伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

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津市体育館で起きたもう一つのミステリー 長州力失踪事件



 1983年5月6日、福岡市スポーツセンターにてアントニオ猪木が念願だった「IWGP」が開幕したが、シリーズの中盤に差し掛かる16日の津市体育館で長州力がアニマル浜口と共に大会出場をボイコットし、そのまま失踪する事件が起きていた。



 1982年10月8日、メキシコから凱旋帰国した長州はタッグを組んでいた藤波辰己と仲間割れとなり、藤波に対して「噛ませ犬発言」をしたことで、中堅レスラーからスターダムに一気にのし上がり、打倒・藤波を掲げて抗争を展開するだけでなく、そしてマサ斎藤とキラー・カーンと組んで"革命軍"を結成、猪木と藤波率いる正規軍だけでなく、ラッシャー木村と浜口率いる"はぐれ国際軍団"ともユニット抗争も展開、、83年4月3日の蔵前国技館大会では長州は藤波をリキラリアットで破りWWFインターナショナルヘビー級王座を奪取、21日の蔵前での再戦では猪木を差し置いてメインに登場、藤波をリングアウトで破り王座を防衛し、猪木に代わって蔵前のメインを飾ったことで長州は念願だった打倒・藤波を果たすだけでなく、新日本の主役に躍り出たかに見えた。しかしそれは一時だけのもので、IWGPリーグ戦が開幕すると主役はリーグ戦に出場する猪木、ハルク・ホーガン、アンドレ・ザ・ジャイアントに代わってしまい、長州はアジア予選リーグ戦を突破していなかったためリーグ戦には出場することは出来ず、主役からも外された。


 また長州の周囲でも変化が置き、革命軍で組んでいたマサ斎藤も4月シリーズを終えると主戦場であるアメリカへ戻り、カーンもIWGPが終わるとアメリカに戻ることになっていたが、国際軍団を離脱した浜口が長州に合流、革命軍も再編を余儀なくされ、ライバルの藤波は長州に連敗を喫するだけでなく『新日本で必要とされなくなった』と"傷心"の海外遠征に出てしまった。テーマを見失った長州はリーグ戦にも出場しないIWGPに参戦したが、タッグマッチでホーガンに敗れ、津大会前日の後楽園大会ではタッグマッチながらも猪木に直接フォール負けを喫し試合でも覇気を失っていた。長州は「いくら新日本で頑張っても主役は猪木、しょせんオレは藤波を倒すまでのレスラーかな」と危機感を抱いていた。そこで長州はシリーズ途中でボイコットという行動に出て、浜口も当初は「シリーズ最終戦まで出よう」と長州を説得していたが、長州に逆に口説き落とされ行動を共にした。


 『長州が姿を消した』と報告を受けた猪木は、すぐ長州の投宿するホテルに電話をかけ長州本人にコンタクトをとったが、長州の口から出たのは新団体設立の話だった。実はスポンサーから「3~4億出すから」と新団体設立を持ちかけられており、長州も乗り気になっていた。さすがの猪木も動揺を隠せず「新団体を作るのはオマエの考えている以上大変なんだぞ」と引き止めにかかった。長州が藤波と仲間割れした際も、猪木は"ヘビー級へ転向しても結果を出せない藤波に対して刺激材料になり、新日本マットがまた盛り上がる"と考えていたからこそ、長州の行動を黙認していたが、長州の離脱~新団体設立まではさすがに容認することは出来なかった。だが長州は猪木の説得には応じず、新日本との連絡を一切断って雲隠れした。


 雲隠れした長州は新団体設立に奔走、外国人選手もAWAを主戦場にしていた斎藤のラインで選手が派遣されることになり、TV局とも折衝し好感触を得るなど旗揚げは秒読み段階にまで漕ぎ着けていた。ところが斎藤が長州に「新団体は時期尚早ではないだろうか」と慎重論を唱え始めたことで新団体へと突っ走る長州にストップをかけた。斎藤も東京プロレス時代に社長に祭り上げられ、勝手にハンコを乱用されたことで不渡り手形を出し、銀行でもブラックリストに載せられ、銀行からの融資がままならなくなった過去があったからだった。斎藤は「打倒・猪木を果たしてから新団体を興してもいいのではないだろうか」と長州を説得。さすがの長州も斎藤の説得を聞き入れ、新団体設立を一旦凍結した。


