伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

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ザ・コブラは、なぜ凱旋マッチで"しくじった"のか?

 昭和58年11月3日蔵前国技館、初代タイガーマスクが引退に伴い、空位となったNWA世界ジュニアヘビー級王座を巡ってザ・コブラとザ・バンビートの間で王座決定戦が行われた。(この試合は新日本プロレスワールドで視聴できます)


 コブラの正体はカルガリーマットで修行していたジョージ高野で、コブラはヒールのマスクマンとしてダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスらと抗争を展開していた。昭和58年8月にアントニオ猪木、藤波辰己ら新日本勢が遠征に来ると、コブラは小林邦昭と組んでスミス、ブルース・ハート組と対戦、華麗な空中殺法を披露、この模様はワールドプロレスリングでも放送されたが、高野も新日本が初代タイガーマスクの突然の引退で大揺れだったことを知る由はなかった。


 コブラに目を付けた新日本はポスト・タイガーマスクとしてコブラを売り出すことになり、ジョージに帰国命令を出すが、カルガリーでの居心地の良さもあって本人は帰国を辞退。しかし尊敬する猪木の説得もあって帰国を決意、帰国時には成田空港でマスク姿のコブラが登場、インタビュアーが突撃取材をするも、コブラはノーコメントであくまで謎のマスクマンで通したが、それだけ新日本プロレスだけでなく、テレビ朝日もコブラに期待をかけていた。


 コブラの相手はこちらも謎のマスクマンであるザ・バンピートが務めることになったが、コブラはタイガーマスクやマスカラスのマスクを被った若手選手らが担ぐ白煙を噴く神輿に乗って、白いタキシードを身に纏い登場、コーナー昇ったコブラはバク宙を披露するも、すぐさまバンピートがコブラを襲撃、マスクを脱ぐと、ファンはダイナマイト・キッドだと思ってキッドコールを贈ったが、正体はキッドに似ていたスミスで、スミスはコブラはタキシードを脱いでいないコブラを場外へ追いやってボディースラムで叩きつけ、リングに戻ろうとするコブラにロープ越しのブレーンバスター、リフトアップスラムで場外に放り投げるなどコブラを徹底的に痛めつける。


 改めて試合開始のゴングが鳴らされると、館内はコブラコールではなく「高野コール」が起きる。試合も期待されたコブラの空中戦は封じられ、グラウンド中心の攻防に終始、コブラが空中殺法を狙うと、スミスは受けようとしないなどの行為が目立ち、コブラの良さを引き出さずに自身の良さばかりをアピール、ジュニアらしい華麗な空中戦も攻防はなく、さすがの館内も野次が飛び始める。
 それでもコブラはドロップキックでスミスを場外に追いやると、ノータッチトペを発射するが、スミスはかわして鉄柵へ直撃しコブラは両膝を負傷してしまう。スミスは場外パイルドライバーで突き刺すが、コブラも鉄柱攻撃から同じ技でやり返し、リングに戻るとスミスはミサイルキックをを狙うが、コブラも下からのドロップキックで迎撃、コブラは痛い両膝でのダブルニーからフライングラリアットを狙うが、タイミングが合わずに相打ちとなって失敗、しかしスミスのセントーンをかわしたコブラはフライング・ラリアットを決めて3カウントを奪い勝利も、フィニッシュの技にはインパクトに欠け、技の失敗も目立って、新日本やテレビ朝日の期待を大きく裏切る結果となってしまい、肝心の試合の模様は試合途中からトペの失敗まではダイジェストで放送され、放送されたのは終盤でのフィニッシュシーンでの攻防だけだった。
 
 新日本もテレビ朝日もコブラの入場シーンを派手にするなど、ポスト・タイガーマスクとして大きな期待をかけていたと思う。しかし凱旋マッチで手の相手として用意したスミスが大誤算で、コブラを引き立てようとしなかった。コブラの凱旋マッチの相手が小林邦昭、寺西勇だったら凱旋マッチも大きく違ったものになり、コブラの評価も違ったものになっていたのかもしれない。


