プロレス史
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三沢光晴死去…2009年6月13日という長い夜
当時のプロレス格闘技DXの速報…誰もが三沢が亡くなるとは思っていただろうか、自分もこの速報を見た時は、"三沢のことだから大丈夫"だろうしか思っていなかった。だが1ヶ月前の5月3日の京都KBSホール大会を自分が訪れ、いつもサインや記念撮影などファンサービスに応える三沢がしんどそうな顔を浮かべて、誰も寄せ付けなかった姿を見て、"三沢はもう休ませるべきなのでは"思っていた、しかししばらくしてYahoo!ニュースで三沢の訃報を聴いた瞬間、ショックを受け愕然としていた。そして思ったことは"バカやろう!""ふざけんな!"の言葉だった。なぜだかわからない、自然と出た言葉だった。今思えば悔しかったのかもしれない。
2009年3月をもってNOAHは日本テレビによる地上波中継が打ち切り、TV局から支払われる放映権料が大幅にカットされたことで、資金繰りに苦しみ、また三沢自身も全日本プロレス時代からの四天王プロレス時代のダメージが齢を取るにつれて出始め、満足にトレーニングもできない状態になった。しかしNOAHは旗揚げから三沢、小橋建太、秋山準のイメージが強かったこともあり、3人がいなければ成り立たない団体だった、しかし小橋も腎臓ガンの闘病だけでなく四天王プロレス時代のダメージが身体に出始め、秋山も古傷の腰痛に苦しんでいた。だが彼らが出ないとプロモーターは興行を買ってくれず、また観客も動員できないという声が内部から多かったこともあって、丸藤正道やKENTAへの世代交代を阻み、三沢に負担をかける要因にもなった。三沢は潮崎豪とのコンビで「グローバルタッグリーグ戦」を優勝、試合内容も潮崎が前面に出て、出番の少ない三沢がお膳立てして、最後は潮崎が締めくくるというものだったが、潮崎も三沢のコンディションが悪いということは充分にわかっており、なるべく三沢に負担をかけまいと心がけていた。そして6月13日の広島県立総合体育館グリーンアリーナでは齋藤彰俊&バイソン・スミス組の保持するGHCタッグ王座に挑戦が決定、4月29日「グローバルタッグリーグ」米子大会で行われた公式戦では三沢自身がバイソンの雪崩式バイソンデニエルを喰らいフォール負けを喫していることから、三沢&潮崎組にとってもリベンジをかけての選手権だった。
選手権に向けて三沢は潮崎と共に週刊プロレスのインタビューに答え、「今回みたいにちょっと長いと体の治癒力も落ちている」「ガタが来るのは、オレの方が先だし、すでに来ているからね」と自身の体調を自虐的に語ったが、オフレコでは「本当に大丈夫なのか?」と聴かれると「本当にヤバいんだ」と答えていたという。それでも三沢はNOAHを再び上昇気流に乗せるために最前線に出ることを選んだ。6月ツアーも開幕した11日、大阪大会に出場した三沢は翌日はオフだったこともあって、付き人だった鈴木鼓太郎や移動バスの運転手と共に食事をしてから朝方までカラオケを行うなどリラックスし、12日はホテルから出ず心と体も休ませていた。13日、三沢は移動バスで広島入りし、ホテルに荷物を置いて会場入り、大会はSAMURAI TVにて中継されることもあってインタビューに答え、大川正明リングアナに声を掛けられて逃げるという愛嬌も見せ、周囲には「コンディションはいいよ」と語っていた。試合開始直前、古傷の腰が悪化した秋山の処置をしていた浅子覚トレーナーにニコっと笑い、三沢はリングへと向かった。それが三沢の最後の姿になることは誰も思わなかった。
選手権は、いくら三沢が「コンディションはいいよ」と答えていても、潮崎の目から見ても三沢のコンディションの悪さはわかっていた。だから今回も潮崎の出番は敢えて多めにして三沢の出番はなるべく少なくという試合運びをせざる得なかった。やっと三沢の出番になると、三沢はバイソンにランニングエルボー、セントーン、エルボーとバイソンを攻め込んでいくが、彰俊が入ると合体雪崩式アイアンクロースラムを食らってしまうが、このときに三沢の頭がいつも以上に頭が揺れていたという。本当ならこの時点で各自が異変に気づくべきだったのかもしれない、しかし三沢が普通に動きだしたのでレフェリーだけでなく、潮崎も三沢は試合が出来ると判断するが、だが三沢は彰俊の猛攻の前に防戦一方となり、彰俊の串刺しでの膝蹴りを顔面に喰らったあとで、バックドロップを受けてしまった…、実は浅子トレーナーから首全体に骨棘があることから下を向くことが出来ない三沢に「後ろに投げられるのは気をつけてください」と注意を受けていた。三沢がダウンした後で彰俊もラリアットを狙うためにコーナーに下がっていたが、三沢は横にくの字でダウンしたまま起き上がってこない、ここで西永レフェリーがチェックに入ると三沢の顔色がみるみるうちに紫色に変色したことで異変を察知、そこで三沢が突然目が開き、あらぬ方向に向けた、そして西永レフェリーは「動けるか?」と聴くと、三沢は「ダメだ」、西永レフェリー「止めるぞ」、三沢「止めろ」と指示し、試合終了のゴングが鳴らされた。TKOで王者組が勝利も、三沢が起き上がらないことで館内は騒然となり、セコンドで試合を見ていた杉浦貴も石森太二に浅子トレーナーを連れてくるように指示、鼓太郎も氷嚢を持ってリングに上がる。そして観戦していた医師二人もリングに呼び込まれ、浅子トレーナーは人工呼吸、医師も心臓マッサージを行うなど応急処置が施され、ファンも三沢が起き上がってくることを信じて"三沢コール"が発生する。やっとAEDが運ばれ処置が行われ、秋山だけでなく佐々木健介、高山善廣も駆けつけ、救急隊も駆けつけ三沢は担架ごとストレッチャーに乗せられ会場を後にするが、三沢が意識が戻らないまま病院に搬送される姿を見たファンも涙を流し、リングから目を背ける人もいるなど動揺が広がる。選手会長の森嶋猛は「必ず三沢さんは帰ってきます!今日はありがとうございます!」と大会を締めくくったが、誰もが森嶋の言葉を信じたかったと思う。だが午後10時10分、三沢は顎髄離断で死去した…
死去が報じられてから自分は三沢の死がまだ受け入れないでいた。だが日本テレビ系列で放送されていた「スポーツうるぐず」で三沢の死が報道された。また翌朝には三沢の親交がある徳光和夫さんの司会する「THE・サンデー」でも三沢の死が報道されただけでなく、広島大会に試合後の模様が放送されたが、自分はこの夜は眠れない夜をすごしたが、悲しくて悔しい夜はジャイアント馬場さんの死去以来だったのかもしれない。
三沢に死からしばらくしてから三沢にバックドロップを放った彰俊に様々なバッシングを受けていることが報じられ、NOAHサイドも自重を呼びかけていたが、自分も三沢がこの光景を見ていたら悲しみ、また人間ってこんな嫌なものかと思い知らされるようになった。自分はお別れの会にはどうしても仕事で上京できず、三沢追悼興行の大阪大会で緑の献花を献花台に置いて三沢に別れを告げたが、この間にはNOAHは新体制を巡って強引に田上明体制を固めた仲田龍氏を百田光雄が批判しNOAHを去るなど、三沢亡き後のNOAHは大きく揺れ始め、後に泉田純の告発よってタニマチによる巨額詐欺事件が発覚し、三沢亡き後GMとなってNOAHを支えてきた仲田氏、常務だった永源遥も失脚、旧体制が崩壊し新体制が発足するなど、三沢が遺したツケが一気にNOAHに圧し掛かった。
三沢は仲田氏に9日に行われた静岡・沼津大会で引退をすると告白しており、仲田氏とどう引退するかを段取りしていたという、仲田氏は「2、3年前に(引退できる)環境を整えてあげないといけなかった。誰のせいかと言われると…」と、三沢に頼ってしまった自身を責めていたが、いや三沢が亡くなるまでのNOAHは誰もが三沢に頼りきっていたし、甘えていたし、そして三沢は応えようとしていた…
NOAHは今年で旗揚げして18年目を迎え、旗揚げしたメンバーも次々と去って残ったのは丸藤正道と小川良成だけとなり、新体制となってもNOAHの看板だけはしっかり守り通されていた。NOAHの看板だけは三沢が唯一遺した財産、しっかり守り通して欲しい。
最後に今でも自分は「スパルタンX」が流れると三沢光晴が入場するのではと思ってしまう…
(参考資料=6月13日を忘れない、三沢光晴最後の一日 週刊プロレス著)
過去の三沢特集はこちら
三沢特集! / 三沢光晴の運命を決めた2代目タイガーマスク誕生秘話: https://t.co/mQueBAXkvZ
— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2018年6月12日三沢特集! / タイガーマスクからの脱却…ジャンボ鶴田から奇跡の勝利…三沢伝説はここから始まった!: https://t.co/0vLCGHYSbo
— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2018年6月12日三沢特集! / チャンピオンカーニバルヒストリー⑦三沢初優勝、田上火山噴火!: https://t.co/kCBQVVHyFz
— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2018年6月12日三沢特集! / チャンピオンカーニバルヒストリー⑧ 初の巴戦による優勝決定戦、秋山の台頭、そして疲弊する四天王…: https://t.co/wvE6ZxxeHu
— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2018年6月12日三沢特集! / ZERO-ONE旗揚げ(後編)…破壊王が生み出したカオスの空間: https://t.co/KyHQhSFVzZ
— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2018年6月12日PR -
タイガーマスクからの脱却…ジャンボ鶴田から奇跡の勝利…三沢伝説はここから始まった!