 IWGP終了後の6月17日に姿を見せた長州は新日本に辞表を提出、浜口と共にフリーとして新日本に参戦することを選択した。当初は斎藤やカーンのように日本をアメリカを行き来して外国人選手と同じ扱いにするように求めたが、新間寿氏は辞表は受け取ったものの、猪木との対戦を条件にアメリカ行きは許さず全シリーズ参戦を要求した。新日本はIWGPを成功させたものの、猪木が決勝戦でホーガンのアックスボンバーでKOされ次期シリーズは全休することになり、猪木の穴埋めするのは藤波と長州しかないと考えていた。海外に出ていた藤波は山本小鉄の説得に応じて帰国を決め、長州は浜口や斎藤とも相談し新間氏の条件を飲む代わりに、海外武者修行中の谷津嘉章を新ユニット"維新軍団"に引き入れることを条件にして、長州は新日本に留まった。


 猪木を抜きの「サマーファイトシリーズ」は藤波、長州の名勝負数え歌を軸にして大盛況に終わり、猪木の抜けた穴を埋めきったが、シリーズ終了後に初代タイガーマスクの引退が引き金になってクーデター事件が起き、猪木と坂口も社長、副社長から降格され、新間氏も謹慎という形で失脚、このクーデター事件が後にUWF、ジャパンプロレスへの分裂劇に繋がっていったが、長州の新団体構想はクーデター事件の余震であり、新日本に鳴らされた非常ベルだったのかもしれない。


(参考資料 ベースボールマガジン社「移籍・引き抜き・興行戦争」)

高山善廣が帝王への扉を開くきっかけになった川田利明のUインター参戦

 
4日、怪我からのリハビリを続ける高山善廣の状況が公式に発表され、新日本プロレスを始め各団体が高山を助けるために基金を呼びかけている。高山はNOAHから退団後はプロレス各団体だけでなく、MMAにも参戦することで幅広く活躍し、いつの間にかプロレス界の"帝王"の異名を取るようになった。

 高山が大きくその高山が帝王としての扉を開くきっかけとなったのは、まもなく迎えることになるが1996年9月11日に行われた、UWFインターナショナルで行われた川田利明戦だった。

 1996年のUWFインターナショナルは前年度開催された新日本プロレスとの全面対抗戦から他団体との交流を活発化させ、新日本だけでなくWAR、バトラーツ、みちのくプロレス、大日本プロレス、東京プロレスとの交流を開始させたが、高田延彦が武藤敬司に敗れUインターの最強のイメージが崩壊、高田は再戦では武藤を破ったものの、最初の敗戦が尾を引いたことで、Uインターファンが離れてしまい、団体としては下り坂となっていた。

 厳しい状況のなかでUインターは8月17日、9月11日と2ヶ月に渡って神宮球場大会を開催、団体としては起死回生を狙ったが、8月17日に行われた神宮球場大会では高田vs当時ゴールデンカップスで大ブレイクした安生洋二をメインにしたものの、観客動員的には厳しい結果に終わった。
 失敗は許されない9月11日では高田延彦vs天龍源一郎をメイン、新日本プロレスから橋本真也、佐々木健介を借りたものの、新日本との対抗戦は既にピークを過ぎてインパクトに欠け、チケットも売れず伸び悩んでいた。

 そこでジャイアント馬場さんが当時の週刊プロレスの編集長だったターザン山本氏を通じてUインター取締役の鈴木健氏に接触を求めてきた。Uインターにとって全日本ははトップ外国人選手だったゲーリー・オブライトが全日本に移籍した際に「引き抜きだ!」と批判したことで敷居の高い団体だったが、その敷居の高い団体である全日本からUインターに接近してきたのだ。

