プロレス史
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チャンピオンカーニバルヒストリー④ ブロディ、天龍が参戦!
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2018年4月3日81年にはブルーザー・ブロディがチャンピオンカーニバル初参戦を果たした。
<1981年度出場選手>ジャイアント馬場 ジャンボ鶴田 タイガー戸口 石川敬士、グレート小鹿、大熊元司、プリンス・トンガ、ロッキー羽田、ブルーザー・ブロディ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ジャック・ブリスコ、キラー・ブルックス、ジ・アベンジャー、ウエイン・ファリス
1981年度からは優勝決定戦方式ではなく、最多得点を獲得した選手が優勝という方式が取られ、参加選手も全日本が創立10周年記念ということで、セントルイス(サム・マソニック)プエルトリコ(カルロス・コロン)フロリダ(エディ・グラハム)デトロイト(ザ・シーク)カナダ・バンクーバー(ジン・キニスキー)テネシー(ニック・グラス)などNWA各会員からの推薦という形を取り、ブロディ、元NWA世界王者だったブリスコ、ブルックス、日本陣営からはトンガが初参戦、1979年度に一度参戦した石川はこの頃には海外武者修行を終え日本に定着していた。当初はジョージア推薦(ジム・バーネット)で昨年度準優勝だったスレーターが参戦する予定だったが自動車事故の影響で参戦は中止となった。
セントルイス代表として参戦したブロディは1980年1月に初来日を果たし、身体能力の高さを見せつけてタッグマッチながら馬場からフォールを奪うなどファンに大きなインパクトを与え、1981年から全日本マットに定着し始めていた。
ブロディは3・26後楽園での開幕戦ではリングアウトながらも5分で戸口を粉砕、石川を2分、小鹿を3分、後にホンキー・トンクマンとなるファリスにいたっては16秒と秒殺、大熊を3分と速攻勝負の連発で連勝を重ね、4・10広島でのブッチャー戦では両者流血戦の末に両者リングアウト、トンガを4分、ブルックスを2分、アベンジャーを3分と速攻で勝利を収めた後は、17日の秋田で2連覇を狙う鶴田と対戦し両者リングアウト、20日の大館ではブリスコと対戦して両者リングアウトとなるなど、2試合連続無得点試合で急ブレーキがかかる。最終戦の4・23大阪では19点の馬場を18点の鶴田、ブッチャー、ブロディ、ブリスコが追いかける展開となったが、ブリスコは全公式戦を終えていたため脱落。鶴田はブッチャーと直接対決も両者リングアウトとなって脱落し2連覇を夢を絶たれてしまう。優勝争いは馬場とブロディに絞られ、直接対決で馬場がフライング・ボディシザースドロップで3カウントを奪い3年ぶりの優勝を果たし、ブロディは優勝できなかった。チャンカンを終えると、後半からは特別参戦したドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクのザ・ファンクスを含め、リーグ戦上位7選手とインターナショナル王座争奪トーナメントが開催されたが、ブッチャーと戸口はシリーズを終えると新日本プロレスへ引き抜かれ、チャンカン参戦はこの年で最後となった。<1982年度出場選手>馬場、鶴田、天龍源一郎、阿修羅原 マイティ井上 佐藤昭雄 石川 小鹿 大熊 トンガ 羽田 ブロディ ビル・ロビンソン テッド・デビアス モンゴリアン・ストンパー アレックス・スミノルフ バック・ロブレイ ビル・ハワード
第10回目を迎えた82年には前年から海外遠征を終え第3の男へと急成長を果たし天龍が初参戦を果たした。この年はブッチャーが全日本を去ったことでブロディがトップ外国人選手へと昇格、チャンカン初参戦のロビンソン、ストンパー、スミノルフ、ロブレイ、ハワード、そして前年に崩壊した国際プロレスから移籍した原、井上、ブッカーとして日本に定着していた佐藤を加え、最多の18選手がエントリーも原は家族の不幸で開幕から欠場してしまい、全戦不戦敗扱いとなった。天龍は3・19後楽園での開幕戦では石川と対戦し、場外での延髄斬りからネックブリーカーでリングアウト勝ちで白星発進、その後ロブレイから勝利、デビアスとは時間切れ引き分け、トンガ、佐藤、ハワードと順調に白星を重ねるが、3・26越谷では遂に馬場とシングルで対戦、正面から攻める天龍に対し、馬場は余裕の試合運びを見せ、天龍は延髄斬りで反撃するが2発目はかわされると16文キックからの河津落としで3カウントとなり完敗、天龍は後に「オレ自身が吹っ切れる前だったから、あんなにデカイ人とやったら息があがっちゃうよ、勝手が違って空回りした」とコメントしていたとおり馬場と天龍の差はこの時点ではまだまだ歴然としていた。急ブレーキがかかった天龍はストンパーに勝利も、ブロディには3分で完敗、ロビンソンにも敗れるなど連敗、後のない状況へと立たされるが、その後スミノルフ、小鹿、大熊、羽田に連勝して踏ん張りを見せる。優勝争いはロビンソンがリーグ終盤に左膝を負傷して欠場してしまったため脱落、26点のブロディを25点の馬場、鶴田、ブロディに絞られ、23点で自力優勝が消えていた天龍は鶴田と初対戦、鶴田相手に延髄斬りやトペスイシーダで攻め込み、鶴田もダブルアームスープレックスやダイビングボディープレスと返す好試合となり、試合は30分フルタイムドローで鶴田は脱落も、天龍自身は「これでプロレスで飯を食っていける」と自信を深めた試合となった。優勝はブロディと馬場に絞られ、初優勝を狙うブロディは場外戦でテーブル攻撃を狙ったが、制止に入ったジョー樋口レフェリーを突き飛ばして失神させてしまい、レフェリーとしてシリーズに参加していたルー・テーズがサブとして入るが、ブロディはテーズにも暴行を振るったため反則負けとなり、馬場が2連覇を達成した。
そしてチャンピオンカーニバルは10回を節目にリーグ戦は封印されたことでブロディは1度も優勝できず、天龍が優勝したのは馬場や鶴田のいない19年後の2001年だった。
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チャンピオンカーニバルヒストリー③ ジャンボ鶴田、念願の初優勝!
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2018年4月3日ジャンボ鶴田は1974年の第2回から、中断を挟んで1992年の第12回までチャンピオンカーニバルにエントリーしたが、優勝は2回だけである。
<1979年度の出場選手>ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤー、大熊元司、グレート小鹿、ロッキー羽田、石川隆志、大木金太郎、アブドーラ・ザ・ブッチャー、キラー・トーア・カマタ、ディック・スレーター、ドスカラス、マリオ・ミラノ、ドン・ミラノ、ビリー・フランシス、ビッグ・レッド
<1980年度>馬場、鶴田、タイガー戸口、小鹿、大熊、羽田、ブッチャー、レイ・キャンディ、ミステリアス・アサシン、カール・ファジー、テリー・ファンク、ディック・スレーター、テッド・デビアス
馬場、鶴田、ブッチャー中心の優勝争いでマンネリ化が目立ってきた「チャンピオンカーニバル」に、スレーター、ドスカラス、カマタ、石川などなどの新顔が参戦。鶴田は3・3横浜文体での開幕戦ではいきなりブッチャーと対戦して両者リングアウトとなるが、石川、レッドに勝利の後で、ブッチャーと結託しヒールターンしていた大木とは両者リングアウトとなる。大木は両リンを連発することでリーグ戦をかき回していたが、"両リン"男となった大木がリーグ戦を大きく左右する。鶴田は大熊、羽田に勝ち、馬場とは時間切れ引き分け、小鹿、スレーター、ドスカラスに連勝、デストロイヤーと時間切れ引き分けになるが、カマタ、マリオ、ドンのミラノ兄弟にフランシスに連勝して優勝決定戦に2年ぶりに進出、優勝決定戦の相手は3連覇を狙う馬場を差し置いて鶴田と同点となったブッチャーだった。 秋田で行われた優勝決定戦は鶴田が流血したブッチャーにナックルを打ち込み、エルボードロップの連打からスピニングトーホールドで追い詰めにかかる。しかしブッチャーが場外に逃げ込むと、そのまま場外乱闘となり、放送席上でマウントを奪った鶴田はナックルを打ち込むが、そのまま両者リングアウトとなったため、馬場とジョー樋口レフェリーの協議の結果、再試合へと突入する。再試合は鶴田がコーナーからブッチャーの額にエルボーを投下しようとする。ところが地獄突きで撃墜し、ブッチャーが毒針エルボードロップで3カウントを奪い2度目の優勝を果たしたが、このときの鶴田は馬場とブッチャーという高い壁に阻まれていた。 1980年は馬場、鶴田、ブッチャー中心の優勝争いに日本で大人気を博していたテリーが参入、テリーとブッチャーが抗争中ということで、リーグ戦にテリー軍団vsブッチャー軍団軍団抗争という図式が取り入れられた。日本陣営は長らく日本側の助っ人として活躍してきたデストロイヤーが帰国、大木が国際プロレスへと転出したが、代わりにチャンカンに参戦経験のあるキム・ドクが全日本所属となり、リングネームをタイガー戸口と改め、日本人側としてチャンカンにエントリーした。 3・28熊谷での開幕戦では2年ぶりの優勝を狙う馬場はブッチャー軍団のアサシンと対戦、場外戦で同じブッチャー軍団のキャンディの乱入にあってリングアウト負けを喫し、テリーはキャンディに勝利も、ブッチャーvsスレーター戦ではブッチャーの凶器攻撃にテリーが怒って乱入しスレーターが反則負けになるなど、軍団抗争は日本陣営にまで飛び火するも、鶴田はファジーを降し白星発進した後でアサシンに勝利、テリーとは時間切れ引き分け、デビアスに勝利、戸口と時間切れ引き分け、小鹿、キャンディに連勝した後で馬場との師弟対決では時間切れ引き分け、羽田、大熊と連勝など時間切れ引き分けを挟みながらも順調に得点を稼いでいく。 中盤に差し掛かる4・24大津大会では馬場がテリーと対戦するが、ブッチャー軍団が乱入すると、テリーのセコンドだったスレーターが襲い掛かるが、ブッチャーにコショウをかけられて目を負傷、怒ったテリーが試合を無視してブッチャーに襲い掛かってリングアウト負けとなり、試合後にはシリーズ終盤に特別参戦する予定のザ・シークが来日予定を繰り上げて乱入し、馬場を襲撃するハプニングも発生、このリーグ戦に参戦しないシークがリーグ戦を荒らす存在になっていく。鶴田はブッチャーと対戦し、ブッチャーがロープへ走ったところで、テリーが先ほどの報復という形でブッチャーを足をすくって転倒させ、鶴田がカバーして3カウントとなり、テリーのアシストはあったがブッチャーに勝ったことで初優勝へ向けて大きく前進する。 リーグ戦は終盤に差し掛かるが鶴田は片目となったスレーターに油断したのか、敗れてリーグ戦初黒星を喫して全公式戦を終了、優勝決定戦進出は馬場vsスレーターの結果待ちとなったが、4・30長崎で行われた馬場vsスレーターにシークが乱入、馬場が襲撃を受けている間にスレーターがリングに戻ってリングアウト勝ちとなったことで、鶴田vsスレーターによる優勝決定戦となる。 優勝決定戦となった鶴田vsスレーターは、スレーターがテリー譲りのスピニングトーホールドで攻めれば、鶴田もダブルアームスープレックスで応戦するなど白熱した試合となるが、最後は串刺し攻撃を狙うスレーターを鶴田がかわしてからジャーマンスープレックスホールドを決め3カウントを奪い、念願の初優勝を達成、世代交代かと叫ばれたが、鶴田が本当の意味でエースになったのは後のことだった。
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チャンピオンカーニバルヒストリー②悪役レスラー・ブッチャーが初優勝!
