伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

nWo JAPAN、平成維震軍さえも飲み込んだTEAM-2000はこうして誕生した!

 2月16日、後楽園ホール大会で開催されたマスターズ・オブ・レスリングで蝶野正洋率いるTEAM2000(以下T-2000)が一夜限りの復活を果たし、当初は小島聡が参戦予定だったが左膝前十字靭帯断裂の重傷を負ったため欠場となるも、代わりにnWoスティングとして新日本に参戦していたスーパーJが参戦、コンディション不良で試合には加わらなかった蝶野も試合途中で乱入しケンカキックやシャイニングケンカキックを披露して健在ぶりを見せつけた。


 1996年7月にWWEからWCWから引き抜かれたケビン・ナッシュとスコット・ホールのジ・アウトサイダーズにハルク・ホーガンが結託してことでnWoが誕生、アメリカンプロレスの絶対的ベビーフェースだったホーガンのヒールターンは大きなインパクトを与え、nWoはたちまちWCW内でも席巻し、一大ムーブメントと化した。12月に蝶野がWCW遠征をした際にnWoに加盟、蝶野が率いていた狼群団はnWo JAPANとユニット名を改め、WCWからは既にnWo入りを果たしていたスコット・ノートン、バフ・バグウェルが送り込まれ、更にグレート・ムタ(後に武藤敬司としてnWoに再合流)も合流したことで、日本でも一大ムーブメントと化した。


 1998年8月8日の大阪ドーム大会で蝶野は藤波辰爾を破ってIWGPヘビー級王座を奪取、蝶野の念願だったIWGPヘビー級王座を獲得することで、nWoが新日本を制圧したかに見えたが、この藤波戦で蝶野が首を負傷してしまい、初防衛戦も出来ないまま王座を返上、蝶野の初防衛戦の相手だったノートンと凱旋帰国したばかりの永田裕志の間で王座決定戦が行われ、ノートンが王座を奪取するも、nWoは武藤がリーダーとなり、武藤の独断で小島をnWo入りさせたことで、欠場中の蝶野と亀裂が生じるようになる。


 1999年1月4日の東京ドーム大会では武藤がノートンを破りIWGPヘビー級王座を奪取、天山と小島も天コジタッグを結成して天龍源一郎&越中詩郎組を破りIWGPタッグ王座を奪取、武藤の独断には天山もヒロも不信感を抱いていたが、武藤を中心として改めて団結する。欠場中の蝶野も放送席でゲスト解説に招かれていたが試合内容は称えつつも、事実上nWo JAPANを乗っ取った武藤に不快感を示した。


 孤立した蝶野はnWo JAPANから離脱して独自行動を取り、札幌中島体育センター2連戦の初日である2月5日から復帰も、カードは武藤&ヒロvs蝶野のハンディキャップマッチで、開始早々から蝶野はヒロ相手にケンカキックを連発するが、さすがの蝶野も1人で2人を相手にするのは無理があったのか、武藤組の連係に捕まってしまう。そして武藤はドラゴンスクリューからの足四の字固めで蝶野を仕留めにかかると、突如AKIRAが乱入して武藤にムササビプレスを投下してカットに入る。当時のAKIRAは平成維震軍に属していたが網膜剥離で欠場し、俳優業を開始して「仮面ライダー・クウガ」にも出演、レスラーとしてはほとんどセミリタイアの状況だったが、蝶野の誘いを受けてレスラー復帰に復帰することを決意していた。


 AKIRAの乱入で武藤のセコンドに着いていたnWoスティング、マイケル・ウォールストリートらも困惑する中で、蝶野は場外戦で武藤を流血に追い込み、AKIRAと二人掛りで武藤を痛めつけ、蝶野のケンカキックからAKIRAが再度ムササビプレスを投下、大ダメージを負った武藤はnWoスティングとマイケルに連れられてバックステージへと下がってしまい、リング内では孤立したヒロが孤軍奮闘も、蝶野のSTFに捕まったところで武藤が戻りnWo JAPANは猛反撃する。蝶野は武藤に急所打ちを浴びせてからフライングショルダーアタックを命中させカバーに入るも、この時点でレフェリーがやっと試合終了のゴングを鳴らして無効試合となり、試合後も武藤を徹底的に痛めつけてバックステージへと引き揚げていく。
 6日の札幌2連戦2日目では蝶野vs武藤&小島のハンディキャップマッチの予定が、蝶野にAKIRAが加わったことでタッグマッチに変更、先に入場していた武藤は後入場の蝶野を襲撃して試合開始も、蝶野が返り討ちにして再び流血に追い込む。終盤にはAKIRAとの連係で武藤を追い詰めた蝶野はケンカキックからバタフライロックで捕獲し武藤はギブアップ、蝶野は復活を果たす。蝶野はこの後で新ユニットTEAM2000を結成、後にドン・フライやnWoスティングも合流してリングネームをスーパーJと改め、武藤率いるnWo JAPANと抗争を繰り広げていったが、前年度ではWCWでもnWoがウルフバック派、ハリウッド派と分裂していたことから、日本でも同じ光景が繰り広げられていたのだ。