5月の月間MVPはこちら(選択項目数3)https://t.co/BIb5qpAjZq
5月のタッグMVPはこちら(選択項目数3)https://t.co/80QPoZPReq
5月のベストバウトはこちら(項目選択数8)https://t.co/RvkOFqSM0K
5月のベストシリーズ&興行はこちら(項目選択数5)https://t.co/Ge3SgzYyg1
— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2018年6月3日
1990年5月14日、全日本プロレス東京体育館大会、タイガーマスクとして川田利明と組んでいた三沢光晴が谷津嘉章、サムソン冬木組と対戦、試合中に三沢は突如川田にマスクの紐を解く命じ、川田は言われるがままにマスクの紐を解くと、三沢はマスクを取って素顔を晒し、三沢の突然の行動にファンは驚くも大きなインパクトを与えた。1984年夏に三沢は2代目タイガーマスクに変身、当初はジュニアヘビー級で活躍していたが、タイガーとして再デビューしてから1年後の1985年に体重が増えたためヘビー級へ転向、しかしヘビー級に転向しても初代タイガーのスタイルである華麗な空中技を使用することも迫られたこともあって、高校でのアマチュアレスリング時代から痛めていた古傷との膝との戦いも強いられていた。1988年に結婚した際に三沢は正体を明かし、タイガーとしての活動は継続するも、この頃から古傷の膝が悪化、膝が外れる状態になり、三沢は試合をするたびに膝が外れる状況の中で出場し続けていたが、遂に限界を感じたジャイアント馬場に欠場を申し入れ、1989年3月、日本武道館で行われたリッキー・スティンボードの保持するNWA世界ヘビー級王座に挑戦する試合を最後に欠場、リッキーへの挑戦はNWA会長だったジム・クロケットがジャンボ鶴田、天龍源一郎の挑戦を拒否したことで、三沢に挑戦権が周ってきたものだったが、三沢も膝の負傷もあってNWA王座への挑戦は乗り気ではなかったのかもしれない。
膝の手術を受けた三沢は長いリハビリを経て1990年1月に復帰、小橋健太と組んでアジアタッグ王座を奪取したが、この頃からマスクを取る決意を固めていた。だがこの頃は鶴田、天龍、スタン・ハンセンが中心だったこともあり、まだまだ三沢が割ってはいる余地はなかったこともあって、三沢はいつマスクを取るかタイミングを見計らっていた。そして4月に天龍が退団してSWSへ移籍したことをきっかけに、選手やスタッフがこぞってSWSへ移籍する事態が起き、専門誌も全日本存亡の危機と煽り立てた。危機的な状況の中で「スーパーパワーシリーズ」の開幕戦である東京体育館大会を迎えたが、メインでは馬場が鶴田と久々に師弟コンビを結成してテリー・ゴーディ、スティーブ・ウイリアムスの殺人魚雷コンビと対戦するも、馬場がゴーディのパワーボム、ラリアットと立て続けに喰らって完敗を喫したことで、暗い雰囲気が立ち込めたが、三沢は危機的状況をチャンスに変え、マスクを脱いで素顔を晒すことで大きなインパクトを与え、ファンも天龍に代わるスターの誕生を予感させた。
三沢は決意の表しとしてアジアタッグ王座も返上し、シリーズ最終戦6月8日の日本武道館でノンタイトルながら鶴田に挑んだ。ファンは入場する三沢に声援を送り、新しいヒーロー誕生に期待をかけたが、2日前にゴーディに敗れて三冠王座を明け渡していたものの鶴田の強さは健在であり、まだタイガーマスクのイメージが拭えていないこともあって、三沢が勝てるとは思ってみなかった。
試合開始から鶴田が豪快なボディースラム、三沢のドロップキックを受けきってカウンターキックを浴びせ、ジャンボラリアットを放つなど圧倒的な強さを見せていくが、バックドロップ狙いは三沢が浴びせ倒し、スライディングキックで鶴田を場外へ追いやると、ロープで回転する今で言う三沢フェイントを挟んでエプロンからドロップキックを放ち、エルボーで一気に流れを変え、リングに上がろうとする鶴田にエルボーの連打を浴びせて、再び場外に落とすとプランチャを放っていく。
リングに戻るとサーフボードからの力比べから三沢がカンガルーキックを放つと、リストを奪って鶴田の動きを封じにかかるが、鶴田がロープに逃れると、三沢が鶴田の顔面に張り手を浴びせ、これで鶴田も本気となったのかキチンシンクからジャンピングニーパット、コブラツイストで捕獲、三沢も切り返して逆にコブラツイストで捕らえるが、場外へ出した鶴田は鉄柵攻撃、リングに戻ってダブルアームスープレックス、スリーパーと一気にリードを奪う。
鶴田はエルボーアタックを狙う三沢を叩き落すが、ドロップキックで反撃した三沢はエルボーからミサイルキック、串刺しバックハンドエルボー、サイドスープレックス、スピンキックと畳みかけてからフロッグスプラッシュを投下、しかしクロスボディーは鶴田にキャッチされ、トップロープにノドを直撃させてしまい、鶴田はパイルドライバーで突き刺すからフライングボディーシザースドロップからニードロップを連発、ドロップキック、カウンターキック、セカンドロープからのジャンピングニー、トップロープからのダイビングニー、パワーボムと攻勢をかける。
鶴田のダブルアームスープレックス狙うが、三沢は逆さ押さえ込みで切り返すと、エルボーを放っていくが、今までのダメージで後が続かない。しかし鶴田が場外へ転げ落ちると、三沢はスライディングキックから、コーナーからのプランチャを発射、リングに戻ってから飛び蹴りの連打、鶴田のジャンボラリアットをかわしてジャパニーズレッグロールクラッチで丸め込むがカウント2でキックアウトされてしまう。
三沢はスピンキックからフロッグスプラッシュを投下も、鶴田は剣山で迎撃し、逆エビ固め、ジャンボラリアットの3連発と再び猛攻をかけ、バックドロップで勝負に出るが、三沢は咄嗟の判断でコーナーを蹴って、体勢が崩れた鶴田は自らの頭部も痛打させてしまい。三沢はジャーマンスープレックスホールドからタイガードライバーを狙うが、鶴田はリバーススープレックスで投げ、ジャンピングニー、フライングヘッドバットを狙う三沢をエルボーで迎撃も、鶴田自身も右腕を痛めてしまう。これで焦ったのか鶴田はドロップキックを放つが、かわされてロープに股間を痛打させしまい、鶴田はブレーンバスター狙うが、三沢が着地してバックドロップを狙う。そして鶴田が体を浴びせて押し潰すと、三沢は体を入れ替えてそのまま3カウントを奪い勝利を収め、館内は勝利を収めた三沢に声援を送り、三沢も先輩であり、エースである鶴田に勝利を収めたことで涙を流した。後年、三沢は鶴田戦を「試合は始まっても足は動かないし歓声もまったく聞こえない、頭の中で何回も天井を仰いだことを憶えているが、最後は咄嗟に体が反応しただけ、だから手を上げられても『終わったんだ』と思っただけ、ただ序々に勝ったんだという感激に包まれて涙がポロっと出た」と振り返ったが、このときの三沢はまだまだタイガーマスクの延長線上でしかなく、"三沢光晴"のプロレスを作り上げていなかった。その未完成の"三沢光晴”が無我夢中で鶴田に挑み勝ってしまった。ファンからは天龍に代わるスターの誕生を喜んだが、それと同時に背負った重責との戦いも始まった。
三沢はその後、川田利明、小橋、菊地毅と共に超世代軍を結成し、鶴田率いる鶴田軍と、ハンセンを筆頭にする外国人選手と戦いを繰り広げ、9月に鶴田と再戦したがバックドロップの前に敗れ、翌年は三冠王者になった鶴田に挑むも、バックドロップの連発に敗れた。そして三沢の時代が始まったのは鶴田が病気で欠場してからだったが、全日本における三沢時代を作るきっかけになったのはタイガーマスクからの脱却と、鶴田からの初勝利だった。
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冬木弘道がマット界の将来を見越していた"理想"のインディー統一機構
1996年11月1日、石川敬士率いる東京プロレスのオーナーだった石澤広太郎氏は、全日本プロレスではブッカーを務め、IWA JAPANの専務を務めていた佐藤昭雄と一緒に会見を開き、乱立するインディー団体を統一する構想として機構を設立することを発表した。
1988年に剛竜馬が「パイオニア戦志」、大仁田厚がFMWを旗揚げ、そしてFMWが成功したことで次々とインディー団体が旗揚げされていった。インディー団体がなぜ誕生したのか?、新日本と全日本は飽和となった選手層を緩和するために、ある程度キャリアを積んだ選手や中堅となった選手達を海外へ派遣していたが、WWFによる全米侵攻などの影響で海外で活躍する場が少なくなり、団体からあぶれる選手が出ていたことから、インディー団体の誕生は必然的な流れでもあった。そのインディーの乱立に拍車をかけたのはUWFとメガネスーパーという大きなバックを受けたSWSの分裂だった。UWFはUWFインター、リングス、藤原組と3派に、SWSはWAR、NOW、PWC、SPWFと4派に分裂、またFMWからもW☆INGやIWA JAPANなど派生する団体も出たため、インディーの乱立は歯止めが効かない状況となったが、1995年5月に大仁田厚が2度目の引退、またK-1、PRIDEなどの格闘技ブームもあってプロレスも冷え込み始め、インディー団体にも大きな影響を受け活動停止する団体も出始めていた。1994年12月にWARを離脱した石川敬士が東京プロレスを旗揚げした。石川はSWS時代から天龍源一郎と行動を共にしてきたが、WARは天龍の実家である嶋田家も経営に携わっていたこともあり、現場側と嶋田家側であるフロントとは対立し合っていた。だが天龍が社長を退いて選手に専念にすることになり、義弟の武井正智氏が社長に就任したことで、フロントの意向が強く反映されることになり、フロント主導となったWARに見切りをつけた石川は子飼いの嵐(大黒坊弁慶)と共にWARを離脱、自身のタニマチである石澤広太郎氏からバックアップを受け、新団体「東京プロレス」を設立、石川の元には嶋田家とは折り合いが悪く引退としてWARを追われ、月光というマスクマンに変身して他団体に参戦していた折原昌夫も合流、活動停止となったNOWからはアポロ菅原や当時若手だった山川竜司を加えた5選手や、新日本プロレスを契約切れで離脱した青柳政司も加わり陣容を整えた上での旗揚げだった。
石川は東京プロレスの存在をアピールするために、1995年5月に2度目の引退をする大仁田厚の引退試合の相手に名乗りを挙げ(実現せず)、時価3億円相当のチャンピオンベルトを使用したTWA認定世界タッグ王座の争奪戦、ガッツ石松との異種格闘技話題実現(実現せず)、また初代タイガーマスクや藤原喜明、契約切れのため新日本から離脱していたザ・グレート・カブキ、FMWから離脱していたミスター・ポーゴ、アブドーラー・ザ・ブッチャーなどの大物が参戦、1997年には新日本やWARと対抗戦を行っていたUWFインターナショナルも運営資金確保のために石澤氏に接近したことで、安生洋二と山本健一らゴールデンカップスが参戦し、安生は石川と組んでTWAタッグ王座を奪取するだけでなく、10月8日大阪府立体育会館にて石川と安生が社長争奪マッチも行い、安生が勝ち社長に就任、高田延彦も参戦してブッチャー戦の実現させるなど、話題を提供したが、大物を参戦させたとしても観客動員に繋がるものではなく、人件費などの経費がかさみ、運営も芳しくなかった。
高田vsブッチャーが行われた10・8大阪大会と同時期にインディーでは異変が起きていた。全日本でブッカーとして辣腕を振るい、WWF極東マネージャーに就任したのを契機に全日本を離れ、WWFからも離れIWA JAPAN専務に就任して団体を仕切っていたが佐藤昭雄が退陣を表明し、団体の中心だった真FMW(ターザン後藤、ミスター雁之助、フライングキッド市原)も離脱する事態が起きる。IWA JAPANもビクター・キニョネス体制でスタートしたが、キニョネスが撤退して子飼いの選手らと共にFMWへ移ると経営が苦しくなり、テコ入れのために佐藤が招かれたが状況は好転しなかった。そんな状況の中で佐藤は石澤氏から誘いを受けた、おそらく石澤氏は最初は東京プロレスのテコ入れのために佐藤を引き抜こうと考えていたが、話をした上で様々な選手に影響力を持っていると知り、東京プロレスより面白いものが出来ると考えたのではと思う。石澤氏は乱立するインディー団体を統一する構想を佐藤に話すと、佐藤も石澤氏は資金力もあることから、自分の手腕が生かせると思い話に乗った。
早速石澤氏は佐藤のルートでWA JAPANから後藤率いる真FMWを引き抜き。そして次にWARで冬木軍を率いていた冬木弘道を引き抜いた。後藤はいつ活動を休止してもおかしくないIWA JAPANに見切りをつけており、冬木も自身が牽引していたのにも関わらず、天龍を中心とするWARに見切りをつけていた。また冬木も後藤も全日本時代から佐藤の指導を受けレスラーとしても尊敬するだけでなくブッカーとして信頼していたのも離脱の要因だった。特に冬木は「社長レスラーはダメ、全体をまとめるのは、お金を持った第三者的の役目に」と将来はスターによって団体をまとめる時代ではなく。資金力がある企業の下で団体が運営され、しっかりとしたブッカーが団体を仕切る時代が来ると見越していたことから、"佐藤が仕切る団体なら、自分の理想が生かせる”と団体の将来性を考えていた上での離脱だった。