 90年代の全日本プロレスは四天王(三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太)を中心とした四天王プロレス時代を迎え、他団体との交流はせず鎖国することで独自路線を敷いていたが、新日本がUインターとの全面対抗戦を行い、またメンバーが固定していることによるマンネリ化も懸念してことから、鎖国から開国に転じようとしていた。
 馬場さんがUインターに接触した理由は、三沢の相手として高田はまだまだ商品価値があるのと、Uインターは新日本と提携していたものの、新日本リードの関係にUインター側が内心不満を抱いていると情報を得ていた上で接触を求めてきたのだ。

 鈴木健氏は山本氏を間に入れず、一人だけで馬場さんとの交渉に臨み、Uインターのスタイルに合わさられる選手としてスティーブ・ウイリアムスか、元Uインターのオブライトをリクエストしようとしていたが、馬場さんの口から出たのは「川田か田上じゃダメか?」だった。しかし業界を知らないどころか全日本をリサーチしていなかった鈴木氏は川田と田上の価値をわかっておらず、返事を先送りにして高田に「ゲーリーもスティーブもダメだって。『川田か田上じゃダメ?』って言われちゃったよ。そんなのいらないよね?」と経過を報告すると、高田は「何言ってるの!川田がいいよ!」と叫んだ。高田の一言で川田の価値がわかった鈴木氏は全日本から川田を借りることを決意するが、頭を下げる形での返答は足元を見られると思い「馬場さん、しょうがないから川田でいいや』」と馬場さんに返事をすると、馬場さんからGOサインが出て川田の参戦が決定となった。

 そして川田のUWFインター参戦が発表されると、全日本は開国を宣言したとはいえ、他団体に四天王の一人である川田が派遣されるインパクトが強かったのもあって、あまり売れていなかったUインター神宮大会のチケットが一気に売れ出し、用意されていた前売り券が全て完売、鈴木氏は「あ~ホントに川田でチケットが売れるんだ」と痛感させられたという。

 川田を迎え撃ったのは当時ゴールデンカップスの一員として活躍していた高山が抜擢され、試合も川田が前年度にオブライトと渡り合ったことでUスタイルにも順応できることを見せつけ、高山のキックやジャーマンも全て受けきった川田はジャンピングハイキックで勝利となったが、この試合で敗れたものの高山の評価は一気に上がり、高山がプロレス界の帝王への扉を開くきっかけになった。

 しかし神宮大会が成功に終わってもUインターの経営は好転せず打ち上げ花火に終わり、12月27日に団体は解散。Uインターはキングダムへ移行するも、高山は垣原賢人と共に全日本を主戦場にするが、馬場さんの王道哲学を学んだ高山はプロレス界の帝王の座を駆け昇っていった。
(参考資料「俺たちのプロレス vol.4」より)

閉館する津市体育館の最大のミステリー…前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアント

 1986年4月29日三重県津市体育館で前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアントの一戦が行われた。 


 当時の前田は1984年3月に新日本プロレスを離脱し旧UWFに移籍、後に佐山聡や藤原喜明、木戸修、高田延彦、山崎一夫も旧UWFに移籍し、従来のプロレスとは一線を画し「格闘プロレス」でカルト的な人気を呼ぶも、経営に行き詰まり活動を停止、前田は対立した佐山を除いた選手らと共に1985年12月に業務提携という形で長州力ら維新軍団の大量離脱で日本人選手不足となっていた新日本プロレスにUターンするも、前田らが出戻りだったことでの残留組との感情的な対立、スタイル的な違いもあり、また2月に藤原喜明を破ったアントニオ猪木に対して前田がキックを浴びせ「猪木だったら何をしてもいいのか!」と猪木批判したことで、新日本とUWFの間に確執が生まれていた。


 一方アンドレは全米侵攻を始めたWWF(WWE)を主戦場にしており、新日本とWWFの関係は1985年に解消されていたが、アンドレは新日本に参戦を続け、マシン軍団を解散していた若松市政をマネージャーにして、マスクを被ってジャイアント・マシーンに変身することがあったが、急増した体重を起因とする膝や腰の痛みに悩まされ始めたこともあり、レスラーとしてはピークが過ぎつつあった。


