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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

 略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

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ベイダー誕生30周年、今振り返る両国暴動

 藤波辰爾、ベイダー
  先日にドラディション大阪大会の試合後に藤波辰爾とベイダーのトークショーが行われ、ベイダーは席上で今年はベイダーというキャラが誕生して30周年を迎えたことを明かしたが、今年でベイダーの誕生と両国暴動から30年を迎えようとしていた。


 ベイダーことレオン・ホワイトが来日したのは1987年12月、TPG(たけしプロレス軍団)が送り込む新日本プロレスへの刺客として来日した。きっかけになったのはビートたけしが東京スポーツで「プロレス新団体設立」をぶち上げたのが発端で、新日本プロレスが興味を抱き、マサ斎藤を参謀役に据えて、TPGの刺客が猪木へ挑戦するという計画だった。当時の新日本プロレスは「ワールドプロレスリング」が月曜8時に放送されていたものの、裏番組に押されて視聴率が低迷し、またたけしもフライデー襲撃事件から復帰したばかりでテレビ朝日が放送していた「スポーツ大将」を含めてレギュラー番組が一時的に低迷していた時期でもあったことから、互いのテコ入れということで利害が一致していたのかもしれない。


 そこで抜擢されたのはレオン・ホワイトだったが当時はAWAのリングに上がっており、王者だったスタン・ハンセンと対戦していたことから全日本プロレスも狙っていたが、斎藤がAWAと縁が深かったこともあって、この頃になると新日本に接近するようになり、ホワイトも斎藤のルートで新日本が獲得した選手だった。


 来日したホワイトはマスクと甲冑を手渡されたという、マスクと甲冑は『ギブアップまで待てない!ワールドプロレスリング』時代に企画としてテレビ製作側から制作されたキャラクターだったが、『ギブアップまで待てない!ワールドプロレスリング』が通常のプロレス中継に戻ったことで没となっていたが、そのキャラクターを東スポ側が生かしそうとして誕生したのはビッグバン・ベイダーだった。コスチュームや甲冑を手渡されたベイダーは「自分の身に重大なことが起ころうとしている」とトークショーで語っていたが、これから起きる修羅場だけは、さすがのベイダーも予期していなかったと思う。


 1987年12月27日に新日本は両国国技館大会でビックイベントを開催メインは猪木の保持するIWGPヘビー級選手権に世代交代をかけて長州力が挑戦、ベイダーは斎藤と組んで藤波辰己、木村健悟組と対戦となり、テレビ朝日も2時間の特番を組んだ。
 当時の新日本は「ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦」は藤波&木村が優勝するものの、シリーズ中に前田日明が長州顔面蹴撃事件で謹慎処分を受けたことで暗い影が差し込み、タッグリーグを負傷欠場した長州も復帰第1戦がいきなり猪木とのタイトルマッチだった。


 試合は藤波vsベイダー組になるとベイダーのセコンドにはたけし軍団だけでなく、たけし本人も登場し、TPGの渉外的役割だったガタルカナル・タカやダンカンが「我々の挑戦状を自ら受け取ったのだから、ベイダーと戦うべき人はアントニオ猪木さんのはずです」「あんたらアントニオ猪木の逃げる姿を見に来たのか?あんたら猪木を卑怯者にしていいのか?やらせろーっ!やらせてくださーい!やらせてくれー!」挑発し、斎藤も「猪木!この男(ベイダー)と戦え!俺がわざわざアメリカから連れてきた男だ!怖いか?猪木!出てこーい!」と挑発すると、長州が現れて師匠であるマサ斎藤に詰め寄り、斎藤もなだめているところで、猪木が現れ「受けてやるかコノヤロー!(お客さんに対し)どーですか!(挑戦者と対戦してもいいか)」とアピールしたことで、カードも猪木vs長州から猪木vsベイダーに変更してしまう。猪木は長州に「オマエとの対決はお預けだ」と引き下がるように求めるが、長州は納得しないどころか、猪木vs長州見たさに会場に訪れたファンも納得せず、「やめろコール」が巻き起こる。だが強行的に猪木vsベイダーにカードが変更され、長州は斎藤と組んで藤波組と対戦するが、納得しないファンからは試合中にも関わらず物が投げ込まれる異様な雰囲気となり、試合は長州が6分足らずで木村をリキラリアットで下すも、試合後に長州が「オレが猪木を倒す」とアピールした後で、猪木が現れ、長州との対戦を受けることになり、5分間のインターバルの後で猪木vs長州戦が行われた。