 TEAM2000結成の裏では平成維震軍が解散を表明した。維震軍は参謀役だったザ・グレート・カブキが契約切れで新日本を離脱したのを契機に存在意義が薄くなり始め、nWo人気の前に軍団抗争から置き去りにされていた。越中と木村は藤波や天龍源一郎と共闘することで存在意義をアピールするが、AKIRAが蝶野と結託、齋藤彰俊も新日本とは契約を更新せず、小林邦昭も病気欠場していたことで、戦力が薄くなっていた。越中と木村は本隊へと戻り、後藤と小原は独自行動を取りつつ、後にTEAM2000に合流することになる。


 2000年1月4日の東京ドーム大会では武藤vs蝶野の頂上決戦が行われ、蝶野が勝ったことでnWo JAPANは消滅し、天山や小島、ヒロ、ノートンの残党はT-2000に合流、武藤はグレート・ムタとしてWCWに参戦するために一人渡米したが、もうこの頃にはWCWでもnWoそのものが消滅していた。
(参考資料 新日本プロレスワールド)

長州が大ギレした「2・12事変」という長い一日

 1995年1月4日、海外武者修行に出ていた山本広吉こと天山広吉が凱旋した。ドイツCWAでジュニアヘビー級王者となるなど実績を積んだ天山はカナダへと飛び、当時外国人ブッカーとなっていたジョー大剛氏の下で肉体改造に励み、一回り大きくなった姿を見せた天山は凱旋マッチとなった中西学戦では圧倒的な強さを見せ、最後は初披露となったマウンテンボムで3カウントを奪い、ファンに大きなインパクトを与えた。成長した天山を見た長州は「天山をトップに押し上げる」と天山をプッシュすることを断言、2月4日に行われた札幌中島体育センター大会では天山をIWGPヘビー級王者だった橋本真也の挑戦者に大抜擢したが、天山の周囲では争奪戦も始まっていた。当時の新日本は本隊と越中詩郎率いる平成維震軍が抗争を繰り広げていたが、前年度のG1 CLIMAXでヒール転向を果たしていた蝶野正洋がヒロ斎藤、サブゥーと共に新軍団結成に動いており、特に前年から自主興行も開催していた維震軍は青柳政司が新日本から離脱したことを受けて新戦力を求めていたことから、シリーズ中には天山をワゴン車に拉致して維震軍入りを迫るなど積極的に天山獲得に動き、本隊も佐々木健介とのタッグで売り出そうとプランを練っていたが、実はドイツ遠征の時点で同地を訪れていた蝶野からも勧誘を受けており、本隊か維震軍か、それとも蝶野との共闘か、天山の今後の方向性に注目していた。


 IWGPヘビー級選手権は、橋本がレッグロックからの足攻めで先手を奪い、天山の繰り出す逆水平に対して、袈裟斬りチョップやミドルキックで応戦、だが天山もモンゴリアンチョップで応戦するなど、かつて付き人を務めた橋本に対し一歩も引かない姿勢を見せる。橋本はミドルキックで攻勢に出ると、ジャンピングエルボードロップ、コーナーからのダイビングエルボードロップと攻勢に出ると、DDTで勝負に出るが、ニールキック狙いをマウンテンボムで迎撃した天山はテリー・ゴーディ式パワーボムからダイビングヘッドバット、天山プレスで猛反撃したが、再度のマウンテンボム狙いを潰した橋本は腹固めで捕獲して絞めあげると、ニールキックからハイキック、垂直落下式DDTで3カウントを奪い勝利も、前日の大会ではオリジナルTTD、橋本戦では天山プレスも披露したことで大きなインパクトを与え、評価もまた上がった一戦となるも、この時点では今後の方向性に関しては明確な答えを出さず、しばらくして「2月12日後楽園大会で答えを出す」とコメントするだけで、2月12日を迎えた。


 2月12日後楽園ホール大会、この日は昼間は維震軍、夜は本隊と新日本が昼夜興行を開催していた。第1試合の小原道由vs高木功(嵐)が終わると、越中が現れ「「天山いるなら出て来てくれ!俺達と一緒にやっていこう!どうだ!天山!」と天山を呼び出してリングに上がった天山に「俺達と一緒にやろう」を手を差し伸べる。ところが天山の出した返答はモンゴリアンチョップで拒否、これに怒った小原が天山とのシングル戦をアピールし、セミファイナルで小原vs天山が組まれたが、勢いに乗る天山の前に先輩である小原もなす術はなく変形サイドバスターで圧勝する。


 メインイベントでは越中は後藤達俊、ザ・グレート・カブキと組んで昭和維新軍の長州力、マサ斎藤、谷津嘉章となるが、長州が寝坊で会場入りしていないハプニングが発生し、長州の代役として平田淳嗣が登場、長州の欠場に関して事前にアナウンスもなかったことで館内も野次が飛び交う。試合は平成維震軍が勝利を収めたものの、試合後に天山を蝶野と共に乱入し両軍を襲撃、この時点で蝶野との共闘が明確とのなり、バックステージでは夜の本隊興行に参戦するためにやっと会場入りした長州に越中が襲撃をかけるが、天山にはフラれ、長州は自身のミスで来場しないなど、越中にとっては踏んだり蹴ったりとなった。


