伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

ZERO-ONE旗揚げ(前編)1・4事変…粛清された破壊王

 1997年8月31日の横浜アリーナ大会で橋本真也は佐々木健介に敗れ、7度にわたって防衛してきたIWGPヘビー級王座を明け渡したが、この頃から橋本と新日本の間で亀裂が生じ始めていた。選手会長時代に選手会費を使い込んだことで新日本側から突き上げを喰らっただけでなく、「ミスターIWGP」と周りがチヤホヤすることで驕りが出て全く練習しなくなり、現場監督の長州力とも対立し何度も衝突していた。長州と橋本は長州が新日本Uターン時から折り合いが悪く、また長州も闘魂三銃士の中で一番評価していなかったのは橋本だったが、橋本の出すインパクトの大きさを買って全面に押し出していた。


 1997年1月4日の東京ドーム大会で長州力が最初の引退をしたことで、以前から長州の代わりに現場を取り仕切りたいという野心を抱いていた橋本は"長州はフロントに専念して現場に来なくなる"と思い現場を牛耳ろうとしていたが、長州は引退してもこれまで通りに巡業に帯同し現場監督として現場を取り仕切ることになり、思惑の外れた橋本は現場での発言力を誇示するためにIWGPヘビー級王座奪還を狙ったが、健介を破りIWGPヘビー級王者になっていた藤波辰爾に挑戦して敗れ、10月には王座決定戦で永田裕志を降し王者となっていたスコット・ノートンに挑戦して敗れてしまったことで、IWGPヘビー級戦線からも外されてしまう。新日本側はIWGPヘビー級挑戦者決定トーナメントの開催を発表し、橋本をエントリーさせるが、他の選手と横一線にされた橋本は長期に渡ってIWGPヘビー級王座を守り抜いたプライドを傷つけられたことで新日本側を批判、これを受けて新日本側は橋本に対して無期限の謹慎処分を言い渡す。後に渉外を担当していた永島勝司氏は「あのときの新日本は橋本真也がいらなかった」とコメントしていたが、この頃の新日本は武藤敬司や蝶野正洋がおり、陰りが見え始めていたがnWo人気もまだまだ健在だったこともあって、橋本は必ずとしても必要とされるの存在ではなくなっていた。


 1998年1月4日に小川直也と対戦、俗に言う1・4事変だったが、謹慎処分が降される前から決まっていたカードだったこともあって予定通りに行われた。だが橋本は新日本への不信感から来るストレスでますます練習をしなくなり、謹慎前にも高血圧で倒れるなどコンディションは最悪だった。
 試合はローキックを仕掛ける橋本に対し、小川は掌底で応戦、橋本は胴タックルからコーバーへと押し込むが、膠着したためタイガー服部レフェリーが分ける。スタンディングで打撃戦で橋本がロープへと押し込むと小川がフロントスリーパーを決めながら、橋本の首筋や背中あたりにエルボーを落とし、プロレスでは禁じ手のため服部レフェリーは分けようとするが小川は離さず、倒れこむ橋本にマウントで捕らえてパウンドを落としてから腕十字で捕らえる。
 橋本はたまらずロープへ逃れるが、小川は倒れている橋本に蹴り、後頭部にパンチを浴びせる。挑発する小川に橋本は胴タックルから再度ロープへ押し込むが、小川はフロントスリーパーで捕らえ、服部レフェリーは試合を軌道修正しようとして分けようとするが、橋本は服部レフェリーを蹴ってしまいダウンさせてしまう。しかしレフェリーがダウンしてしまったことで完全にリングは無法地帯となってしまい、ルール無用の状態となった小川は亀になった橋本を容赦なくバックマウントで捕らえてパウンドで殴りつけ、スリーパーを狙うも逃れた橋本を横四方からアームロック、それでも逃れる橋本にパウンドを落とし、ダウンする橋本の後頭部を殴り蹴りつける。橋本は花道に逃れるもダウンしたまま立ち上がれず、小川が挑発しているところで試合終了のゴング、試合は無効試合となるも、内容的にも小川は橋本の攻撃を全く受けず、一方的に仕掛けてくる小川の前に橋本は全く対処できないまま無残にも潰された。



 なぜ橋本が無期限謹慎中にも関わらずvs小川戦が予定通り行われたのかわからない。当時の状況を考えてみると、自分の推論だが驕りたかぶった橋本への粛清の意味で試合が行われたのではと思う。橋本自身も小川がおかしいとわかっていたはず、だから服部レフェリーを自ら蹴って試合を壊そうとしたが、誰も止めにリングに入らない。選手らが入ってきたのは橋本が無残にやられてからだった。 この1・4事変を見て面白いと思ったのは現場監督の長州だった。おそらく長州の中では大仁田厚と、橋本vs小川の二枚看板にすればビックマッチは盛り上がる。粛清された今の橋本だったら自分が手なづけることが出来ると考えたのではないだろうか・・・、だが橋本vs小川の主導権は大仁田を良く思わない猪木と藤波が主導権を握った。この頃の新日本は現場監督の長州を通さずに、猪木と社長である藤波の間で重要事項が決められることが多くなりはじめていた。(続く)

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