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2018年4月3日1976年、第4回目を迎えた「チャンピオンカーニバル」は総当たりリーグ戦方式を導入する。
<1976年度の出場選手>ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤー、グレード小鹿、大熊元司、大木金太郎、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・バラクーダ、キング・イヤウケア、ザ・ビースト、バディ・ウォルフ、ラリー・レーン、ラリーシャープ
<1977年度の出場選手>
馬場、鶴田、デストロイヤー、高千穂明久、クツワダ、小鹿、大熊、大木、ブッチャー、スーパー・デストロイヤー、ブル・ラモス、ジム・デュラン、ビル・ホワイト、ホセ・ゴンザレス<1978年度に出場者>
馬場、鶴田、デストロイヤー、小鹿、大熊、ロッキー羽田、大木、キム・ドク、ブッチャー、ドン・レオ・ジョナサン、イヤウケア、ブラック・テラー、テッド・デビアス、ルーク・グラハム、フランク・モレル
所属からは馬場、鶴田、デストロイヤー、クツワダ、小鹿、大熊が参戦し、フリーとして新日本から全日本に出戻っていた大木、外国人からはブッチャー、イヤウケアを常連勢を筆頭に7選手、総勢14選手がエントリーし、シリーズ後半からは元NWA王者のハーリー・レイスが特別参戦となった。ブッチャーは第2回にもエントリーしており、1回戦ではを外国人側から日本側に着いた裏切者とされたデストロイヤーと対戦したが、無効試合となって引き分けとなり、その後2度にわたってた再試合が行われたが決着がつかず、両者失格で1回戦で脱落していた。4月2日の後楽園大会から開幕したが、ブッチャーは遺恨のあるデストロイヤーと対戦し、デストロイヤーがロープに引っかかって場外に宙吊りになったところでブッチャーが痛めつけると、馬場と鶴田が救出に駆けつけて、デストロイヤーに反則負けでブッチャーは白星発進、3連覇を狙う馬場はイヤウケアと対戦も、ブッチャーが乱入し灰皿で馬場を殴打、そのままリングアウト負けを喫して黒星発進となる。ブッチャーはクツワダ、シャープ、小鹿、大熊と白星を重ねるが、イヤウケアとは無効試合、鶴田、馬場とは両リンと3試合連続無得点で急ブレーキがかかり、その間に黒星スタートなった馬場、鶴田も順調に白星を重ねて追い上げていく、
リーグ戦後半の5・1日大講堂大会では馬場が鶴田との師弟対決をバックドロップで制したが、ブッチャーは大木と対戦し、両者リングアウトとなった後で、ブッチャーとの遺恨が勃発していたレイスが乱入してブッチャーを襲撃、日大講堂を飛び出し京葉道路で乱闘を続ける"ストリートファイト"事件を引き起こし、全日本は警察より注意を受ける事態となった。
大きな山を通り越したブッチャーはレーン、ビースト、バラクータと連勝、最終公式戦が行われた5月8日の札幌大会の時点でトップグループは16点の馬場、鶴田、大木、ブッチャーの4選手に絞られた。最終公式戦は鶴田と大木は時間切れ引き分けで17点止まり、馬場がバラクータ、ブッチャーがウォルフを破って18点目を獲得して同点トップとなり、馬場とブッチャーの間で優勝決定戦がメイン終了後に行われ、誰もが馬場の4連覇と思われていたが、馬場がフライングボディーアタックを浴びせた際にジョー樋口レフェリーを巻き込んでしまい、馬場はカバーに入るがカウントは入らない。馬場は構わず場外でブッチャーを攻め立てるが、樋口レフェリーが足を負傷して動けなくなったため、サブレフェリーに入ったジェリー・マードックが制止に入るが、制止を無視するどころか突き飛ばしてしまったため反則負けとなり、ブッチャーが優勝となった。当時の日本マット界は国際プロレスでビル・ロビンソン、モンスター・ロシロフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)が優勝する前例はあったが、悪役レスラーの優勝は前例にないことから、悪役レスラーのブッチャーの優勝は快挙で、全日本のトップ外国人選手の地位を揺るぎないものにした。1977年度もブッチャーが開幕戦でロード・ブレアースPWF会長暴行を振るって罰金を取られるというハプニングがあったが、馬場を差し置いて鶴田が1位で優勝決定戦へ進出、2位は馬場とブッチャーが同点となったため準決勝が行われ、準決勝と優勝決定戦は日本武道館で開催された。準決勝の馬場vsブッチャーは、大流血のブッチャーが場外戦でイスで殴打し、力道山の長男である百田義浩リングアナにも暴行を振るったため反則負けとなり、百田リングアナはこの事件を契機にプロレスラー転向を決意する。優勝決定戦に進出した馬場は鶴田と対戦し、鶴田の回転エビ固めをキックアウトした馬場がここ一番で出すランニングネックブリーカードロップを決め3カウントを奪い、2年ぶりに優勝。1978年にはジョナサン、ドク、テビアスが初参戦を果たしたが、優勝決定戦に進出したのは馬場とブッチャーで、仙台で行われた優勝決定戦は馬場がブッチャーを32文キックで場外まで吹き飛ばし、リングアウトで降して2連覇を達成、全日本はまだまだ馬場の時代であることを知らしめた。
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チャンピオンカーニバルヒストリー① 各王者を揃えるトーナメントから始まった
<1973年度の出場選手>ジャイアント馬場、サンダー杉山、サムソン・クツワダ、ヒロ・マツダ、マティ鈴木、マシオ駒、大熊元司、ザ・デストロイヤー、マーク・ルーイン、キング・イヤウケヤ、カリプス・ハリケーン、バロン・シクルナ、アントニオ・プグリシー、ムース・モロウスキー、マッド・ラシアン
<1974年度の出場選手>馬場、ジャンボ鶴田、杉山、クツワダ、高千穂、駒、鈴木、デストロイヤー、ルーイン、ミスター・レスリング、アブドーラ・ザ・ブッチャー、イヤウケヤ、ルーファス・ジョーンズ、ジョー・ソト、セーラー・ホワイト
<1975年度の出場選手>馬場、鶴田、デストロイヤー、小鹿、大熊、高千穂、クツワダ、ジン・キニスキー、キラー・コワルスキー、ルーイン、レスリング、ボブ・オートン・ジュニアスティーブ・カーン、マイク・ジョージ
全日本プロレスの春の本場所「チャンピオン・カーニバル」は旗揚げして5ヶ月後の1973年3月17日、世田谷区民体育館で開幕した。「チャンピオン・カーニバル」と名づけたのは、本来なら力道山本流のプロレスを受け継いでいるとして「ワールド・リーグ戦」の名称を使いたかったが、崩壊寸前ながらもまだ日本プロレスが存続していたことで、考えたついた名称が「チャンピオン・カーニバル」だった。この頃の全日本はNWAに加盟したばかりでNWA世界ヘビー級王者も呼べる状況であったことから、「チャンピオン・カーニバル」のタイトルに相応しく、当時のNWA世界王者のドリー・ファンク・ジュニアを始め、各地域の王者を揃えようとしていた。参戦したのはPWF王者の馬場、この頃には日本陣営に加わっていたUS王者のザ・デストロイヤー、南半球ヘビー級王者のマーク・ルーイン、太平洋岸ヘビー級王者のキング・イヤウケア、中南米ヘビー級王者のカリプス・ハリケーンに加え、ムース・モロウスキー、バロン・シクルナ、マッド・ラシアン、アントニオ・ブグリシー、全日本側からは助っ人として参戦しいたヒロ・マツダ、マティ鈴木、所属からはサンダー杉山、マシオ駒、サムソン・クツワダ、大熊元司の15選手がエントリーも、南半球、太平洋岸、中南米の3王座は全日本が用意した王座でベルトも粗末なものだったが、シリーズ終盤ではNWA王者のドリーも参戦して防衛戦が行われることになっていたため、ドリーさえ参戦すれば「チャンピオン・カーニバル」に箔がつくという計算もあった。
第1回の「チャンピオン・カーニバル」は総当りリーグではなくトーナメントとして開催された。トーナメントにしたのはリーグ戦は時には番狂わせが起きる、保持者が格下選手に敗れた場合、王座の権威が損なわれるという懸念があったからだった。トーナメント決勝には4月21日の福井市体育館で行われ、決勝には馬場とルーインが進出して馬場が優勝したが、番狂わせがないという"ハプニング"が起きなかったことで盛り上がりが欠け、「王座の権威が損なわれる」という配慮が裏目に出る結果となった。それでもドリーさえ来れば大丈夫と思っていたが、ドリーは自宅牧場でトラクターを運転中に転落事故を起こして全治2ヶ月の重傷を負ったため来日が中止となり、代役としてザ・シークが来日してPWF王座に挑戦したが、第1回の「チャンピオン・カーニバル」は苦心の連続で終わった。なおドリーは復帰してしばらくしてからハーリー・レイスに敗れ王座から転落、NWA王者として来日することになかった。
第2回もトーナメントとして開催され、全日本の常連となったブッチャー、前年度準優勝のルーイン、イヤウケアも参戦したが、全日本が用意した各ベルトは封印、この年からジャンボ鶴田もエントリーする。準決勝でミスター・レスリングに破れ脱落、決勝で馬場がレスリングを破って2連覇を達成、第3回は元NWA王者で馬場とも何度も激闘繰り広げたジン・キニスキー、コワルスキーがエントリーし、A~D4ブロックに分かれてトーナメントを行い、トーナメント1位の選手が総当りリーグを行う新方式を採用、馬場がキニスキーを破り3連覇を達成したが、この頃には新日本プロレスも総当りリーグ戦「ワール・リーグ戦」をスタートさせ、第2回では日本人対決を中心にしたことで話題を大きく呼び、さすがの馬場も意識せざる得ない状況となった。
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日本テレビからプロレス中継が消えた日
2009年3月30日02時25分の放送で「プロレスリングNOAH中継」の放送が打ち切られ、日本テレビにおけるプロレス中継が50年の歴史に幕を閉じた。
NOAH中継はNOAHが旗揚げ後の2001年4月に日曜深夜枠で放送を開始。前身である「全日本プロレス中継」は、2000年6月に三沢光晴ら選手達が全日本を大量離脱したことを受けて放送が打ち切ったが、日本テレビのプロレス中継はプロレス情報番組「コロッセオ」という形で継続、他団体の試合を放送しつつNOAHの動向を放送していた。この時はNOAHを中継するための準備期間とも言われたが、上層部は「NOAHは全日本以上に視聴率を稼げるのか?」と「コロッセオ」を通じて見定めていたのだ。
NOAHがZERO-ONEの橋本真也を参戦させ、新日本プロレスとの交流を開始したことで、全日本以上に視聴率が稼げると見込んだ日テレ上層部はNOAHの地上波放送にGOサインを出し、NOAHも小橋建太路線や新日本との交流を推進。日テレもCS放送G+が開局、G+普及のためにNOAHを後押しし武道館大会や後楽園大会などをCSで生放送するなど大いにNOAHを活用、NOAH初の東京ドーム大会はスカパーでのPPV放送となったが、2度目のドーム大会はディレイという形でG+にて独占放送された。
しかし2006年6月に小橋が病気欠場となってからNOAHに陰りが見え始め、NOAH側も丸藤正道、KENTAを中心とした次世代への転換を図ったが、内部の反発もあって上手くいかず、12月に丸藤を破った三沢がGHCヘビー級王座となって再び最前線に立つも、旗揚げから体調は常に悪く、フロント業務も行っていたこともあって思うように練習ができない日々が続いたことで、体力面でも衰えが見え始め、防衛は続けてもファンに満足させる試合が出来なかった。2008年3月に森嶋猛が三沢を破ってGHCヘビー級王者となったが、6月30日に日本武道館で行われた力皇猛との防衛戦は9500人と惨敗に終わったことで観客動員だけでなく視聴率も低迷するようになっていた。そのNOAHに追い討ちをかけたのは、2008年9月に大阪・よみうりテレビがNOAH中継を打ち切ったことを契機に地上波の打ち切りが噂され始めたことだった。この頃は民放各局もスポーツ中継の視聴率が低迷し、日テレの看板だった読売ジャイアンツの野球中継も必ず視聴率を稼げるコンテンツではなくなっていた。そこで日テレはスポーツ中継の制作費削減を決定し、有力スポンサーがなかったNOAH中継を真っ先に整理対象にした。