 そして天山が蝶野との共闘を選んだことで、本隊のカードが変更され、長州は橋本、平田と組んで蝶野、天山、ヒロ組と対戦。試合も本隊を裏切った天山を制裁するために長州組は徹底的に狙い撃ちにして、長州もリキラリアットを3連発して追い詰めるが、蝶野がケンカキックでカットに入ると、蝶野の激を受けた天山が猛反撃しモンゴリアンチョップや頭突きを乱打、最後はヒロとのハイジャックパイルドライバーからダイブビングヘッドバットで長州から3カウントを奪ってしまう。
 試合後にまさかの敗戦に怒った橋本と平田は天山を客席へ連行して暴行を加え、リング内では蝶野とヒロがダウンしている長州に暴行を加えて蝶野がケンカキックでダメ押しする。そしてリングサイドに戻った橋本と平田はイスで天山、長州もイスを持ち出して蝶野に暴行を加えるが、サブゥーが駆けつけて蝶野らを救出する。そしてコーナー下にテーブルをセットして橋本を寝かせると天山がテーブル貫通ダイビングセントーンで橋本をKOする、平田がイスを振り回し、馳浩も駆けつけ蝶野らは去っていくが、怒りの収まらない長州はミスター高橋レフェリーを蹴り、バックステージでもカットに入れなかった橋本や平田にイスを投げつけて大荒れとなり、長州から指示を受けた橋本と平田は蝶野側の控室に殴りこんで乱闘となるなど、リングだけでなくバックステージでも大荒れのままで、2月12日という長い一日が終わった。


 この結果、蝶野は天山、ヒロ、サブゥーと共に新軍団「狼軍団」を結成し、維震軍を凌ぐ1大勢力となっていったが、長州力が「プロレスは常にインパクトだよ」と答えていた通りに、凱旋帰国した天山は大きなインパクトを与え、更に劇薬を投入することで一気にトップの一角に食い込んだ。1995年2月12日はまさしく天山にとってはターニングポイントなった日でもあり、主役を奪い取った日でもあった。

(参考資料、新日本プロレスワールド、1995年1月4日の天山vs中西、2月4日の橋本vs天山、2月12日の蝶野&天山&ヒロvs長州&橋本&平田は新日本プロレスワールドにて視聴できます)

ジャンボ鶴田がAWA世界ヘビー級王座を奪取…鶴田をプロデュースした男・佐藤昭雄

 1984年2月23日、全日本プロレス蔵前国技館大会にてNWAインターナショナルヘビー級王者のジャンボ鶴田がAWA世界ヘビー級王者であるニック・ボックウインクルとダブルタイトルマッチが行われた。


 1981年、経営危機に瀕した全日本プロレスに日本テレビが経営に介入し、日テレから松根光雄氏が社長として派遣され、社長だったジャイアント馬場はプロモーター兼任で会長に棚上げされた。社長となった松根氏は全日本再建の策として世代交代を図り、鶴田をエース兼現場責任者とした新体制に着手、最終的には馬場を引退させて、全日本の全権を鶴田に移譲させようとしていた。しかし政治面に関わることを嫌い、デビュー時には松根氏からも世話になり、師匠である馬場にも恩義を感じていた鶴田は思い悩み、一時は全日本を退団して引退することを考えるまでに追い詰められた。そこでデビュー時に話し相手にもなり、馬場の付き人だった佐藤昭雄に相談すると、アメリカ遠征からブッカー業に興味を持っていた佐藤がブッカーとは何たるかを説明したことから鶴田は松根氏に佐藤をブッカーに推薦し、佐藤は全日本のブッカーに就任して、経営危機に瀕した全日本を建て直すことになった。


 馬場の重要性をわかっていた佐藤は松根氏にはあくまで全日本には馬場が必要と説き、また親会社である日テレも"馬場あっての全日本"と考えていたこともあって、馬場の引退は回避されたものの、佐藤は馬場を立てつつも松根氏の意向を汲んで、外国人中心路線から日本人vs外国人路線へと転換、馬場を少しずつ退かせて鶴田と天龍源一郎による鶴龍時代への土台作り、ジュニアヘビー級の確立、中堅の底上げと若手の育成に着手。特に鶴田にはあまりにも若者過ぎる、試合が軽すぎるとして赤と青のツートンカラーのタイツから、重みを与える黒に変え、絶対性のある必殺技が必要としてルー・テーズからバックドロップ伝授させるなど、鶴田をエースとしてプロデュースし始めた。また馬場も鶴田にトップとしての自覚を持たせるために大木金太郎から譲り受けたインターナショナルヘビー級王座を狙わせ、ドリー・ファンク・ジュニアを破って王者となったブルーザー・ブロディとインター王座を巡る抗争を展開させ、1983年8月31日蔵前大会で鶴田がブロディをリングアウトながらも破り、念願だったインターヘビー級王座を奪取、馬場からも「よくやった、今日からお前がエースだ」をお墨付きをもらい、この大会をもって全日本を支えてきたザ・ファンクスがテリー・ファンクの引退をもって一歩退くことになったため、鶴龍時代へと突入した。