冬木は10・28後楽園大会を最後にWARを離脱、その3日後の11月1日に開き、石澤氏の構想に共鳴したということで冬木軍、真FMWが参戦を表明、そして東京プロレスから石川、UWFインターからゴールデンカップスとして安生も賛同、冬木軍と真FMWは東京プロレス12・7両国大会への参戦を発表するも、Uインターは構想には全く興味を持っておらず、あくまでゴールデンカッププスのみの参戦に留めた。しかし冬木に去られたWARも黙ってはおらず、インディー統一機構に対抗してプロレス連合會を設立、佐藤と真FMWに去られ開店休業に追いやられたIWA JAPAN、WARと提携していた剛竜馬の冴夢来プロジェクトと北尾光司の武輝道場、そしてレッスル夢ファクトリー、大日本プロレスが参加し、東京プロレスの12・7に対し、WARも12・13両国の開催を発表、プロレス連合會に名を連ねる団体だけでなく、Uインターからは高田の参戦が発表された。Uインターも統一機構に安生を参戦させていたが、連合會には高田を参戦させるなど中立として両面外交を貫いていた。
WARに先駆けて開催された東京プロレス12・7両国大会だったが、早くも統一機構に足並みの乱れが出る。冬木軍と6人タッグで対戦した石川が負傷を理由に試合途中で退場してしまい、メインに出場した安生が石川を批判して社長辞任を発表するなど、観客不在の大荒れの中で幕となった。そして大会終了後の2日目には東京プロレスの活動停止、そして新団体「FFF」の設立を発表され、所属選手には旧東京プロレス勢や冬木軍、真FMW、そしてカブキや栗栖正伸も加わったが、会見の場には石川は姿を見せず、石川は後に会見を開きインディー統一機構からの離脱、奥村茂雄(OKUMURA)、川畑輝鎮らと共に、WARと和解してプロレス連合會に参戦を表明するが、石川の突然の離脱はきな臭いものを感じさせた。対するプロレス連合會も一枚岩ではなく、両国大会直前には統一機構から引き抜きの被害がなかった大日本が撤退してしまうも、石川一派を加え、天龍vs高田という好カードを要したWARが大盛況となり、興行戦争はプロレス連合會に軍配が上がる。だが統一機構から団体に発展したFFFはWARだけでなく、大仁田が引退したFMWにとっても脅威であり、新日本と全日本に継ぐ第三勢力になるはずだったが、統一機構の団体化は冬木にとって理想とはかけ離れていたものだった。
FFFも2008年1月10日後楽園ホールで旗揚げを開催と旗揚げシリーズの日程も発表されたが、東京プロレス12・7両国前に既に異変が起きていた。資金が潤沢とされていたはずの石澤氏がUインターの鈴木健氏に"金を貸して用立てて欲しい"と申し入れがあり、鈴木氏も500万円を貸したが、後になって石澤氏の事業が上手くいっていないことを知り、慌てて貸していた500万円を回収するも、この時点で石澤氏が安生が東京プロレスの本当に社長に据え、事業の負債もまとめて安生に被せる計画だったことが発覚する。石川が統一機構から離脱したのも、石澤氏の計画に気づき、統一機構から手を引いたと見ていいのかもしれない。
そして年末に発売された週刊プロレスで石澤氏が資金繰りに行き詰まっていることが報じられてしまうと、12・7両国大会のギャラすら受け取っていなかった選手達は"FFFは旗揚げしない”と判断して見切りをつけ始める選手が続出、雁之助と市原は後藤を見限る形で古巣のFMWにUターンし、カブキも新装開店を前にしたIWA JAPANに招かれるなど今後に向けて動き出す。そして旗揚げ戦2日前に石澤氏が選手やフロントを招集し、事の経緯を説明した後で12・7両国のギャラを支払うも、支払いは小切手だった。そして石澤氏は夜逃げ同然で行方をくらまし、旗揚げ戦や旗揚げシリーズの中止も発表され、FFF構想は完全に頓挫、石澤氏の事業も不渡りを出して倒産し、選手やフロントに手渡された小切手は紙くず同然となった。
FFF構想は完全に頓挫したものの、冬木は早速行動を起こして、冬木に追随した邪道、外道と共に冬木軍プロモーションで自主興行を開始しつつFMWやIWA JAPANにも参戦、次第にFMWを主戦場にすることになる。雁之助と市原に去られた後藤はフリーとして活動、各団体を渡り歩き、古巣である全日本にも参戦、元NOW残党は大日本プロレス入りするも、菅原はセミリタイアした。佐藤は「こんな素人に騙されたんじゃ焼きが回ったな」と業界から身を引き、Gスピリッツでインタビューに答えるまでは業界とは一切連絡を絶った。
冬木が「社長レスラーはダメ、全体をまとめるのは、お金を持った第三者的の役目に」と発言したとおり、ブシロードが新日本を買収したことで、マット界もカリスマ性を持った社長レスラーの時代から第三者が団体を仕切る時代になったが、冬木はマット界の将来を見越していたことがよくわかる。しかし冬木が「最初の頃と話が違ってきて、最後はもの凄くしょっぱいインディーが出来ただけだった」と語っていたとおり、団体化した時点で冬木の理想は崩壊してしまっていた。もしインディー統一機構がキチンとした企業が取り仕切っていたらどうなっていたか、冬木の構想も実現するまで時間を要していたことを考えると、時代を先取りしすぎていたのだろうか…
(参考資料 GスピリッツVol.26 俺たちのプロレスVol.9「プロレス団体の終焉」) -
長州力、最初で最後の異種格闘技戦!トム・マギーは格闘家だったのか?
5月20日の昼にこういうニュースが入った。
かつて全日本プロレスで長州力と不思議な異種格闘技戦を行ったトム・マギー(59)が、カリフォルニア州の自宅近隣で、駐車スペースを巡るもめ事をきっかけに6人の若い男から暴行を受け顔面に大けがをした。米国では全国ニュースで大きく扱われているという。https://t.co/PhgbIScISf
— OmasukiFight (@omasukifight) 2018年5月19日
トム・マギーは既に引退しており、地域のガードマンとなっていたという。写真を見ても頭は凹み、顔は歪み、ボコボコ・・・こうなっては昔の面影は全くない。昭和62年全日本プロレスに参戦し、1月1日の元日に長州力と異種格闘技戦で対戦したトム・マギーで間違いないと思う。トム・マギーはカナダでウエートリフティングやボディービルでも数々のタイトルを獲得、1985年にミスター・ヒトにスカウトされて、カルガリーマットでデビューを果たした。ヒトは新日本プロレスの外国人ブッカーの一人だったが、ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスのブリティッシュブルドックスの引き抜きを契機に全日本プロレスに乗り換え、特にジャパンプロレスの社長だった大塚直樹氏とも親しかったこともあって、ジャパンの主催シリーズにはブルドックスでなくカルガリー勢もジャパンに送り込んでいた。
なぜ長州とトム・マギーが対戦することになったのか、カルガリーハリケーンズの項でも触れたとおり、全日本プロレスと提携していたジャパンプロレスは独立を模索、布石を打つためにTBSと交渉を開始しており、ハリケーンズと旧UWFとのプレオールスター戦を開催するだけでなく、大晦日に長州の異種格闘技戦をメインとした『格闘大戦争』を開催して、紅白歌合戦の裏番組にぶつけてジャパンの独立をアピールしようとしていた。その長州初の異種格闘技戦用に用意された選手がトム・マギーだった。大塚氏は長州も異種格闘技戦が出来ることをアピールして、長州を馬場やアントニオ猪木の地位まで押し上げようとしていた。
ところが日本テレビ側の圧力でジャパンとTBSとの交渉は白紙になると、馬場がジャパン側と話し合いを持ち、ジャパン側有利の契約を結ぶだけでなく、全日本と新日本は休戦し引き抜き防止条約を結んだことでジャパンの独立の芽を絶ち、がんじがらめの状態にしてしまう。全日本も日本テレビで放送されていた「全日本プロレス中継」が10月から土曜7時の枠でゴールデンタイムに復帰することが決まっており、長州も大事な視聴率要員だったこともあったことから、ここで長州を手放すわけにはいかなかったのだ。ジャパン独自で呼び寄せていたトム・マギーも宙に浮いた状態となるが、新日本の影響下のレスラーでなかったこともあって全日本に参戦することになり。全日本初の元日興行の目玉として長州初の異種格闘技戦が組まれた。結果的にはジャパンが大晦日で行うはずの異種格闘技戦は、そのまま全日本の元日興行にスライドした形となったのだ。
後楽園ホールは長州初の異種格闘技戦ということで元日にも関わらず3400人と超満員札止めを動員、テレビ中継も録画ながらも特番枠で放送された。トム・マギーはパワーリフティングの出身だったが、全日本プロレス中継では「カナダマット世界最強」「レスリング、カンフーや空手の心得もある」と紹介され、トム・マギーも意識してか1R開始からキックで牽制、長州がバックを奪うと力で振りほき片足タックルを仕掛け、ヘッドスプリングから後転、バク宙からトンボを切ってドロップキック、飛行機投げを狙う長州を持ち上げてエプロンに出すなど、パワーや身軽さもあることをアピールする。リングに戻った長州は首四の字で捕獲からグラウンドへ引きずり込み、動きを封じにかかる。2R入ると長州のショルダースルーを着地したトム・マギーはトラースキックを発射、フィンガーロックの攻防で長州を押し込みにかかるなど怪力ぶりを見せるが、リバーススープレックスで投げた長州はサソリ固めを狙うと、トム・マギーはロープに逃れ、2度目のサソリ固めは防がれるが長州はアキレス腱固めに移行も、しだいにトム・マギーに疲れが見え始める。
3Rに入るとトム・マギーはハイキックを命中させ、ベアハッグで捕らえてからツームストーンパイルドライバーで突き刺す、そしてコーナーに長州を押し込むとサマーソルトキックを決めるが、大した威力がなく、トム・マギーが着地したところで長州がリキラリアットが炸裂、最後はバックドロップからリキラリアットの連発で3カウントを奪い、長州が自身初の異種格闘技戦を制した。
長州は試合後のインタビューで「確かにいい素材だと思うけど、まだまだレスリングを知らない、これはと思ったのは、あのキック一発だけだったな。」と評していたが、試合を改めて振り返ってみると、異種格闘技に見せたプロレスであり、セコンドに着いていたヒトも指導はしたと思うが、パワーは見張るべきものがあったもののキックもレスリングも付け焼刃レベルで、キャリアの浅さが目立っていた。もし予定通り大晦日で放送されていたら、"どこが異種格闘技戦なんだ!!"と猛反発を受けていたのではないだろうか…
格闘技戦を終えたトム・マギーは1週間だけ全日本のシリーズに参戦して栗栖正伸、ハル薗田、仲野信市、渕正信、新倉史祐らとシングルで対戦して帰国、その後WWFへ参戦したが上位グループに食い込むことが出来なかった。この頃のWWFはハルク・ホーガンを始めとするマッチョ系のレスラーがトップを張っていたことから、"日本でも試合をしたから自分もアメリカでトップを張れる”と思ったのかもしれない。だが見栄えは良くても試合運びはレスリングに成長はなかったこともあってトップを張ることは出来ず、WWFを離れた後はヨーロッパを始めとする各団体を渡り歩き、1988年に全日本に再来日するも成長の後は全く見られず、中堅選手の噛ませ犬要員として扱われ、輪島大士とのシングル戦では無駄なアピールで失笑を買うだけでなく、逆エビ固めで速攻で敗れるなど醜態を晒した。日本から離れた後は引退してアクション俳優に転身していたという話を聞いていた。
今思えば日本でキャリアを積ませたら、現在のケニー・オメガのように大化けする可能性は秘めていたと思う。しかし見栄えだけでトップを取れると思い込んでいたことで肝心の本人に向上心がなかった。惜しいとしか言いようがない。 -
地味で目立たなかった保永昇男がジュニアの第一人者になった日
1991年4月、現在の「BEST OF THE SUPER Jr.」である「TOP OF THE SUPER Jr. 」が9年ぶりに開催された。
【出場選手】獣神サンダー・ライガー、保永昇男、ペガサス・キッド、ネグロ・カサス、オーエン・ハート、デイブ・フィンレー、フライング・スコーピオ
出場選手はライガーを筆頭に後にクリス・ベノワとなるペガサス・キッド、WWEでトップスターとなるオーエン、デビット・フィンレーの父親であるデイブ・フィンレーなど8選手、日本選手はライガー以外に保永のみで、このときのSUPER Jr.は新日本の1シリーズのサブタイトルに過ぎなかった。「TOP OF THE SUPER Jr. 」は誰もがライガーが優勝すると思われていたが、優勝したのは下馬評を覆してヒールでありながらも、地味で目立たない存在と評価されていた保永だった。
保永は1979年に新日本プロレスに入門、1980年4月にデビューを果たし、1982年に後にブロンドアウトローズで一緒になるヒロ斎藤、平田淳嗣と共にメキシコへ武者修行に出され、1984年3月に帰国、だが凱旋帰国ではなくメキシコでの環境が合わず、体調を崩しての帰国だった。しかし1984年9月に長州力ら維新軍団が新日本を離脱しジャパンプロレス設立へ走ると、維新軍団に去られたことで副社長の坂口征二の弱気ぶりを見て失望した保永は永源遥らと共にジャパンプロレスに合流、1985年に寺西勇と組んでアジアタッグ王者となり、小林邦昭の保持するインターナショナルジュニアヘビー級王座にも挑戦した。そして1987年にジャパンプロレスの分裂騒動がおきると保永は長州、マサ斎藤との個別面談で、全日本に居心地のよさを感じていなかった保永は新日本に戻りたいと志願、だが長州がUターンする先である新日本があくまで求めていたのは長州、マサ、谷津、小林、そしてレフェリーのタイガー服部だけだったこともあっていたこともあって、保永は新日本が受け入れるかどうかわからず、長州とマサは即答を避けるも、保永も新日本に戻れることになった。
新日本に戻ったが中堅から前座のポジションは変わらず、1988年の「TOP OF THE SUPER Jr.」にもエントリーしたが負傷欠場してしまい、公式戦を1試合もこなせないまま全戦不戦敗となるなど不名誉な記録を残した。しばらくしてメキシコ修行で行動を共にしていたヒロの誘いを受けてブロンド・アウトローズ入りを果たしてヒールターンを果たすも、常に前面に出たのはヘビー級のスーパー・ストロング・マシン、ヒロ、後藤達俊で保永はヒールターンを果たしても地味で目立たない存在だった。その保永が「TOP OF THE SUPER Jr. 」にエントリーをしたが、保永はなぜ自分がエントリーされたのか理解出来なかった。