NOAH中継の打ち切りはスポーツ紙各誌が報道したが、仲田龍渉外部長も「放送継続に向けて交渉中」と打ち切りを否定、現にノア中継のホームページに放送日程の入った4・5月のスケジュールが更新されるなど放送継続を思わせる動きがあった。旗揚げから大所帯だったNOAHにとって日テレから来る放映権料は大きな資金源、それが放送打ち切りとなれば、ただでさえ傾きかけたNOAHが沈んでいくのは必至だった。仲田氏は放送継続へ向けて日テレ側に働きをかけたが、日テレの久保伸太郎社長の定例記者会見で、3月末で地上波での放送を打ち切る事を正式に発表することで、打ち切りは決定事項になり。3月30日最終回に放送された内容は3・15ディファで行われた丸藤プロデュース興行、杉浦貴&高山善廣組、森嶋&佐々木健介組のグローバルタッグリーグ参戦表明、KENTAが謎の黒覆面に襲われるというものだった。
昭和47年に日テレが日本プロレスの放送を打ち切りにした際にも、「プロレスは正力松太郎(初代社長)さんの遺産」として、ジャイアント馬場を動かして全日本プロレスを旗揚げさせた。しかし年が経つともに「プロレスは正力松太郎(初代社長)さんの遺産」と思う人間が少なくなり、遺産もいつの間にかお荷物となっていった。現在はG+が不定期ながらも放送、旗揚げ戦を放送したSAMURAIもNOAHの中継を継続している。
そして現在、新日本プロレスがテレビ朝日の協力の下で独自のネット配信サイト「新日本プロレスワールド」をスタートさせたのをきっかけに、DRAGON GATE、DDT、大日本プロレス、スターダム、WAVEも独自によるネット配信を始め、今年から日テレが捨てた団体だった全日本プロレスも独自のネット配信を開始した。これからはTVからネットという時代に変わる中で、NOAHはネット配信という面では大きく立ち遅れている。NOAHはこのまま時代の波から取り残されていくのか…
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ZERO-ONE旗揚げ(後編)…破壊王が生み出したカオスの空間
猪木が主導権を握った橋本vs小川の抗争はドーム大会の目玉となり、2000年4月7日の「負けたら引退」を公約して試合に臨んだ小川との決着戦は橋本が敗れ、橋本は公約通りに新日本プロレスに辞表を提出、去就が注目されたが8月23日、橋本は熱心なファンの折り鶴兄弟から送られた復帰を願う百万羽の折り鶴をきっかけに引退撤回を表明、10月9日東京ドーム大会では藤波自ら橋本の復帰戦を務めた。
橋本に関しては1・4事変から社長である藤波が主導権を握っており、1・4事変から自宅に引きこもってしまっていた橋本を口説き落として復帰させたのも藤波だった。藤波が橋本を預かったのは、長州が仕切る現場だけは社長である藤波も口出しできない領域だったこともあったことから、藤波が橋本を再生させることで現場に影響力を示すことが出来ると考えたからかもしれない。藤波は橋本に猪木が総帥を務めるUFO入りを薦めたが、師匠である猪木ですら信用できないぐらい人間不信に陥っていた橋本は拒否すると、藤波は自身が起こした「無我」のように、橋本にも別ブランドを立ち上げることを薦め、橋本も長州が"現場監督でいるうち、新日本での居場所はない”"誰にも縛られず思う通りにやりたい"と考えたことから、藤波の話に乗った。復帰戦を終えた橋本は「僕に出来ることをすることがプロレス界のためだと思ってます。あえて新日本プロレスのレスラーという誇りを持って独立したいと思います」と独立宣言をしてそのまま姿を消してしまう。そして橋本が23日に会見を開き、「新日本プロレスリングZERO」の設立を発表、道場も公開し橋本はかつての付き人だった藤田和之と公開スパーリングを行った後で、この年に旗揚げしたばかりのNOAHとの交流を示唆する。橋本は1・4事変後に全日本プロレスに移籍していた馳浩を通じて三沢光晴と小橋健太と非公式な会談を行っており、三沢は橋本と"自分達の世代は喧嘩しないで交流できていたら"と話し合い、1999年5月1日の全日本東京ドーム大会で橋本復帰戦の場を全日本で設けて川田利明との対戦を進め、橋本も永島勝司氏に相談して了承を得ていたことで決定しかかっていたが、未亡人でドーム大会の実質上のプロモーターである馬場元子さんが「馬場の追悼興行は純メンバーで開催したい」と意向を出したことで橋本参戦が消え、橋本にも直接手紙で丁重に断った。しかし1999年5月1日東京ドーム大会は純メンバーだけでなくFMWやみちのくプロレスなどインディー勢を参戦していたことから、背後にアントニオ猪木の存在のいる新日本プロレスの選手は上げたくないという意向もあったのかもしれない。
2000年5月に三沢らが選手・スタッフが大量離脱してNOAHを旗揚げし、手薄となった全日本は新日本との交流を始めていたが、新日本の所属選手である橋本がNOAHの名前を出したことで、全日本側が不快感を示し、社長となっていた元子さんが全日本との交渉役だった永島勝司氏にクレームを入れ、永島氏も釈明に追われてしまい、また橋本が道場とした場所は藤波が無我の道場として借り受ける予定だった場所で、橋本にはいずれ別の場所へ移ってもらうはずが、橋本が乗っ取り自身の拠点にしまったことで、藤波と橋本の間に亀裂が生じ始める。そこで藤波も「道場も自分の知り合いから借りたもの、それを勝手に使われるのは困る」と橋本を批判。11月13日に橋本を解雇し、橋本も団体名から新日本プロレスの名称を外し「ZERO-ONE」と改めた。だがこの解雇は表向きだけの"偽装解雇"で、新日本は全日本と交流を継続しつつも、表向き解雇にした橋本を使ってNOAHとの交流も図ろうとしていた。そこで新日本から中村祥之氏が橋本のお目付け役として送り込まれ、永島氏や新日本との連絡係となり、橋本も解雇された立場を利用してNOAHとの話し合いを進め、三沢も"偽装解雇"であることも気づきいていたが、橋本は「新日本とは切れている」ことを強調し、三沢は全日本ドーム大会に橋本を参戦できなかった借りがあったこともあって、橋本を応援するためにNOAHに上げることを決意する。
12月23日のNOAH有明コロシアム大会に橋本が参戦し大森隆男と対戦、2001年1月13日大阪大会にも参戦して三沢とタッグマッチながら直接対決を実現させ、試合後にめったにマイクアピールをしない三沢が「次はあるのか、この野郎」とアピール、25日に橋本が3月2日の両国大会で旗揚げ戦『真世紀創造。』開催の会見を開き、三沢率いるNOAH勢の参戦を発表したが、3・2両国は元々新日本名義で借りたものであり、新日本もまだZERO-ONEはあくまで新日本の衛星団体と扱っていた。海外遠征から終えたばかりの大谷晋二郎と高岩竜一が橋本の誘いを受け、新日本との契約更改を保留しZERO-ONEに合流、大谷は橋本がまだ新日本と繋がりを持っていることに気づかず、新日本との契約を保留して合流したが、高岩は橋本から新日本との契約を更改してから合流するように指示されたことで、ZERO-ONEが新日本の衛星団体であることを薄々気づいていた。橋本はメインで三沢、秋山準とタッグで対戦することのなったが、パートナーはXとされるも、パートナーには永田裕志が名乗りを挙げた。名乗りを挙げた時点では決定ではなく、全くのフライングで、橋本と話し合ってから長州に直訴したが、長州は前向きだったがテレビの問題もあって「無理だ」と返答したことで待ったをかけた。長州はZERO-ONEに関しては藤波主導で動いていたこともあってノータッチで、永田をZERO-ONEに出すにも社長である藤波の了承を得なければならなかったが、藤波の了承を得たことで永田の出場にGOサインが出た。橋本は永田が出場できない場合は安田忠夫を代役に据えるつもりだったという。
旗揚げ戦の日、5000~6000人ぐらい入ればいいほうだと思っていたら、当日券を求めに長蛇の列となり、観客動員も11000人超満員を記録、旗揚げ戦のメインは三沢が投げ放しジャーマンで橋本から直接フォール勝ちとなるが、試合後に納得のいかない橋本が秋山を蹴りつけ、セコンドのNOAH勢やZERO-ONE勢が雪崩を打ってくるように割って入り、そこで小川直也が駆けつけると、橋本に激を飛ばしつつ三沢を挑発すると、三沢は小川にエルボーを浴びせ、藤田和之まで加わり乱闘、三沢は「お前らの思う通りにはしねえよ、絶対!」とアピールして去り、橋本も挑発して幕となったが、旗揚げ戦の真のメインイベントは橋本、三沢、秋山、小川、藤田が一同に揃ったカオス的な空間だったが、今思えば様々な可能性が生まれようとしていた空間だったのかもしれない。
ところがこの旗揚げ戦で大成功したことを受けて橋本は本当に独立へと動き出してしまう。当初、新日本とは旗揚げ戦で得た売り上げを全額新日本に治めて、経費などを差し引いた金額をZERO-ONEに支払うことになっていたが、独立志向の強い橋本が拒否したため物別れとなる。大谷も橋本から独立すると告げられたことで、ZERO-ONEは新日本の衛星団体だったことに気づき、藤波も橋本を再生させるつもりが、本当に独立してしまったことで面目が丸つぶれとなった。だが橋本自身がこれから悪戦苦闘を強いられることはまだ知る由はなかった。
(参考資料、Gスピリッツ DVD Book Vol.1 "破壊王"橋本真也ゼロワン激闘録より) -
ZERO-ONE旗揚げ(前編)1・4事変…粛清された破壊王
1997年8月31日の横浜アリーナ大会で橋本真也は佐々木健介に敗れ、7度にわたって防衛してきたIWGPヘビー級王座を明け渡したが、この頃から橋本と新日本の間で亀裂が生じ始めていた。選手会長時代に選手会費を使い込んだことで新日本側から突き上げを喰らっただけでなく、「ミスターIWGP」と周りがチヤホヤすることで驕りが出て全く練習しなくなり、現場監督の長州力とも対立し何度も衝突していた。長州と橋本は長州が新日本Uターン時から折り合いが悪く、また長州も闘魂三銃士の中で一番評価していなかったのは橋本だったが、橋本の出すインパクトの大きさを買って全面に押し出していた。
1997年1月4日の東京ドーム大会で長州力が最初の引退をしたことで、以前から長州の代わりに現場を取り仕切りたいという野心を抱いていた橋本は"長州はフロントに専念して現場に来なくなる"と思い現場を牛耳ろうとしていたが、長州は引退してもこれまで通りに巡業に帯同し現場監督として現場を取り仕切ることになり、思惑の外れた橋本は現場での発言力を誇示するためにIWGPヘビー級王座奪還を狙ったが、健介を破りIWGPヘビー級王者になっていた藤波辰爾に挑戦して敗れ、10月には王座決定戦で永田裕志を降し王者となっていたスコット・ノートンに挑戦して敗れてしまったことで、IWGPヘビー級戦線からも外されてしまう。新日本側はIWGPヘビー級挑戦者決定トーナメントの開催を発表し、橋本をエントリーさせるが、他の選手と横一線にされた橋本は長期に渡ってIWGPヘビー級王座を守り抜いたプライドを傷つけられたことで新日本側を批判、これを受けて新日本側は橋本に対して無期限の謹慎処分を言い渡す。後に渉外を担当していた永島勝司氏は「あのときの新日本は橋本真也がいらなかった」とコメントしていたが、この頃の新日本は武藤敬司や蝶野正洋がおり、陰りが見え始めていたがnWo人気もまだまだ健在だったこともあって、橋本は必ずとしても必要とされるの存在ではなくなっていた。
