プロレス史
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川田利明vs小橋健太、阪神淡路大震災で打ちひしがれた人たちに力を与えてくれた60分間!
2017年度伊賀プロレス大賞の投票受付中です!今年は投票用サイトを用意しました。投票はこちらでよろしくお願いします → https://t.co/DHd6oUkGXL #伊賀プロレス大賞 #prowrestling
— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2018年1月14日1994年1月17日5時46分52秒、就寝していた自分だったが、激しい揺れで起き、思わず布団を被った。揺れが収まると震度を確かめるためにテレビをつけた。ニュースは神戸は震度7と報じ、阪神・淡路大震災を知った。
1995年の全日本プロレスは93年から三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太を中心とした四天王プロレス時代へと突入、三沢を中心とした四天王が三冠統一ヘビー級王座、世界タッグ王座を巡って激しい攻防を繰り広げていたが、1994年7月28日のに三沢はスティーブ・ウイリアムスに敗れ、2年にわたって保持してきた三冠王座を明け渡し、9月3日には小橋が三冠王座に初挑戦。この頃の小橋はチャンピオンカーニバルの公式戦では外国人トップに君臨していたスタン・ハンセン破るなど、トップの一角に食い込むほどに成長していたが、小橋自身も生涯でのベストバウトと言わしめた試合は41分23秒の激闘の末、ウイリアムスの殺人バックドロップに敗れ王座は奪取ならなかったが、三冠奪取への手応えを掴んだ。だがウイリアムスは10月22日に川田のジャンピングハイキックに敗れ王座から転落、三冠王座は川田の手に渡った。
1994年の最強タッグは小橋は今回も三沢と組んでエントリーとなったが、リーグ戦終盤に1995年1月19日、大阪府立体育会館で三冠統一ヘビー級選手権が発表され、川田への挑戦者は小橋が指名された。大阪で三冠選手権が組まれるのは1989年4月20日に行われたジャンボ鶴田vs天龍源一郎戦以来で約6年ぶりで、四天王プロレス時代になってからは三冠選手権は武道館を中心にして行われていたが、ファンから大阪でも開催して欲しいという要望もあり、また大阪府立は新日本が最も強い会場とされていたことから、大阪のファンを沸かせるにはこのカードしかないという判断で川田vs小橋戦が組まれた。だが挑戦者に選ばれた小橋は乗り気にはなれなかった。理由は最強タッグ中に右膝の肉離れを起こしており、目の前の試合に出れるかどうかわからない状況だった。それでも小橋は目の前の試合をこなし、三沢とのタッグで最強タッグ2連覇を達成するも、気持ちが晴れないまま1995年を迎えた。
小橋は三冠選手権が組まれた新春ジャイアントシリーズに入ると、1月7日の大分でウイリアムスとシングルで対戦、この試合はプロモーターの要望で実現した試合だったが、試合時間が30分だったこともあってフルタイムの引き分けで決着がつかずも、試合後にウイリアムスが小橋に歩みより、親指を掲げてエールを送ったことで、小橋自身も前向きとなり19日の三冠戦を迎えるはずだった。
震災当日の全日本勢は翌日に愛知県田原町大会を控えていたこともあってオフだったが、三冠選手権直前の震災発生は選手やスタッフを始め動揺しており、関西出身の小橋も家族の安否を心配していた。幸い京都に住んでいた母には連絡が取れたが、兵庫に住んでいた祖母とは連絡が取れなかった。そして府立体育会館は震災の影響がなかったことがわかったが、全日本内部でも開催にあたって「プロレスをやってる場合じゃないだろ!」もあり大多数を占め、中止に傾きかけていた。だが馬場は「大阪に近い神戸で大地震が起きたからこそ、決行すべきことじゃないかな。今、オレたちにできることと言ったら、それしかないものなァ」と反対意見を押し切ったことで決行されることになった。しかし小橋はニュース報道を見て"住む家を失った人や、大切な人が失った人が多くいる中で、通常のプロレス興行を行っていいのだろうか?”"僕と川田さんの三冠戦を「ぜひ見たい」とチケットを買ってくれた人たちが、果たして無事会場へ来ることができるのか・・・?”と葛藤を抱えるようになった。
大会当日、当初入る予定だったTV中継は震災報道に回されたことでノーテレビとされ、大阪での三冠戦を記念したイベントも企画されたが自粛となり、大会も兵庫県南部地震チャリティ興行として開催され、チケットを持っていながらも来られなくなったファンには払い戻し、同大会を収録したビデオを配布するという措置が取られた。会場となった大阪府立体育会館には関西在住のファン、東京から駆けつけながらも新幹線の線路も寸断されていたため、名古屋駅まで来てJRの在来線や近鉄特急など私鉄を乗り継いできたファンが駆けつけた。そして自分も阪神高速がなんばICまで走っているとわかると自家用車に乗って大阪へ向かった。しかし奈良を通過するあたりから被災地へ送る荷物や簡易トイレを積んだトラックが多く目立つようになり、なんばに近づくと渋滞となったが、ようやく府立体育会館へ到着も、当時府立体育会館前にあったローソンにはパンや弁当は神戸から運送されてくるはずだったため販売しておらず、空は冬空だったせいもあって大阪には暗い雰囲気となっていたこともあり、改めて関西に震災が起きたことを痛感したが、その状況の中で府立体育会館には5600人満員のファンが駆けつけた。"誰もが心からプロレスで生きる活力を得ようと刮目している""プロレスの力を見せたい!””絶対に負けてたまるか!と姿勢を見ている人たちに伝えなくてはいけない!"という気持ちを固め、メインのリングに上がった。
序盤から川田がいきなり投げ放しジャーマンを仕掛けてから一気に試合が動き出し、川田は小橋の痛めている右膝めがけてスライディングキックを発射してから徹底した右脚攻めで先手を奪う。しかしニークラッシャー狙いを逃れた小橋はソバットで川田を屈めさせると、後頭部めがけてギロチンドロップを投下してしてから首攻めで反撃、フライングショルダータックルを浴びせた小橋はスリーパーで絞めあげるが、川田は小橋をコーナーにぶつけて脱出すると逆水平やエルボーの連打を浴びせ、小橋の串刺しニー狙いをキャッチしてそのまま倒す。小橋は川田のブレーンバスター狙いを投げ返し、何度もコーナーにぶつけるが、意地で耐えた川田はドロップキックを発射、、両者ダウンの後で逆水平を浴びせ、小橋は意地で耐え抜くも、川田はノド笛チョップを浴びせ、さすがの小橋もノド元を押さえてうずくまってしまう。