 その後コブラは1984年1月に開催された「WWFジュニアヘビー級王座決定リーグ戦」にエントリー、公式戦では初代タイガーのライバルであるキッド、初代ブラックタイガーを破る殊勲を挙げたが、それでもコブラの評価は覆ることはなく、優勝決定戦はキッド、スミスと三つ巴で争われ、三つ巴戦はスミスがコブラと引き分け、キッドに敗れて脱落し、優勝はコブラとキッドの間で争われたが、キッドがバックドロップホールドでコブラを破り優勝、コブラは凱旋から初黒星を喫した。

 キッド、スミスが全日本プロレスへ移籍したため、コブラはブラック・タイガーとMSGで王座決定戦を行って破り、初代タイガーマスクに次ぐNWA、WWFジュニアの二冠王となり、ヒロ斎藤と抗争を繰り広げるも、新日本がWWFと提携を解消したことで両王座は返上、それに伴ってIWGPジュニアヘビー級王座が新設、王座決定リーグ戦が行われ、コブラは優勝決定戦に進出して全日本プロレスから移籍した越中詩郎と対戦したが、スペース・フライング・タイガー・ドロップは飛距離が足りずに失敗し、ダイビングボディープレスも剣山で迎撃されたコブラは越中のジャーマンに敗れ王座奪取はならず、越中を破って2代目王者となった高田伸彦と対戦したが、両者リングアウトで王座は奪えず、「キング・コブラになって帰ってくる」と言い残し、ザ・コブラは消え、ヘビー級へと転向した高野がリングに登場したが、越中に敗れた時点でコブラとしての役目は終わってしまっていたのかもしれない。


 新日本ジュニアは越中vs高田によるジュニア名勝負数え歌から日本人中心に変わり、マスクマンの王者が1989年獣神ライガー、後の獣神サンダー・ライガーがデビューするまで誕生しなかった。

新日本プロレス 2004年11月13日 大阪ドーム事変 番外編 崩壊危機のZERO-ONEを新日本がリングジャック

 話は戻って2004年10月8日、両国国技館に長州力が突如出現、当時の長州はWJプロレスが活動停止になりリキプロに属していた。石井智宏を引き連れた長州は「外からやってきた俺がど真ん中にたった。何をやってるんだ新日本!」とアピールすると、永田裕志は登場すると長州は「天下を取り損ねた永田君、良く俺の前に立ったな。今度来るときにはパワーホールを全開で流せ」と挑発、天山広吉も駆けつけるが、長州はリングを後にする。


 長州復帰は当時執行役員だった上井文彦氏の仕掛けで、誰にも長州が登場することは明かさず、登場直前で永田に告げた。案の定永田が反応し永田vs長州の抗争が勃発かと思われたが、この直後に上井氏は新日本を退社、長州の存在が宙ぶらりんとなってしまう。


 
11月13日大阪ドームのに長州のカードが組まれ、蝶野正洋と組み永田、パートナーには長州に対して面白くない感情を持っていた西村修が起用され、試合形式もイリミネーションマッチとされた。試合は開始と同時に西村が猛ラッシュをかけるが、蹴り上げた長州はサソリ固めを狙う。しかし西村はアキレス腱固めで切り返すと、長州はロープに逃れるが西村は離さない。一旦分かれると西村がドロップキックを狙うが、かわした長州はリキラリアットを連発、西村は血反吐なのか口から血を流しながらダウンしそのまま立ち上がれずKO負けとなる。しかしその長州も蝶野と同士討ちになると、永田のサンダーデスドライバーを喰らってフォール負けを喫し、長州は蝶野にもリキラリアットを浴びせると、永田が蝶野にサンダーデスドライバーで3カウントを奪い、永田の一人舞台で勝利となった。


 しかし事件はここから始まっていた。長州は自分の試合を終え、同日に大阪府立体育会館第二競技場で行われていたZERO-ONEに出場するために移動すると、セミを終えた蝶野が獣神サンダー・ライガー、中西学、邪道、外道らブラックニュージャパンと共に移動バスで長州を追いかけ、府立体育館に乗り込み、そのままZERO1-ONEのリングをジャックし、ZERO-ONE勢と乱闘を起こす、蝶野が長州に対して「どうしてこんなところで試合をしてやがるんだ」と挑発して去っていくと、長州は「これは俺と新日本の問題、でもあいつらがここに土足で上がってきたことは許されないだろ、大谷」と大谷に共闘を持ちかけ、新日本との対抗戦に持ち込もうとしたが、大谷「個人的な闘いならヨソでやってくれ」と拒絶、ファンも支持した。バックステージに戻った長州は大谷に「申し訳ない。お前の言うとおりだ。悪かった。俺のせいだ。ごめん」と頭を下げた。