リーグ戦となると保永は、ラフだけでなく、インサイドワークやアウトローズでも見せないスライディング式足掛けエビ固めテクニックまで披露して白星を重ね、ライガーやペガサスには敗れたものの残り5選手を破りライガー、ペガサス、カサスに並んでトップで公式戦を終え、優勝決定進出決定トーナメントでは公式戦で敗れたペガサスを破り優勝決定戦に進出、優勝決定戦の相手はカサスを破って進出したライガーで、誰もがライガーの優勝と思われており、家族も観戦していたが、家族ですらライガーに勝てるとは思っていなかった。
初めて両国国技館のメインに登場する保永にアウトローズが騎馬を組んで入場、保永から手を差し伸べて握手でスタートし、ライガーがヘッドシザースからレッグロックやデスロックなどで足攻めで先手を奪い、保永の首四の字も倒立で逃れたライガーはキャメルクラッチからグラウンドコブラで保永のスタミナを奪いにかかる。
ライガーは逆水平から串刺しドロップキック、ブレーンバスターからコーナー最上段からのアトミコ、ニールキックと攻勢をかけると、場外に逃れた保永にプランチャを狙うが、保永がかわして自爆し、保永はコーナー最上段からのプランチャから鉄柱攻撃、パイルドライバー、そして本部席でのテーブル貫通パワーボムでライガーに大ダメージを与え、一気に流れを変える。
保永はリングに戻ったライガーのマスクを破って揺さぶりをかけると、ブレーンバスターの体勢から前へ投げトップロープに直撃させる荒技を敢行、ナックルをはさんでジャーマンスープレックスホールドで投げ、ストマックブロックを決めるも、ライガーは風車式バックブリーカーからスクールボーイ、キックアウトしてコーナーに昇った保永にドロップキックを放って雪崩式ブレーンバスターで投げる。
保永はミサイルキックを狙うライガーをドロップキックで迎撃すると、メキシカンストレッチで捕獲、動きが鈍ったライガーにボディーブローやストンピングを浴びせていくが、ライガーは突進する保永をスロイダーで投げると、場外に保永を追いやってからスライディングキック、エプロンからのトペレペルサを放ち、保永も反撃してコーナーからダイブも、ライガーは剣山で迎撃する。
ライガーはDDTで突き刺すが、ショルダースルーを狙ったところで保永が下へ潜ってエビ固めで丸め込むと、ライガーも丸め込みで応戦してからラリアットを放ち、ライガーボムで勝負を狙うが、保永はカウント2でキックアウトする。
館内は保永コールが巻き起こる中で、ライガーは再度ライガーボムを狙うと、保永は体を浴びせて押し潰して丸め込み、コーナーからのダイビングネックブリーカーを狙ったところでライガーが追いかけ、雪崩式DDTを狙うが、急所打ちでライガーを落とした保永はダイビングネックブリーカードロップからジャンピングネックブリーカー、ジャーマンスープレックスホールド、そしてクロスアーム式ジャーマンで3カウントを奪い「TOP OF THE SUPER Jr. 」するだけでなく、リーグ戦開催にあたってライガーが返上していたIWGPジュニアヘビー級王座も奪取した。試合後もアンとローズの面々が祝福、再び騎馬を組んで保永の優勝をアピールしたが、保永が「三人(ブロンド・アウトローズのメンバー)が自分のことのように喜んでくれたのが嬉しかったですね」と語っていた通り、マシンを除く中堅の集まりであるアウトローズが存在意義を示し、また地味で目立たなかった保永がジュニアの第一人者として上り詰めた証でもあった。後年ライガーは「あの時(1991年のスーパージュニア)、保永さんの参加はたぶん長州さん(当時の現場監督)が決めたんだと思います。後輩の僕がこういうことを言うのはアレですが、保永さんは凄い地味な感じだけど持っているものは凄いよ! 確実なレスリングをするから。僕はああいうタイプが苦手なんですよ。暖簾に腕押しみたいな感じで。感情を表に出さずに飄々と確実なレスリングをやられると、こっちもあれよあれよという間に保永さんのペースに引きずり込まれる。僕も世界のいろんなところで試合をしましたけど、やっぱり王道と言われた全日本のプロレスは、基本というか世界に通じると思います。だから保永さんがそういうスタイルを確立したのは当然だと思います。あの決勝戦のお客さんの爆発は凄かった。ジェラシーにも似た気持ちが沸くぐらいの大保永コールだったことも覚えています。保永さんがジュニアに参入したのは大きかったですね。ジュニアが幅広く厚くなりましたよ」を評した。保永は全日本参戦時にはジャイアント馬場やドリー・ファンク・ジュニア、ザ・グレート・カブキ、ザ・デストロイヤー、ミル・マスカラス、ニック・ボックウインクルと大物とも対戦、特にニックとの試合は保永にとっても大きな印象を与えたことから、これまで培ったルチャのスタイルにニックのスタイルを織り交ぜたることで、自身のスタイルを確立させていた。現場監督だった長州は保永の試合ぶりを見てスーパージュニアに推薦したのかもしれない。
その後、保永はペガサス、ライガーと防衛し、ライガーとの3度目の対戦では敗れ王座を明け渡したが、3ヵ月後にはライガーを破り王座を奪取していた野上彰を降して王座を奪還も、1989年2月札幌では再びライガーに敗れ王座を明け渡し、帰国したエル・サムライや、金本浩二、大谷晋二郎の台頭、属していたブロントアウトローズがユニット名をレイジングスタッフと改めるも、後藤が平成維震軍へ移り、マシンもWARへ出向したため、ヒロと保永だけとなっていたレイジングスタッフは自然消滅、保永は本隊の扱いとなっていたことで王座戦線からは1歩退いた。ところが1994年9月にペガサスとの防衛戦を控えていたライガーが左足首を骨折して長期欠場を余儀なくされるハプニングが起きると、保永が代役としてペガサスとの王座決定戦を行い王座を奪取、ライガーの代わりにジュニアを牽引し、6度防衛して防衛最多記録を樹立する。王座転落後は再び前座戦線に戻ると、IWGPジュニアヘビー級王座を奪取して1年後の1995年1月に高岩竜一との試合で左足アキレス腱断裂の重傷を負ってしまった。欠場前には古傷だった右目を負傷し自律神経失調症でドクターストップもかかっており、保永は長州に欠場を申し出ていたが『バカ野郎! そんなの三日も休めば十分なんだ!』と突っぱねられ、すぐ3日間欠場し復帰していた矢先での負傷だった。
保永は1996年5月の「BEST OF THE SUPER Jr」から復帰し、保永自身も負傷した左足とブランクもあってリーグ戦は脱落したが、大谷との公式戦では、勝てば優勝決定トーナメント進出を決める大谷とレフェリー交錯させ、レフェリーが意識を取り戻すタイミングを見計らって、急所打ちから丸め込んで勝利を収めて、大谷の優勝決定トーナメント進出を阻み、また1997年5月にはみちのくプロレスで猛威を振るう平成海援隊DXが参戦した際には保永は敗れたものの、ディック東郷相手にインサイドワークだけでなく、ロープで顔面をこする古典的なラフプレーで東郷を翻弄するなど、脇役に徹しながらも存在感を発揮した。
1998年の契約更改、現場監督だった長州から「お前、レスラーとしてはこれだから(クビ)。レスラーなら一年契約、引退してレフェリーになるなら二年契約。黙ってレフェリーになりますと判子を押せ。それがお前のためなんだ」から戦力外通告を受けた。このときは長州を始め、アントニオ猪木まで引退していたこともあって、一部ベテランの整理が始まっていた。保永もこの決定には納得しがたいものがあり、保永も自宅で泣いたが、保永もこのときは42歳になっており、ジュニアも新世代が次々と台頭していたジュニアの中心からも外れていた。またレフェリーの席に空きはなかなか出ないことから、長州は自身のせいでレスラー生活に影響が出る怪我をさせてしまった贖罪と、引退してレフェリーになった方が後々の生活には困らないと考えてくれたのだ。
1998年4月30日に保永はIWGPジュニアを巡って抗争を繰り広げたライガー相手に引退試合を行い、ライガーが勝って保永を介錯するも、試合後に保永に何度も煮え湯を飲まされてきた大谷、金本、高岩が乱入、引退を惜しむかのように「もう一試合、俺達とやってくれ!」と引退試合を志願する。そこでサムライが入ってライガー、サムライ、保永vs大谷、金本、高岩戦が急遽実現し、保永がアキレス腱断裂をしたときの相手である高岩をウラカンラナで3カウントを奪い有終の美を飾った。
「TOP OF THE SUPER Jr. 」がもしライガーが優勝していたら、現在のように「BEST OF THE SUPER Jr」になっていただろうか?「TOP OF THE SUPER Jr. 」の後に開催された第1回「G1 CLIMAX」も下馬評を覆して蝶野正洋が優勝して大きなインパクトを与えて現在に至ったように、「TOP OF THE SUPER Jr. 」も下馬評を覆して保永が優勝したからこそ大きなインパクトを与え、「BEST OF THE SUPER Jr」に至った。保永もSUPER Jrの大きな功労者でもある。
(参考資料、GスピリッツVol.39『90年代の新日本ジュニア』Vol.47『ジャパンプロレス』、新日本プロレスワールド)
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スーパー・ストロング・マシンヒストリー③平田淳嗣として迎えたもう一つの全盛期も、マスクマンに拘ったレスラー人生
1986年4月から全日本プロレスにすることが出来たハリケーンズだったが、最初は三人セットで全日本マットに上がっていたものの、次第に全日本本隊に叛旗を翻したザ・グレート・カブキ、長州に叛旗を翻したキラー・カーンとの共闘、ラッシャー木村と阿修羅・原の国際血盟団との共闘で便利屋的ポジションに甘んじるようになり、またマシンは原と組んでアジアタッグを奪取、ヒロは世界ジュニアヘビー級王座奪取、体格のある俊二は馬場に気に入られてAWAに海外武者修行へ出されるなど、個々の活動が多くなっていった。馬場もハリケーンズに対しては一定の評価はしていたが、充分に売り出されていないままで新日本を飛び出したこともあって、ハリケーンズの価値は全日本プロレスでは小さなものでしかなかった。
ところが1987年にジャパンプロレスに分裂騒動が起きると、ジャパンの後押しを受けたハリケーンズも否応なく巻き込まれてしまう。マシンとヒロは長州に追随して新日本に戻ることになり、アメリカにいた俊二は全日本に留まることを決意、ハリケーンズはマット界の流れに振り回される形で解散を余儀なくされてしまった。
長州軍団の一員として新日本に戻ったマシンだったが、その後起きる世代闘争でも藤波辰己、長州力、前田日明に割って入ることが出来ず、1988年3月にジョージ高野と組んで烈風隊を結成し、長州&マサ斎藤組からIWGPタッグ王座を奪取するが短期政権に終わり、脇役的ポジションに甘んじるようになる。
マシンは再浮上のためにヒロ、後藤達俊、保永昇男のヒールユニットであるブロントアウトローズに合流、長州に叛旗を翻してヒールターンを果たす。長州が保持していたIWGPヘビー級王座に挑戦し、そしてヒロとのコンビで馳浩&佐々木健介を破りIWGPタッグ王座を奪還して存在をアピールするが、馳&健介組との再戦に敗れ王座を明け渡すと、それと同時にアウトローズも失速、アウトローズはレイジング・スタッフとユニット名を改め、リニューアルを果たすも、越中詩郎が平成維震軍を結成したことで、存在が薄れ始め、原との縁で天龍源一郎の団体であるWARと共闘するも、後藤が維震軍に移ったことでユニットとしての存在意義を失い、レイジングスタッフは自然消滅してしまう。
新日本で居場所を失ったマシンはレンタルという形でWARに参戦、レンタル期間を終えるとマシンは本隊と離れ一匹狼となっていた蝶野正洋と合体しSGタッグリーグ戦から新日本に復帰を果たすも、蝶野はマシンとのタッグは最初から乗り気ではなく、新日本から指示で組んでいたに過ぎなかった。そのせいか誤爆を繰り返すなどしてギクシャクとするも、どうにか優勝決定戦に進出、武藤敬司&馳組と優勝を争うことになったが、蝶野はこの辺で見切り時と考えたのか、マシンが窮地に立ってもカットに入ろうとしない。蝶野の態度に怒ったマシンはラリアットを見舞った後でマスクを脱いで平田淳嗣の姿を晒した。優勝は逃したが、これを契機に平田として新日本本隊に戻った。マシンとしても新日本やWARでもインパクトを残せなかったことを考えると、新日本で新たなるポジションを得るには、マスクを取って大きなインパクトを与えるしかないと平田なりに妥協したのかもしれない。
平田は橋本真也とのタッグで蝶野正洋&天山広吉の蝶天タッグとIWGPタッグ王座を巡る抗争を繰り広げ、遂に王座を奪取し6度防衛の長期政権を築き、またシングルとしても平田として武藤敬司が保持していたIWGPヘビー級王座にも挑戦、王座は奪取できなかったが平田淳嗣としてもう一つの全盛期を迎えた。素顔としてもう一つの全盛期を迎えた平田だったが、マスクマンへの愛着がまだ残っていたのか、星野勘太郎率いる魔界倶楽部入りし、魔界1号として再びマスクマンへと変身、敢えて一歩引き参謀役として活躍したが、実際は格闘家中心でありサボり癖のある安田忠夫に対しての、お目付け役的なポジションだった。魔界倶楽部解散後は全日本プロレスにも参戦してスーパー・ラブ・マシンに変身してラブマシンズを率いた。