呼吸が思うように出来なくなった小橋はたまらず場外へ逃れるが、川田はエプロンからのフットスタンプ、リングに戻ってからセカンドロープからのフットスタンプ、フェースロックからサッカーボールキックと攻め立ててからスリーパーで捕獲、胴絞めへ移行するなど小橋を追い詰めにかかる。川田は投げ放しパワーボムから急角度でのバックドロップで小橋を投げると、顔面へのキックからパワーボムで勝負に出るが、リバースした小橋は川田を場外へ放り投げ、鉄柵に叩きつける川田をカウンターでショルダータックルを浴びせるも、川田が先にリングに戻ると、エプロンに立った小橋にロープ越しのラリアットを放つ。川田は小橋が再度エプロンに戻ったところで再びラリアットを放ったが、ガードした小橋はチョップを浴びせ、怯んだ川田にコーナーからフライングショルダーを発射、川田は左足でのキックで迎撃したが左足を痛めてしまい、これを逃さなかった小橋はすかさず川田の左足に低空ドロップキックを発射してから左足攻め、そして足四の字固めで捕獲し、場外戦でも本部席めがけてのニークラッシャー、リングに戻ってからテキサスクローバーホールドと川田の左足に大ダメージを与えていくが、川田も小橋の右膝にローキックを浴びせて譲らず、前から逆水平、後ろからサッカーボールキックのコンポ攻撃から、起き上がり小法師式逆水平で再び自身の流れを戻す。
川田は再度パワーボムを狙うが、小橋はリバース、川田は前蹴りの連打を放っていくが、小橋もラリアットで応戦して両者ダウン、小橋が先に起きて袈裟切りチョップの乱打から逆に小法師式逆水平、そして投げ放しでのパワーボム、逆水平からロープへ振るも、川田がへたり込むようにダウンする。小橋は先ほどの仕返しとばかりに高角度のバックドロップを決めるが、川田も技逆水平で応戦すれば、小橋もドロップキックで返し、フェースクラッシャーから後頭部ギロチンドロップの連打、そしてムーンサルトプレスで勝負を狙う。
しかし川田は反対側のコーナーへと転がり込んで逃れ、小橋はDDTの連打で突き刺すと、ムーンサルトプレスを投下するが、かわされて自爆、両者は逆水平を打ち合い、小橋がマシンガンチョップを放つと、川田はカウンターでの逆水平を小橋のノド元に浴びせ、ラリアットをブロックする小橋にジャンピングハイキックを炸裂させ、両者ダウンの後で先に起きた川田はもう一発ジャンピングハイキックを炸裂させてからカバーも、小橋はカウント2でキックアウトする。
川田はパワーボムを決めるが、また小橋はカウント2でキックアウト、再び急角度でのバックドロップを決めるが、小橋はカウント2でキックアウトする。川田はジャンピングハイキックやパワーボムがダメならとストレッチプラムで捕獲して絞めあげ、心を折らんとばかりに捻じ切ってからカバーするも、これも小橋は必死でキックアウトする。
川田はジャンピングハイキックを狙うが、かわした小橋はフォアアームを放ち、ストレッチプラムを狙う川田を切り返してローリングクレイドルで回転、小橋はスピンキックを狙う川田をキャッチしてから倒しランニングネックブリーカードロップを決めると、パワージャックからムーンサルトプレスを投下、勝負あったかに見えたが、川田はカウント2でキックアウトする。
小橋はセカンドロープからのダイビングギロチンを投下するが、川田がかわし、小橋はジャーマンを狙うが、逃れた川田は浴びせ蹴りを連発、時間もいつの間にか50分が経過していた。川田は投げ放しドラゴンスープレックスで投げると、ステップキックからのバックドロップは小橋が体を入れ替えて浴びせ倒し、川田の逆水平をかわしてジャーマンスープレックスホールドを決めるがカウント2で決め手にならない。小橋は再度ジャーマンを狙うが、川田はジャンピングハイキック、踵落としで阻止し、投げ放しジャーマンで投げると、逃れようとする小橋に再度ジャーマンで投げる。そしてパワーボムを狙うが、小橋は必死で堪えたところで試合終了のゴング、時間切れの引き分けとなった。
試合後に川田が小橋に歩み寄り手を差し伸べた、川田も60分フルタイムというものは初めての経験で。小橋へ握手は健闘を称える意味ではなく、60分フルタイムを戦い抜いた充実感から出た握手だった。館内は全日本コールが巻き起こっており、二人の試合を見て感涙するファンもいた。川田は「当時は選手のコールよりも全日本コールが起きた方が嬉しかった」と答え、小橋も「プロレスラーはリングの上でしか勇気付けられないから」と答えていたが、二人が戦っていた60分間は間違いなく、震災があったことを忘れさせた60分間であり。観戦していた自分も暗い雰囲気に一筋の光明を見た気分となっていた。川田vs小橋だけでなく全日本プロレスの試合がいろんな力を与えてくれた瞬間でもあった。
新春ジャイアントシリーズを終えた馬場は元子夫人の実家である明石が震災の被害に遭ったことで側近だった和田京平や仲田龍、一部選手らを引き連れて家の片付けを向かうと、関西地区の被害を目の当たりにした馬場は、ガスコンロや生活用品を買い集めた後関西地区に住んでいる全日本のファンクラブ「キングスロード」会員の名簿を取り寄せ、一軒一軒へ馬場自らが出向き、生活用品を差し入れて、避難所を訪れ被災者を激励にまわっていた。
自分も自宅へ向かう車の中でラジオを聴いていたが、震災の報道は続いていたが、明けない夜明けなどない、明日はまた来ると思い帰路へついた。1995年1月19日大阪で行われた川田vs小橋は今でも自分の中ではベストバウトの中でNo.1の試合であり、またプロレスが与える力とは何なのかというものを考えさせられた試合だった。
<参考資料 ベースボールマガジン社「四天王プロレスFILE」小橋建太著「熱狂の四天王プロレス」より>
プロレスのちから。#阪神淡路大震災 #プロレス pic.twitter.com/fN2cp13T73
— アカツキ (@buchosen) 2018年1月17日PR -
アントニオ猪木vsローラン・ボック 「シュツットガルドの惨劇」は惨劇ではなく激闘だった
1978年11月25日、西ドイツ・シュツットガルドでアントニオ猪木はローラン・ボックと対戦。猪木は何度もスープレックスに叩きつけられ、判定負けを喫した。この試合は後に「シュツットガルドの惨劇」と名づけられた。なぜこのような試合が行われたのか…