 鶴田をプロデュースしてきた佐藤の集大成が、馬場がNWA世界ヘビー級王者、新日本プロレスのアントニオ猪木がWWFヘビー級王者になったように、鶴田にも世界のベルトを巻かせることだった。鶴田はこれまでNWA、AWA両王座とも何度も挑戦したが、まだまだ『善戦マン』の域を達しておらず、あと一歩のところでベルトを奪取できなかった。特にAWA王者のニックには4度挑戦したが、3度反則裁定で逃げられていた。最初はAWAのボスであるバーン・ガニアは馬場を挑戦者に指名したが、松根氏は鶴田の挑戦をプッシュ、佐藤も同じ意見だったが、問題は馬場を説得できるかだった、馬場は表向きは鶴田をエースとしてお墨付きを与えていたが、まだ内心は認めていなかった。佐藤は馬場と二人きりで話し合い「ここはジャンボで行くべきじゃないですか?」と提案すると、馬場は「その話は最初に自分に来た話だ」と考え、ムッとしてヘソを曲げそうになった。だがしばらく考え「そうかあ・・・」と納得したことで、鶴田の挑戦にGOサインが出された。佐藤はもし馬場が承諾しなかったら辞表を出すつもりだったという。鶴田のAWA王座挑戦が発表されると、日本テレビも特番枠である「土曜トップスペシャル」で録画ながらもゴールデンタイムでの放送されることになり、インター王座もかけられることになったことで試合ルールも場外カウント20の特別ルールながらも反則やリングアウトでも移動するPWFルールが採用され、特別レフェリーには引退したテリー・ファンク、サブレフェリーにはジョー樋口が裁くことが決定するなど、日テレだけでなく全日本全体も鶴田のAWA王座奪取に後押しし、また佐藤も鶴田に対して「これが最後のチャンスだと思って、リングの中で結果を出すと言った方がいいよ」とマスコミ向けにコメントを出すようにアドバイスすると、鶴田も「今回は引退をかけるぐらいな気持ちでニックと決着をつける」と言い切り、決戦へ向けて大きくに盛り上げた。


 同じ日にUNヘビー級王座を奪取した天龍と、かつてのプロレス実況を担当していた徳光和夫氏から試合直前のインタビューで激励を受けた鶴田が「J」で入場、誰もが王座を奪取すると期待しており、TVで視聴していた自分も逃げ場のないルールなら鶴田はニックに勝って王座を奪取できると思っていた。だが試合が始まるとスロースターターのニックが試合開始のゴングと同時にクロスボディーを浴びせて奇襲をかけて機先を制し、完全にペースを狂わされた鶴田をハンマーロックでやキーロックで捕らえて腕攻めを展開し、鶴田にリードを奪わせないなどするなどニックペースで試合が進んでいく、自分はこれまでニックは逃げの王者として評価していなかったが、キラーの片鱗を見せたことでニックを再評価せざる得なかった。
 主導権を握れなかった鶴田は延髄斬りからジャンピングニーパットで活路を見出すも、ニックは巧みに間を取って、鶴田に深追いをさせず再度ハンマーロックで捕らえるが、鶴田はパイルドラバーを連発してからフライングボディーシザースドロップを決め、フィンガーロックからの力比べで押し切りかかる。
 ニックはヘッドロックから鶴田を巧みに場外へ誘い出すとエルボーやパンチを浴びせ、先にリングに戻ったニックはニードロップを投下、ハイアングルのボディースラム、ブレーンバスター狙いは鶴田が首固めで切り返すと、ショルダータックル狙いは相打ちとなって両者はダウンとなるも、起き上がった鶴田はコブラツイストで捕獲、グイグイ絞めあげにかかる。
 ニックはエルボーから鶴田をコーナーに何度も叩きつけるが、ボディースラム狙いは鶴田が浴び倒してからナックルを浴びせ、コーナーに2度叩きつけてからストンピングを何度も落として、串刺し攻撃を狙うが、ニーで迎撃したニックは再びハンマーロックで捕獲、だがヘッドロックで捕獲したところで鶴田も河津掛けで脱出する。
 ところがニックは鶴田のボディーへの頭突きからボディーブローの連打と反撃して串刺し攻撃を狙うと、かわした鶴田は再びストンピングを何度も落としてからダブルアームスープレックス、サイドスープレックスと攻勢をかけ、逆エビ固めで捕獲してニックを追い詰める。
 ニックの腰に照準を定めた鶴田はストンピングを落として、シュミット流バックブリーカーからドロップキックを狙うが、かわしたニックはパイルドライバーで突き刺し、何度もカバーして鶴田のスタミナを奪うも、鶴田を突き飛ばしたところでレフェリーのテリーと交錯してしまい、テリーが場外でドタバタしている間に、リングに戻った鶴田に攻勢をかけ、再度場外に追いやってからロープ越しのブレーンバスターを狙うと、背後に着地した鶴田がバックドロップホールドを決め3カウントを奪い、念願だったAWA世界ヘビー級王座を奪取、「世界の鶴田」へと昇りつめていった。