2005年には後藤達俊と共にブッカーに就任していたが、現場監督として新日本に戻った長州力と対立して解任、一時は反体制に回ったがユークス体制となっていったことでレジェンドとして扱われるようになった。長州とも和解したマシンは蝶野、ライガー、越中と共にレジェンドというユニットを結成したが、長州と蝶野が新日本を離れたことで自然消滅。永田裕志に招かれて青義軍入りを果たすが、この頃から後進の指導にあたるようになって、試合数も少なくなり、2013年3月10日以降からはセミリタイアとなった。
平田淳嗣というレスラーはマシンとなってから数奇なレスラー人生を歩んでいったが、そういった意味では夢と現実というものを身に染みるほど味わったレスラーはいなかったのではと思う。もしマシンではなく平田として凱旋していたら、どういうレスラー人生を歩んでいたのだろうか…
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スーパー・ストロング・マシンヒストリー②カルガリー・ハリケーンズ結成も味合わされた現実
1号~4号まで誕生させヒロ斎藤まで加わったマシン軍団だったが、その勢いは意外と短かった。1985年3月に新日本プロレスは全日本プロレスからブルーザー・ブロディを引き抜いたことで、猪木の相手はマシンからブロディに取って代わられてしまい、マシン軍団の相手は藤波辰己にとなる。4月16日の両国大会で行われた藤波vsマシン1号のシングル戦で、若松のパウダー攻撃がマシンに誤爆すると、藤波が長らく使用していなかったドラゴンスープレックスを解禁して勝利も、この誤爆をきっかけにマシンと若松の間に亀裂が生じ、1号はマシン軍団を離脱し現在のスーパー・ストロング・マシンへとリングネームを改めた。しかし新日本は"マシン軍団を"維新軍団よりインパクトがない""もう旬が過ぎた"と見なしマシンにマスクを脱がせようとするも、マスクマンとしてに愛着を持っていたマシンは当然拒否し、それでもマスクを脱がせようとする新日本に対して不信感を抱き始める。それが決定的になったのは5月17日熊本大会でおきた藤波辰己の「オマエは平田だろう!」のアピールだった。近年にあるテレビ番組にて藤波はマイクを向けられてつい喋ってしまったと真相を明かしたが、それからマシンには平田コールが起きるようになり、週刊プロレスまでも"マシンがいつマスクを取るのか”とキャンペーンを張るなど、マシンが素顔になることを煽ったが、マシンは「平田に戻ったら藤波さんの下で一生懸命やらされる」と思い、周囲が煽れば煽るほどマスクを取ることを拒否、正規軍入りすら拒否し新日本に都合よく利用されるのは嫌だと思い始めていく。
その矢先にジャパンプロレスから「新日本から離脱して長州と闘うポジションに立ってみないか」と持ちかけられた。マシンはマスクを脱がないことでマシン軍残党である2~4号との抗争でお茶を濁されるようになり、藤波との再戦要求も通らなかったことで、新日本の主軸から外されようとしていた。マシンは同じくマシン軍団を離脱し正規軍入りを持ちかけられたことで新日本に行き詰まりを感じていたヒロ斎藤と共に新日本から離脱することを決意、マシンは8月5日ジャパンプロレス大阪城ホール大会に来場、長州vs谷津嘉章戦を視察し「馬場、猪木の時代は終わった!これからは俺たちの時代だ!と谷津を降しアピールした長州に共鳴してリングに上がり握手をかわした。長州と握手するまでは新日本を離脱することで葛藤を抱えていたが、長州の一言で吹っ切れたという。表向きはマシンを歓迎していた長州だったが本当は歓迎しておらず、実際は大塚氏からマシンが現れることを後になって知らされた長州はこれ以上新日本と揉めたくないだけでなく、ジャイアント馬場の承諾も得ていなかったこともあって、マシンをリングに上げることはギリギリまで反対していた。だが聴かされた時点でマシンが大阪に来ており、予定していた長州vsジャンボ鶴田戦が鶴田の負傷欠場で中止になっていたことから、観客の不満を解消させるためには大きなインパクトを与えるしかないと考えた大塚氏に押し切られる形でマシンの参戦を認めざる得なかったのだ。最初はマシンとヒロだけで動き出すつもりだったが、同じく新日本での扱いに不満を抱いていた高野俊二も合流、芸能事務所の後押しを受けて日本初のフリーレスラーのプロダクション「カルガリーハリケーンズ」を結成、表向きはフリーとされていたが、実際はジャパンプロレスの後押しを受けていた。ジャパンも独立団体と謳っても実質上は全日本の衛星団体として扱われていたが、いずれは全日本から独立する計画を立てており、TBSとのレギュラー放送開始計画も水面下で進め、ハリケーンズの結成もジャパン独立の布石だった。またハリケーンズもあくまで独立プロダクションとアピールするために、第1次UWF参戦も視野に入れ水面下で参戦へ向けて交渉するなど、あくまでフリーの立場として新日本を含めた各団体に上がるつもりだった。
しかし長州の懸念が的中し馬場からマシンらの引き抜きに待ったをかかった。新日本は長州ら維新軍を引き抜いた報復としてブロディに続いてメキシコ遠征中だった越中詩郎、ケンドー・ナガサキの獲得に成功するなど、全日本に籍を残したまま海外に出ている所属レスラーの引き抜きに動いており、ザ・グレート・カブキやプリンス・トンガまで魔の手が伸びていることを知った馬場は大阪城大会前にNWA総会に出席するために渡米し、ロスサンゼルスで引き抜きの陣頭指揮を取る坂口と緊急会談するも、その場でジャパンがマシンらを引き抜いたことを知らされたという。ジャパンが独断でマシンらを引き抜いたことを知った馬場は坂口に「マシンらの引き抜きには関与していないし、全日本に上げるつもりはない」と坂口と約束、新日本と一時休戦し、ハリケーンズは11月に開催されたジャパンの主催シリーズには参戦したが、参戦していた全日本勢とは対戦させてもらえず、また日本テレビの圧力でTBSとのレギュラー放送計画も白紙に終わり、全日本プロレスと新たな契約を結びジャパンの独立計画も頓挫、第1次UWFも活動休止になったことで、独立プロモーションと謳っていたハリケーンズの当初考えていたプランに綻びが生じ始める。
せっかく引き抜いたハリケーンズを遊ばせるわけにはいかなくなったジャパン側は、活躍の場を与えようとして、86年1月1日の後楽園大会から全日本のシリーズに参戦することを大塚氏が発表するが、12月15日の池上本願寺における力道山23回忌法要で、力道山の墓前で馬場と猪木が握手を交わし、双方の弁護士の立会いの下で引き抜き防止協定を締結する。それは引き抜きのリストに載った選手は外国人選手であろうが引き抜いてはいけないもので、ハリケーンズの3人も新日本との契約が残っていたため、新日本側のリストに登録され、またジャパンの選手らも全日本のリストに登録されたため完全に独立の芽を絶たれてしまう。自分らが新日本側のリストに登録されていることを知らなかったハリケーンズは1月1日に後楽園大会に参戦するために会場入りするも、ハリケーンズのカードはなく、全日本側から出場できないと通達を受けた。この仕打ちにハリケーンズは怒り全日本だけでなく新日本をも非難して会場を後にしたが、完全に上がる場を失ったハリケーンズは干されてしまい、全日本から新日本へ移籍しながらもトラブルを起こしたブロディも新日本側のリストに登録されたことで日本マットから締め出されてしまった。事前通告もなくハリケーンズがカードを外されたことで大塚氏も面子が潰された形となったが、事前に報告しなかったのは、自分を通さずハリケーンズを引き抜いた大塚氏に対する馬場なりの報復だったのかもしれない、
どうにかハリケーンズに活躍の場を与えたいジャパンはテレビ朝日に違約金を払い、新日本もハリケーンズの3人との所属契約が切れる3月31日をまって引き抜き防止協定の登録から外し、晴れて全日本に参戦することが出来た。
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スーパー・ストロング・マシンヒストリー①キン肉マンから始まったストロング・マシン
1984年8月24日、新日本プロレス「ブラディ・ファイトシリーズ」開幕戦の後楽園大会で、突然目出し帽を被ったマスクマンと、黒いテンガロンハットを帽子を被り、サングラスを着用、白い装束を纏い、短い鞭を持った男が登場、マスクマンはセコンドについていた若手達に襲い掛かり、放送席で解説をしていたアントニオ猪木に挑戦状を叩きつけた。この模様は金曜8時の「ワールドプロレスリング」で生中継で放送されたことでファンにインパクトを与えたが、白い装束の正体はカナダ・カルガリーで悪党マネージャーとして名を馳せていた若松市政で、目だし帽を被ったマスクマンの正体は謎とされた。目だし帽の男の正体は平田淳嗣、1978年5月に新日本プロレスに入門、8月にデビュー、同期だった前田日明と凌ぎを削っていたが、1982年11月にメキシコへ海外修行に出された。平田本人はブレット・ハートのルートでカナダのカルガリーを希望していたが、受け入れ先のUWAは長州力と入れ替わりにとしてヘビー級レスラーを欲していたのもあって、平田に白羽の矢を立てた。だが自分の希望を通らなかった平田は合同練習をさぼり、自室へと引きこもるぐらいショックを受けたという。
平田はメキシコUWAではエル・カネックの保持するUWA世界ヘビー級王座に挑戦するなど、そこそこのポジションを築いていたが、カルガリー行きに未練を残していた。そこでメキシコから先にカルガリーに渡っていたヒロ斎藤を頼ってカルガリーへ渡り、同地で若松市政と出合った。平田は世話役となったミスター・ヒトによってバリカンでモヒカン頭にされ、インディアンレスラーのサニー・トゥー・リバーズに変身し、ジョージ高野ことザ・コブラを破り英連邦ミッドヘビー級王座を奪取するなどトップで活躍した。1984年夏になるとカルガリーマットも冷え込み始め、WWFへ売却寸前になったところで、平田はキラー・カーンの誘いを受けてフリッツ・フォン・エリックが主宰していたテキサスのWCCWへ転戦することになったが、新日本の副社長だった坂口征二から帰国命令を受け、平田は戻る気はなかったものの、坂口直々の命令には逆らえず帰国を決意する。当時の新日本は第1次UWFが旗揚げしたことで、前田日明、藤原喜明、木戸修、高田延彦が退団してUWFへ移籍、業務提携を結んでいたWWF(WWE)もビンス・シニアから現在のビンス・マクマホンに代替わりしたことで、主力選手の貸し渋りが始まり、新日本プロレス興行の大塚直樹社長も全日本プロレスと業務提携を結んだこともあって大揺れに揺れていた。新日本は前田らの抜けた穴を埋めるだけでなく、UWFからの引き抜きを防ぐために平田だけでなくヒロ斎藤、同じくカルガリーで活躍していた高野俊二を帰国させたのだ。
しかし帰ってきた平田に用意されたのは『キン肉マン』のマスクだった。当時アニメで『キン肉マン』が放送され大人気を呼んでいた。新日本はタイガーマスクの二番煎じだったザ・コブラが思うように人気が出ず、また全日本も2代目タイガーマスクを誕生させたことで、新日本も対抗するためにテレビ朝日側のアイデアで『キン肉マン』を誕生させてリングデビューさせようとしていたのだ。日本への帰国も『キン肉マン』への変身も平田の本意ではなかったが、会社命令には逆らえない、平田は周囲の説得もあって渋々『キン肉マン』への変身を決意、『キン肉マン』のマネージャーには、カルガリーマットの冷え込みと家庭の事情で帰国を余儀なくされ、故郷に戻っていたが、新日本の顧問となっていた元国際プロレス社長の吉原功氏の招きで新日本入りを果たしていた若松が着いた。ところが『キン肉マン』はテレビ朝日ではなく、全日本プロレスを中継していた日本テレビで放送されていたこともあって、許可を取り付けるのに難航してしまい、8・24後楽園当日になってもまだ交渉していたため、新日本は苦肉の策として『キン肉マン』のマスクに目出し帽を被らせて登場させたのだ。
『キン肉マン』は許可が下りずボツとなり、新日本はマスクを取って素顔の平田として猪木と対戦させようとしたが、この頃の新日本は新日本プロレス興行の大塚社長が「新日本からの選手の引き抜き」を公言したことでまた揺れ始め、長州力率いる維新軍団の離脱が噂されていたこともあって、長州の二番煎じになることを嫌った平田はマスクマンで通すことを決意、マスク屋が何種類も用意した中で現在の「笑い仮面」のマスクを選択した。平田本人はマスクを被るたびに人格が変わるマスクマンの魅力に取り憑かれるようになっていったという。
8月31日南足柄のテレビマッチにて目出し帽の男と若松が再び現れ、目出し帽の男の名前はストロング・マシンと公表されたが、ネーミングは若松が考えたものだった。9月7日の福岡でアントニオ猪木とのシングルマッチで再デビューとなったが、今度は若松が新たな怪覆面も従えて登場するサプライズを起こす、試合も平田自身も新日本への反発心もあって猪木相手に気後れもなく好きなようにやれた、いや猪木が平田の良さを引き出していたのかもしれない。試合は若松の乱入もあって猪木の反則勝ちとなったが、ストロング・マシンは同じ覆面をした2号も出現したことで大きなインパクトを与える。そしてシリーズが終わると長州率いる維新軍団が新日本プロレス興行に引き抜かれる形で離脱するが、マシン軍団は3号や4号も誕生して増殖、ヒロ斎藤も加わったことで一大勢力となり、ワールドプロレスリングも全盛期とは比べ若干視聴率は落ちていたものの、15%以上とキープ、観客動員も満員が続いたこともあって、維新軍団の穴埋めに大きく貢献したが、新日本は単なる穴埋め要員としか見ていなかった。
(参考資料 GスピリッツVol.40 ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.13) -
タイガーマスクのライバル、ブラックタイガー誕生!