1976年6月26日、アントニオ猪木は異種格闘技戦でモハメド・アリと対戦した以降、世界中からオファーが殺到した、そして猪木はボックのからオファーを受け、猪木は西ドイツへと遠征した。ボックは1968年に開催されたメキシコ五輪に西ドイツ代表として出場、グレコローマンで5位に入賞後にプロデビューを果たし、国際プロレスに来日したジョージ・ゴーディエンコとのシュートマッチで名を馳せ、74年には西ドイツに遠征にきたミル・マスカラスをも破り、海外武者修行中だった吉田光雄こと長州力とも対戦、75年には『ヨーロピアンカップ』76年には『ワールドカップ』に優勝するなど輝かしい実績を誇っていたが、当時のヨーロッパマットは情報が少なく、まったく無名のレスラーに過ぎなかった。ボックは猪木vsアリを見て猪木という存在を知り、日本にも来日して猪木の試合を視察、ボックは猪木に直接オファーをかけ、11月に西ドイツへ遠征に出ることが決定し、ボック自身もプロモーターだったこともあって、猪木を招聘する準備を進めた。
だがこの遠征は猪木のマネージャー役でもあった新間寿氏は乗り気ではなく反対したが、猪木は「いつ、どこでも、誰とでも戦う」と押し切り、新間氏も最終的に了承したが自身も同行するだけでなく、ボディーガードとして藤原喜明も同行、新日本では「プレ日本選手権」が開催されていたが、日本の留守を坂口征二、ストロング小林、藤波辰己に任せて西ドイツ遠征へ出発、またボックも猪木を『アリと闘ったアジアン・カラテ・キャッチ・キラー』と大体的にPR、大会中央のポスターには『キラー・イノキ』の文字が大きく記されていた。しかし猪木の参加したツアーは過酷なものであり、猪木は初戦に日本でも対戦したこともあるウイリアム・ルスカと対戦して勝利を収めるも、2戦目のボック戦ではボックのフロントスープレックスに叩きつけられ、受身の取りづらい投げ方をするだけでなく、固いリングだったこともあって猪木は右肩を負傷、3戦目はボクサーであるカール・ミルデンバーガーと異種格闘技戦を急遽行い、逆片エビ固めで勝利収めるが、第4戦目の相手であるアマレスの強豪であるウォルヘッド・デートリッヒとの試合ではデートリッヒのスープレックスで更なるダメージを負ってしまい、左足も痛めた猪木は満身創痍の状況で最終戦のボック戦を迎えた。
試合は4分10ラウンド制で行われた。
1ラウンドはボックは巻き投げからグラウンドを仕掛け、猪木がロープレークし、スタンディングから猪木も片足タックルを仕掛けるも、堪えたボックはサイドスープレックスで投げる。猪木はバックからやっとグラウンドを捕らえるも、再びスタンディングとなると、ボックのフロントスープレックスで投げ、猪木は下からのクルックヘッドシザースで捕らえるが、1ラウンド終了となってしまう。
2ラウンド目は猪木が猪木アリ状態からアリキックを仕掛けるがボックは動じず、今度はボックがバックを奪って投げ放しジャーマンで投げるも、猪木はアームロックで捕らえて反撃、猪木は張り手を繰り出すが、ボックはエルボースマッシュで応戦、片足タックルからグラウンドを仕掛けるがロープに逃れられてしまう。ボックは組むつく猪木の左足を払いトーホールドで捕らえる。
3R目は猪木がドロップキックを仕掛けるも、ボックはかわし、猪木は片足タックルからボックの右脚を捕らえにかかるも、ヘッドシザースで捕らえたボックは倒立して回転しヘッドシザースホイップで投げると、そのまま絞めあげて腕十字で捕らえ、猪木は立ち上がって逃れようとするが、ボックは再びヘッドシザースホイップから捕らえてからの腕十字で逃さず、猪木にリードを許さない。
4ラウンドもロックアップからボックがスリーパーで捕らえ、猪木は首投げで逃れるが、ボックはヘッドシザースで切り返し、猪木も倒立で脱出を狙うが、ボックはパイルドライバーの要領で突き刺して逃さず、再びヘッドシザースで捕らえる。ボックは差し合いから再びフロントスープレックスから覆いかぶさり、ボックがロープに押し込んでブレークになった隙を突いて猪木は足を捕らえるが、レフェリーからブレークを命じられ、脇へ潜った猪木に対し、ボックはダブルアームスープレックスを狙うも、猪木はブレークすると、また隙を突いた猪木は足を捕らえるが、ボックは逃れたところでラウンド終了となる。
5ラウンドは猪木がヘッドロックで捕らえて首投げを狙うが、ボックは投げさせず、やっと首投げからスリーパーで捕らえ、さすがのボックも苦しくなったのか必死で逃れると、投げられた猪木は両足からの蹴りで応戦し、鋭いドロップキックをボックの首筋めがけて連発しボックがダウン。起き上がったボックを猪木がスリーパーから首四の字で捕らえ、やっとリードを奪うことに成功する。
6ラウンドも猪木がスリーパーでボックを捕らえ絞めあげるが、ボックはチンロックで猪木の頭部をねじ上げて脱出を図る。猪木は何度もカバーし、手四つでかぶさって、ボックのスタミナを奪いにかかる。猪木はキーロックで捕らえるが、ボックはそのまま持ち上げて叩きつけ、ボックはフルネルソンから横へ投げると、そのまま絞めあげにかかる。猪木はロープに逃れるとアリキックから仕掛けるが、ラウンド終了となる。
7ラウンドもアリキックから仕掛ける猪木に、ボックはタックルから逆エビ固めで捕らえ、猪木は慌ててロープに逃れると、ヘッドロックを仕掛け逃れようとするボックを腕固めで捕獲、だがそのまま猪木の首に腕を巻きつけて絞めあげたボックはスタンディングから絞めあげ、首投げから再びスリーパーで捕獲、猪木も首投げで逃れようとする、ボックは投げさせず、猪木はやっと腕固めで反撃、ロープに押し込んで逆水平を放ったところでラウンドが終了。
8ラウンドはボックがハンマーロックからアームホイップ、再びハンマーロックで捕らえ、猪木は逃れようとするが、ボックは猪木の髪を掴んで倒して逃さず、猪木はヘッドシザースで捕らえるが、ボックも捕らえて絞め合いとなり、猪木がスリーパーで捕らえるも、ブレークを無視したためイエローカード(警告)が提示され、一旦放されるとボックはエルボースマッシュで強襲しボディースラム、また薄いスポンジがかけられているだけのコーナーに叩きつけられてしまう。ボックは両足タックルから逆エビ固めで捕獲、猪木は必死でロープに逃れるが、今度はボックから張り手の連打、猪木は片足タックルからグラウンドを仕掛けるもラウンドが終了となる。