 アンドレは4月11日から開幕する「ビッグファイターシリーズ」に気心が知れているディック・マードック、マスクド・スーパースターと共に参戦、アンドレは5月1日に行われる両国国技館での最終戦ではマネージャーだった若松と組み猪木&上田馬之介との試合が組まれ、前田はUWF軍と共に藤波辰己を中心とする新日本軍との5vs5シングル勝ち抜き戦が組まれていた、その両国大会2日前の津大会に前田vsアンドレがマッチメークされたが、カードが決まったのは大会の2日前でTV中継も入り、プロモーターの要請もあって組まれた試合だった。


 カードが組まれたときは前田も1983年の第1回IWGPでアンドレと対戦していたこともあって、自分がどれだけ成長したかを知るのに格好のチャンスでもあり、外国人選手からクレームがあったキックを正面から受け止めてくれたアンドレに対して前田も絶大な信頼を寄せていた。だが大会当日になると、メインレフェリーだったミスター高橋から「気をつけろよ。アンドレが今日、お前をつぶすって言ってるぞ」と忠告を受け、レフェリーも新日本のレフェリーではなく、アンドレの個人マネージャーであるフレンチ・バーナードが裁くことを告げる。しかし前田はプロレスの試合でそんなことをするわけがなく、またアンドレに対する信頼もあって仕掛けてくるわけがないと楽観していた。


 そして試合となったが序盤は膠着から始まり、前田がグラウンド狙いにタックルを仕掛けるが、タックルを潰したアンドレが圧し掛かり、目潰しやチョークで攻める。いつものアンドレと違うと感じた前田は試合の軌道修正を狙ってショルダータックルを狙うが、アンドレはセオリー通りにタックルで返さずナックルを浴びせ、フルネルソンで捕らえたアンドレは全圧力をかけて絞り上げ、身体の柔軟性に定評があった前田は何とかロープに逃れるがフレンチは前田のロープブレイクを認めない。
 そこでセコンドの藤原がアンドレが仕掛けてきたと察知して「構わねえ、殺せ!」と激を飛ばす、前田も本来なら試合の軌道修正を図らなければいけないレフェリーが軌道を修正せず、アンドレのであるセコンドの若松も叫ぶだけ、猪木を始めとする日本人選手だけでなくや外国人選手らも試合を眺めているにもかかわらず、乱入して試合を壊そうとしない状況を見て、罠にハメられたと察知する。


 やっと逃れた前田はタックルからアンドレの上を奪うが腕十字を狙うが、リーチの長いアンドレの腕を極めることは出来ず、アンドレはノド輪で逃れ、スタンディングになって前田がドロップキックを放つも、アンドレは払い落とす。膠着してから前田は片足タックルからのアキレス腱固めで捕獲、アンドレは一旦ロープに逃れるが、前田は再び片足タックルからアキレス腱固めで捕らえるとヒールホールドへ移行、ヒールホールドで膝に大ダメージを負ったアンドレは蹴って逃れようとするが前田は逃さない。
 アンドレがロープブレークに逃れ、セコンドの若松が「前田逃げるな!」と叫ぶ中で両者は膠着、館内も一旦は沸くも再び静まり返る。前田が巧みに距離を取りながら、アンドレの足の外と内側にローキックを放っていく、アンドレは腕を大きく開いて構えるも足を引きずり出す。そこで猪木がやっとリングサイドに現れるが、完全に足に来ていたアンドレはロープにもたれかかる。猪木はリングに上がって臨戦態勢を取るが、フレンチは猪木に下がるように命じて猪木は一旦リングから降りる。前田は膝だけでなく腿にもローキックを浴びせていくが、館内は試合が単調になったことで罵声が飛び交いだすも、前田は膝だけでなく腿にもローキックを放ち、膝への関節蹴りも放っていく。アンドレは若松に声をかけるが手を大きく広げるだけ、藤原喜明からの指示を受けた前田はアンドレを何度も倒して足関節を奪うもアンドレはロープに逃れ、起き上がろうとしない、そこで猪木がリングインするとUWF勢もリングに上がって睨み合いとなったところで試合終了のゴングが鳴り藤波も駆けつける。釈然としない前田に猪木が駆け寄って再試合を支持するが、結局ゴングは鳴らされず無効試合となった。