 このときのZERO-ONEは橋本真也による放漫経営によって莫大な負債を抱えて崩壊に危機に晒されており、橋本自身も左肩の負傷だけでなく、経営を中村祥之氏らフロントに任せきりにして、現実逃避するかのようにプライベートにのめり込んでしまっていたが、橋本はZERO-ONEを一旦倒産させ、中村氏を外して新しい側近らと共にアパッチプロレス軍と合併して新会社を設立し、蝶野とのルートで新日本との対抗戦に持ち込もうと画策する。
 橋本は選手らに計画を明かして自身に追随するかを迫り、橋本はみんな追随すると思っていたが、選手達は誰も橋本に追随しなかった。大谷らがなぜ橋本に追随しなかったのか明らかにしてないが、言えるのは「橋本は慕っているが、もうついていけない」だったのではないだろうか・・・大阪大会2日前の11日の後楽園大会では大谷が「オレたちは橋本真也に捨てられたんじゃねえ。旅立ったんだよ。」と橋本と袂を分かったことを観客にアピールし、選手らが橋本と決別していたことが明らかになっていた。


 対抗戦の話を進めたい蝶野は試合を出来ない橋本に代わって長州を旗頭にして、新日本vsZERO-ONEを推し進めようとして、ZERO-ONEの会場に乗り込んだ。だが大谷はファンの前で蝶野らを拒絶した。大谷らにしても蝶野と長州の敷いたレールに乗ると、対抗戦を敷いた橋本のレールに乗ることになることから、新日本との対抗戦は飲めなかったのかもしれない。結局蝶野の殴りこみは空振りという結果となり、長州もあくまで新日本だけでなくZERO-ONEの人間ではないため無理強いすることは出来なかった。


 大阪大会からしばらくして橋本が弁護士立会いの元でZERO-ONEの活動停止を発表、大谷は中村祥之氏らと共に新団体ZERO-ONE MAX設立へと動き、2005年1月に再スタートを切った。


 大谷らと袂を分かった橋本は翌年2005年7月11日に脳幹出血に倒れ、そのまま急死、橋本の葬儀には大谷らZERO1勢も駆けつけるが、新しい側近たちによって焼香も許されず、棺すら担ぐことさえ許されなかったが、夫人だったかすみさんの手引きで遺体には対面することが出来た。


 そして大阪ドーム大会が行われた翌年の2005年11月14日、猪木が保有する新日本の株式を全てユークスに売却、これと共に猪木体制の新日本は終焉を迎えた。2004年11月13日の大阪ドーム大会は今思えば、新日本と猪木の方向性の違いが示された大会だったのかもしれない。

新日本プロレス 2004年11月13日 大阪ドーム事変③果たして猪木から『子殺し』を受けたのは…

 
メインで行われた中西&中邑vs藤田&カシンは藤田のサッカーボールキックを浴びせ中邑をKOで藤田組が勝利も、試合後に猪木が登場、ダウンしている中邑を引き起こして、怒りの表情で殴り蹴りつけた。実は後年に中邑がカード変更を猪木に抗議しており、猪木は「怒りを見せろ!」と答えるだけで、中邑の抗議を受け付けなかったことに怒り、猪木に対して「私は猪木さんに中指立てますよ」と言い放っていたという。
 藤田から制裁されるだけでなく、猪木から殴る蹴ると追い打ちされた中邑は悲しげでやるせいない表情を浮かべ、バックステージに下がるが、下がる中邑に猪木は「遠慮するなと言ったはずだぞ! 男を見せろ、この野郎!!」と叫び、藤田に対しても「オメエらも遠慮無く殺せ!コノヤロウ! オメエらが高い壁になれよ! 頼むぞ!」と激を飛ばし、「123ダー」で締めくくられた。」自分は猪木がレスラー猪木の眼をしていたことで"これぞアントニオ猪木だ”と一人納得してドームを後にするも、バックステージでは中邑が「次、猪木が殴ったら殴り返す!」と怒り、「やってられねえ、って」会場からそのまま実家に帰ってしまった。