9ラウンドには猪木が片足タックルを仕掛けるも、覆いかぶさったボックはグラウンドを仕掛け、一旦分かれて猪木がドロップキックもスカされてしまう。掌打のような張り手で攻め込むボックに対し、ロープに押し込んだボックに対して猪木が頭突きを浴びせると、そのまま後ろへ投げて場外戦を仕掛け、ボックはエルボースマッシュを乱打も、レフェリーが制止してリングに戻すが、ボックは猪木の頭突きを浴びた際に左目上から流血、ボックは猪木の頭部を捕まえると至近距離での頭突きを連打、そのままクローで絞めあげる。完全に猪木の頭突きに対する報復だった。ブレークの後で猪木は頭突き、ボックの傷口に手刀を乱打も、ボックはパイルドライバーで突き刺し、ロープを使ってそのまま絞めあげる。
10ラウンドもボックが頭突きを浴びせて場外へ出すも、リングに戻った猪木も頭突きで応戦し、今度は猪木がボックを場外へ投げる。猪木はリングに戻ったボックに、不用意に組み合うとボックはフロントスープレックスで投げるが、グラウンドを仕掛けるボックに対して上に乗った猪木がチョップを乱打、ボックもエルボースマッシュを乱打、ボディースラムを連発。猪木も鋭いドロップキックで返すが、ロープ際でもつれ合って試合終了のゴング。判定の結果3-0でボックが勝利となり、猪木は敗れた…改めて試合を見ると惨劇ではなく激闘で、猪木にしてみれば何気なく向かった西ドイツで、ボックという旬の素材を掘り当てるも、料理するにもリングだけでなく体調も最悪、そして慣れないヨーロッパルール、限られた物でボックという素材を料理しなければならなかったが、ボックには敗れたが限られた物だけで、ボックという素材を料理して最高傑作を作りあげた。猪木は新間氏に「4分、6分ぐらいだろ、でもそれでいいんだ。ボック、良かったろ?」と満足げに語り、ボックも「ミスターイノキはヨーロッパにセンセーショナルを起こしてくれた。彼と戦うことによってプロレスは真剣にファイトするスポーツだと我々の国では認められた」と賛辞を贈った。まさしく二人だけしか出来ない名勝負だった。
猪木vsボック戦は「ワールドプロレスリング」でも放送されて、ボックの存在はセンセーショナルに扱われ、来日が期待されたが、ボックは猪木を招いたヨーロッパツアーが興行成績では惨敗に終わり、興行会社は倒産、負債の整理に終われてなかなか来日することは出来なかった。そして猪木へのギャラが払えなくなったボックは新間氏と話し合って新日本に参戦することを決意し、1979年7月に来日して猪木と再戦する予定だったが、自動車事故による負傷で来日が中止となった。復帰後にボックは12月16日にはジンデルフィンゲンでアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦、アンドレをスープレックスで投げたが、アンドレの怒りを買ってジャイアントプレスを左足で受けてしまって左足を負傷、その際に心臓麻痺につながる血栓症を誘発させてしまい、この血栓症がボックの選手寿命を短くさせる結果となってしまう。
1981年の「サマー・ファイト・シリーズ」にやっとボックが来日、木村健悟や長州力相手の秒殺勝利を収めることでファンに大きなインパクトを与えたが、実際は血栓症のに苦しんでおり長時間による試合は無理な状態だった。それでも猪木に再戦を要求して西ドイツへ戻り。12月に再び来日しラッシャー木村、タイガー戸口を一蹴、スタン・ハンセンとのタッグも実現して猪木&藤波辰己との師弟コンビと対戦して藤波をも一蹴するなど圧倒的な強さを見せつけたが、血栓症を患ったボックの体は限界に達していた。体調が良くならないまま1982年元日後楽園ホールで猪木と再戦を迎え、試合形式も5分10ラウンドで行われたが、試合は3Rにボックがロープ越しのスリーパーで捕らえたところで、レフェリーの制止を無視したため反則負けで期待を大きく裏切る結果となり、ファンは翌年に開催されるIWGPでの再戦に期待がかけられたが、ボックはこの試合を最後にはマット界から姿を消した。
消息を絶ったボックは一時死亡説まで流れたが、2012年に発売された「GスピリッツVol.23」で公の場に登場、ボックは猪木との元日決戦の時点で血栓症の悪化で引退を決意しており、IWGPにも参加する意志はなかった。元日決戦からの帰国後はツアーの資金調達に関係していた第3者の個人投資の損失のために有罪となり、懲役2年の判決を受け収監、出獄後には事業に専念し、猪木と対戦したシュトゥットガルトに居住して靴部品の販売会社を経営し余生を過ごしている。
猪木vsボックは「シュツットガルドの激闘」が全てであり、猪木自身が何もかも最悪の状況で出来た名勝負だった。
(参考資料=新日本プロレスワールド、GスピリッツVol.7、23)
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インターヘビー級とアジアヘビー級、ランズエンドで甦る流浪のアジアヘビー級王座
崔領二のランズエンドがアジアヘビー級王座を復活させることを発表した。アジアヘビー級王座はインターナショナルヘビー級王座よりも歴史が古く、権威のあるベルトだったが、扱いは良いものではなかった。アジアヘビー級王座は1955年11月22日に日本プロレスがアジア選手権大会が開催された際に創設され、キングコングを破った力道山が初代王者となり、日本プロレスの看板タイトルになったが、1958年8月に力道山がルー・テーズを破ってインターヘビー王座を持ちかえると、インターヘビー王座が看板タイトルとなって、アジアヘビー王座はNo.2の王座に降格、どちらも力道山が保持しつづけたが、インター王座は一線級の選手、アジア王座は二線級と使い分けて防衛戦を続けていた。
1963年に力道山が急逝すると、両王座とも「力道山1代限り」として封印され、日プロは看板タイトルはアジアタッグ王座だけの状態となったが、ジャイアント馬場が凱旋帰国してから「馬場を力道山の後継者として、インター王者を継がせるべきだ」という機運が高まった。これを受けて日プロはインターナショナル王座の封印を解除を決意するも、この頃には両王座を管理していた力道山本家である百田家と絶縁していたこともあって、日プロはまだ加盟申請中だったNWAを担ぎ出して、インター王座はNWA認可日本プロレスコミッションの王座として復活、ベルトも新しく製作しディック・ザ・ブルーザーとの決定戦で破った馬場が王者となった。現在インターナショナル王座のベルトは馬場家が管理しているが、最初に馬場が巻いたことから実質上馬場ベルトとなる。