1998年1月4日に小川直也と対戦、俗に言う1・4事変だったが、謹慎処分が降される前から決まっていたカードだったこともあって予定通りに行われた。だが橋本は新日本への不信感から来るストレスでますます練習をしなくなり、謹慎前にも高血圧で倒れるなどコンディションは最悪だった。
試合はローキックを仕掛ける橋本に対し、小川は掌底で応戦、橋本は胴タックルからコーバーへと押し込むが、膠着したためタイガー服部レフェリーが分ける。スタンディングで打撃戦で橋本がロープへと押し込むと小川がフロントスリーパーを決めながら、橋本の首筋や背中あたりにエルボーを落とし、プロレスでは禁じ手のため服部レフェリーは分けようとするが小川は離さず、倒れこむ橋本にマウントで捕らえてパウンドを落としてから腕十字で捕らえる。
橋本はたまらずロープへ逃れるが、小川は倒れている橋本に蹴り、後頭部にパンチを浴びせる。挑発する小川に橋本は胴タックルから再度ロープへ押し込むが、小川はフロントスリーパーで捕らえ、服部レフェリーは試合を軌道修正しようとして分けようとするが、橋本は服部レフェリーを蹴ってしまいダウンさせてしまう。しかしレフェリーがダウンしてしまったことで完全にリングは無法地帯となってしまい、ルール無用の状態となった小川は亀になった橋本を容赦なくバックマウントで捕らえてパウンドで殴りつけ、スリーパーを狙うも逃れた橋本を横四方からアームロック、それでも逃れる橋本にパウンドを落とし、ダウンする橋本の後頭部を殴り蹴りつける。橋本は花道に逃れるもダウンしたまま立ち上がれず、小川が挑発しているところで試合終了のゴング、試合は無効試合となるも、内容的にも小川は橋本の攻撃を全く受けず、一方的に仕掛けてくる小川の前に橋本は全く対処できないまま無残にも潰された。なぜ橋本が無期限謹慎中にも関わらずvs小川戦が予定通り行われたのかわからない。当時の状況を考えてみると、自分の推論だが驕りたかぶった橋本への粛清の意味で試合が行われたのではと思う。橋本自身も小川がおかしいとわかっていたはず、だから服部レフェリーを自ら蹴って試合を壊そうとしたが、誰も止めにリングに入らない。選手らが入ってきたのは橋本が無残にやられてからだった。 この1・4事変を見て面白いと思ったのは現場監督の長州だった。おそらく長州の中では大仁田厚と、橋本vs小川の二枚看板にすればビックマッチは盛り上がる。粛清された今の橋本だったら自分が手なづけることが出来ると考えたのではないだろうか・・・、だが橋本vs小川の主導権は大仁田を良く思わない猪木と藤波が主導権を握った。この頃の新日本は現場監督の長州を通さずに、猪木と社長である藤波の間で重要事項が決められることが多くなりはじめていた。(続く)
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殺人魚雷コンビ誕生…ゴーディ&ウイリアムスが駆け抜けた3年間
1990年新日本プロレスからトレードという形で全日本プロレスへと移籍したスティーブ・ウイリアムスは2月から開幕する「90エキサイトシリーズ」に参戦、テリー・ゴーディとの殺人魚雷コンビを結成し、21日の後楽園ホールでの開幕戦ではジャンボ鶴田&高野俊二組と対戦して、ウイリアムスがオクラホマスタンピートで俊二から3カウントを奪い初戦を勝利で飾った。ウイリアムスは1986年7月に新日本プロレスに初来日したが、アントニオ猪木とタッグマッチで対戦した際に殺人バックドロップを決めて半失神状態に追い込んでしまい、2度目の来日ではシングルで対戦もスープレックスで投げた際にまた半失神状態にしてしまうなど、ピークの過ぎた猪木相手に手がけん知らずで痛めつけたしまったことで、実力がありながらも新日本ではビックバン・ベイダーやクラッシャー・バンバン・ビガロに次いで3番手に置かれるようにあっていたが、新日本でもてあましていたウイリアムスを全日本が目をつけた。
この頃の全日本はスタン・ハンセンが外国人トップで天龍源一郎との龍艦砲を結成しており、1989年度の世界最強タッグでは全勝優勝を果たしていた。全日本は外国人エース候補にはテリー・ゴーディを考えていたが、当時のコーディはパートナーが不在で前年度の最強タッグではビル・アーウィンと組んでエントリーしたものの、芳しい成績を残せなかったこともあり、ゴーディに更なる成長を求めるためには同格のパートナーが必要と考えていた。ゴーディとウイリアムスはアメリカMSWAで何度も対戦しており、私生活でもウマが合った。まさしくゴーディにとってもうってつけのパートナーだった。
初戦を圧勝で飾った殺人魚雷コンビは破竹の勢いで連勝を続け、3月2日の露橋スポーツセンターでは前世界タッグ王者組である鶴田&谷津嘉章組と対戦し、ウイリアムスがオクラホマスタンピートで谷津を降し完勝。3・6武道館では龍艦砲の保持する世界タッグ王座へ挑戦する。好勝負が期待されたが肝心の天龍が24日の一宮大会で鶴田組との6人タッグ戦で右足首を負傷、鶴田のリバースインディアンデスロックでギブアップしてしまい、捻挫と診断された天龍は2戦欠場して復帰したが右足首の具合が芳しくないまま武道館大会を迎えてしまった。
試合は殺人魚雷コンビが天龍を狙い撃ちにして先手を奪い、龍艦砲もハンセンが盛り返してゴーディを捕らえて流れを変えようとするが、足首を負傷している天龍に覇気がなく、次第に殺人魚雷コンビの流れへと戻っていく。そして天龍の延髄斬りがハンセンに誤爆してしまうと、殺人魚雷コンビは徹底的に天龍の右足首に集中砲火を浴びせ、最後はウイリアムスの殺人バックドロップからリバースインディアンデスロックで捕獲、ハンセンもイス攻撃でカットに入ったが、先に天龍がギブアップして間に合わず、殺人魚雷コンビが王座を奪取、試合後には天龍の不甲斐なさに怒ったハンセンが天龍に襲い掛かって仲間割れとなり、セミファイナルでバリー・ウインダムを降し三冠ヘビー級王座を防衛した鶴田が天龍の救出に駆けつけるなど、大混乱の中でメインは締めくくられた。天龍が全日本離脱後は殺人魚雷コンビはタッグでは世界タッグ王座は鶴田&ザ・グレート・カブキ、三沢光晴&川田利明組に2度明け渡したが、90、91年と世界最強タッグ決定リーグ2連覇の偉業を成し遂げ、またWCWにも進出してNWA&WCW統一タッグ王者になるなど、最強タッグに相応しい活躍を見せた。
しかし殺人魚雷コンビの終焉は突然訪れた。「93サマーアクションシリーズⅡ」ではゴーディが三沢の保持する三冠ヘビー級王座に挑戦する予定だったが、成田空港に到着後に体調不良を訴え病院に搬送され、そのままシリーズをドタキャンしてしまった。ゴーディは膝の古傷の痛みを抑えるために非常に強い痛み止めの薬と一緒にウイスキーを飲んだことで、来日中に心臓麻痺を起こし、心停止にまで陥ったことが前科があり、保持していた三冠王座もハンセンとの防衛戦を前にドタキャンして返上していた。これを受けてウイリアムスが小橋との挑戦者決定戦を制して三沢に挑戦、王座は奪取出来なかったがシングルプレーヤーへと転身も、ゴーディは休養を余儀なくされてしまった。しっかり療養したゴーディは94サマーアクションシリーズに急遽参戦したが、ウイリアムスのパートナーのポジションにはジョニー・エースが座っており、ゴーディは6人タッグなどでウイリアムスと組んだが、2人きりで組むことはなく、このシリーズを最後にゴーディは全日本を離れたが、殺人魚雷コンビは93年の夏で実質上終わっていた。最初はゴーディを将来の外国人エースと考えてウイリアムスと組ませたが、ゴーディが自滅したことで、ウイリアムスとの立場が逆転してしまっていた。ゴーディが破滅的な性格でなければと思うと、惜しいレスラーでもあった。ゴーディは2001年7月に心不全で死去、ウイリアムスは2009年に喉頭癌で死去、殺人魚雷コンビとしての活動は3年あまりだったが、全日本で一時代を築いたチームだった。
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新日本プロレスはこうして旗揚げした
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2018年3月2日1972年3月6日、新日本プロレスが大田区体育館にて旗揚げした。
1971年12月、アントニオ猪木が側近で猪木の個人事務所である「(株)アントン」の経理を担当し、またプロモーターも兼ねていた木村昭政(故人)と組んで、金銭面で不明瞭で杜撰な経営をしている日本プロレスを改革しようとしていたが、猪木と共闘していたはずのジャイアント馬場が猪木に近かった上田馬之介から、猪木と木村氏は日本プロレスの幹部達だけではなく馬場も追放するという計画だったと明かされると、馬場が芳の里社長に進言、猪木と木村が計画していたクーデター計画は失敗となったが、元々馬場は猪木が考える改革には乗り気なれないだけでなく、猪木の側近である木村を信用出来る人物かどうか疑っており、中堅選手からも木村氏の評判も良くなかった。
シリーズが終了すると猪木は「日本プロレスの乗っ取りを画策した」として選手会から除名・追放され、猪木も「乗っ取りは濡れ衣だ!」と反論するも、猪木は木村、猪木派の中心だった
ユセフ・トルコと共に行動を起こして新団体旗揚げへと動き、トルコの付き人だった木戸修、猪木の付き人だった藤波辰己が追随、猪木派の一人である山本小鉄も日プロに辞表を出し、メキシコ遠征に出ていた北沢幹之、柴田勝久も猪木自らメキシコへ出向いて二人を勧誘、北沢と柴田もメキシコでのスケジュールが終わり次第合流することになった。1972年1月には猪木、倍賞美津子夫妻の新居を合宿・道場に改築し道場開きが行われ、2月には浜田千秋(グラン浜田)関川哲夫(ミスター・ポーゴ)が入門、東京プロレス時代に業務上背任横領容疑で告訴し、袂を分かっていた新間寿氏も猪木と和解し、パートという形で合流しフロント業務に携わるも、レスラーやフロントなどの放送してくれるテレビ局もなく、人材、資金など全ての面で圧倒的に不足していた。だが猪木を始めとする選手らは練習だけはしっかり休まずこなし、理想へ向かって突き進んでいった。
外国人選手もカール・ゴッチの参戦が決定し旗揚げ戦では猪木と対戦が決定も、ゴッチが外国人ブッカーとなって招聘した他の外国人選手は無名の2流選手ばかり、トルコが自身のタニマチを使って日プロから坂口征二の引き抜きを画策したが失敗、この時点で猪木vsゴッチしか旗揚げ戦の売りはなく、新間氏も営業としてチケットを売り歩いていたが苦戦を強いられていた。そこで猪木は新間氏から豊登の面倒を見ていることを知ると、旗揚げ戦のサプライズとして豊登の復帰を計画する。豊登は猪木の日プロ時代の兄貴分で、日プロを退社していた豊登の誘いで東京プロレスに猪木が参加も、豊登の金の使い込みが原因で猪木と告訴合戦となって袂を分かち、猪木は日プロに復帰したが、豊登は東プロ残党と共に国際プロレスへと移籍、1970年2月に引退していた。