 しかし内容的に鶴田は苦戦を強いられていたのも事実で、王座を奪取するよりも防衛するほうが難しいことを後で思い知らされることになる。26日大阪府立体育会館で行われた再戦では、またしてもキラーとなったニックに苦しめられ、両者リングアウトで逃げ切るのがやっとだった。そして馬場がNWA王者になっても成し得なかった世界ベルトを持ったままアメリカマットをサーキットを行い、このときも佐藤が帯同していったが、ブラック・ジャック・ランザやビル・ロビンソン相手に防衛するも、日米を股にかけて防衛戦を行ったことで、さすがの鶴田も疲れが見え始め、次第に反則裁定で逃げることが多くなっていた。そして5月13日ミネソタ州セントポールでリック・マーテルの挑戦を受けるが、鶴田が背後からドロップキックを放った際にマーテルを特別レフェリーであるレオ・ノメリーニと交錯させてしまい、それでもバックドロップホールドを決めるが、ノメリーニレフェリーのカウントが遅れて決め手にならず、フライングボディーシザースドロップを決めた際にノドをロープに直撃させてしまうと、マーテルがフライングボディーアタックを決めて3カウントを奪い王座を奪取、鶴田の天下は3ヶ月で終わった。



 鶴田はその後、9月に元日本航空のスチュワーデスであった、荒牧保子と結婚。また2年連続でプロレス大賞のMVPに選ばれるなど、名実共に日本を代表するトップレスラーとなった。一方佐藤昭雄は全日本の再建のメドが立ち、鶴龍路線も定まったことを見据えた上でブッカーを辞任し、本来の主戦場でるアメリカへと戻っていった。
<参考資料 GスピリッツVol.42>

秋山準と永田裕志、数々の弊害を乗り越えて生まれた戦友関係

 全日本プロレス2月3日横浜文化体育館大会で野村直矢&青柳優馬組の保持するするアジアタッグ王座に秋山準と新日本プロレスの永田裕志が挑む予定だったが、青柳が負傷欠場で王座は返上され、崔&野村vs秋山&永田との王座決定戦に変更された。


 二人は92年にデビューした同期だったが、全日本でデビューした秋山はでいきなりデビュー戦で小橋健太と対戦するなどエリートとして扱われたのに対し、新日本でデビューした永田はヤングライオンの一人として下積みからスタートするなど好対照だった。その二人が始めて交わったのは2001年3月2日に両国国技館で開催されたZERO-ONE旗揚げ戦で秋山は三沢光晴、永田は橋本真也と組んで試合に臨み、先発で出た秋山と永田は、永田のキックを正面から受けた秋山はエルボー合戦からフォアアームを浴びせ、秋山は控える橋本を挑発すると、永田は「相手はオレだ!」といわんばかりに背後を奪ってジャーマンで投げるなど火花を散らす攻防を展開、試合は三沢が橋本を投げ放しジャーマンで降したが、試合後に武藤敬司だけでなく藤田和之、小川直也までも現れ、三沢が小川にエルボーを放って大混乱となるも、永田とのファーストコンタクトを終えた秋山が「永田さんはやっぱりいい!組んでみたい。オレが新日本に行く」と意気投合して新日本参戦を表明し、永田からの報告を受けた現場監督の長州力も秋山の参戦を大歓迎する意向を見せるも、肝心の三沢が「アイツの自由。ただ、向こう(新日)の状況が納得できなければ、出せない」と秋山の出場には前向きな姿勢を見せつつも慎重な態度を取り、5月13日のディファ大会でも秋山は「いつ腰が、駄目になるか分からない。できるときにやりたいことをやる」と訴えたが、三沢は「個人的には分かる。意志を尊重したい気持ちもあるけど、会社としては難しいだろうね」と慎重な姿勢を崩さなかった。三沢はNOAHを地上波で独占放送していた日テレへの配慮もあったが、新日本が本当にNOAHを必要としているのかわからないままだけでなく、後で語るもう一つの理由でもあって、秋山を簡単に送り出すことは出来なかったのだ。


 それでも秋山は新日本参戦を三沢に再度訴え、三沢も折れて「(実現に向けて)動くことは動く」と返答し、永田も「ノーテレビならやれるよな。お互いの興行を行き来してもいい」と構えを見せ、新日本の社長だった藤波辰爾も「馬場さんと猪木さん、オレとジャンボ鶴田と同じことはさせない。時代は進歩している(テレビ問題については)絶対に解決法はある」と馬場、猪木という大きな壁に阻まれたことで鶴田との対戦が実現できなかった悔しさを後輩達にはさせたくないという思いもあり、秋山の新日本参戦に前向きな姿勢を見せ、藤波がテレビ朝日側と話し合い承諾を得たことで、三沢も重い腰を上げて日本テレビ側と話し合い、5月28日に三沢と藤波が会談、新日本の受け入れを確認したうえで秋山の新日本参戦にGOサインが出された。