1968年11月9日にはアジア王座も復活、大木が地元である韓国・ソウルで王者となったが、なぜ復活したのか経緯は未だに明かされていないが、この頃の大木は日プロサイドに「2代目力道山襲名」を当時の社長である豊登に迫り、また国際プロレスへの移籍を考えていたことから、大木を黙らせるという意味合いもあって、No.2のベルトあるアジア王座を巻かせたのかもしれない。アジア王者となった大木は1971年に一旦ビル・ドロモに明け渡したものの二線級の選手だけでなく、ドン・レオ・ジョナサン、クラッシャー・リソワスキー、キング・イヤウケア、ブルート・バーナードなど一線級相手にも防衛してきたが、東京プロレスから復帰した猪木の台頭もあって、No2のベルトを保持しながらも、大木は団体ではNo3のポジションに下がり、猪木がUNヘビー級王座を持ち帰ったことで、アジア王座もNo3の王座に格下げとなっていく。
1971年12月にクーデター事件が起き、猪木が日プロを離脱してUN王座を返上すると、1972年7月には馬場も日プロを離脱、この時に馬場は馬場ベルトだったインターナショナル王座を持って離脱しようと目論んだが、管理していた日プロコミッションが許さず、大木との防衛戦を指定すると、いらぬトラブルを避けた馬場は渋々王座を返上、空位となったインター王座はボボ・ブラジルを破った大木が奪取、アジア王座を一旦棚上げにして、インター王座の防衛戦を優先する。しかし日プロが崩壊し大木は馬場が旗揚げした全日本プロレスに合流、アジア王座は日プロが崩壊と共に封印され、インター王座はNWA認可のベルトであり大木個人の所有の扱いで存続されたが、全日本には既に馬場が新設したPWFヘビー級王座が存在したことから、全日本内でのインター王座の防衛戦は許されず、韓国内での防衛戦に留まった。
そして1976年10月にアジアヘビー級王座がPWFの認定のベルトとして封印から解除された。解除された理由は同時期に新日本プロレスが「アジア・リーグ」を開催し、新日本独自でアジアヘビー級王座を新設したことに対抗しての処置で、日プロ最後の社長だった芳の里に使用料を払って復活させたのだ。前王者だった大木がグレート小鹿を破り王座を奪取、だが1年後に馬場のPWF王座とダブルタイトル戦を行い大木は敗れ王座を明け渡し、アジアヘビー級王座は再び封印された。再封印された理由は新日本版のアジアヘビー級王座も1年後には防衛戦が行われなくなり、大木自身もまだインターヘビー級王座を保持していたことから、不必要とされたのかもしれない。
大木は1979年に国際プロレスの所属となり、全日本で許されなかったインターヘビー級王座の防衛戦を日本国内で行ったが、半年で大木が国際プロを離脱し全日本にUターンすると、全日本はNWA会員でない国際プロでNWA認可のベルトの防衛戦を行ったとして、大木にインター王座返上を勧告、大木は受け入れ、再封印されたアジアヘビー級王座との交換で大木はインター王座を手放したが、実際は事業の資金繰りに困った大木に、全日本と日本テレビがアジアヘビー級王座+金銭で取引を持ちかけ、大木が応じてインターヘビー王座を手放したことが定説になっている。
やっと馬場ベルトを取り戻した馬場は全日本のリングでインターヘビー級王座決定トーナメントを開催したが、ブルーザー・ブロディに敗れてトーナメント途中で脱落、優勝したドリー・ファンク・ジュニアが新王者となったが、この頃から馬場はジャンボ鶴田にインター王座を巻かせたいという考えを持ち始めていた。インター王座を手放した大木はトーナメントには参加せず、小鹿との王座決定戦で再びアジアヘビー級王者となったが、この頃から頭突きの乱発から来る首の持病に苦しめられ、視神経の異常を訴えるようになっていた。大木は1982年5月に韓国で阿修羅原との防衛戦を行ったが、この試合を最後に大木はマット界から消え事実上の引退、アジアヘビー級王座の所在も不明となった。
所在不明となったアジアヘビー級王座だったが、大木の愛弟子の一人であるイ・ワンピョ(李王杓)が獲得し、現在も自宅に飾られていることが2017年11月5日発行の雑誌「GスピリッツVol.45」で明らかになったが、どの経緯で獲得したのか、相手や場所も本人も憶えていないという。そしてタイトル名だけはランズエンドが力道山次男である百田光雄から了承得て使用されることになり、ベルトも新調され、PWF会長となったドリーによって再びPWF公認のベルトとして復活することになった。
長年に渡って流浪してきたアジアヘビー級王座は、崔領二のランズエンドによって掘り起こされ、甦ろうとしている。
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永田が渦中に巻き込まれた2003年大晦日の興行戦争⓶なぜ永田は人柱になる決心をしたのか?
日本テレビのバックアップを得た「INOKI BOM-BA-YE 2003」はミルコ・クロコップvs高山善廣をメインカードとして発表するだけでなく、猪木自身もエメリヤーエンコ・ヒョードルの出場とジョシュ・バーネットvsセーム・シュルトを発表する。川又氏もミルコ、ヒョードル、シュルト、だけでなくアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラも引き抜けば、PRIDEやフジテレビに勝てると踏んでいた。ところがヒョードルもシュルトも当時はPRIDEを主戦場にしている選手だったことから、榊原氏が「ヒョードルとは来年10月まで独占契約している、DSEの許可無しではPRIDE以外のイベントに出場できない。やっていることの次元が低過ぎる。人のものを横取りしている」と非難、契約書も公開してヒョードル、シュルト両選手共DSEと独占契約していると主張し、引き抜き闘争は泥沼化していく。