 猪木vs長州が行われたことでファンも納得したかに見えたが、試合も猪木が鉄柱攻撃で流血に追い込み、頭突きから卍固めで捕獲するも、セコンドの馳浩が救出に駆けつけ、6分6秒で長州の反則負けとなったことで、あっけない結末にファンの怒りは再び爆発してしまう。そんな状況の中で猪木はベイダーと対戦するも、さすがに完全にピークを過ぎた猪木では長州、ベイダー相手のダブルヘッダーは無茶であり、2分49秒であっさり敗れてしまう。
 この結末にファンが激怒し敗れた猪木に罵声を浴びせるだけでなく物を投げつけ、国技館の升席やイス席を破壊し、中には火を投げつけたファンもいた。ベイダーもトークイベントで「火を投げつけたファンに驚いた」「日本のファンは直ぐヒートアップすると暴動になり火をつけるのが当たり前だ」と振り返っていたが、ベイダーも暴動という異様な光景にさぞかし驚いていたと思う。


 ビートたけしとたけし軍団はベイダーの試合を見ないまま逃げるように会場を後にし、猪木は控室へ下がり、田中秀和リングアナが涙ながらファンに土下座するも、それでもファンは納得せず、猪木は再び現れて「「みんな今日はありがとう。長州選手とは今一度、正々堂々と戦います。みんなの期待を裏切りません」とコメントしたことでファンの怒りはエスカレートし物を投げつけた・・・


 なぜ猪木は突然カードを変更したのか?猪木の環状線の理論でいえばプロレスファン層より一般ファン層を取り込むためにどうアピールするかを常々考えていたことを考えると、プロレスファン層をターゲットにした猪木vs長州よりも、一般ファン層をターゲットにしたビートたけしを相手にした方が外の部分である一般層にアピールできると考え、あえてサプライズとハプニングという劇薬を投入するも、あくまで猪木vs長州を見たかった現場のファンが劇薬を拒んでしまった。大きな読み違いをしてしまった猪木は、長州やベイダーを相手にダブルヘッダーを行うことで軌道修正を図ったが、長州戦は不完全燃焼、ベイダー戦は惨敗に終わったことで軌道修正に失敗し暴動に至ってしまった。さすがの猪木も良かれと思って使った劇薬が悪い作用に働いてしまったことで落胆していた、だが悪い作用はこれだけでは終わらなかった。
 
 特番も視聴率もビートたけし効果もあって二桁を記録するなど裏番組である「笑っていいとも年末特大号」に対して健闘はしたが、暴動騒ぎで国技館を管理する日本相撲協会が升席などが破壊されたことで怒り、新日本に対してら多額の損害賠償を請求だけでなく、無期限で国技館の貸し出しを無期限で禁止を通達する。本来なら間に立つべきテレビ朝日も「相撲ダイジェスト」を放送していたことでの相撲協会への配慮からか新日本を庇うこともなかったが、猪木の後ろ盾になっていた三浦甲子二専務も死去していたことも大きく影響していたのかもしれない。またビートたけしもプロレスから撤退、通常枠のワールドプロレスリングの視聴率も苦戦のままで4月からのゴールデンタイムからの降格も決定するなど、猪木の投入した劇薬も結局は打ち上げ花火に終わってしまった。


 しかし猪木の投入した劇薬で成果を出したのはベイダーで、劇薬を利用して新日本プロレスのトップ外国人選手へと伸し上った。今年でベイダーというキャラが誕生して30周年、ベイダーにとって猪木の劇薬はまさに起爆剤でもあった。


 (参考資料 ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史 「暴動・騒乱」より)

