勝しなければいけなかった。


 準決勝の組み合わせは天山vs棚橋、中西vsカシンだったが、天山はアナコンダバイスを仕掛けた際に丸め込まれて逆転負けを喫して脱落する。そして棚橋は準決勝でカシンを破った中西をスリングブレイドで破り、第1回のNJCの覇者となったが、ファンの反応も今イチ、観客動員も満員止まりと散々たる結果となった。


 しかしNJCを制した棚橋は挑戦することが出来ず、既に挑戦者決定トーナメントを制していた天山がそのまま小島の保持するIWGPヘビー級王座に挑戦、天山がTTDで小島を破り王座を奪還するが、試合後に藤田和之に襲撃を受け、また大会後には当時社長だった草間政一氏がオーナーだったアントニオ猪木の鶴の一声で失脚しサイモン・ケリー氏が社長に就任するという内紛が起きるなど、棚橋のNJC優勝はあっという間にかき消され意味のないものにされていった。棚橋が挑戦とされなかったのはファンからの不支持だけでなく、後押ししていた草間氏の失脚した影響もあったのかもしれない。


正直言ってNJCはこの1回で終わりだろうと思っていたら、翌年も継続され現在では新日本の看板シリーズの一つとなった。今年の春の本場所は誰が制するのか?

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