その最中に高山と対戦する予定だったミルコが突然欠場を発表する。表向きは負傷欠場とされたが、川又グループでも仲間割れが起き、仲間割れした反川又派がミルコ本人と直接会談して、川又氏から引き離しにかかった。また川又氏もミルコのマネージャーを通じてミルコと交渉していたが、そのマネージャーとはミルコと代理人契約をしていたわけでなく、ただのマネージャーに過ぎなかった。この頃になると格闘家の取り巻きや友人と称する人物が正規の代理人の称して格闘団体と交渉することが横行していたことから、ミルコのマネージャーもその類の人間だったのかもしれない。川又氏はそのマネージャーをミルコの代理人と思い込んで交渉し、ミルコvs高山を発表したが、自分の知らないところで勝手にカードが発表されたことでミルコが怒り、試合をキャンセルしたというのが定説になっているという。高山もミルコとの対戦を前提にしていた契約だったため、代役との対戦を拒否して出場をキャンセル。目玉カードを失い、ミルコ、ヒョードル、シュルトの主力3選手がすることを前提に川又氏と契約していていた日本テレビもこの事態を憂慮、緊急役員会議を招集し、決行か中止か、また最悪の場合は代替番組まで検討され、マスコミも「INOKI BOM-BA-YE 2003中止か?」という記事まで掲載されてしまった。緊急事態に倍賞鉄夫氏、上井文彦氏らとモンゴルの異種格闘技大会を視察していた猪木が帰国、永田も会見が行われる予定で呼び出されていた。この頃の新日本プロレスは90年代を支えた橋本真也、武藤敬司が退団し、K-1、PRIDEなどの格闘技ブームに押されて人気は低落、そこでオーナーだった猪木が格闘プロレス路線を推進し、猪木がK-1、PRIDEの双方に関わっていたこともあって、双方のイベントに新日本のレスラーが借り出され、K-1や総合ルールで対戦させられた。新日本も深夜で放送している新日本に対し、格闘技はゴールデンで放送され、新日本の存在をゴールデンタイムで大きくアピールするチャンスだと思って出場させたが、結果を出せず逆に「プロレスこそ最強の格闘技」と自負していた新日本の看板を失墜させてしまい、永田もその一人でIWGPヘビー級王者として2002年の「Dynemite!」でミルコと対戦したが、僅か21秒で敗れ、「プロレス幻想を打ち砕いた」、「プロレス凋落の戦犯」「IWGP王座を返上しろ!」と批判の的にされた。しかし猪木は撤退するどころかますます格闘プロレス路線にのめり込んでいった。
この頃の永田は11月下旬にK-1と通じている上井氏から「K-1 Dynamaite!」でピーター・アーツ戦を打診されていたが、ミルコ戦での苦い思いもあったことから、格闘技への挑戦は避けていた。結局アーツ自身の負傷で試合自体は消滅となったが、今度は「INOKI BOM-BA-YE」からヒョードル戦を打診された。猪木はヒョードルの相手には中邑真輔を考えていたが、中邑は「Dynamaite!」でアレクセイ・イグナショフとのMMAでの対戦が決まっており、ヒョードルの対戦相手はリングス時代にヒョードルに勝っている高阪剛か永田に候補が絞られ、ヒョードルは高阪よりビックネームである永田を選び、猪木事務所を通じて永田に打診、永田は乗り気になれなかったが、猪木事務所側から「会長(猪木)を助けると思って頼みます」と頭を下げられ、猪木の名前を出された永田は断ることが出来なかった。
会見では猪木が出席の下でヒョードルvs永田が発表されるはずだったが、猪木と永田は会見に出席せず、川又氏がミルコとヒョードルが出場するか否かの現状報告の留まったが、さすがに肩透かしを食らった永田は上井氏からヒョードルの参戦が難航していると告げられると「ホント、いい加減にしてください!もう出なくていいんですね!」と怒る。実はヒョードルだけでなく、川又グループが頼りにしていた吉田秀彦もDSEと独占契約を結び、猪木側と目されていた小川直也までも2004年からDSEが旗揚げするプロレスイベント「ハッスル」に参加することを決めて、DSE側に取り込まれてしまい、川又グループだけでなく猪木も追い詰められてしまっていた。
永田が怒っていることを知った猪木は永田と緊急会談し、永田は「オレはリング上では命を投げ出す覚悟はありますけど、リング外のゴタゴタに巻きこまれるのは御免ですよ」と最悪の場合出場しない旨を伝えるが、開催まで時間もなく追い詰められていた猪木も譲れず永田を必死で説得する。そこで猪木が「永田、考えさせる時間はねえんだよ!頼む!」と頭を下げた。さすがの永田も猪木自ら頭を下げられたことで、猪木の置かれている現状を理解し、"猪木さんの顔を潰すわけにはいかない、恥をかかせるわけには行かない"と出場することを決意、永田は「やります!」と返答すると、猪木は「よし!」と闘魂ビンタを入れ気合を入れたが、このときの永田は人柱になる覚悟を決めたという。しかし永田の出場が決まったのにも関わらず、相手は決定していなかった。永田も最初はアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラとの対戦が決まったと告げられ、マスコミにも発表されるが、倍賞氏と川又氏から「ノゲイラではなくミルコに勝っているマイケル・マクドナルドに変更して欲しい」と告げられ話が一転する。「INOKI BOM-BA-YE」側はPRIDEからの選手の引き抜きを諦め、一転して和解を申し入れており、ヒョードルかノゲイラの貸し出しを求めていたが、榊原氏も虫のいい話に良い顔どころか、川又氏は信用できないとして交渉は難航していた。この頃には保釈された石井氏を通じてK-1とも和解してマクドナルド借りることになっており、DSEとの交渉がこじれた場合はマクドナルドと永田を対戦させるつもりだった。さすがの永田も対戦相手が一転二転する状況に苛立ちを募らせるが、DSE側が「猪木祭参戦は1試合だけ」「二重契約は破棄し、来年2月以降はDSE専属でPRIDEで戦う」という条件付きでヒョードル、シュルトの貸し出しをすることで合意に達し、永田の相手はヒョードルに決定したが、大晦日まであと2日という状況での決定だった。
大会当日となったが、今度は藤田和之の相手が前日にドタキャンされる事態も発生、急遽イマム・メイフィールドという選手にオファーをかけて事なきを得るも、さすがの猪木も連日のドタバタ続きでバックステージでは疲れきった表情を浮かべていたが、マスコミの前に立つと笑顔となっていつもの猪木に戻っていた。そして永田vsヒョードルは、ヒョードルは永田に付け入る隙を与えず僅か72秒で左フックから打撃の連打を浴びてTKO負け、僅か2日間の調整期間が与えられなかった永田にしてみれば、これが限界だった。しかし大会前や最中にもドタバタが続き、年越しイベントでも、猪木の「108つビンタ」の際に大勢の観客がリングに殺到する騒ぎになり、危険を感じた猪木が観客に蹴りと張り手をかますなど、最後までドタバタが続いた。