 まず秋山が行動を起こし「永田裕志選手を通して、かねてから興味を持っていた新日本プロレスを自分自身の目で確かめるために、まずは6月6日(水) 日本武道館大会へ足を運びたいと思っています。」と来場を予告、秋山は金丸義信を伴って新日本武道館大会に来場、業界の先輩で新日本のオーナーであるアントニオ猪木、会長である坂口征二に挨拶すると、大会前に永田と会談すると、最前列でIWGPヘビー級選手権試合である藤田vs永田を含めて第1試合から観戦、永田の入場の際には秋山が永田と握手をかわし、大会終了後には「次に来る時はしっかりタイツはいてきます。永田選手と俺だったら、俺の方が早く試合をしたいだろうし」と発言すれば、 7月27日NOAH武道館大会には今度は永田が来場して三沢ら関係者に挨拶した後で、三沢vs秋山のGHCヘビー級選手権試合を視察、秋山が入場する際に永田と握手をかわし、秋山は三沢を垂直落下式のエクスプロイダーからリストクラッチ式エクスプロイダーで3カウントを奪い、永田の眼前でGHCヘビー級王座を奪取、試合後に永田も「凄いの一言。ホレ直した。時代を開こうという刺激を受けた」と試合も三沢の雪崩式タイガードライバーを喰らいながらも、三沢越えを果たした秋山を称えつつ 「10月8日は何かが起こります」と新日10.8東京ドームの秋山参戦を示唆する発言をした。永田はこの年のG1 CLIMAXで武藤敬司をナガタロックⅡでギブアップを奪い優勝を果たし、藤田からIWGP王座を奪取できなかったが、三冠ヘビー級王者の武藤を破ったことで、秋山と対等な立場でタッグ結成へ向かうはずだった。


 秋山と永田のタッグ結成で新日本とNOAHの間に交流への扉を開いたかに見えたが、暗雲が立ち込める事態が発生する。NOAHは新日本との関係を築きつつも、新日本との関係が切れたZERO-ONEとの関係も保っていたが、ZERO-ONEが8月末から開催するシングル総当りリーグ戦「火祭り」開幕直前で、PRIDEに参戦していたマーク・ケアーのZERO⁻ONE参戦を巡って、ケアーの出場を了承していたはずの猪木が突然白紙に戻したことで猪木側とトラブルとなり、これを受けて猪木またPRIDEの息がかかっていた村上和成、石川雄規、アレクサンダー大塚などが火祭りをドタキャンしてしまった。それを受けて三沢はリーグ戦には参戦できないものの池田大輔、杉浦貴など所属選手をZERO-ONEに派遣、三沢が「現場に出てない人間の言う事に従うのは考えなきゃいけない」と名前は出さずも公然と猪木を批判し、猪木もさすがに面白くなかったのか「秋山組vs武藤組はつまらない」と発言したことで、新日本とNOAHの間で摩擦が生じ始める。元々猪木はNOAHに関しては「流行に過ぎない!」と斬って捨てていたことから良い感情を持っておらず、三沢も猪木に対して師匠である馬場の影響を受けてか「あの人」呼ばわりするなど相容れない関係だった。三沢が秋山の簡単に貸し出せないもう一つの理由は猪木の介入で、猪木の介入に新日本は対処してくれるのか、わからないままで秋山を簡単に貸し出すことは出来なかったのだ。


 そこで猪木が新日本に対してIWGPヘビー級選手権として藤田vs小川直也を10・8東京ドームのメインとして行うように要求してくる。この頃の新日本は長州が猪木によって現場監督から失脚し、それを受けて渉外担当だった永島勝司氏も発言力が低下、現場は合議制で仕切られていたが、まとまりがなかったことで猪木の介入に対応仕切れていなかった。ドーム大会はテレビ朝日が午後6時半から~8時までと1時間半に渡ってゴールデンタイムで放送されることが決定していたが、裏番組ではフジテレビがフジテレビでは7時から9時まで「K-1 WORLD GP 2001 in FUKUOKA」を生放送することになっていた。猪木は純プロレスより知名度の高い小川の起用することでK-1との視聴率を稼げるだけでなく、純プロレスの秋山組vs武藤組の試合より、格闘技色の強い藤田vs小川をメインにしたほうが面白いと対抗意識を持った上でぶつけてきたのだ。
 これに対して秋山も「やる前からつまんないって 言われたのは解せない。今の新日本ではオレの やりたい“純プロレス”が否定されてるんだろう と思うし。必要とされてないなら、行っても しょうがない」と猪木や新日本を批判し、永田も「情熱を込めて 秋山とのタッグをオレは実現する。なのに藤田と小川をやらせようとするところがうちらしい。試合(内容)で勝負する。どっちの試合が面白いかをお客さんに判断してもらう。秋山と凄いことをやってやるよ」と小川vs藤田に対して内容で勝負することを訴える。
 ところが小川vs藤田は交渉段階で小川がゴネたため決裂となり、藤田の相手はアメリカでMMA特訓をしてきた佐々木健介が据えられることになったが、これに猪木が激怒して新日本に対して小川の重要性を訴え、猪木自ら交渉に当たったが、猪木と距離を取りつつあった小川は試合はせずも来場だけに留まり、新日本の意向通り秋山&永田vs武藤&馳、藤田vs健介が決定となった。秋山と永田の相手は武藤&ケアを希望していたが、全日本がまだ馬場元子体制で、NOAHとの関係が良好ではなかったため、元子社長の息がかかっていない馳が代わりに全日本代表として武藤と組むことになった。