 のちに安田拡了氏は週刊プロレスで「猪木としては、そのDynamiteに新日本の選手をどんどん参戦させたいはずだった。曙も来ていたし、K-1の選手が多く訪れていた。彼らに新日本の強さというものを見せつけたかった。それがあったからこそ、試合前に中邑に「遠慮するな」と言葉を送っているのだ。」と記しているが、それが猪木の真意だったとしても、猪木に反発したことでの制裁、理不尽なカード変更とファンの民意を踏みにじった猪木への怒りを感じていた中邑には届くことなく、また「新日本側の憤りは、マッチメークという名の元にブッキング料をゴソッと猪木事務所に持っていかれ、新日本の収益が理不尽にもなくなってしまうことなのだ」と週プロに報じられたことで、猪木の真意もファンに届くことはなかった。


 13年前の一件を今になって振り返ったが、猪木の怒りに説得力があったのは確かであり自分もレスラー猪木の目を見て納得していた。しかしファン投票でメインが棚橋vs中邑が選ばれた時はファンが望んだのは新日本の未来であり将来であることを棚橋も中邑も実感しているはずであり、大阪ドームでは例え少ない観客であろうと、新日本の将来を見せる試合にしたかったはず、それだけ猪木と選手やファンとの意識にズレが生じて、今回の一件で修復不可能になるぐれい、亀裂が深まったが、猪木にしてみれば「頼ってきたのは新日本だろう」であり、将来より目先の猪木に頼ってしまい、新日本も頼った手前猪木に意見することが出来なかった。今思えば猪木が全て悪いのではなく、猪木に依存しきっていた当時の新日本にも原因があったのではないだろうか・・・


 2004年11月13日のことを誰か猪木に聴いてほしいと思うのだが、おそらく猪木は「そんな昔なこと忘れた」とトボけると思う。猪木が何を伝えたかったのか、猪木の口から聞くことがなければ永遠の謎として終わりそうだが、わかるのは猪木から子殺しを受けたのは、ハッスルポーズを否定された小川と、猪木から制裁を受けた中邑だったということだ。中邑は2009年9月27日に猪木に挑戦発言をしたことで、猪木という呪縛を脱し、小川はハッスル離脱後はIGFに参戦、表向きはリスペクトは口にしても、猪木に対する面白くない感情は抱えたままで、再び疎遠となっている。


 しかし大阪ドーム大会では猪木とは別にもう一つの事件が起きていた。

新日本プロレス 2004年11月13日 大阪ドーム事変⓶ハッスルポーズ阻止の裏側

 

大会当日に自分も大阪ドームを訪れたが、当時の大阪ドームは経営破綻しており、中に入っていたテナントも撤退するなど閑散、まるでこのときの新日本を象徴しているかのようだった。自分は入り口に到着するも開場を待っていたのは4~5名だけ、開場までには2~3人は来たものの長蛇の列とはならなかった。この年の7月に行われたNOAH東京ドーム大会を観戦した際に、自分は係員と話をしたが新日本よりNOAHのほうが並んでいたと聴かされると、大阪ドームで新日本の力が落ち込んでいると改めて実感してしまった。


 急遽参戦することになった小川直也は当時「ハッスル」のエースだったが、新日本にとってハッスルは新日本とストロングスタイルと相対するエンタメプロレス。小川自身も新日本を「某老舗メジャー団体」と皮肉り、小川自身もこの頃になると猪木と決別していたため、新日本との関係は良好ではなかった。しかし猪木からオファーを受けた小川はハッスル普及の一環と割り切って新日本に参戦を決意、猪木と再会した際には表向きは師匠と称えていた。今回のマッチメークも小川と川田がハッスルのスタイルで臨むことが必至とされ、小川自身も「猪木さんにも一緒に“ハッスルのポーズ”をやって貰う」と宣言していた。
 この発言に新日本の選手たちはどう思っていたか、当時新日本の所属だった成瀬昌由のブログ『成瀬昌由の自由人ブログ』によると、「猪木さんが小川を呼んだのだから、ハッスルはやらしても良いのではないか」といえば、「小川と共に猪木さんもあのポーズを一緒にやるという報道もあるし、邪魔してはいけないのではないか?」という意見もあった。しかし成瀬がトレーナー室で猪木がマッサージを受けていた際に小川は「お疲れ様です会長!今日の試合“コレ”やりますんで、宜しくお願いします!」と声をかけ、猪木は「お~ぅ」と答える姿を成瀬は目撃してしまう。