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もう一つのドラゴンヒストリー・・・無我と西村修

 スポーツ報知で藤波辰爾のデビュー45周年を記念して「ドラゴンヒストリー」が連載されているが、その中で触れていなかったのは、かつて藤波が新日本内で旗揚げした"無我”と西村修の存在、無我は自身が掲げた理想でもあったが悪い思い出でもあることから、ストーリーの今後の展開を見てもおそらくもう触れることはないだろう。


 1995年に闘魂三銃士(武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也)の台頭もあって、新日本プロレスでの今後の方向性を見失った藤波は「古き良き時代のプロレスの復活」、「1800年代の伝統あるプロレスを蘇らせる」をコンセプトに新日本の1ブランドとして無我を設立、新日本からの帰国命令を拒否し海外に留まっていた西村修を帰国させ、イギリスのジミーライレージムとも提携を結び、10月29日大阪・南港のATCホールでとして旗揚げし、藤波は旗揚げ戦ではタリー・ブランチャードをドラゴンスリーパーで降し、この頃FMWを離れ新日本でデビューした際に藤波がデビュー戦の相手を務めたミスター・ポーゴや、ジュニア時代のライバルである剛竜馬が観戦に訪れ参戦を取り沙汰されたが、藤波はスタイルの違うポーゴや、絶縁していた剛を上げる気はなかった。無我は倉島信行や正田和彦(MAZADA)竹村豪氏を輩出、藤波が新日本の社長に就任したことで興行数が低下すると、新日本内でも台頭してきた西村が中心となり無我は継続された。


 2005年に新日本がユークス体制になると新体制は選手・スタッフの契約内容を見直し、それによって西村修や田中秀和リングアナが新日本を退団、吉江豊やヒロ斎藤と共に無我をコンセプトにした新団体設立へと動くと、藤波も新日本を退団して合流して「無我ワールド・プロレスリング」を旗揚げ、そのまま社長に就任したが当初は西村と田中リングアナは藤波を誘うつもりもなかった。だが社長になる人間が不在だったため社長経験のある藤波をそのまま社長に据えるも、西村は一番後に合流してきた藤波が社長に就任することに不満だった。

 無我は旗揚げしたが興行数も少なく観客の入りも芳しくない状況となると、全ての責任は藤波にあると思い込んだ西村は他の選手にクーデターを持ちかけるが、以前から西村の身勝手さに呆れていた選手らは誰も賛同せず、2007年10月に無我内で孤立した西村は若手だった征矢を引き連れ突如全日本へ移籍、移籍の際には無我の経営に携わっていた藤波伽織夫人を名指しで批判するだけでなく、自身で勝手に登録した無我の商標まで持ち出したことで、藤波に無我の名称を使えないようにした。


 藤波は伽織夫人まで批判されただけでなく、自身が名づけた無我の名称も取り上げた西村に怒り絶縁、団体名もドラディションに改めた。新日本の一ブランドとしてスタートした無我だったが、今でも思うことは団体にすべきではなく、藤波が選手を育成する道場レベルに留めるべきだったのではと思うし旗揚げ戦を観戦してきた自分とすれば現在でも残念でならない。

優勝してもIWGPには挑戦出来ない・・・意味のなさから「NEW JAPAN CUP」が始まった

2005年1月に新日本プロレスが第1回「NEW JAPAN CUP」の開催を発表した。


当時の渉外部長だった田中秀和氏は「このNEW JAPAN CUP~新日本無差別級トーナメントを、今年から新たな<春のG1>という形で新たな戦いの場を作っていきたいと思っています。G1という形がとても大きくなってしまったので、敢えてG1という名称は使いませんが、春はトーナメント、夏はリーグ戦で、選手一人一人がアピールし、力を競ってもらいたいです。」と趣旨を説明したが、G1 CLIMAX=リーグ戦というものが定着していたファンの反応は今ひとつだった。


また新日本プロレスの展開もNJCの存在を薄くした要因になった、当時のIWGPヘビー級王者は全日本プロレスの所属だった小島聡で、3月26日の両国大会では中邑真輔を相手に時間切れ引き分けで防衛するが、同日に開催された挑戦者決定トーナメントで前王者だった天山広吉が優勝、5月14日の東京ドーム大会での挑戦を決めたことで、なぜ"挑戦者決定トーナメントをやったのに、またトーナメントなんかやるの"と開催の意義も問われた。