猪木から計画を聞かされた新間氏も、自身も懇意にしていた豊登をもう1度リングに立てるならと快諾し説得するが、豊登は「今更カンバックできるか」「引退興行をしてもらった国際プロレスには義理がある」「トレーニングは満足に出来てない」と拒み、それでも新間氏は豊登を説得してなんとか猪木と引き合わせ、当時の猪木夫人だった倍賞美津子さんも豊登を手料理でもてなした後で、猪木は説得して豊登に小遣いを手渡すと、しばらくして豊登はやっと道場を訪れ、豊登も年齢から来る体力の衰えを痛感して弱音を吐きつつ体つくりを行い、猪木を始めとする選手らは必死で豊登をおだて盛り立てていった。旗揚げ戦当日は客席には美津子夫人でなく姉である倍賞千恵子、歌手の坂本九と女優・柏木由紀子夫妻もリングサイドに座り旗揚げ戦に華を添え、当日になって「出たくない」とゴネていた豊登も新間氏がどうにか説き伏せて客席に座り、大会前に猪木が登場して挨拶を行うと、豊登がリングに上がり猪木を激励し、その場でトルコが復帰を呼びかけ、豊登はタイツがないことを理由にあくまでまだ拒否するが、観客の前で逃げ場がないと悟った豊登は復帰を決意、小鉄と組んでセミファイナルに登場し、ジョン&ジムのドランコ兄弟と対戦、試合は3本目に豊登組が反則勝ちとなるが、試合後も日本組を痛めつけるドランコ兄弟の前に猪木が駆けつけ、豊登を救出し館内を大いに沸かせる。
メインの猪木vsゴッチ戦は初代世界王者フランク・ゴッチゆかりのベルトをかけた実力世界一決定戦として行われ、ゴッチはジャーマン、ゴッチ式パイルドライバーで猪木を追い詰め、猪木はドロップキックで反撃して卍固めを狙い、誰もが猪木が勝ったかと思ったが、ゴッチはリバーススープレックスで切り返して3カウントを奪い、猪木は敗れるも鮮やかなテクニック合戦に館内は猪木を称え、試合を見ていた豊登もゴッチ相手に戦いぬいた猪木を絶賛した。試合後に猪木は改めて豊登に復帰を依頼し頭を下げると、豊登も「テレビが付くまで」ということで正式にカンバック、ゴッチは「猪木以外に戦える選手がいない」という理由で旗揚げシリーズを3戦をこなしたあとで帰国したが、実はゴッチにギャラが高くて支払えなかったのが本当の理由だった。旗揚げシリーズは開催するも不入りは続き、観客も「つまらないぞ!」と野次を飛ばした。そして5月に日プロからジャイアント馬場が独立宣言をした頃には新日本は累積赤字は1億円に達し、台所も火の車となっていた。そこで猪木はこれまでパートとして新日本を手伝っていた新間氏に正式に新日本入りを要請、新間氏も豊登のマネージャーとして新日本入りを決意する。この頃には専務となっていた木村氏は赤字を抱えた新日本を見限って手を引いたのか、新日本を去っていた。しかし新間寿という軍師を手に入れた猪木新日本が快進撃を始めるのは後の話である。(参考資料=ベースボールマガジン社、日本プロレス事件史Vol.12)
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マット界の"ベルリンの壁崩壊"から始まった新日本と全日本のつかの間の共闘関係
1990年2月10日、新日本プロレス東京ドーム大会「スーパーファイトin闘強導夢」に全日本プロレスからジャンボ鶴田、天龍源一郎、スタン・ハンセン、谷津嘉章、2代目タイガーマスク(三沢光晴)ら当時の全日本ビッグ3が参戦、ジャイアント馬場とアントニオ猪木のB・Iの対立期がまだまだ続いていた時代に、新日本のドーム大会に全日本プロレスが参戦は今までありえない出来事だったことから「マット界のベルリンの壁が崩壊した」と言われた事件だった。
きっかけは1989年に新日本プロレスがこれまで社長だったアントニオ猪木が政界進出を契機に社長を坂口征二に譲り渡して退任したことから始まった。全日本の社長だった馬場は猪木には何度も裏切られたこともあって信用できなかったが、日本プロレス時代の後輩でウマが合う坂口だったら話し合いが出来ると考えていた。
新日本プロレスは1990年2月10日に東京ドーム大会の開催を発表、カードはこれまで政界進出でリングから離れていた猪木の復帰戦で、社長業専念で引退を決めていた坂口との黄金コンビで、これから売り出しにかかる橋本真也、蝶野正洋とのタッグマッチ、元横綱・北尾光司のデビュー戦(vsクラッシャー・バンバン・ビカロ)、NWA世界ヘビー級選手権試合で王者リック・フレアーに武藤敬司がグレート・ムタとして挑戦する豪華カードが組まれた。フレアーは元々全日本に参戦していたが、坂口がフレアーの新日本に貸し出しを申し入れ、代わりに馬場がスティーブ・ウイリアムスの貸し出しを申し入れたことで、取引が成立しフレアーが新日本、ウイリアムスは全日本に参戦することになった。当時の全日本は折り合いの悪いジム・クロケット・プロモーションことWCWの一部と化したNWAから離脱していたことから、フレアーが新日本に参戦しようが文句はなく、新日本もピークの過ぎた猪木に対して殺人バックドロップを決めるなど、手加減を知らずに痛めつけていたウイリアムスをもてあましていたことから、利害が一致してのトレード成立だった。
ところが1月にWWF(WWE)のボスであるビンス・マクマホンが突然来日し、全日本プロレスの馬場、新日本プロレスの坂口と共同会見を開き、4・13東京ドームで「日米レスリングサミット」の開催を発表する。WWFはかねてから日本市場の参入を計画しており、そのために全日本プロレスでブッカーを務めていた佐藤昭雄を雇い極東支部長に据えたが、WWF単独による日本侵攻は無理と判断し、逆に国内で受け皿的団体を持つことを選択、佐藤のルートで師匠・馬場のいる全日本に話を持ち込まれ、馬場から坂口に話を持ち込んで共同開催となった。馬場がWWFに協力しつつ、新日本と協調関係を結んだのは、新日本とタッグを組んだことでWWFの日本侵攻を食い止められるという判断からで、いざとなれば新日本と組んで対抗するというものをWWFに示すためのものであった。
しかしこの動きに面白くなかったのはWWFに対抗していたWCWで、新日本に対してフレアーとムタのドーム大会参戦にストップをかける措置を取ってしまう。フレアーが来日できないと坂口から報告を聞いた馬場に困った。フレアーが来日できないということはウイリアムスとのトレードは成立せず、日米プロレスサミットも馬場から持ち込んだ話だったこともあって、坂口に貸しを作ってしまうからだった。そこで考えたのは鶴田、天龍、ハンセンらの主力の貸し出しだった。馬場は坂口に「社長就任のご祝儀だ」としたのは、新日本にしてみればフレアーと全日本の主力を比重にかけると、全日本の主力勢の方が重い、ウイリアムスを貸し出すだけで全日本の主力勢を釣ることが出来たことを考えると、ウイリアムスは安いものだったが、馬場からしてみれば鶴田ら主力を貸すことで全日本に借りを作らせる。そういった意味では政治的な駆け引きでは坂口より馬場の方が上だったのかもしれない。
「スーパーファイトin闘強導夢」も無事終わり、「日米レスリングサミット」も無事終わった。結局全日本とWWFの関係はこれ1回限りとなったことで、WWFの日本進出は一応食い止められることになったが、「日米レスリングサミット」が終わってしばらくして、天龍源一郎を始めとする選手達が全日本から大量離脱し、メガネスーパーが設立した団体SWSへ移籍する事態が起きてしまう。新日本もジョージ高野、佐野直喜(巧真)が引き抜かれるだけでなく、武藤敬司もSWSから引き抜きのターゲットにされたことで、全日本と新日本はWWFからSWSを相手にして共闘関係は継続されることになり、新日本からビガロが全日本に助っ人で派遣され、ウイリアムスも新日本との契約が残っていたことから両団体を股にかけて参戦し続けた。ところが新日本の役職から退いていた猪木が会長として復権すると、猪木の意向でSWS対策から新日本が手を引いてしまった。猪木からしてみれば政界で忙しくしている間に坂口が馬場と組んでいることが面白くなく、また選手から逃げられた全日本はまもなく潰れるから助ける必要はない考えていたのかもしれないが、せっかく崩壊したベルリンの壁はまたしてもB・Iという微妙な関係のせいで新たなる壁が作られてしまった。
SWSと単独で戦わざる得なくなった全日本だったが、退団した天龍に代わってタイガーマスクから卒業した三沢が台頭、新しい時代を生むきっかけを作る。日本進出を諦めていないWWFはSWSと提携し、WWFとの提携に失敗した新日本もWCWと提携を結ぶ、全日本へトレードされたウイリアムスは新日本との契約がクリアされるまでは新日本と全日本の両団体を股にかけて参戦したが次第に全日本へと戦いの軸を置きはじめ、新日本との契約が終わると全日本の専属となってハンセンに代わるトップ外国人選手へと昇りつめていった。
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nWo JAPAN、平成維震軍さえも飲み込んだTEAM-2000はこうして誕生した!
2月16日、後楽園ホール大会で開催されたマスターズ・オブ・レスリングで蝶野正洋率いるTEAM2000(以下T-2000)が一夜限りの復活を果たし、当初は小島聡が参戦予定だったが左膝前十字靭帯断裂の重傷を負ったため欠場となるも、代わりにnWoスティングとして新日本に参戦していたスーパーJが参戦、コンディション不良で試合には加わらなかった蝶野も試合途中で乱入しケンカキックやシャイニングケンカキックを披露して健在ぶりを見せつけた。
1996年7月にWWEからWCWから引き抜かれたケビン・ナッシュとスコット・ホールのジ・アウトサイダーズにハルク・ホーガンが結託してことでnWoが誕生、アメリカンプロレスの絶対的ベビーフェースだったホーガンのヒールターンは大きなインパクトを与え、nWoはたちまちWCW内でも席巻し、一大ムーブメントと化した。12月に蝶野がWCW遠征をした際にnWoに加盟、蝶野が率いていた狼群団はnWo JAPANとユニット名を改め、WCWからは既にnWo入りを果たしていたスコット・ノートン、バフ・バグウェルが送り込まれ、更にグレート・ムタ(後に武藤敬司としてnWoに再合流)も合流したことで、日本でも一大ムーブメントと化した。
1998年8月8日の大阪ドーム大会で蝶野は藤波辰爾を破ってIWGPヘビー級王座を奪取、蝶野の念願だったIWGPヘビー級王座を獲得することで、nWoが新日本を制圧したかに見えたが、この藤波戦で蝶野が首を負傷してしまい、初防衛戦も出来ないまま王座を返上、蝶野の初防衛戦の相手だったノートンと凱旋帰国したばかりの永田裕志の間で王座決定戦が行われ、ノートンが王座を奪取するも、nWoは武藤がリーダーとなり、武藤の独断で小島をnWo入りさせたことで、欠場中の蝶野と亀裂が生じるようになる。
1999年1月4日の東京ドーム大会では武藤がノートンを破りIWGPヘビー級王座を奪取、天山と小島も天コジタッグを結成して天龍源一郎&越中詩郎組を破りIWGPタッグ王座を奪取、武藤の独断には天山もヒロも不信感を抱いていたが、武藤を中心として改めて団結する。欠場中の蝶野も放送席でゲスト解説に招かれていたが試合内容は称えつつも、事実上nWo JAPANを乗っ取った武藤に不快感を示した。
孤立した蝶野はnWo JAPANから離脱して独自行動を取り、札幌中島体育センター2連戦の初日である2月5日から復帰も、カードは武藤&ヒロvs蝶野のハンディキャップマッチで、開始早々から蝶野はヒロ相手にケンカキックを連発するが、さすがの蝶野も1人で2人を相手にするのは無理があったのか、武藤組の連係に捕まってしまう。そして武藤はドラゴンスクリューからの足四の字固めで蝶野を仕留めにかかると、突如AKIRAが乱入して武藤にムササビプレスを投下してカットに入る。当時のAKIRAは平成維震軍に属していたが網膜剥離で欠場し、俳優業を開始して「仮面ライダー・クウガ」にも出演、レスラーとしてはほとんどセミリタイアの状況だったが、蝶野の誘いを受けてレスラー復帰に復帰することを決意していた。
AKIRAの乱入で武藤のセコンドに着いていたnWoスティング、マイケル・ウォールストリートらも困惑する中で、蝶野は場外戦で武藤を流血に追い込み、AKIRAと二人掛りで武藤を痛めつけ、蝶野のケンカキックからAKIRAが再度ムササビプレスを投下、大ダメージを負った武藤はnWoスティングとマイケルに連れられてバックステージへと下がってしまい、リング内では孤立したヒロが孤軍奮闘も、蝶野のSTFに捕まったところで武藤が戻りnWo JAPANは猛反撃する。蝶野は武藤に急所打ちを浴びせてからフライングショルダーアタックを命中させカバーに入るも、この時点でレフェリーがやっと試合終了のゴングを鳴らして無効試合となり、試合後も武藤を徹底的に痛めつけてバックステージへと引き揚げていく。