1982年4月21日、新日本プロレス蔵前国技館で初代タイガーマスクのライバルとして初代ブラックタイガーがデビューした。
正体はマーク・ロコでイギリスマットではタイガーのライバルの一人であるダイナマイト・キッドと抗争を繰り広げ、1979年9月には国際プロレスに初来日、阿修羅・原の保持するWWU世界ジュニアヘビー級王座に2度挑戦していた。1980年に10月、イギリスマットには佐山聡がサミー・リーのリングネームで登場を果たし、9日はロコと初対決。二人の対決はイギリスマットでドル箱カードとなり、サミーはイギリスマットでも絶大なる人気を博し、キッドに次ぐ新しい好敵手の出現でロコも大きな影響を受けた。
1981年、サミーとロコは世界ヘビーミドル王座決定戦として対戦する予定だったが、サミーが突如イギリスマットから消えたことで、試合そのものがキャンセルされた。実は佐山に新日本プロレスから帰国命令が下っており ロコ戦を前にしていたのもあって佐山も帰国を断ったのだが、営業本部長だった新間寿氏の強引な説得の前に渋々了承し、ロコ戦をキャンセルして日本へと帰国してしまったのだ。帰国した佐山に待ち受けていたのは虎の覆面であるタイガーマスクのマスクだった。4月19日にタイガーマスクに変身した佐山はキッド戦で再デビューを果たし、、四次元殺法と名づけられた空中殺法で一大センセーションを巻き起こすことで、アントニオ猪木を凌ぐ人気選手へとのし上がっていった。
サミー・リーが突然イギリスマットから去ったことでイギリスのファンは落胆するも、ロコは気にする暇もなく試合をこなしていたが、新日本プロレスからオファーがかかる。日本では初代タイガーマスクのデビューと連動して「タイガーマスクⅡ世」が漫画化しており、宇宙プロレス連盟の最後の刺客としてブラックタイガーがタイガーマスクⅡ世と試合を繰り広げていた。これに目をつけた新日本もタイガーのライバルとしてブラックタイガーを誕生させることになり、うってつけの選手ということでサミーのライバルだったロコに目をつけたのだ。
オファーを受けたロコは最初は素顔のロコとしての来日だと思っていたが、ブラックタイガーという新しいマスクマンとして来日を希望され、既に新日本もタイガーマスクvsブラックタイガーを行うことを発表しており、日本では週刊少年サンデーで連載されていた「プロレススーパースター列伝」でタイガーマスクの新たなライバルとしてブラックタイガーの存在を公表していた。考える猶予もなく"たまにはマスクマンになることも悪くない”と思ったロコは日本限定でマスクマン、ブラックタイガーに変身し日本に来日、だがタイガーマスクの正体は誰かは明かされなかった。
タイガーマスクvsブラックタイガー戦はテレビ朝日系列の特番枠である「水曜スペシャル」で生放送され、タイガーの保持するWWFジュニアヘビー級選手権として行われたが、自分も「プロレススーパースター列伝」を読んでいたこともあって、"タイガーマスクの最後の日が来た”と思った。タイガーはねちっこく攻めるブラックの対し、フライングボディーアタックからローリングソバットで活路を見出すも、ブラックのダブルニードロップをかわして場外へ逃れるタイガーに、ブラックはトペ・スイシーダを発射、更に鉄柱攻撃で大ダメージを与える。
これで主導権を奪ったブラックは攻勢をかけ、暗闇脳天ことツームストーンパイルドライバーで突き刺すが、自身の強さを誇示するためなのかカバーに入らず、KO勝ちを狙ってダウンカウントが数えられる。それでも起き上がったタイガーはブラックの暗闇脳天狙いを切り返して、逆にツームストーンパイルドライバーで突き刺すと、フライングボディーボディープレスで勝負に出るが自爆。ブラックはブレーンバスターの体勢からトップロープに打ちつけるために前へと叩きつけ、タイガーはバックの奪い合いからジャーマンを狙うが、ブラックは急所へのバックキックで阻止、急所へのバックキックは今では定番の反則技だが、初公開したのはブラックでジャーマン破りの技として大きなインパクトを与える。
主導権を奪えないタイガーは場外戦へと引きずり込み、ロープ越しのフライングボディープレスを投下するも、場外での足四の字固めを仕掛けて逃げを選択、両者リングアウトでタイガーは王座を防衛も、内容的にも負けに等しい引き分けで、この試合でブラックタイガーはタイガーマスクのライバルとして認知された。その後ブラックは「ビッグファイトシリーズ」に参戦、猪木が体調不良で欠場となったことでタイガー、ブラック、そしてNWA世界ジュニアヘビー級王者だったレス・ソントンとの三巴の抗争がシリーズのメインとされたが、タイガーはペロ・アグアヨとの防衛戦直前に右膝を負傷し欠場、WWFジュニア王座は返上され、5・6福岡でブラックはグラン浜田との王座決定戦で勝利を収め新王者となる。右膝が回復したタイガーも25日の静岡でソントンを破りNWA世界ジュニアヘビー級王座を奪取、26日の大阪で挑戦者としてブラックと再戦、試合はタイガーがプランチャを自爆、ジャーマン狙いも急所へのバックキックで阻止されるなど大苦戦を強いられるが、暗闇脳天からの背面ダイビングエルボードロップをかわしたタイガーがツームストンパイルドライバーから初公開のラウディングボディープレスで3カウントを奪い王座を奪還、この試合後にブラックは知人からタイガーの正体はサミー・リーであることを知らされたという。
後にロコは「タイガーマスクはサミー・リーのさらに上を行っており、タイガーと対等に苦労しました。当時の私のキャリアを振り返っても一番のピークだった」と語っていたが、ロコはブラックタイガーとして6回対戦しタイガーの5勝0敗1分、ピークだったロコことブラックタイガーですらタイガーマスクに勝てることが出来なかった。タイガーとブラックの最後の対決が行われたのは1983年2月7日の蔵前国技館大会、これまでタイガーのジャーマンを全て急所へのバックキックで防いできたブラックだったが、タイガーが読んでバックキックを防ぎ、後頭部へのローリングソバットからのジャーマンスープレックスホールドで3カウントを奪い勝利、この試合を最後に二人の対戦は行われず、タイガーは引退して新日本を離れるが、ロコはブラック・タイガーとして継続参戦し、ジュニアの一角を担い続けたが、91年にイギリスでの試合中に脊髄を損傷して引退しリングを去った。
そのロコは2016年6月に公の場に登場しGスピリッツでのインタビューに答え、上井文彦氏の招きで来日、12月7日に開催された「STRONG STYLE HISTORY」に来場して、初代タイガーマスクこと佐山と再会、オールドファンを狂喜させた。なおブラックタイガーのキャラは新日本から離れ、現在5代目、7代目がプロレスのリングに登場している。
(参考資料 Gスピリッツ、ARCHIVES Vol.1初代タイガーマスク。タイガーマスクvsブラックタイガーは新日本プロレスワールドでも視聴できます) -
チャンピオンカーニバルヒストリー⑨小橋が念願の初優勝!四天王プロレス時代の突然の終焉
<1999年の出場選手>三沢光晴、田上明、小橋健太、秋山準、大森隆男、高山善廣、ベイダー、ゲリー・オブライト、ジョニー・エース
1998年夏からジャイアント馬場体制に疑問を持った三沢が現場監督に就任、三沢は現場を含めて改革に着手したが、1999年1月に馬場が死去したことで全日本プロレスは大きく揺らぎ始めていた。
99年度は三沢が仕切る最初のチャンピオンカーニバルだったが、川田利明は右腕の骨折で欠場、91年からエントリーしていたスタン・ハンセンは自身の衰えからチャンカンは卒業、トップ外国人選手から一歩引いて準レギュラー扱いとなり、スティーブ・ウイリアムスはWWEへ転出したたため参戦せず、代わりに98年度の世界最強タッグから全日本のレギュラーとなったベイダーが参戦、ベイダーは1月15日横浜文体での小橋とのシングルマッチに勝利した後、3・6武道館で田上を破り三冠ヘビー級王座を奪取することで、ハンセンやウイリアムスに代わるトップ外国人選手へと昇り詰めていた。
参加選手は三沢がリーグ戦による選手の負担を軽減するために10選手に限定、外国人選手もベイダー、オブライト、エースに限定されたが、他団体枠も設けられ、大森とのタッグ"NO FEAR"でフリーながらもレギュラー参戦していた高山、みちのくプロレスから全日本にレギュラー参戦していた新崎がエントリーした。3月26日の後楽園大会から開幕し、小橋は27日の後楽園大会では大森、31日の新潟では三沢、4月2日岡山で高山、4月4日広島では秋山、4月5日の博多で田上と連勝、4月8日大阪でのベイダーとの直接対決ではフルタイムとなる。11日後楽園でのエース戦でもフルタイムドローとなるが、14日岩手でのオブライト戦に勝ち、7勝0敗2分と負けなしで優勝決定戦に進出、決定戦の相手は三沢には敗れ、小橋とは引き分けたものの、他からは全て勝利を収めたベイダーだった。
四天王の中では唯一優勝のない小橋の初優勝に期待がかけられるも、ムーンサルトプレスをキックアウトされた小橋は剛腕ラリアットを狙ったが、ベイダーはかわしてジャーマンを投げた後で逆にムーンサルトプレスを投下、そしてパワーボムからベイダーアタックで3カウントを奪い、ベイダーが三冠王者のままで初優勝を飾り、小橋がまたしても涙を飲んで優勝を逃してしまったが、95年に三沢が優勝してからは、小橋にとってチャンカンは鬼門になっていた。
<2000年の出場選手>三沢、川田、小橋、田上、秋山、大森、高山、本田多聞、井上雅央、泉田純、ベイダー、ウイリアムス、エース、マイク・バートン、ウルフ・フォークフィールド、ジョニー・スミス2000年は三沢がかねてから提唱していたトーナメント方式を25年ぶりに復活させた。1月にオブライトが急死しており、アジアタッグ王者となっていた井上、WWEから移籍しエースとタッグを結成していたバートンが初エントリー、WWEを退団したウイリアムスも復帰を果たしていた。
トーナメント1回戦ではスミスが本田、小橋がエース、ベイダーが高山、三沢が川田、バートンが井上、泉田がウルフ、ウイリアムスが田上を破って2回戦へと進出、3月26日の愛知県体育館では秋山が大森と対戦も、試合開始と同時に大森がアックスボンバーを浴びせて3カウントを奪い、7秒殺で2回戦へ進出する。
この勢いに乗った大森は2回戦でバートン、準決勝で泉田を破ったウイリアムスを破り決勝へ進出、小橋は2回戦でスミス、準決勝で三沢を破って決勝へ進出する。
優勝決定戦は大森がミサイルキックやダブルニードロップと攻め込むが、アックスボンバーを受けきった小橋が猛攻を浴びせ、ターンバックルへのパワーボムからの剛腕ラリアットで3カウントを奪い、念願の初優勝を飾った。だが舞台裏では全日本の方針を巡って、社長である三沢と馬場元子オーナーの間に亀裂が生じ始め埋めがたいものになってしまっていた。