NJCが開幕、蝶野正洋、中西学、タイガーマスク、棚橋弘至、後藤洋央紀、スコット・ノートン、吉江豊、ケンドー・カシン、中邑真輔、獣神サンダー・ライガー、天山広吉、稔、西村修、柳澤龍志、金本浩二、永田裕志などヘビー、ジュニアの枠を超えて16選手がエントリーし、最終戦の4月26日大阪府立体育会館大会まで勝ちあがったのは天山、中西、カシン、棚橋で、IWGP王座への挑戦が決定している天山にしてみれば優勝しなければいけなかった。


 準決勝の組み合わせは天山vs棚橋、中西vsカシンだったが、天山はアナコンダバイスを仕掛けた際に丸め込まれて逆転負けを喫して脱落する。そして棚橋は準決勝でカシンを破った中西をスリングブレイドで破り、第1回のNJCの覇者となったが、ファンの反応も今イチ、観客動員も満員止まりと散々たる結果となった。


 しかしNJCを制した棚橋は挑戦することが出来ず、既に挑戦者決定トーナメントを制していた天山がそのまま小島の保持するIWGPヘビー級王座に挑戦、天山がTTDで小島を破り王座を奪還するが、試合後に藤田和之に襲撃を受け、また大会後には当時社長だった草間政一氏がオーナーだったアントニオ猪木の鶴の一声で失脚しサイモン・ケリー氏が社長に就任するという内紛が起きるなど、棚橋のNJC優勝はあっという間にかき消され意味のないものにされていった。棚橋が挑戦とされなかったのはファンからの不支持だけでなく、後押ししていた草間氏の失脚した影響もあったのかもしれない。


正直言ってNJCはこの1回で終わりだろうと思っていたら、翌年も継続され現在では新日本の看板シリーズの一つとなった。今年の春の本場所は誰が制するのか?

長州からフォール勝ち・・・稲妻戦士・木村健悟が最も輝いた日

 昭和62年11月9日の新日本プロレス後楽園ホール大会から「87ジャパンカップ争奪タッグリーグ」が開幕した。


<参加チーム>
アントニオ猪木 藤原喜明
藤波辰己 木村健悟
長州力 マサ斎藤
前田日明 スーパー・ストロング・マシン
武藤敬司 高田伸彦
ケンドー・ナガサキ ミスター・ポーゴ
ディック・マードック スコット・ホール
ロン・スター、ロン・リッチ


 当時の新日本は前シリーズまで猪木率いるナウリーダーvs長州、藤波、前田率いるニューリーダーによる世代闘争となっていたが、長州と斎藤が双方から離脱したことで世代闘争は終結し、新たに長州軍を率いて猪木に宣戦布告を果たしていた。また前田率いるUWFも参戦していたものの、正規軍と共闘という図式とされ、次第に新日本に取り込まれそうになったいた。


 この時代はまだ「ワールドプロレスリング」はゴールデンタイムで放送されていたものの、枠は金曜8時ではなく月曜8時に放送され、TBSでは「水戸黄門」「大岡越前」などの時代劇、NTVでは「ザ・トップテン」、フジテレビは「志村けんのだいじょうぶだぁ」などが裏番組で放送されていたことから、ワープロは視聴率的に苦戦を強いられていた。


 まだ学生だった自分はどのチームが優勝するかクラスメイトと予想していたが、本命は長州&斎藤組、対抗馬は猪木&藤原組が圧倒的に多く、他のチームは全く眼中にされていなかった。


 猪木は右肩を負傷し開幕戦を欠場したが、猪木のパートナーにはマードックが名乗りを挙げたことでパートナーが藤原からマードックに変更され、空席となったホールのパートナーには急遽坂口が入った。