6日の札幌2連戦2日目では蝶野vs武藤&小島のハンディキャップマッチの予定が、蝶野にAKIRAが加わったことでタッグマッチに変更、先に入場していた武藤は後入場の蝶野を襲撃して試合開始も、蝶野が返り討ちにして再び流血に追い込む。終盤にはAKIRAとの連係で武藤を追い詰めた蝶野はケンカキックからバタフライロックで捕獲し武藤はギブアップ、蝶野は復活を果たす。蝶野はこの後で新ユニットTEAM2000を結成、後にドン・フライやnWoスティングも合流してリングネームをスーパーJと改め、武藤率いるnWo JAPANと抗争を繰り広げていったが、前年度ではWCWでもnWoがウルフバック派、ハリウッド派と分裂していたことから、日本でも同じ光景が繰り広げられていたのだ。TEAM2000結成の裏では平成維震軍が解散を表明した。維震軍は参謀役だったザ・グレート・カブキが契約切れで新日本を離脱したのを契機に存在意義が薄くなり始め、nWo人気の前に軍団抗争から置き去りにされていた。越中と木村は藤波や天龍源一郎と共闘することで存在意義をアピールするが、AKIRAが蝶野と結託、齋藤彰俊も新日本とは契約を更新せず、小林邦昭も病気欠場していたことで、戦力が薄くなっていた。越中と木村は本隊へと戻り、後藤と小原は独自行動を取りつつ、後にTEAM2000に合流することになる。
2000年1月4日の東京ドーム大会では武藤vs蝶野の頂上決戦が行われ、蝶野が勝ったことでnWo JAPANは消滅し、天山や小島、ヒロ、ノートンの残党はT-2000に合流、武藤はグレート・ムタとしてWCWに参戦するために一人渡米したが、もうこの頃にはWCWでもnWoそのものが消滅していた。
(参考資料 新日本プロレスワールド) -
長州が大ギレした「2・12事変」という長い一日
1995年1月4日、海外武者修行に出ていた山本広吉こと天山広吉が凱旋した。ドイツCWAでジュニアヘビー級王者となるなど実績を積んだ天山はカナダへと飛び、当時外国人ブッカーとなっていたジョー大剛氏の下で肉体改造に励み、一回り大きくなった姿を見せた天山は凱旋マッチとなった中西学戦では圧倒的な強さを見せ、最後は初披露となったマウンテンボムで3カウントを奪い、ファンに大きなインパクトを与えた。成長した天山を見た長州は「天山をトップに押し上げる」と天山をプッシュすることを断言、2月4日に行われた札幌中島体育センター大会では天山をIWGPヘビー級王者だった橋本真也の挑戦者に大抜擢したが、天山の周囲では争奪戦も始まっていた。当時の新日本は本隊と越中詩郎率いる平成維震軍が抗争を繰り広げていたが、前年度のG1 CLIMAXでヒール転向を果たしていた蝶野正洋がヒロ斎藤、サブゥーと共に新軍団結成に動いており、特に前年から自主興行も開催していた維震軍は青柳政司が新日本から離脱したことを受けて新戦力を求めていたことから、シリーズ中には天山をワゴン車に拉致して維震軍入りを迫るなど積極的に天山獲得に動き、本隊も佐々木健介とのタッグで売り出そうとプランを練っていたが、実はドイツ遠征の時点で同地を訪れていた蝶野からも勧誘を受けており、本隊か維震軍か、それとも蝶野との共闘か、天山の今後の方向性に注目していた。
IWGPヘビー級選手権は、橋本がレッグロックからの足攻めで先手を奪い、天山の繰り出す逆水平に対して、袈裟斬りチョップやミドルキックで応戦、だが天山もモンゴリアンチョップで応戦するなど、かつて付き人を務めた橋本に対し一歩も引かない姿勢を見せる。橋本はミドルキックで攻勢に出ると、ジャンピングエルボードロップ、コーナーからのダイビングエルボードロップと攻勢に出ると、DDTで勝負に出るが、ニールキック狙いをマウンテンボムで迎撃した天山はテリー・ゴーディ式パワーボムからダイビングヘッドバット、天山プレスで猛反撃したが、再度のマウンテンボム狙いを潰した橋本は腹固めで捕獲して絞めあげると、ニールキックからハイキック、垂直落下式DDTで3カウントを奪い勝利となったが、前日の大会ではオリジナルTTD、橋本戦では天山プレスも披露したことで大きなインパクトを与え、評価もまた上がった一戦となるも、この時点では今後の方向性に関しては明確な答えを出さず、しばらくして「2月12日後楽園大会で答えを出す」とコメントするだけで、2月12日を迎えた。
2月12日後楽園ホール大会、この日は昼間は維震軍、夜は本隊と新日本が昼夜興行を開催していた。第1試合の小原道由vs高木功(嵐)が終わると、越中が現れ「「天山いるなら出て来てくれ!俺達と一緒にやっていこう!どうだ!天山!」と天山を呼び出してリングに上がった天山に「俺達と一緒にやろう」を手を差し伸べる。ところが天山の出した返答はモンゴリアンチョップで拒否、これに怒った小原が天山とのシングル戦をアピールし、セミファイナルで小原vs天山が組まれたが、勢いに乗る天山の前に先輩である小原もなす術はなく変形サイドバスターで圧勝する。
メインイベントでは越中は後藤達俊、ザ・グレート・カブキと組んで昭和維新軍の長州力、マサ斎藤、谷津嘉章となるが、長州が寝坊で会場入りしていないハプニングが発生し、長州の代役として平田淳嗣が登場、長州の欠場に関して事前にアナウンスもなかったことで館内も野次が飛び交う。試合は平成維震軍が勝利を収めたものの、試合後に天山を蝶野と共に乱入し両軍を襲撃、この時点で蝶野との共闘が明確とのなり、バックステージでは夜の本隊興行に参戦するためにやっと会場入りした長州に越中が襲撃をかけるが、天山にはフラれ、長州は自身のミスで来場しないなど、越中にとっては踏んだり蹴ったりとなった。
夜の本隊興行では天山が蝶野との共闘を選んだことで、本隊のカードが変更され、長州は橋本、平田と組んで蝶野、天山、ヒロ組と対戦。試合も本隊を裏切った天山を制裁するために長州組は徹底的に狙い撃ちにして、長州もリキラリアットを3連発して追い詰めるが、蝶野がケンカキックでカットに入ると、蝶野の激を受けた天山が猛反撃しモンゴリアンチョップや頭突きを乱打、最後はヒロとのハイジャックパイルドライバーからダイブビングヘッドバットで長州から3カウントを奪ってしまう。
試合後にまさかの敗戦に怒った橋本と平田は天山を客席へ連行して暴行を加え、リング内では蝶野とヒロがダウンしている長州に暴行を加えて蝶野がケンカキックでダメ押しする。そしてリングサイドに戻った橋本と平田はイスで天山、長州もイスを持ち出して蝶野に暴行を加えるが、サブゥーが駆けつけて蝶野らを救出する。そしてコーナー下にテーブルをセットして橋本を寝かせると天山がテーブル貫通ダイビングセントーンで橋本をKOする、平田がイスを振り回し、馳浩も駆けつけ蝶野らは去っていくが、怒りの収まらない長州はミスター高橋レフェリーを蹴り、バックステージでもカットに入れなかった橋本や平田にイスを投げつけて大荒れとなり、長州から指示を受けた橋本と平田は蝶野側の控室に殴りこんで乱闘となるなど、リングだけでなくバックステージでも大荒れのままで、2月12日という長い一日が終わった。この結果、蝶野は天山、ヒロ、サブゥーと共に新軍団「狼軍団」を結成し、維震軍を凌ぐ1大勢力となっていったが、長州力が「プロレスは常にインパクトだよ」と答えていた通りに、凱旋帰国した天山は大きなインパクトを与え、更に劇薬を投入することで一気にトップの一角に食い込んだ。1995年2月12日はまさしく天山にとってはターニングポイントなった日でもあり、主役を奪い取った日でもあった。
(参考資料、新日本プロレスワールド、1995年1月4日の天山vs中西、2月4日の橋本vs天山、2月12日の蝶野&天山&ヒロvs長州&橋本&平田は新日本プロレスワールドにて視聴できます) -
ジャンボ鶴田がAWA世界ヘビー級王座を奪取…鶴田をプロデュースした男・佐藤昭雄
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2018年2月2日1984年2月23日、全日本プロレス蔵前国技館大会にてNWAインターナショナルヘビー級王者のジャンボ鶴田がAWA世界ヘビー級王者であるニック・ボックウインクルとダブルタイトルマッチが行われた。
1981年、経営危機に瀕した全日本プロレスに日本テレビが経営に介入し、日テレから松根光雄氏が社長として派遣され、社長だったジャイアント馬場はプロモーター兼任で会長に棚上げされた。社長となった松根氏は全日本再建の策として世代交代を図り、鶴田をエース兼現場責任者とした新体制に着手、最終的には馬場を引退させて、全日本の全権を鶴田に移譲させようとしていた。しかし政治面に関わることを嫌い、デビュー時には松根氏からも世話になり、師匠である馬場にも恩義を感じていた鶴田は思い悩み、一時は全日本を退団して引退することを考えるまでに追い詰められた。そこでデビュー時に話し相手にもなり、馬場の付き人だった佐藤昭雄に相談すると、アメリカ遠征からブッカー業に興味を持っていた佐藤がブッカーとは何たるかを説明したことから鶴田は松根氏に佐藤をブッカーに推薦し、佐藤は全日本のブッカーに就任して、経営危機に瀕した全日本を建て直すことになった。
馬場の重要性をわかっていた佐藤は松根氏にはあくまで全日本には馬場が必要と説き、また親会社である日テレも"馬場あっての全日本"と考えていたこともあって、馬場の引退は回避されたものの、佐藤は馬場を立てつつも松根氏の意向を汲んで、外国人中心路線から日本人vs外国人路線へと転換、馬場を少しずつ退かせて鶴田と天龍源一郎による鶴龍時代への土台作り、ジュニアヘビー級の確立、中堅の底上げと若手の育成に着手。特に鶴田にはあまりにも若者過ぎる、試合が軽すぎるとして赤と青のツートンカラーのタイツから、重みを与える黒に変え、絶対性のある必殺技が必要としてルー・テーズからバックドロップ伝授させるなど、鶴田をエースとしてプロデュースし始めた。また馬場も鶴田にトップとしての自覚を持たせるために大木金太郎から譲り受けたインターナショナルヘビー級王座を狙わせ、ドリー・ファンク・ジュニアを破って王者となったブルーザー・ブロディとインター王座を巡る抗争を展開させ、1983年8月31日蔵前大会で鶴田がブロディをリングアウトながらも破り、念願だったインターヘビー級王座を奪取、馬場からも「よくやった、今日からお前がエースだ」をお墨付きをもらい、この大会をもって全日本を支えてきたザ・ファンクスがテリー・ファンクの引退をもって一歩退くことになったため、鶴龍時代へと突入した。