 第7試合を終えると最終的な作戦会議が行われた。成瀬によると「セミ前の試合になったあたりで、最終的な作戦会議が行われた。ここで言っておくが、俺はやや血走って先走っていた感があったが、あくまでも俺達のプライオリティーとしては今回の小川直也の“ハッスルのポーズ”に対して、先ずは徹底的に断固阻止というのが一番。そして、もし小川サイドがあくまでも強硬に“ハッスルのポーズ”をやるというならば、そこは俺達も強行な手段を使ってでも絶対に阻止をしなければならない。そしてもし、本当に猪木さんがリングに上がって小川と共にあのポーズをやろうとしたならば、俺達はたとえ相手が猪木さんでも、全員で猪木さんの前に人柱となって立ちふさがり、殴られようがなにされようが、何が何でもリングに上げさせてはならないと、俺や真壁リーダー、そして永田さんも一緒になって俺達の意見に同調してくれました。」とハッスルポーズ断固阻止で意見が一致した。
 
 そしてセミで行われた天山、棚橋vs小川、川田は小川、川田がハッスルのコスチュームで試合に望み、試合中には高田モンスター軍の島田二等兵とアン・ジョー司令長官もリングサイドに現れるが、それと同時に新日本本隊の選手達がほぼ勢ぞろいでリングサイドに陣取った。試合は小川が棚橋に勝つも小川がハッスルポーズを取ろうとすると永田を始めとする選手らがリングに雪崩れ込んで阻止し、そのまま花道奥へ下がらせる。永田の説得で小川もハッスルポーズを取るのを諦めて下がろうとするが、蝶野正洋が「やりたいならやれ」とリング内でアピールすると再び騒然となるが、それでも小川はハッスルポーズを取ることはなく退散、猪木も現れなかった。蝶野にしてみれば小川にハッスルポーズを取ることを許したのではなく、「この状況の中でハッスルポーズをとれるものならやってみろ」と迫っていたのかもしれない。


 この試合の真意は一体何だったのか?観戦していた上井文彦氏は「「絶対にハッスルをやらせるな!」と大声で叫び続け、猪木の心情を。『オマエら、ここまでやられて怒らないの!? 俺がこんなプロレスを許していると思うのか!?』って問いかけてるんですよ」と理解し、成瀬も「猪木さんからも『ハプニングやアクシデントをどのように乗り切るかで、プロとしての値打ちは決まるものだよ』と言われていたので、今回の急な小川直也の緊急参戦は、猪木さん流の自分達に対する“試練”というか、『新日本プロレスのリング上で、しかも自分達の目の前であのポーズをやらせてもイイのか?おぃっ!』と自分達を試しているのであろうと俺は直感的に理解した」としている。確かにハッスルポーズを阻止したことで新日本勢は支持を受けたのも事実だった。


 だが小川にしてみれば、猪木の承諾という大義名分を得たとしてハッスルポーズを狙ったはずが、新日本の選手らの反発に遭い、肝心の猪木は出てこないどころか、大会後の猪木が「世界で通用するものではない。米国の物まねをしてもだめ」「(ハッスルポーズは)中指立てるポーズを大衆の前でやっているようなもの」「ハッスルを引きずっていると、地に落ちる。勢いある時に変化をしないと。流行は長続きするものではない」と痛烈に批判されたことで、一転して小川は梯子を外される結果となってしまった。誇りとしていたハッスルを猪木によって全否定された小川はハッスルを飛び出してIGFに参戦するまで猪木と疎遠の関係となっていった。