結局、TV局を巻き込んだ興行戦争はPRIDEvsINOKI BOM-BA-YEの泥沼を良いことに、着実の準備を進め、ボブ・サップvs曙という一般受けするカードを用意したK-1が平均視聴率19.5%を獲得することで大勝利を収め、対するPRIDEは12.2%とまずまずの結果を残すも、「INOKI BOM-BA-YE」は5.1%と大惨敗、当初は放映権料も8億円を受け取るはずだった川又氏も、大惨敗を受けて3年契約が破棄されるだけでなく、放映権料も6億円に減額され、新団体計画も頓挫するどころか、大損害を被った川又氏は選手へのファイトマネーやイベント運営の下請け会社などに費用を支払わないまま海外へ逃げてしまい、日本テレビも格闘技中継から撤退してしまった。K-1が川又グループと和解したのは「INOKI BOM-BA-YE」が惨敗すると、同じ日本テレビ系列で放送していた「K-1 JAPAN」にも大きく影響が出るという懸念もあったからだったが、不安は的中してしまい、日テレはK-1中継からも手を引いてしまった。また「INOKI BOM-BA-YE」に大きく関わった猪木も格闘技界での地位も一気に失墜させ、格闘技界から撤退を余儀なくされてしまうだけでなく、猪木だけでなく藤田のギャラまでも未払いとなったことで猪木事務所も大損害をこうむる。永田も未払いを受けた1人でだったが、ユークス体制に変わってから契約更改の際に「INOKI BOM-BA-YE」のギャラの精算を求め、猪木さえもギャラを受け取っていないことで、新日本側は永田の要求を渋るも、当時役員だった菅林直樹氏だけが話に応じて、新日本は川又氏に対して訴訟を起こし、川又氏は出頭しなかったため、新日本が勝訴、分割ながらもギャラは支払われ未払いは辛うじて免れた。猪木が新日本を離脱しIGF旗揚げに動いていた際には誰も勧誘はしなかったとされるが、裏では猪木に追随したスタッフらは永田を勧誘していた。だが誘った人間が「INOKI BOM-BA-YE」のギャラ精算を渋った人間であったこともあり、また猪木から直接誘われたわけでなかったこともあって、ギャラ精算話にも応じてくれた菅林氏の方が信頼できると判断して断り新日本に留まった。永田にしても猪木の側近たちに振り回されるのはもう勘弁してほしいと、猪木に対する義理も果たしたいう考えもあったのかもしれない。
永田は後年、金沢克彦氏に「自ら足を踏み入れて散ったって感じだと思ってますよ。ただ、自分はそれで絶対に終わらない。俺、プロレスの試合に関しては自分で自信を持ってますから、総合格闘技に足を踏み入れたことで、新しいプロレスの感性みたいなものを知ったと思うし。もともとプロレスラー永田裕志を高めるために、何かを得ることを目的に出たわけですから、じゃあ逆に、俺が勝ったことで、それで新日本が上がったといえばそうとも思えないんです、あの時代、ファンは横道にそれていくプロレスが嫌だったんじゃないかって。一時期、格闘家とかポツンポツンと新日本に上がってきて、そこそこの試合をしていた。それってレスラー側の力量ですよ。その典型が橋本vs小川戦でしょう。橋本さんがいかに偉大だったということですよ。橋本真也の力量があってあれだけの試合になった。それは『小川は天才』って猪木さんは言ったけど、それは間違いだと思う。橋本戦以外は、いつも不完全燃焼のおかしな試合で終わってしまって。2004年にNOAHの東京ドームで小橋建太vs佐々木健介という試合があったじゃないですか?ファンは。そういう試合を観たかったから熱狂したと思う。新日本が横道にそれていく中で、余計にああいうスタイルが光ったと思うんですよ。俺は後悔なんかしていないですよ。プロレスでそれだけのものを見せてきたから、(略)それを見ていてくれたファンの記憶を信じてやってきて良かったと思ってますから」と答えていた。永田の言うとおり、あの時代の新日本プロレスにファンは誰もが苛立っていた。猪木はその苛立ちを格闘技路線へ目を向けることで解消させようとしたが、いくら格闘技ブームであってもファンは望んでおらず、ファンは次々と離れNOAHを含めた他団体や格闘技へと流れていった。永田にとってミルコ戦やヒョードル戦での敗戦は長いレスラー人生の中の1ページに過ぎず、また改めてプロレスの本質というものを理解した一戦だったのではないだろうか…
「INOKI BOM-BA-YE」が無残な結果に終わったが、その後もK-1vsPRIDEの仁義なき戦いは続くも、2003年の興行戦争が格闘技バブル崩壊の序曲であることをまだ誰も気づこうとしなかった。2005年の大晦日では「K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!」が視聴率を14.8%を記録したのに対し、PRIDE男祭りは吉田vs小川をメインにしたことで視聴率17%を記録、遂にPRIDEはK-1を追い越してしまうが、2006年に表舞台から姿を消していた川又氏が公の場に登場して、週刊誌でDSE側が反体制勢力を使って自身を脅迫したと告発、これを受けてフジテレビはゴールデンタイムで視聴率を稼いでいたPRIDEの中継をコンプライアンスに抵触したとして打ち切り、これが引き金となって格闘バブルが一気に弾けてしまう。
2007年に資金源を失ったDSEはUFCにPRIDEを売却したことで消滅、格闘技ブームも下火へとなり、唯一残ったK-1も孤軍奮闘しDSE残党らと共に新格闘技イベント「DREAM」をスタートさせたが、格闘技ブームの衰退に歯止めをかけることが出来ず、選手のギャラの高騰もあって資金難に陥り、遂に運営会社であるFEGは2011年に活動を停止、K-1は別組織で運営されるようになった。格闘技から権威を失墜した猪木は新日本のリングで格闘路線を推進しようとするも、猪木事務所だけでなく新日本も資金難に陥り、猪木はユークスに新日本を売却、しかしユークス新体制は猪木の格闘技路線を否定したため、猪木は新日本を飛び出してIGFを旗揚げ、DREAMはIGFとの共催で大晦日興行を「元気ですか!! 大晦日!! 2011」を決行、猪木も8年ぶりに格闘技イベントに携わったが人気回復には至らなかった。「INOKI BOM-BA-YE」はプロレスと総合格闘技を混合させたイベントとして、IGFが2012年に復活させたが、2015年を最後に開催されず、代わりに格闘技に復帰した榊原氏はフジテレビのバックアップを得て新格闘技イベントRIZINをスタートさせた。今思えば猪木の言うままに新日本が格闘路線を推進させていたらどうなっていたか…
格闘技ブームが衰退する中で猪木が売却した新日本プロレスは経営を健全化し、ブシロードによって新しいプロレスブームを生み出している。そして格闘技大戦争の渦に自ら飛び込んだ永田も今年でデビュー25周年を迎え、リングの上で健在ぶりを見せている。
(参考資料=金沢克彦・著「子殺し」谷川貞治・著「平謝り」)
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永田が渦中に巻き込まれた2003年大晦日の興行戦争①仁義なき戦いが勃発!