鶴田をプロデュースしてきた佐藤の集大成が、馬場がNWA世界ヘビー級王者、新日本プロレスのアントニオ猪木がWWFヘビー級王者になったように、鶴田にも世界のベルトを巻かせることだった。鶴田はこれまでNWA、AWA両王座とも何度も挑戦したが、まだまだ『善戦マン』の域を達しておらず、あと一歩のところでベルトを奪取できなかった。特にAWA王者のニックには4度挑戦したが、3度反則裁定で逃げられていた。最初はAWAのボスであるバーン・ガニアは馬場を挑戦者に指名したが、松根氏は鶴田の挑戦をプッシュ、佐藤も同じ意見だったが、問題は馬場を説得できるかだった、馬場は表向きは鶴田をエースとしてお墨付きを与えていたが、まだ内心は認めていなかった。佐藤は馬場と二人きりで話し合い「ここはジャンボで行くべきじゃないですか?」と提案すると、馬場は「その話は最初に自分に来た話だ」と考え、ムッとしてヘソを曲げそうになった。だがしばらく考え「そうかあ・・・」と納得したことで、鶴田の挑戦にGOサインが出された。佐藤はもし馬場が承諾しなかったら辞表を出すつもりだったという。鶴田のAWA王座挑戦が発表されると、日本テレビも特番枠である「土曜トップスペシャル」で録画ながらもゴールデンタイムでの放送されることになり、インター王座もかけられることになったことで試合ルールも場外カウント20の特別ルールながらも反則やリングアウトでも移動するPWFルールが採用され、特別レフェリーには引退したテリー・ファンク、サブレフェリーにはジョー樋口が裁くことが決定するなど、日テレだけでなく全日本全体も鶴田のAWA王座奪取に後押しし、また佐藤も鶴田に対して「これが最後のチャンスだと思って、リングの中で結果を出すと言った方がいいよ」とマスコミ向けにコメントを出すようにアドバイスすると、鶴田も「今回は引退をかけるぐらいな気持ちでニックと決着をつける」と言い切り、決戦へ向けて大きくに盛り上げた。
同じ日にUNヘビー級王座を奪取した天龍と、かつてのプロレス実況を担当していた徳光和夫氏から試合直前のインタビューで激励を受けた鶴田が「J」で入場、誰もが王座を奪取すると期待しており、TVで視聴していた自分も逃げ場のないルールなら鶴田はニックに勝って王座を奪取できると思っていた。だが試合が始まるとスロースターターのニックが試合開始のゴングと同時にクロスボディーを浴びせて奇襲をかけて機先を制し、完全にペースを狂わされた鶴田をハンマーロックでやキーロックで捕らえて腕攻めを展開し、鶴田にリードを奪わせないなどするなどニックペースで試合が進んでいく、自分はこれまでニックは逃げの王者として評価していなかったが、キラーの片鱗を見せたことでニックを再評価せざる得なかった。
主導権を握れなかった鶴田は延髄斬りからジャンピングニーパットで活路を見出すも、ニックは巧みに間を取って、鶴田に深追いをさせず再度ハンマーロックで捕らえるが、鶴田はパイルドラバーを連発してからフライングボディーシザースドロップを決め、フィンガーロックからの力比べで押し切りかかる。
ニックはヘッドロックから鶴田を巧みに場外へ誘い出すとエルボーやパンチを浴びせ、先にリングに戻ったニックはニードロップを投下、ハイアングルのボディースラム、ブレーンバスター狙いは鶴田が首固めで切り返すと、ショルダータックル狙いは相打ちとなって両者はダウンとなるも、起き上がった鶴田はコブラツイストで捕獲、グイグイ絞めあげにかかる。
ニックはエルボーから鶴田をコーナーに何度も叩きつけるが、ボディースラム狙いは鶴田が浴び倒してからナックルを浴びせ、コーナーに2度叩きつけてからストンピングを何度も落として、串刺し攻撃を狙うが、ニーで迎撃したニックは再びハンマーロックで捕獲、だがヘッドロックで捕獲したところで鶴田も河津掛けで脱出する。
ところがニックは鶴田のボディーへの頭突きからボディーブローの連打と反撃して串刺し攻撃を狙うと、かわした鶴田は再びストンピングを何度も落としてからダブルアームスープレックス、サイドスープレックスと攻勢をかけ、逆エビ固めで捕獲してニックを追い詰める。
ニックの腰に照準を定めた鶴田はストンピングを落として、シュミット流バックブリーカーからドロップキックを狙うが、かわしたニックはパイルドライバーで突き刺し、何度もカバーして鶴田のスタミナを奪うも、鶴田を突き飛ばしたところでレフェリーのテリーと交錯してしまい、テリーが場外でドタバタしている間に、リングに戻った鶴田に攻勢をかけ、再度場外に追いやってからロープ越しのブレーンバスターを狙うと、背後に着地した鶴田がバックドロップホールドを決め3カウントを奪い、念願だったAWA世界ヘビー級王座を奪取、「世界の鶴田」へと昇りつめていった。
しかし内容的に鶴田は苦戦を強いられていたのも事実で、王座を奪取するよりも防衛するほうが難しいことを後で思い知らされることになる。26日大阪府立体育会館で行われた再戦では、またしてもキラーとなったニックに苦しめられ、両者リングアウトで逃げ切るのがやっとだった。そして馬場がNWA王者になっても成し得なかった世界ベルトを持ったままアメリカマットをサーキットを行い、このときも佐藤が帯同していったが、ブラック・ジャック・ランザやビル・ロビンソン相手に防衛するも、日米を股にかけて防衛戦を行ったことで、さすがの鶴田も疲れが見え始め、次第に反則裁定で逃げることが多くなっていた。そして5月13日ミネソタ州セントポールでリック・マーテルの挑戦を受けるが、鶴田が背後からドロップキックを放った際にマーテルを特別レフェリーであるレオ・ノメリーニと交錯させてしまい、それでもバックドロップホールドを決めるが、ノメリーニレフェリーのカウントが遅れて決め手にならず、フライングボディーシザースドロップを決めた際にノドをロープに直撃させてしまうと、マーテルがフライングボディーアタックを決めて3カウントを奪い王座を奪取、鶴田の天下は3ヶ月で終わった。鶴田はその後、9月に元日本航空のスチュワーデスであった、荒牧保子さんと結婚。また2年連続でプロレス大賞のMVPに選ばれるなど、名実共に日本を代表するトップレスラーとなった。一方佐藤昭雄は全日本の再建のメドが立ち、鶴龍路線も定まったことを見据えた上でブッカーを辞任し、本来の主戦場でるアメリカへと戻っていった。
<参考資料 GスピリッツVol.42> -
秋山準と永田裕志、数々の弊害を乗り越えて生まれた戦友関係
全日本プロレス2月3日横浜文化体育館大会で野村直矢&青柳優馬組の保持するするアジアタッグ王座に秋山準と新日本プロレスの永田裕志が挑む予定だったが、青柳が負傷欠場で王座は返上され、崔&野村vs秋山&永田との王座決定戦に変更された。
二人は92年にデビューした同期だったが、全日本でデビューした秋山はでいきなりデビュー戦で小橋健太と対戦するなどエリートとして扱われたのに対し、新日本でデビューした永田はヤングライオンの一人として下積みからスタートするなど好対照だった。その二人が始めて交わったのは2001年3月2日に両国国技館で開催されたZERO-ONE旗揚げ戦で秋山は三沢光晴、永田は橋本真也と組んで試合に臨み、先発で出た秋山と永田は、永田のキックを正面から受けた秋山はエルボー合戦からフォアアームを浴びせ、秋山は控える橋本を挑発すると、永田は「相手はオレだ!」といわんばかりに背後を奪ってジャーマンで投げるなど火花を散らす攻防を展開、試合は三沢が橋本を投げ放しジャーマンで降したが、試合後に武藤敬司だけでなく藤田和之、小川直也までも現れ、三沢が小川にエルボーを放って大混乱となるも、永田とのファーストコンタクトを終えた秋山が「永田さんはやっぱりいい!組んでみたい。オレが新日本に行く」と意気投合して新日本参戦を表明し、永田からの報告を受けた現場監督の長州力も秋山の参戦を大歓迎する意向を見せるも、肝心の三沢が「アイツの自由。ただ、向こう(新日)の状況が納得できなければ、出せない」と秋山の出場には前向きな姿勢を見せつつも慎重な態度を取り、5月13日のディファ大会でも秋山は「いつ腰が、駄目になるか分からない。できるときにやりたいことをやる」と訴えたが、三沢は「個人的には分かる。意志を尊重したい気持ちもあるけど、会社としては難しいだろうね」と慎重な姿勢を崩さなかった。三沢はNOAHを地上波で独占放送していた日テレへの配慮もあったが、新日本が本当にNOAHを必要としているのかわからないままだけでなく、後で語るもう一つの理由でもあって、秋山を簡単に送り出すことは出来なかったのだ。
それでも秋山は新日本参戦を三沢に再度訴え、三沢も折れて「(実現に向けて)動くことは動く」と返答し、永田も「ノーテレビならやれるよな。お互いの興行を行き来してもいい」と構えを見せ、新日本の社長だった藤波辰爾も「馬場さんと猪木さん、オレとジャンボ鶴田と同じことはさせない。時代は進歩している(テレビ問題については)絶対に解決法はある」と馬場、猪木という大きな壁に阻まれたことで鶴田との対戦が実現できなかった悔しさを後輩達にはさせたくないという思いもあり、秋山の新日本参戦に前向きな姿勢を見せ、藤波がテレビ朝日側と話し合い承諾を得たことで、三沢も重い腰を上げて日本テレビ側と話し合い、5月28日に三沢と藤波が会談、新日本の受け入れを確認したうえで秋山の新日本参戦にGOサインが出された。
まず秋山が行動を起こし「永田裕志選手を通して、かねてから興味を持っていた新日本プロレスを自分自身の目で確かめるために、まずは6月6日(水) 日本武道館大会へ足を運びたいと思っています。」と来場を予告、秋山は金丸義信を伴って新日本武道館大会に来場、業界の先輩で新日本のオーナーであるアントニオ猪木、会長である坂口征二に挨拶すると、大会前に永田と会談すると、最前列でIWGPヘビー級選手権試合である藤田vs永田を含めて第1試合から観戦、永田の入場の際には秋山が永田と握手をかわし、大会終了後には「次に来る時はしっかりタイツはいてきます。永田選手と俺だったら、俺の方が早く試合をしたいだろうし」と発言すれば、 7月27日NOAH武道館大会には今度は永田が来場して三沢ら関係者に挨拶した後で、三沢vs秋山のGHCヘビー級選手権試合を視察、秋山が入場する際に永田と握手をかわし、秋山は三沢を垂直落下式のエクスプロイダーからリストクラッチ式エクスプロイダーで3カウントを奪い、永田の眼前でGHCヘビー級王座を奪取、試合後に永田も「凄いの一言。ホレ直した。時代を開こうという刺激を受けた」と試合も三沢の雪崩式タイガードライバーを喰らいながらも、三沢越えを果たした秋山を称えつつ 「10月8日は何かが起こります」と新日10.8東京ドームの秋山参戦を示唆する発言をした。永田はこの年のG1 CLIMAXで武藤敬司をナガタロックⅡでギブアップを奪い優勝を果たし、藤田からIWGP王座を奪取できなかったが、三冠ヘビー級王者の武藤を破ったことで、秋山と対等な立場でタッグ結成へ向かうはずだった。
秋山と永田のタッグ結成で新日本とNOAHの間に交流への扉を開いたかに見えたが、暗雲が立ち込める事態が発生する。NOAHは新日本との関係を築きつつも、新日本との関係が切れたZERO-ONEとの関係も保っていたが、ZERO-ONEが8月末から開催するシングル総当りリーグ戦「火祭り」開幕直前で、PRIDEに参戦していたマーク・ケアーのZERO⁻ONE参戦を巡って、ケアーの出場を了承していたはずの猪木が突然白紙に戻したことで猪木側とトラブルとなり、これを受けて猪木またPRIDEの息がかかっていた村上和成、石川雄規、アレクサンダー大塚などが火祭りをドタキャンしてしまった。猪木のやり方に不快感を示した三沢はリーグ戦には参戦できないものの池田大輔、杉浦貴など所属選手をZERO-ONEに派遣、「現場に出てない人間の言う事に従うのは考えなきゃいけない」と名前は出さずも公然と猪木を批判し、猪木もさすがに面白くなかったのか「秋山組vs武藤組はつまらない」と発言したことで、新日本とNOAHの間で摩擦が生じ始める。元々猪木はNOAHに関しては「流行に過ぎない!」と斬って捨てていたことから良い感情を持っておらず、三沢も猪木に対して師匠である馬場の影響を受けてか「あの人」呼ばわりするなど相容れない関係だった。三沢が秋山の簡単に貸し出せないもう一つの理由は猪木の介入で、猪木の介入に新日本は対処してくれるのか、わからないままで秋山を簡単に貸し出すことは出来なかったのだ。