 開幕戦では長州&斎藤組は藤波&木村の元祖ニューリーダーズと対戦したが、誰もがいつもの通り長州組が木村を仕留めて勝つだろうと予想していた、試合も長州組が徹底的に木村を狙い撃ちにし流血に追い込む、そして長州組がバックドロップ&ラリアットの合体技であるハイジャックラリアットを狙ったが、ここで藤波が長州に延髄斬りを浴びせてカットに入ったところで生放送だったため中継が終わってしまう。
 続きは次週に放送されたが、藤波からの思わぬ延髄斬りを浴びた長州を木村が首固めで3カウントを奪い大逆転勝利、普段長州にフォールされることが多かった木村だったが、館内は健悟コール一色となり、木村も長州からフォールを奪ったことで感涙していた、一方の長州は木村に怒るどころか「木村もニューリーダーの一人だから・・・」と潔く敗戦を認め、このときもクラスメイトも「木村ごときに長州が負けるなんて」「まぐれだ!」と驚くしかなかった。


 木村の番狂わせというハプニングからリーグ戦はスタートしたものの、ハプニングはこれだけでは終わらなかった。前田による顔面蹴撃事件が起き、前田のキックを顔面に浴びた長州は負傷欠場、前田も謹慎処分となってしまう。


 斎藤のパートナーには藤原が起用されリーグ戦は継続、(マシンは代役不在のまま不戦敗扱いに)、リーグ戦は猪木組がトップ、2位に藤波組、斎藤組が同点で全公式戦は終了し、最終戦である12月7日の大阪大会を迎える。藤波組は決勝戦進出決定戦で斎藤組と対戦、藤波が足の生爪をはがすというハンディを背負いつつも木村が懸命に粘り、最後は藤波が藤原を首固め勝利を収め優勝決定戦に進出、メインも藤波も木村も満身創痍の状態だったが、藤波がマードックを首固めで3カウントを奪い大逆転優勝を果たした。 

ハルク・ホーガンがWWF王者となった1984年…日米マットの激動はここから始まった

 1984年1月、ハルク・ホーガンがアイアン・シークを破りWWFヘビー級王者となった。このときは日本で活躍したホーガンも頂点にまで昇りつめたのかと喜んでいたが、王者交代の経緯も前々王者だったボブ・バックランドがアイアン・シークの腕固めを極められた際にセコンドがタオルを投入して敗れ王座から転落するという謀略めいたもので、すぐシークがホーガンの挑戦を受けて王座を明け渡すというものだった。


 1984年2月の新日本プロレス「新春黄金シリーズ」には王者として参戦、前年度まで日本人側の助っ人として参戦していたが、「第4回MSGタッグリーグ戦」の優勝を契機にアントニオ猪木とのタッグも解消し外国人側として参戦したが、前年度のIWGPではアックスボンバーで猪木をKOしたのを契機に下り坂だった猪木と昇り調子のホーガンの関係は逆転しつつあった。


 ホーガンがシリーズを終えて帰国すると、すぐさまWWFによる全米侵攻が開始され、NWAの総本山だったセントルイスに侵攻した。この頃のNWAは体力のあるテリトリーとないテリトリーとの格差が広がりつつあったことでテリトリー制が崩壊しつつあった。総本山だったセントルイスも大物プロモーターだったサム・マソニックが引退してからはハーリー・レイス、ボブ・ガイゲル、AWAのバーン・ガニアの合議制で運営されていたが足並みが揃わず客足が落ち始めたところでWWFに狙い撃ちにされた。


 WWFの全米侵攻は新日本プロレスへも大きく影響を与えた、WWFはこの頃にはビンス・マクマホン・シニアからジュニア=現在のビンス・マクマホンに代替わりしていたが、ビンスは格安で選手をブッキングしていた新日本の関係も見直し始め、新日本側もWWFとの窓口だった新間寿氏が前年度のクーデター事件で失脚し、新間氏がシニアを動かし、ブッキング契約が切れる新日本から新団体UWFへ提携先を変えさせようとして暗躍していた。


 新日本はWWFと新たな契約を結んで提携関係を維持したが、今思えばビンスがUWFというカードをチラつかせて新日本に不利な契約を結ばせたという見方も出来る。


 しかし激動の1984年は新日本がUWFの旗揚げ、長州力ら維新軍団の離脱=ジャパンプロレスの設立という形で続き、WWFはNWA&AWAをますます弱体化させてアメリカプロレスシーンを一新させ、ホーガンもアメリカを代表する大スターへと伸し上がっていった。

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