次期シリーズである「スーパーパワーシリーズ」が終わると、三沢が社長を辞任したことを受けて、三沢を含めた選手26人、練習生1人、大半の職員が全日本プロレスを離脱する事態が発生、三沢体制は僅か1年あまりで崩壊、小橋の優勝は1回だけとなり、秋山が優勝したのはNOAHからUターンした後の2013年だった。
全日本は四天王で唯一残った川田、渕正信、太陽ケアら選手、スタッフ6人で継続され、チャンピオンカーニバルも馬場元子、武藤敬司と体制が代わりながらも継続され、NOAHから全日本に戻り社長となった秋山が全日本の看板を守りつつ継続されている。(チャンピオンカーニバルヒストリー完)
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ジャンボ鶴田が初代王者も、難産の末統一された三冠ヘビー級王座
全日本プロレスの三冠ヘビー級王座は現在一つのベルトにまとまっているが、インターナショナルヘビー級・UNヘビー級・PWFヘビー級と歴史の深い3本のベルトを束ねた権威ある王座である。
その三つのベルトが統一されるきっかけになったのは87年6月、天龍革命が活性化されてからで、インター王座はジャンボ鶴田、PWF王座はスタン・ハンセン、UN王座は天龍源一郎がそれぞれ巻いていたが、どの王者が強いのかと問われ始め、3人の王者による王座統一戦の気運が高まっただけでなく、3王座より最も権威が高いとされたNWA世界ヘビー級王座が、WWF(WWE)に唯一対抗していたジム・クロケット・ジュニアのクロケットプロモーションによって独占され、NWA会員だった全日本に王者を派遣しなくなったことで、全日本のクロケットの関係が険悪化しつつあり、ジャイアント馬場も将来的にNWAから離れることを視野に入れて新たなる権威ある王座を必要としていた。
1988年9月11日広島で行われたハンセンvs天龍によるPWF&UNのダブルタイトル戦から三冠統一路線が始まり両者リングアウトで2王座とも統一はならなかったが、10月から全日本に復帰したブルーザー・ブロディが割って入り三冠統一路線に参入、四つ巴の争いとなっていく。1989年3月9日にハンセンvs天龍の再戦が行われ、天龍が首固めで3カウントを奪い二冠を統一するも、27日の武道館大会ではブロディが鶴田を破りインターヘビー級王座を奪取する。4月4日愛知で谷津嘉章を降しインター王座を防衛したブロディと、武道館でハンセンの再戦を退けた天龍の間で初の三冠統一戦が15日大阪で行われ、試合はブロディの最大の必殺技であるコーナー最上段からのキングコングニードロップを喰らいながらも、序盤での天龍の足攻めが効いていたせいかカバーに入れず、九死に一生を得た天龍が場外でパワーボムを決めるも両者リングアウトの引き分けで王座は統一ならず、インター王座は19日仙台でブロディとの再戦でフォール勝ちを収めた鶴田の手に戻り、ブロディも7月にプエルトリコで不慮の急死となったことで、三冠統一は再び鶴田と天龍の二人に絞られたかに見えたが、7月27日の長野で盟友ブロディの急死で燃えたハンセンが天龍を大流血に追い込んだ上で、コーナーに昇る天龍にウエスタンラリアットを浴びせて場外まで吹き飛ばしてKO、ハンセンが勝利で二冠王となり、三冠統一は鶴田とハンセンに絞られた。
鶴田とハンセンによる三冠統一戦は10月17日の広島で行われたが、テキサス州アマリロで共にファンクスの教えを乞うたもの同士で仲も良かったこともあって盛り上がりの欠く試合が多かったこともあり、そのためか広島での統一戦は両者リングアウトとなって、またしても三冠統一ならなかった。昭和から平成となり3月6日にやっとクロケットプロが2年ぶりにNWA世界王者を全日本が派遣したが、王者リッキー・スティンボードへのクロケット側が「鶴田、天龍の世界ヘビー級王座への挑戦は認めない」と指示を出すと、馬場が「だったらNWA王座はウチの三冠より下と扱わせてもらう!」と激怒し、三冠統一へと拍車をかける。89年4月16日後楽園大会で鶴田とハンセンの間で三冠統一戦が行われたが、盛り上がりに欠くことを意識しすぎたのか、場外で客席まで雪崩れ込む大乱闘を繰り広げると、長すぎる場外戦に歯止めがきかず、レフェリーの制止も聴かなかったため、両者リングアウトではなく収拾不可能ということでノーコンテストの裁定を降し、三冠統一どころか不完全燃焼の結末に後楽園のファンは怒り、ブーイングを浴びせ、物まで飛び交うなど会場が騒然となる事態にまで発展してしまった。
この事態を受けて2日後である18日大田区体育館で再戦が行われ、鶴田は流血するもハンセンのウエスタンラリアットをかわして丸め込んで3カウントを奪い、やっと三冠統一はなされたが、試合もやっぱり盛り上がりに欠ける凡戦だった。だが難産の末に全日本の新たなる権威であるよ三冠王座がやっと誕生した。
鶴田は2日後の20日大阪で天龍の挑戦を受けたが、受身の取れない急角度のパワーボムで天龍をKOして初防衛に成功、おそら鶴田の仕掛けたパワーボムは失敗作で、天龍が失神か首を負傷したことを受けて和田京平レフェリーが試合を止めた形となったのだろうが、改めて鶴田の強さを知らしめた。
6月5日の武道館大会で鶴田は天龍と対戦し、天龍がパワーボムで3カウントを奪い王座を奪取したが、しばらくして全日本はクロケットプロとの提携を解消、正式にNWAから脱退した。以降選手権認定宣言からはNWA認可がなくなり、「PWFが認定する三冠ヘビー級選手権試合」とされ、全日本独自の権威のある王座が誕生した。 -
チャンピオンカーニバルヒストリー⑧ 初の巴戦による優勝決定戦、秋山の台頭、そして疲弊する四天王…
<1997年の出場選手>三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太、秋山準、大森隆男、泉田純、スタン・ハンセン、スティーブ・ウイリアムス、ゲーリー・オブライト、ジョニー・エース、ジャイアント・キマラ
97年度は泉田、アブドーラ・ザ・ブッチャーのパートナーからシングルプレーヤーへの転換を図っていたキマラがエントリーも、泉田は開幕戦で左足首の脱臼の重傷を負ったため公式戦は1試合もこなせないまま不戦敗扱いとなった。またリーグ戦には参戦しなかったが、全日本が鎖国から方針を転換、他団体に門出を開いたことでFMWからハヤブサ、崩壊したUWFインターの後続団体であるキングダムから佐野友飛(佐野巧真)が特別参戦を果たした。この頃の小橋は前年度にも田上を破り三冠ヘビー級王座を奪取、ムーンサルトプレスから豪腕ラリアットをフィニッシュにするなど実力をつけ始め、初優勝にも大きな期待が寄せられた。
3・22後楽園での開幕戦では小橋は大森と対戦して白星発進し、本田、オブライトと連破、そして3・28長岡では三沢を豪腕ラリアットで降してシングル初勝利を収め。30日愛知では秋山を降すなど勢いに乗る。一方三沢はオブライト、大森、秋山を連破、小橋と敗れた後で30日愛知では川田とフルタイムのドロー、4・2大阪ではウイリアムスに敗れ、川田は本田を下して白星発進も、翌日にはハンセンに敗れ、大森とキマラには連勝、三沢と引き分けた後で、エース、オブライトと連破、この時点で川田が13点でトップ、2連覇を狙う田上が12点、小橋が10点、三沢が7点という展開となった。
小橋はエースを降し、4・5岡山で田上に敗れて公式戦初黒星を喫したが、ハンセンを破り、三沢は本田、田上から連勝、、川田はウイリアムスとフルタイムドロー、秋山に勝利。4・12後楽園では川田と小橋が直接対決するがフルタイムのドロー、4・13金沢では三沢はハンセンを降し、4・14新潟では川田は田上、三沢はキマラを降すも、小橋はウイリアムスに敗れ、この時点で川田が単独トップに、4・15福島で田上がハンセンに敗れて、この時点で19点の川田と小橋が優勝決定戦に進出も、最終戦目前で三沢がエースを破り、川田と小橋に並んで19点となったため、優勝決定戦はチャンピオンカーニバル初の優勝決定巴戦となった。
4・19武道館大会前には3選手による試合順を決める抽選が行われ、三沢vs小橋からスタートする。三沢vs小橋は両者激しい攻防となるも、フルタイムのドローとなり、インターバルがないまま三沢は川田と対戦、6分でパワーボムに敗れてしまう。優勝争いは川田と小橋に絞られ、小橋も懸命に粘ったが、川田がジャンピングハイキックで3カウントを奪い2度目の優勝、小橋はまたしても優勝を果たすことが出来なかったが、この巴戦を契機に三沢は全日本に不満を抱き始めていく。
<1998年の参戦選手>三沢、川田、田上、小橋、秋山、大森、泉田、ハンセン、ウイリアムス、エース、オブライト、ウルフ・フォークフィールド、キマラ
98年は開幕前に5・1に東京ドーム大会の開催を発表、メインは三沢の保持する三冠ヘビー級王座に川田が挑戦することになったことで、川田の2連覇が予想されたが、これまで1度も優勝戦線に食い込んだことがなかった秋山が22日の後楽園大会でハンセンからシングル初勝利を奪ったのをきっかけに、苦手だったキマラと連破、3・26千葉での川田戦には敗れたものの、三沢とフルタイムドロー、左足を痛めた田上の欠場による不戦勝、大森、オブライト、泉田を連破、4・11後楽園での小橋戦はフルタイムドローとなるが、エース、ウルフを破り、ウイリアムスとはフルタイムドローとなったが、小橋を差し置いて初の優勝決定戦進出を決める。
優勝決定戦の相手は2年連続で三沢、三沢は22日の後楽園では田上に敗れて黒星スタートとなるが、オブライトに勝利、秋山と川田にフルタイムドローとなるが、泉田、小橋、エース、大森を連破、だがエース戦で左足膝蓋骨を骨折したことが判明、それでも三沢はドーム大会を控えていたのもあって出場を強行、ハンセンとはフルタイムドロー、ウイリアムス、キマラ、ウルフを連破、2位を確定したことで優勝決定戦に進出した。
4・18武道館で行われた優勝決定戦は秋山が左膝攻めで試合を有利に進めたが、秋山の突進をかわした三沢がジャーマンを連発し、タイガースープレックスで流れを変えると、エクスプロイダーを狙う秋山にローリングエルボー、バックスピンエルボー、後頭部への浴びせ蹴りを決めた後で、三沢がタイガードライバーからのランニングエルボーで3カウントを奪い2度目の優勝となるが、満身創痍の状態のままで5・1ドームで川田を迎え撃つことになり、秋山は飛躍のきっかけを作ったが、三沢を中心とする四天王に疲弊が見られるようになっていった。
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チャンピオンカーニバルヒストリー⑦三沢初優勝、田上火山噴火!