そこで猪木が新日本に対してIWGPヘビー級選手権として藤田vs小川直也を10・8東京ドームのメインとして行うように要求してくる。この頃の新日本は長州が猪木によって現場監督から失脚し、それを受けて渉外担当だった永島勝司氏も発言力が低下、現場は合議制で仕切られていたが、まとまりがなかったことで猪木の介入に対応仕切れていなかった。ドーム大会はテレビ朝日が午後6時半から~8時までと1時間半に渡ってゴールデンタイムで放送されることが決定していたが、裏番組ではフジテレビがフジテレビでは7時から9時まで「K-1 WORLD GP 2001 in FUKUOKA」を生放送することになっていた。猪木は純プロレスより知名度の高い小川の起用することでK-1との視聴率を稼げるだけでなく、純プロレスの秋山組vs武藤組の試合より、格闘技色の強い藤田vs小川をメインにしたほうが面白いと対抗意識を持った上でぶつけてきたのだ。
これに対して秋山も「やる前からつまんないって 言われたのは解せない。今の新日本ではオレの やりたい“純プロレス”が否定されてるんだろう と思うし。必要とされてないなら、行っても しょうがない」と猪木や新日本を批判し、永田も「情熱を込めて 秋山とのタッグをオレは実現する。なのに藤田と小川をやらせようとするところがうちらしい。試合(内容)で勝負する。どっちの試合が面白いかをお客さんに判断してもらう。秋山と凄いことをやってやるよ」と小川vs藤田に対して内容で勝負することを訴える。
ところが小川vs藤田は交渉段階で小川がゴネたため決裂となり、藤田の相手はアメリカでMMA特訓をしてきた佐々木健介が据えられることになったが、これに猪木が激怒して新日本に対して小川の重要性を訴え、猪木自ら交渉に当たったが、猪木と距離を取りつつあった小川は試合はせずも来場だけに留まり、新日本の意向通り秋山&永田vs武藤&馳、藤田vs健介が決定となった。秋山と永田の相手は武藤&ケアを希望していたが、全日本がまだ馬場元子体制で、NOAHとの関係が良好ではなかったため、元子社長の息がかかっていない馳が代わりに全日本代表として武藤と組むことになった。メインで登場した永田&秋山vs武藤&馳は4選手がテクニックの攻防を繰り広げ、61500人の大観衆にプロレスの魅力を訴える攻防を展開、秋山もNOAH浜松大会での第1試合を終えた後でドームに駆けつけたが、移動やダブルヘッダーにも関わらず、初めて対戦する武藤、全日本以来の対戦となる馳と見事な攻防を繰り広げる。終盤には永田の延髄斬りを馳がかわすと、武藤が馳を踏み台にしてシャイニングウィザードを炸裂させると、秋山が武藤に対して掟破りのシャイニングウィザードを敢行、だが馳も秋山を裏投げで投げ4選手がダウン、館内は大興奮となる。そして秋山が武藤をフロントネックロックで捕らえている間に、永田は馳をバックドロップからバックドロップホールドで3カウントを奪い、ドームの大観衆を大熱狂させた。試合後には今度は永田がNOAHへ出場すると秋山に約束し、武藤自身も秋山を通じてNOAHに興味を持ち、三沢との対戦を視野に入れ始め、藤波も「永田&秋山をドームのメインに持ってきたのは大正解だった」と誇らしげにコメントした。だが猪木は自身の意向が通らなかったとしてドームには来場せず、K-1福岡大会に来場したことで秋山組vs武藤組の試合を見ることはなかったが、秋山も永田もこの時ばかりは猪木も関係なかった。
二人の一騎打ちは2002年1月4日東京ドームで秋山の保持するGHCヘビー級王座をかけての対戦することになった。当初は永田が藤田の保持するIWGPヘビー級王座に挑戦する予定だったが、藤田が「INOKI-BOM-BA-YE2001」でのジェロム・レ・バンナ戦へ向けてトレーニングしている際にアキレス腱を断裂したため欠場となり、ドームのメインが白紙になったことで困った新日本側が急場凌ぎでNOAH側に打診して実現したものだったが、さすがの猪木も他団体のベルトをドームのメインにするのは何事かと横槍が入り、藤波も猪木に配慮してか「IWGPヘビー級王座決定トーナメントの1回戦も平行して行い、秋山vs永田のGHCヘビー級選手権もトーナメントの1回戦として行う」と発表すると、秋山が「IWGPトーナメントの件は聞いてない。新日本がガチャガチャするなら、(永田戦は)辞退する」と激怒する。だが秋山がボイコットした場合は三沢自身が代わりに出ることを示唆すると、秋山も「三沢さんの顔を潰すことになる」と一転してドーム出場を決断、藤波も秋山の激怒を受けて秋山vs永田戦はIWGPヘビー級王座決定トーナメントは行われず、GHCヘビー級選手権がメインになることが正式に決定した。大会当日の猪木は車椅子で登場した藤田からIWGPベルトを受け取ったが、秋山vs永田だけは見ずに会場を後にし。秋山がリストクラッチ式エクスプロイダーで王座を防衛も、永田も「INOKI-BOM-BA-YE2001」でミルコ・クロコップと対戦し秒殺KO負けしたことでファンの批判を背負ったまま試合に臨んだが、永田自身はミルコ戦や秋山戦を乗り切ったことで涙を流した。
秋山と永田は2・17NOAH武道館大会でもタッグを組み、膝の手術のため長期欠場していた小橋建太の復帰戦の相手を務め、その後も対戦や互いの20周年記念大会でタッグを組んだ。永田は一選手として新日本一筋で通したが、秋山はNOAHから全日本に戻り団体を仕切る立場となり、好対照となるも、二人の交流は続いたが、二人の関係は様々な弊害を乗り越えた上で築かれた関係であり戦友でもあった。全日本2・3横浜文体大会では二人が久しぶりにタッグを組んでアジアタッグ王座に挑戦するが、自分はこの試合が二人の集大成的な試合になるような気がしてならない。野村だけでなく全日本のファンに秋山と永田が自分らのこれまでをどう伝えていくのか注目したい。
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二つのWWF王座を掘り起こしたレスラー・藤波辰己
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2018年1月22日
1978年1月23日、WWWF(WWE)の殿堂だったニューヨークMSGのリングでWWWFジュニアヘビー級王座を奪取した一人の日本人レスラーがいた。その名は藤波辰己昭和50年6月、新日本プロレスで開催された若手の登竜門「第1回カール・ゴッチ杯」に優勝した藤波は木戸修と共に西ドイツへ海外武者修行に旅立ち、半年間ファイトした後でアメリカへ転戦、フロリダに住むカール・ゴッチの下で指導を受けた。しばらくすると新日本プロレスからの指示で木戸が一足先に帰国、一人残った藤波はゴッチの指導を受けつつ、NWAのミッドアトランティック地区、メキシコUWAで試合をこなし、レスラーとして成長した。
77年12月、当時の営業部長で猪木の片腕だった新間寿氏から帰国命令が下されるが、海外で食べていける自信をつけた藤波は帰国命令を拒否、それでも諦めない新間氏は藤波と話し合い、藤波は「帰国するなら、何か考えてください」という条件をつけた。そこで新間氏は当時のWWWF(WWE)のボスだったビンス・マクマホン・シニアにWWFジュニアヘビー級王座を復活させて欲しいと依頼する。
WWWFジュニアヘビー級王座は藤波用に作られた王座ではなく実在した王座で、1965年に誕生しジョニー・ディファジオが王者となったが、1972年に封印されていた。そのベルトに目をつけた新間氏はトニー・ガレアを降し王者となったカルロス・ホセ・エストラーダに藤波を挑戦させ、1978年1月23日、WWWFの本拠地でプロレス界の殿堂とされたニューヨークMSGのリングで藤波はこの試合で初披露となったドラゴンスープレックスホールドで3カウントを奪い王座を奪取、この試合は「ワールドプロレスリング」でも放送され、藤波は瞬く間にスターダムへとのし上がった。WWFジュニア王座は実況担当だった古館伊一郎氏によって「ディファジオ・メモリアル」と呼ばれたが、新間氏と藤波が掘り当てた王座だった
藤波は王座奪取後もアメリカで防衛戦を行い、凱旋帰国後も新間氏は「藤波は国際的な王者でもある」とイメージづかせるために、シリーズの合間にも藤波をアメリカ、メキシコへ送り防衛戦を行わせ、日本で一旦剛竜馬に王座を明け渡すも、2日後に奪還した藤波はヘビー級へ転向するまで海外を股にかけて防衛戦を行った。
藤波のMSGでの戴冠はジュニアだけではなかった、1981年にヘビー級へ転向した藤波は1982年8月、同じMSGのリングでジノ・ブリットを破りWWFインターナショナルヘビー級王座を奪取、インターナショナル王座も実在する王座で、1959年に誕生しアントニオ・ロッカがバディ・ロジャースを破り初代王者となり、これも古館氏によって「藤波が掘り当てた『ロッカ・メモリアル』」と称された。なぜ新間氏がインター王座を掘り起こそうとしたのか不明だが、当時全日本プロレスに力道山伝統のNWAインターナショナルヘビー級王座があり、ジャンボ鶴田に巻かせようとしていたことから、新日本も全日本に対抗するためにWWFインターを掘り起こして、鶴田より先に巻かせたかったのかもしれない。
WWFインター王座は藤波vs長州の名勝負数え歌に使われ、藤波も長州以外にマスクド・スーパースター、エル・カネック、ボブ・オートン・ジュニア、アドリアン・アドニス相手に防衛戦を行ったが、そのベルトの権威が問われる事態が起きた。1984年3月25日MSGにて突如「WWFインターナショナル・ヘビー級王座決定戦」を行なわれ、新日本から姿を消していた前田日明がピエール・ラファエルをコブラツイストで降し新王者になり、新団体「UWF」への参戦を表明した。この王座決定戦を仕掛けたのは新間氏で、前年度に起きたクーデター事件で全責任を問われて新日本を去っていたが、水面下で新団体設立へと動いており WWF会長の地位に就いていたことからマクマホン一家との関係も続いていた。ベルトには「UWF」の名前が施されていたことから、WWFのベルトではなくUWF用に作られたベルトであったことは明白だった。
WWF会長の座を利用して、もう一つのWWFインターベルトを作った新間氏に坂口征二副社長は「冗談じゃない。この王座は新日本プロレスに管理運営権があるんだ」と主張、前田の兄弟子格だった藤原喜明が前田への刺客として挑戦を表明、社長だった猪木も了承を得て藤原がUWFに参戦し前田と対戦したがWWFインター王座はかけられなかった。この頃のWWFは病床のビンス・シニアからビンス・マクマホンに代替わりしており、ビンスも代替わりを契機に新日本との関係を見直してWWF有利のブッキング契約を結ぶように新日本に迫っていた。これは自分の見方でもあるが、新日本が断ればUWFと提携すると迫り、新間氏やWWFインター王座の存在も交渉材料として利用していたのではないだろうか? 新日本プロレスはWWF有利と新しいブッキング契約を締結、UWFにはWWFインター王座を持ち込めないどころか、WWFからも選手が派遣されることはなく、その後前田と対立した新間氏はUWFを去ったことでUWF版WWFインター王座は消滅となったが、WWFとしても新日本と新しい契約を締結した時点で、UWFやUWF版WWFインター王座も利用価値がなくなって用済みとされてしまったのかもしれない。
新日本とビンス体制となったWWFとの関係も長くは続かず、翌年の1985年7月にスーパー・ストロング・マシンとの防衛戦で両者反則に終わった藤波は裁定に不服として王座を返上も、10月をもってWWFとの提携が解消されたことで、藤波は2度と王座を巻くことはなく、インター王座とジュニア王座は封印となった。2015年に藤波がWWE殿堂入りを果たしたが、WWFジュニアやインター王座を功績ではなく、NWA世界ヘビー級王座を奪取した功績を称えられての殿堂入りだった。しかし藤波がWWFジュニア王座を持ち帰ったことで日本マットにジュニアヘビー級という概念が生まれ、インター王座を持ち帰ったことで長州が王座になることが出来た。この日本マットにおける功績はこれからもずっと変わらない。