 メインで登場した永田&秋山vs武藤&馳は4選手がテクニックの攻防を繰り広げ、61500人の大観衆にプロレスの魅力を訴える攻防を展開、秋山もNOAH浜松大会での第1試合を終えた後でドームに駆けつけたが、移動やダブルヘッダーにも関わらず、初めて対戦する武藤、全日本以来の対戦となる馳と見事な攻防を繰り広げる。終盤には永田の延髄斬りを馳がかわすと、武藤が馳を踏み台にしてシャイニングウィザードを炸裂させると、秋山が武藤に対して掟破りのシャイニングウィザードを敢行、だが馳も秋山を裏投げで投げ4選手がダウン、館内は大興奮となる。そして秋山が武藤をフロントネックロックで捕らえている間に、永田は馳をバックドロップからバックドロップホールドで3カウントを奪い、ドームの大観衆を大熱狂させた。試合後には今度は永田がNOAHへ出場すると秋山に約束し、武藤自身も秋山を通じてNOAHに興味を持ち、三沢との対戦を視野に入れ始め、藤波も「永田&秋山をドームのメインに持ってきたのは大正解だった」と誇らしげにコメントした。だが猪木は自身の意向が通らなかったとしてドームには来場せず、K-1福岡大会に来場したことで秋山組vs武藤組の試合を見ることはなかったが、秋山も永田もこの時ばかりは猪木も関係なかった。


 二人の一騎打ちは2002年1月4日東京ドームで秋山の保持するGHCヘビー級王座をかけての対戦することになった。当初は永田が藤田の保持するIWGPヘビー級王座に挑戦する予定だったが、藤田が「INOKI-BOM-BA-YE2001」でのジェロム・レ・バンナ戦へ向けてトレーニングしている際にアキレス腱を断裂したため欠場となり、ドームのメインが白紙になったことで困った新日本側が急場凌ぎでNOAH側に打診して実現したものだったが、さすがの猪木も他団体のベルトをドームのメインにするのは何事かと横槍が入り、藤波も猪木に配慮してか「IWGPヘビー級王座決定トーナメントの1回戦も平行して行い、秋山vs永田のGHCヘビー級選手権もトーナメントの1回戦として行う」と発表すると、秋山が「IWGPトーナメントの件は聞いてない。新日本がガチャガチャするなら、(永田戦は)辞退する」と激怒する。だが秋山がボイコットした場合は三沢自身が代わりに出ることを示唆すると、秋山も「三沢さんの顔を潰すことになる」と一転してドーム出場を決断、藤波も秋山の激怒を受けて秋山vs永田戦はIWGPヘビー級王座決定トーナメントは行われず、GHCヘビー級選手権がメインになることが正式に決定した。大会当日の猪木は車椅子で登場した藤田からIWGPベルトを受け取ったが、秋山vs永田だけは見ずに会場を後にし。秋山がリストクラッチ式エクスプロイダーで王座を防衛も、永田も「INOKI-BOM-BA-YE2001」でミルコ・クロコップと対戦し秒殺KO負けしたことでファンの批判を背負ったまま試合に臨んだが、永田自身はミルコ戦や秋山戦を乗り切ったことで涙を流した。


 秋山と永田は2・17NOAH武道館大会でもタッグを組み、膝の手術のため長期欠場していた小橋建太の復帰戦の相手を務め、その後も対戦や互いの20周年記念大会でタッグを組んだ。永田は一選手として新日本一筋で通したが、秋山はNOAHから全日本に戻り団体を仕切る立場となり、好対照となるも、二人の交流は続いたが、二人の関係は様々な弊害を乗り越えた上で築かれた関係であり戦友でもあった。全日本2・3横浜文体大会では二人が久しぶりにタッグを組んでアジアタッグ王座に挑戦するが、自分はこの試合が二人の集大成的な試合になるような気がしてならない。野村だけでなく全日本のファンに秋山と永田が自分らのこれまでをどう伝えていくのか注目したい。

二つのWWF王座を掘り起こしたレスラー・藤波辰己

 

1978年1月23日、WWWF(WWE)の殿堂だったニューヨークMSGのリングでWWWFジュニアヘビー級王座を奪取した一人の日本人レスラーがいた。その名は藤波辰己


 昭和50年6月、新日本プロレスで開催された若手の登竜門「第1回カール・ゴッチ杯」に優勝した藤波は木戸修と共に西ドイツへ海外武者修行に旅立ち、半年間ファイトした後でアメリカへ転戦、フロリダに住むカール・ゴッチの下で指導を受けた。しばらくすると新日本プロレスからの指示で木戸が一足先に帰国、一人残った藤波はゴッチの指導を受けつつ、NWAのミッドアトランティック地区、メキシコUWAで試合をこなし、レスラーとして成長した。


 77年12月、当時の営業部長で猪木の片腕だった新間寿氏から帰国命令が下されるが、海外で食べていける自信をつけた藤波は帰国命令を拒否、それでも諦めない新間氏は藤波と話し合い、藤波は「帰国するなら、何か考えてください」という条件をつけた。そこで新間氏は当時のWWWF(WWE)のボスだったビンス・マクマホン・シニアにWWFジュニアヘビー級王座を復活させて欲しいと依頼する。