 試合後に猪木や現場責任者である坂口征二に詰め寄るも「これはどういうことですか」。しかし猪木と坂口は「自分は知らなかった」と口を濁すだけ、真相は闇から闇へと葬られ、テレビの録画からもカットされたが、真相が闇に葬られたことで前田の評判を高める結果となっていった。


 前田vsアンドレの真相はいろんな説が出て、前田は坂口の仕業と疑り、坂口は全面否定するなど、未だ真相は明らかになっていない。ただ気になることはあるとすればアンドレがなぜ前田に対して仕掛ける気になったのか?アンドレの死去の前年である1992年10月にプライベートを明かさなかったアンドレが日本のマスコミにプライベートを公開、アンドレの自宅を訪問した井上譲二氏はアンドレの同居人で当時のレフェリーだったフレンチに試合の核心部分に触れ、フレンチは「アンドレ自身の意志」「本気でマエダをつぶす気はなかった。自分の強さだけをアピールしようとするマエダをちょっとこらしめただけ」と答えていたという。そして前田vsアンドレ戦が行われた同じ年の11月に前田との一騎打ちが組まれていたブルーザー・ブロディは「シュートを売りにしているヤツなんだって、それだったらオレが本当のシュートってヤツを教えてやろうか」と答えていた。結局ブロディは来日せず新日本から追放されたことで前田戦は幻となったが、アンドレも前田に「オレが本当のシュートってヤツを教えてやろうか?」と考えていたのだろうか…これもアンドレが亡くなったことで永遠の謎となった


 そして2017年9月、大きなミステリーを呼んだ前田vsアンドレが行われた津市体育館も閉館になることで幕を閉じようとしている…

三沢光晴の運命を決めた2代目タイガーマスク誕生秘話

 2代目タイガーマスク
1984年7月31日、全日本プロレス蔵前国技館のリングで当時日本テレビのアナウンサーだった徳光和夫氏の呼びかけでタイガーマスクが登場、全日本プロレスのリングに参戦することが発表されたが、自分は眼の感じからいって初代タイガーマスクの佐山聡の眼でなく、三沢光晴であることを察知、館内からも"三沢"の声が飛び交っていた。


 この年の2月に新間寿氏がUWF設立かで新日本プロレスが揺れ動くなかで、初代タイガーマスクのマネージャーだったショウジ・コンチャ氏が当時全日本の会長となっていたジャイアント馬場さんと日本テレビから出向していた松根光雄に、初代タイガーマスクの復帰意を全日本に打診してきたのだ。初代タイガーは前年度に起きた新日本のクーデター事件で引退とされており、馬場さんも「新日本との関係は大丈夫なのか?」と返したが、コンチャ氏は「引退はしておらず新日本との契約は解除しており、現在はフリーだ」として新日本との関係はクリアしているとして、契約金などの金銭的な話を積極的にしてきた。だが馬場さんは即座に返答しなかった、理由は馬場さんはコンチャ氏は信用出来る人間なのか?新日本との関係はクリアされているのか?コンチャの言うことは鵜呑みに出来ないとして慎重に調査する必要があったからだ。馬場さんの読みが当たったのか、佐山の知らないところでコンチャ氏が全日本に接触したことがわかると、佐山は怒りコンチャ氏とは距離を取り始め、コンチャ氏のラインで初代タイガーの全日本参戦は消えてしまった。佐山はUWFのリングでスーパー・タイガーとして再デビューを果たす。