 しかしメインではセミでの溜飲を挙げた雰囲気から一転してしまった。

新日本プロレス 2004年11月13日 大阪ドーム事変① 踏みにじられた新日本の将来

 有料サイト「Dropkick」で「多重ロマンティック」の管理人、漁師JJさんが2004年11月13日 新日本プロレス 大阪ドーム大会を「消えた棚橋vs中邑戦」というタイトルで振り返ったが、自分も11・13大阪ドームを観戦した一人として、当時の資料や観戦していた自分の視点を含めて総合して振り返ってみた。


 

2004年11月13日、新日本プロレスは「闘魂祭り」として大阪ドーム大会を開催。当時の新日本プロレスはオーナーであるアントニオ猪木の現場介入でファンから大きく信用を落としていた”暗黒期”と言われる時期だったが、新日本の執行役員だった上井文彦氏が猪木側である猪木事務所の窓口となり、猪木の意見を取り入れて格闘路線を継続しつつ、天龍源一郎や佐々木健介、鈴木みのるなど外敵フリー勢を参戦させ純プロレス路線も貫くなど、バランスを保ちながら、斜陽となった新日本を盛り立てようとして奮闘していた。


 ところが前月の10月8日、両国国技館で行われた藤田和之vs佐々木健介のIWGPヘビー級選手権で藤田が胴絞めスリーパーを仕掛けた状態で、レフェリーがカウント3を叩き、健介に王座が移動するという不可解な裁定で試合が終わる事態が起き、ファンが怒り暴動寸前になったことでファンからの信用は失墜、その後で上井氏が当時社長で犬猿の関係だった草間政一氏によって退社に追い込まれ、猪木事務所との交渉窓口を失った新日本は、猪木からの介入に歯止めが効かない状態となった。


 自分はその大阪ドーム大会の観戦を決めていた。理由は新日本の大阪ドーム大会を全て生観戦しており、この年にはNOAHの東京ドーム大会を観戦した際にも係員から「NOAHと比べ新日本はこれほど集まらなかった」と話を聞き、新日本にかつての力はないとして、"新日本が大阪ドームで大会を開くのはこれで最後かな"というのもあって観戦することにした。


 対戦カードも猪木の発案ということでカードが募集され、大阪ドーム大会のメインカードは棚橋弘至vs中邑真輔によるIWGP U-30選手権に決定となった。このカードが選ばれた理由はファンが見たいのは新日本の未来だというを感じた。大阪ドーム大会も売れ行きが悪いと自分も聞いていたが、そういう状況の中で2人が新日本の未来、将来をメインでアピール出来るかに注目のポイントにしていた。


 しかし大会の2日前、仕事が終えて週プロモバイルを見ると、大阪ドーム大会のカードの変更が発表され。カードを見ると棚橋vs中邑、川田利明vs天山広吉の三冠統一ヘビー級選手権が消え、藤田&ケンドー・カシンvs中邑&中西、天山&棚橋vs小川直也&川田に変更となっていた。この記事を見た時自分は松田優作のジーパン刑事殉職シーンのように「なんじゃこりゃ!」と思わず叫んでしまっていた。


 カード変更の理由はチケットの売りが延びなかったことで猪木の介入を受けたことは明白だった。大阪ドーム大会は「闘魂祭り」と銘打たれているように、実質上主催者は猪木だった。猪木にしても猪木の存在をこれだけアピールしているのだから、超満員にすることは至上命題だったものの、新日本は猪木の現場介入の影響で大きくファンから信用を落としており、また1ヵ月後の12月11日には大阪府立体育会館のビックマッチも控えていたことから、大阪ドーム大会に全精力を注ぐのは無理だった。
 カード変更前にも猪木がマスコミに藤田、小川の投入を示唆していたが、まさか猪木自身が公募していたファン投票は崩すことはないだろうと思っていたが、ファン公募のカードを無視し猪木側の小川、藤田、カシンをごり押しするカード編成、選手やファンからは猛反発、中邑でさえも「ファンに申し訳ない。一番大切にしなければいけないのはファン。夢を裏切ってしまった」とファンに謝罪するコメントを出したが、猪木に頭が上がらない新日本プロレスはなす術もなく、変更されたカードのまま大会当日を迎えた。(続く)

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