 WWWFジュニアヘビー級王座は藤波用に作られた王座ではなく実在した王座で、1965年に誕生しジョニー・ディファジオが王者となったが、1972年に封印されていた。そのベルトに目をつけた新間氏はトニー・ガレアを降し王者となったカルロス・ホセ・エストラーダに藤波を挑戦させ、1978年1月23日、WWWFの本拠地でプロレス界の殿堂とされたニューヨークMSGのリングで藤波はこの試合で初披露となったドラゴンスープレックスホールドで3カウントを奪い王座を奪取、この試合は「ワールドプロレスリング」でも放送され、藤波は瞬く間にスターダムへとのし上がった。WWFジュニア王座は実況担当だった古館伊一郎氏によって「ディファジオ・メモリアル」と呼ばれたが、新間氏と藤波が掘り当てた王座だった


 藤波は王座奪取後もアメリカで防衛戦を行い、凱旋帰国後も新間氏は「藤波は国際的な王者でもある」とイメージづかせるために、シリーズの合間にも藤波をアメリカ、メキシコへ送り防衛戦を行わせ、日本で一旦剛竜馬に王座を明け渡すも、2日後に奪還した藤波はヘビー級へ転向するまで海外を股にかけて防衛戦を行った。
   
 藤波のMSGでの戴冠はジュニアだけではなかった、1981年にヘビー級へ転向した藤波は1982年8月、同じMSGのリングでジノ・ブリットを破りWWFインターナショナルヘビー級王座を奪取、インターナショナル王座も実在する王座で、1959年に誕生しアントニオ・ロッカがバディ・ロジャースを破り初代王者となり、これも古館氏によって「藤波が掘り当てた『ロッカ・メモリアル』」と称された。


 なぜ新間氏がインター王座を掘り起こそうとしたのか不明だが、当時全日本プロレスに力道山伝統のNWAインターナショナルヘビー級王座があり、ジャンボ鶴田に巻かせようとしていたことから、新日本も全日本に対抗するためにWWFインターを掘り起こして、鶴田より先に巻かせたかったのかもしれない。


 WWFインター王座は藤波vs長州の名勝負数え歌に使われ、藤波も長州以外にマスクド・スーパースター、エル・カネック、ボブ・オートン・ジュニア、アドリアン・アドニス相手に防衛戦を行ったが、そのベルトの権威が問われる事態が起きた。1984年3月25日MSGにて突如「WWFインターナショナル・ヘビー級王座決定戦」を行なわれ、新日本から姿を消していた前田日明がピエール・ラファエルをコブラツイストで降し新王者になり、新団体「UWF」への参戦を表明した。この王座決定戦を仕掛けたのは新間氏で、前年度に起きたクーデター事件で全責任を問われて新日本を去っていたが、水面下で新団体設立へと動いており WWF会長の地位に就いていたことからマクマホン一家との関係も続いていた。ベルトには「UWF」の名前が施されていたことから、WWFのベルトではなくUWF用に作られたベルトであったことは明白だった。


 WWF会長の座を利用して、もう一つのWWFインターベルトを作った新間氏に坂口征二副社長は「冗談じゃない。この王座は新日本プロレスに管理運営権があるんだ」と主張、前田の兄弟子格だった藤原喜明が前田への刺客として挑戦を表明、社長だった猪木も了承を得て藤原がUWFに参戦し前田と対戦したがWWFインター王座はかけられなかった。この頃のWWFは病床のビンス・シニアからビンス・マクマホンに代替わりしており、ビンスも代替わりを契機に新日本との関係を見直してWWF有利のブッキング契約を結ぶように新日本に迫っていた。これは自分の見方でもあるが、新日本が断ればUWFと提携すると迫り、新間氏やWWFインター王座の存在も交渉材料として利用していたのではないだろうか? 新日本プロレスはWWF有利と新しいブッキング契約を締結、UWFにはWWFインター王座を持ち込めないどころか、WWFからも選手が派遣されることはなく、その後前田と対立した新間氏はUWFを去ったことでUWF版WWFインター王座は消滅となったが、WWFとしても新日本と新しい契約を締結した時点で、UWFやUWF版WWFインター王座も利用価値がなくなって用済みとされてしまったのかもしれない。


 新日本とビンス体制となったWWFとの関係も長くは続かず、翌年の1985年7月にスーパー・ストロング・マシンとの防衛戦で両者反則に終わった藤波は裁定に不服として王座を返上も、10月をもってWWFとの提携が解消されたことで、藤波は2度と王座を巻くことはなく、インター王座とジュニア王座は封印となった。2015年に藤波がWWE殿堂入りを果たしたが、WWFジュニアやインター王座を功績ではなく、NWA世界ヘビー級王座を奪取した功績を称えられての殿堂入りだった。しかし藤波がWWFジュニア王座を持ち帰ったことで日本マットにジュニアヘビー級という概念が生まれ、インター王座を持ち帰ったことで長州が王座になることが出来た。この日本マットにおける功績はこれからもずっと変わらない。

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