 話が遡って1983年11月に新日本クーデター事件に加担していた営業部長の大塚直樹氏は辞表を提出していたが、アントニオ猪木から引き止められ、猪木が休眠会社だった新日本プロレス興行を譲り受け、新日本の興行を手がけていた。しかし設立パーティーに猪木が出席しなかったことで大塚氏が猪木を不信感を抱くようになり、また幹部らからも「裏切り者なのに、アイツらだけ美味しい汁を吸っている」と陰口や批判を受け始めたことで、新日本との亀裂が生じ始めていた。その情報を耳にした1984年5月に馬場さんが大塚氏に全日本の興行を手がけないかと打診、新日本に愛想を尽かしていた大塚氏も馬場さんに接し、新日本興行で押さえていた8・26田園コロシアム大会を全日本で行うことになった。田園コロシアム大会は新日本の興行を開催するために押さえていたが、新日本が開催しないことを新日本興行に通達していた。 


 大塚氏は新日本の幹部達に全日本の興行を手がけることを報告すると、大慌てした新日本側がは大塚氏ら新日本興行側に好条件を提示し全日本の興行をやめるように求めるが、大塚氏の気持ちは新日本から離れており、馬場さんからも「大塚さん、関係ないよ。もうやろうよ」と後押しを受けて、全日本と新日本興行の提携会見を開いた。提携の話し合いを進めていたところで馬場さんはコンチャ氏から初代タイガーマスクの売り込みがあったことを明かすと、大塚氏は「全日本で2代目タイガーマスクを作っちゃえばいいじゃないですか?」と提案、馬場さんも乗り気になり、大塚氏はタイガーマスクの原作者である梶原一騎にコンタクトを取り了承を得て、2代目タイガーマスク計画が動き出した。当初の候補は梶原一騎が『2人のタイガーマスクを誕生させてくれ』と条件を出していたことで、推薦する士道館の若手空手家が一人の候補され、もう一人の候補は馬場さんはメキシコへ武者修行に出ていた三沢をピックアップしていた。三沢は越中詩郎と共にこの年の春に武者修行に出たばかりだった。馬場さんから「コーナーポストに飛び乗れるか」と聴かれると三沢は「出来ます」と答えたことで日本から出て僅か数ヶ月で帰国を命じられた。帰国が決まった三沢は先輩である越中より先に帰国することの心苦しい思いをしたという。
 2代目タイガーは2人の候補に絞られ、最悪2人のタイガーをデビューさせる案もあった。2人タイガーは、現在の新日本プロレスで4代目タイガーマスクとタイガーマスクWとのタッグが実現していたが、今思えば梶原の案が現在になって実現していたことになる。話は戻るが梶原の推薦していた空手家は全日本の道場にも通い、巡業にも帯同していたが、最終的に断念し2代目タイガーマスクは三沢一人に絞られた。


 新日本興行が全日本プロレスの興行を手かげた8・26田園コロシアム大会が開催されたが、2日前に新日本側から「全日本との業務提携を破棄しなければ、一切の新日本との契約を9月末をもって破棄する」と通告を受けた中での開催だった。2代目タイガーマスクは手の合う相手として選ばれたラ・フィエラ相手にデビュー戦を行い、"三沢"という野次が飛び交うもノータッチトペコンを披露するなど、ファンのド肝を抜き、最後はタイガースープレックス84でデビュー戦を勝利を収め、ヘビー級でも昨年夏に引退していたテリー・ファンクがスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ組の手を出したことで復帰を宣言するなど新しい流れが生まれていた。その翌日に大塚氏が会見を開き、新日本に対して絶縁を宣言、全日本と組んで新日本潰しに出ることを表明、その第1弾として選手の引き抜きを明言、その後長州力率いる維新軍団、永源遥ら若手中堅勢などが引き抜かれたのは別の話である。


 2代目タイガーマスクはこれからマット界に起きる激震前夜にデビューを果たしたわけだが、2代目タイガーとなる三沢光晴がプロレス界の担うトップレスラーになっていくことは誰が予想出来ていただろうか…?2代目タイガーマスク誕生はまさしく三沢の運命を決めた出来事だったのかもしれない。
(参考資料=ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.22「夏の変事」)