<1995年の出場選手>三沢光晴 川田利明 田上明 小橋健太 秋山準 大森隆男 スタン・ハンセン ジョニー・エース ダグ・ファーナス、ダニー・スパイビー、ダニー・クロファット
メンバーが固定化しつつあるなかで、この年の1月から秋山と組んでアジアタッグ王座を保持していた大森がエントリーしたが、まだまだ覚醒しておらずリーグ戦は全敗で終わる。そして開幕直前で参戦予定だったスティーブ・ウイリアムスが出場をドタキャン、理由は家庭の事情とされていたが、日本で禁止されている鎮痛剤を大量に持ち込んだとして摘発され書類送検となり、1年間の入国禁止を言い渡されていたことが後になって発覚した。
95年のチャンカンは3・21後楽園での開幕戦から田上が小橋戦で断崖式ノド輪落としやダイナミックボムと新技を披露、小橋を下して白星発進し、三沢も新技であるリバース・ネルソン・デスロックでファーナスからギブアップを奪って白星発進、小橋はこのダメージも緒が引いたのか前半戦で得点が稼げず、早々に脱落してしまう。
勢いに乗った田上はクロファット、ファーナスと連破、4・3大分でのハンセン戦で公式戦初黒星を喫するが、体勢を立て直して大森、4・8大阪では前年度覇者の川田を降し、その後スパイビーを連破する。
三沢は大森、エース、小橋、クロファット、スパイビーを連破、4・6岡山では川田を降すも顔面へのジャンピングハイキックを喰らった際に左目を負傷、左眼窩骨折の重傷を負いながらも出場し続け、4・8大阪では秋山を降し、4・11名古屋ではハンセンと引き分けて黒星なしで得点を重ねる。終盤の4・12後楽園では三沢と田上が直接対決して時間切れ引き分けとなり同点で終了、この2人が優勝決定戦に進出した。
4・15武道館で行われた優勝決定戦は田上が三沢の痛めている左目を容赦なく攻めるも、三沢がエルボーからタイガースプレックスの連発で3カウントを奪い、念願の初優勝を達成、鬼門だったチャンカンを制覇するも、田上火山の勢いはこれで止まったわけではなかった。
<1996年の出場選手>三沢、川田、田上、小橋、秋山、大森、本田多聞、ハンセン、ウイリアムス、ゲーリー・オブライト、エース、パトリオット96年からはファーナス&クロファットのカンナム・エキスプレスが参戦はしていたもののリーグ戦からは外れ、代わりにUWFインターナショナルから移籍したオブライト、前年度夏から全日本に復帰したパトリオットが参戦、この頃は小橋が超世代軍を離脱しエース、パトリオットと共にユニット"GET"を結成していた。そして入国禁止が解けたウイリアムスもチャンカンから復帰し、本田もエントリーを果たした。
今年こそ優勝を狙う田上は開幕戦の3・22後楽園では小橋と30分フルタイムドローでスタートするが、汚名挽回を狙うウイリアムスは23日後楽園で秋山、24日の戸田では前年度覇者の三沢も連破、26日の長野では田上とウイリアムスは直接対決してフルタイムのドローとなる。
その後ウイリアムスはパトリオット、本田を破れば、4・1大阪でのオブライトとの注目の一戦はフルタイムドロー、田上は3・21愛知では川田と引き分け、4・1大阪では三沢には敗れるなど思うように白星が稼げない。
田上は秋山、本田、ハンセン、大森を連破すれば、ウイリアムスもエース、川田を連破するが、小橋に敗れて公式戦初黒星を喫し、ハンセンとはフルタイムドローとなるなど急ブレーキがかかる。田上はオブライト、パトリオット、エースと降して連勝で優勝決定戦に進出決め、ウイリアムスも大森を破って田上と同点で並び優勝戦決定戦に進出、注目のオブライトは中盤まではトップだったものの、後半から連敗が続いて優勝戦線から脱落し期待を大きく裏切る結果となった。
4・20武道館での優勝決定戦はウイリアムスが殺人バックドロップを狙ったところで、田上がコーナーを蹴って体勢を崩すと、ダイナミックキックからのノド輪落としで3カウントを奪い初優勝。その後田上は三沢を破り三冠王座奪取、世界最強タッグも優勝、保持していた世界タッグ王座を含めてグランドスラムを達成した。 -
チャンピオンカーニバルヒストリー⑥ 川田初制覇も三沢にとっては鬼門だった
<1993年度の出場選手>三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太、秋山準、スタン・ハンセン、テリー・ゴーディ、スティーブ・ウイリアムス、デイビーボーイ・スミス、ジョニー・エース、パトリオット、ダグ・ファーナス、ダニー・クロファット
ジャンボ鶴田が病気による戦線離脱、三沢がハンセンを破り三冠王座戴冠によって93年からの全日本プロレスは四天王プロレス時代へと突入、リーグ戦も1ブロック制に戻された。出場選手は四天王を筆頭に前年度からデビューした秋山が抜擢されたが開幕戦で負傷してしまい、リーグ戦を一戦もこなせないまま欠場、外国人常連勢にはパトリオットが加わり、WWF(WWE)でも活躍したスミスがエントリーしたが、後にWCWへ移籍することからリーグ戦に本腰を入れておらず期待はずれに終わった
3・25、26の後楽園2連戦から開幕し、今年こそ優勝と期待がかかる三沢は26日の後楽園ではパトリオット、前年度覇者であるハンセンはファーナスを破って白星発進。27日の京都大会では三沢は川田と直接対決、川田のジャンピングハイキックをブロックした三沢がエルボーを浴びせて3カウントを奪い2連勝、この頃の川田は三沢の三冠奪取を受けて超世代軍離脱を示唆していた。ハンセンはウイリアムスと対戦も、ウイリアムスのオクラホマスタンピートの前に敗れ黒星を喫する。しかしハンセンはパトリオットを破った後で30日の富山では三沢と直接対戦では、三沢のエルボーをブロックしたハンセンがウエスタンラリアットを浴びせて3カウントを奪い、三沢も公式戦初黒星を喫する。
リーグ戦はウイリアムスがトップを突っ走るが、ハンセンはスミスを粉砕も、4・2岡山では川田に敗れ2敗目、出遅れた三沢はクロファット、エースと連勝、4・12大阪では小橋を降して猛追をかけ、ウイリアムスはゴーディとのSDD直接対決に敗れて急ブレーキかかる。4・14名古屋ではハンセンは田上を破り、三沢はゴーディに敗れて2敗目を喫する。
後半からはハンセンが小橋、ゴーディに連勝、三沢もファーナス、田上、ウイリアムスに連勝してトップに立ち、ハンセンもエース、クロファットと連勝したことで、トップの三沢と並んで全公式戦終了、優勝決定戦は前年度同様、三沢vsハンセンとなった。
試合は三沢がランニングエルボーを狙った際にハンセンがウエスタンラリアットで迎撃、しかしハンセンも試合中に攻められた脇腹のダメージのせいでカバーが遅れてカウント2でキックアウトされてしまう。だが三沢もダメージが大きくエルボーで抵抗するが、最後は粘る三沢をハンセンがパワーボムを決めて3カウントを奪い、ハンセンが2連覇を達成、三沢はまたしても涙を飲み、川田はチャンカンをもって超世代軍を離脱した。
<1994年度の出場選手>三沢、川田、田上、小橋、秋山、ハンセン、ウイリアムス、エース、ファーナス、ビッグ・ジョン・ノード、ジョニー・スミス、ジ・イーグル
94年は病気で倒れたゴーディはエントリーせず、ダニー・スパイビーも参戦予定だったが、負傷でキャンセルしたため、代わりにジョニー・スミスが抜擢され、クロファットは世界ジュニア王者だったことでリーグ戦から外れた。4度目の正直を狙う三沢だったが21日の大和大会でのファーナスとの公式戦でフランケンシュタイナーを喰らった際に首を負傷して欠場し、24日から欠場、4月2日からは復帰したが大事をとってリーグ戦は棄権してしまう。
三沢欠場に奮起したのは、三沢の下を去り、田上と組んで聖鬼軍を結成していた川田で19日後楽園での開幕戦ではスミスを降したが、24日の平塚大会ではハンセンに敗れてしまう。しかしノード、エースと連勝、3・29富山でウイリアムスとフルタイムドローと立て直し、秋山、ファーナス、小橋、イーグル、田上と連勝した川田が優勝決定戦に進出、優勝決定戦の相手は富山大会で引き分けたウイリアムスだった。川田は浴びせ蹴り、パワーボムと畳みかけた後でストレッチプラムで絞り上げると、ジャンピングハイキックを連発、最後はパワーボムを連発して3カウントを奪い、チャンピオンカーニバルを初制覇を達成、三沢は先を越されるも、この頃の三沢にとってチャンカンはまだまだ鬼門だった。 -
チャンピオンカーニバルヒストリー⑤ 復活チャンカン!三沢の前に立ちはだかった鶴田とハンセン
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2018年4月3日1982年の第10回を節目に総当りリーグ戦方式の「チャンピオンカーニバル」は封印、以降9年間は「グラウンドチャンピオンカーニバル」と銘打って通常シリーズとして開催されていたが、総当りリーグ戦での「チャンピオンカーニバル」が1991年に復活した。
<1991年の出場選手>
Aブロック=三沢光晴、小橋健太、スタン・ハンセン、ダイナマイト・キッド、ダグ・ファーナス、ジョニー・エース、テキサス・ターミネーター・ホス
Bブロック=ジャンボ鶴田、川田利明、田上明、ダニー・スパイビー、ダニー・クロファット、ジョニー・スミス、キャクタス・ジャックリーグ戦は2ブロック制が取り入れられ、この頃の全日本は天龍源一郎がSWSへ移籍したことを受けて、中堅選手などが大量に離脱するも、代わりに三沢率いる超世代軍が台頭、超世代軍の壁として鶴田と外国人トップだったハンセンが立ちはだかっていた。出場メンバーは9年前までのチャンカンを経験しているのは鶴田のみで、それ以外は初出場、後にWWEでミック・フォーリーとなるキャクタスはまだまだ無名だった。
3・23後楽園で開幕戦が行われ、まずAブロックではハンセンがキッドをウエスタンラリアットで下して白星発進、ホス、エースを降し、4・6大阪では三沢までも降し、ファーナス、小橋を降して全勝でAブロックを突破、Bブロックは鶴田が26日の秩父でキャクタスを降してから田上、クロファット、4・6大阪では川田を破り、スミス、スパイビーを降して、全勝でBブロックを突破する。(エースはシリーズ中に負傷欠場する) 全勝対決となった鶴田vsハンセンは4・16愛知県体育館で行われ、ショートレンジのウエスタンラリアットを狙ったハンセンを払いのけた鶴田がジャンピングニーパットを浴びせて3カウントを奪い、鶴田が全勝優勝を果たし、その勢いに乗った鶴田は18日の武道館大会では三冠王座をかけて三沢の挑戦を受け、バックドロップの連発で3カウントを奪い防衛を果たす。<1992年の出場選手>Aブロック=鶴田、渕正信、三沢、テリー・ゴーディ、エース、ジャイアント・キマラⅡ、ファーナス、ジョー・ディートン、ザ・マスター・ブラスター
Bブロック=川田、田上、小橋、小川良成、ハンセン、スティーブ・ウイリアムス、スパイビー、クロファット、ビリー・ブラック、デビット・アイズリー92年も2ブロック制ながらも前年度参戦しなかったゴーディ、ウイリアムス、キマラ、ディートン、ブラックだけでなく、渕などのジュニア勢も加わったことで総勢20選手が参戦、前年度覇者の鶴田はハンセンに敗れ三冠王座を明け渡していた。
リーグ戦は3・20後楽園から開幕し、ハンセンはクロファットを破って白星発進、2連覇を狙う鶴田だったが、27日の和歌山でゴーディとフルタイムドロー、4・2横浜での三沢戦でもフルタイムドローとなり、4・14熊本でゴーディを破った三沢が鶴田戦での時間切れ引き分けの以外は全勝、鶴田とは1点差で優勝決定戦に進出。ハンセンも熊本でウイリアムスを降し全勝で優勝決定戦に進出する。
優勝決定戦は17日、前年度同様愛知県体育館で行われたが、三沢のダイビングエルボーアタックをブロックしたハンセンが左のラリアットで3カウントを奪い、全勝優勝を達成する。この頃は三沢の前には鶴田とハンセンという壁がそびえ立っていたものの、後に鶴田はB型肝炎のために長期欠場となったことで、チャンカン参戦は92年が最後となった。