日本人で最初にWWF王者になったのはアントニオ猪木だった

 8月20日にアメリカ・ニューヨークで開催される「サマースラム」にて中邑真輔がジンダー・マハルの保持するWWE王座に挑戦することになり、中邑に王座奪取の期待が高まっている。


 ご存知のファンもいるだろうが日本人でWWEの前身であるWWFヘビー級王座を唯一巻いているのはアントニオ猪木だけだ。


 新日本プロレスは1974年からニューヨークに本拠を持っていたWWWFと業務提携を結び、アンドレ・ザ・ジャイアントなどWWWF系の選手が来日するようになり、タイガー・ジェット・シン頼みだった外国人供給ルートが強化されたが、WWWF王者であるブルーノ・サンマルチノだけは親友であるジャイアント馬場の全日本プロレスへの参戦を優先していたため新日本には来日せず、当時のWWWFのボスであるビンス・マクマホン・シニアもサンマルチノが一番集客力のあったレスラーだったこともあって、サンマルチノの意向を優先せざる得なかった。


 提携を結びながらWWWF王者を派遣できない状況が続いたが、1977年にサンマルチノが"スーパースター""ビリー・グラハムに王座を明け渡し、長期政権に終止符を打つと、WWWFは王者となったグラハムを1978年2月に新日本に参戦させ、猪木は上田馬之助と釘板マッチでの一騎打ちが決まっていたこともあって挑戦せず、坂口征二がグラハムに挑戦したが、リングアウトで敗れ王座奪取はならなかった。


 グラハムが帰国して、しばらくすると王者はグラハムからボブ・バックランドに代わり、新王者となったバックランドはすぐ新日本に送り込まれ、6月1日日本武道館で猪木がNWF王座をかけてWWF王座とのダブルタイトル戦を実現させるも、3本勝負の1本目は猪木がリングアウトで先取したが、2本目はフルタイムのドローに終わり2-1で猪木が勝利も王座は奪取できず、1ヶ月後同じ武道館で猪木がWWF王座に挑戦する形で再戦が行われたが、互いに1本を取り合うも時間切れ引き分けとなり、その後大阪でも再戦が行われたが王座を奪取することが出来なかった。


 1979年11月30日の徳島で猪木はバックランドを破り念願だったWWF王座を奪取したが、12月6日に蔵前で行われた再戦ではタイガー・ジェット・シンの乱入もあって無効試合となり、猪木は裁定に潔くとして王座を返上、ニューヨークMSGで猪木とバックランドによる王座決定戦が行われると思われていたが、王者決定戦でバックランドの相手になったのは猪木ではなくボビー・ダンカン、バックランドはダンカンを破り王座を奪還、その後猪木は3度に渡ってバックランドに挑み王座奪取はならなかったが、この頃には猪木もIWGP構想を掲げていたこともあって、WWF王座奪還には本腰を入れる気はなく、新日本も猪木がバックランドには1度も負けなかったことから、WWF王者より猪木の方が上だと示すことが出来たことで満足だったのかもしれない。


 WWF王者狙いはヘビー級へ転向したばかりの藤波辰己に譲り、猪木はIWGP構想に戦いの軸を置くが、WWFはビンスシニアから現在のビンス・マクマホンに代替わりすると、これまで格安で選手をブッキングしていた新日本との関係を見直し始め、1985年に提携関係は解消、WWFも団体名をWWEに改め、猪木の戴冠も日本で王座が移動されたのもあって、アメリカのファンには説明されず、現在のWWEでは猪木の戴冠は公式には記録されなかった。猪木は2010年にWWE殿堂入りを果たしたが、現在でも猪木の戴冠は公式には記録されていない。


 そして猪木が戴冠してから17年後に猪木が育てた中邑がサマースラムの大舞台でWWE王座に挑戦する。果たして2人目のWWE王者となるのか・・・
(参考資料 ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.16『王者の宿命』)

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