2003年12月31日の大晦日、K-1、PRIDE、INOKI BOM-BA-YEが3大格闘イベントがTV局を巻き込み、熾烈な興行戦争を繰り広げ、アントニオ猪木がオーナーとなっていた新日本プロレスも否応なく巻き込まれていったが、永田裕志も巻き込まれていった一人だった。
なぜ3つの格闘イベントが興行戦争となったのか?1992年5月に正道会館の石井和義館長が立ち技最強トーナメント「K-1 Grand Prix '93」を開催、フジテレビが放送したことで爆発的な格闘技ブームが起き、1996年にはフジテレビがゴールデンタイムでK-1を放送、ナゴヤドーム、大阪ドーム、東京ドームと三大ドームツアーを開催、テレビの視聴率も20%を越えていったことで、格闘技が視聴率を稼げるコンテンツとわかると、フジテレビだけでなく日本テレビ、TBSもこぞってK-1を放送を開始、K-1は格闘技で絶大なる人気を誇るようになった。
1997年10月には総合格闘技イベント「PRIDE」がスタート、ヒクソン・グレイシーvs高田延彦を開催するためのイベントだったが、ヒクソンが高田を破ったことで大きなインパクトを与え、好評を得たことで、PRIDEは継続され「PRIDEナンバーシリーズ」を開催していったが、このときはまだまだ人気面ではK-1には及ばす、2000年からPRIDEも谷川貞治氏の手引きでフジテレビで放送がスタートし、2000年5月1日に行われた桜庭和志vsホイス・グレイシー戦からPRIDE人気が一気に高まり、ファンからも認知されていった。そして猪木がPRIDEのエグゼクティブ・プロデューサーに就任することで、藤田和之や小川直也を擁している猪木事務所もK-1、PRIDEに大きく係わるようになり、2001年の大晦日にはK-1、PRIDE、猪木事務所が協力し合い、「INOKI BOM-BA-YE 2001」が開催され、紅白歌合戦の裏番組としてTBSが放送、14.9%の視聴率を獲得することで、これを契機に大晦日の格闘技イベントが定着、8月28日には国立競技場に進出し「Dynamite!」が開催、ゴールデンタイムでは放送されることはなかったが、スカパーPPVの売り上げは10万件記録、9月1日の14時30分から16時54分の時間帯に録画放送されて10.6%を記録するなど、格闘技ブームはプロレスをも凌駕するようになった。だが実際のところは主催のTBSがK-1にイベントを依頼し、K-1から猪木へ、そして大会運営をPRIDEの主催するDSEに発注されるシステムとなっており、DSEはまだK-1の衛星団体に過ぎず、格闘技は実質上K-1の一人勝ちだった。
2002年の大晦日には「INOKI BOM-BA-YE 2002」も開催され、視聴率も16.7%を記録するなど前年度より上回り、大成功を収めたかに見えた。ところが2003年に入るとPRIDEを運営していたDSEの社長である森下直人氏が急死、K-1も脱税で摘発された石井氏がK-1の全役職を辞任、証拠隠滅教唆容疑で逮捕される事態が起きると、これまで信頼関係を結んでいた人物が同時に消えたことで、K-1とPRIDEも関係は大きく一変、PRIDEはDSEの常務だった榊原信行氏、K-1は石井館長のアドバイザー的存在だった谷川貞治氏が後を引き継ぎFEGを設立してK-1を運営することになったが、以前からK-1の下に置かれる現状に面白くなかったDSEはK-1を出し抜こうと目論み始め、これまで独占していたK-1を他局でも放送されていたことに面白くなかったフジテレビと組み、K-1からは谷川氏が引き継いだことに反発した川又誠矢氏率いる反谷川グループを抱き込む。川又氏は石井館長の側近だったが、谷川氏を後継にされたことに反発しミルコ・クロコップを抱き込んで、ミルコと吉田秀彦を中心とした新格闘技イベントの旗揚げを画策していた。ミルコの引き抜きを知った谷川氏は榊原氏に抗議するも、榊原氏は受け付けず、これでK-1とPRIDEの信頼関係が崩れ、熾烈な仁義なき戦いへと突入する。
そしてこの年の大晦日も猪木がPRIDEのエグゼクティブ・プロデューサーを務めていたこともあって、DSEの仕切りで「INOKI BOM-BA-YE 2003」をさいたまスーパーアリーナで開催しフジテレビが放送する段取りとなっていた。対するK-1も「Dynamite2003」をナゴヤドームで開催しTBSが放送することになっていた。ところが川又グループが新日本プロレスの取締役でありUFOの社長だった川村龍夫と組んで「INOKI BOM-BA-YE 2003」を日本テレビで放送することを進めたためPRIDE側と対立、DSEと川又グループが仲間割れとなり、川又グループはミルコだけでなく、藤田和之や小川直也、そして新日本プロレスを要していた猪木事務所を抱きこんでかねてから計画していた新団体計画を進め、神戸ビックウイングで「INOKI BOM-BA-YE 2003」の開催を発表、川又グループは成功した暁には新団体は日本テレビによる定期放送がスタートすることも視野に入れて莫大な放映権料が入る契約を結び、そのうち何パーセントを猪木事務所に入ることになっていた。川又グループと決別したDSE側も11月9日のPRIDE-GP決勝戦・東京ドーム大会で統括部長の高田が「今日この会場には、私の師匠である猪木さんが来てません。なぜこの世界格闘技史上歴史に残る空間に、あの人は来てないんですか? 猪木さんはPRIDEに背を向けてしまったんでしょうか? 私は、あえて一言だけ言います。去る者は追わず!」と猪木のPRIDE追放を宣言、「PRIDE男祭り」とタイトルを改め、さいたまスーパーアリーナで開催することを発表、TBS、フジ、日テレを巻き込んだ格闘技興行戦争の火蓋が切られた。(続く)
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世界最強タッグリーグ戦事件史 番外編 超獣コンビが世代交代をかけた"春”の最強タッグ
1982年晴れて全日本プロレスに移籍したスタン・ハンセンは4月の「'82グランド・チャンピオン・シリーズ」に参戦、20日の愛知県体育館大会では盟友であるブルーザー・ブロディとの超獣コンビを結成してジャイアント馬場、ジャンボ鶴田の師弟コンビが保持するインターナショナルタッグ王座に挑戦、試合は3本勝負で行われたが、1本目はハンセンのウエスタンラリアットからブロディのキングコングニードロップの殺人フルコースで鶴田から3カウントを奪い1本を先取、2本目はセコンドについたバック・ロブレイが手渡したチェーンで超獣コンビが馬場にクローズラインを決めて反則負けでタイスコアとなるが、3本目は両者リングアウトと引き分けで師弟コンビが防衛も、内容的には超獣コンビが圧倒しており、師弟コンビは両者リングアウトで逃げるのがやっとだった。
超獣コンビはこの年の世界最強タッグにエントリー、天龍源一郎&阿修羅原組に反則負けを喫した以外は破竹の勢いで勝ち進み、12月9日札幌大会でも馬場&鶴田の師弟コンビが、ハンセンのラリアットとブロディのキングコングニーのフルコースを馬場が喰らい完敗、13日の蔵前国技館大会で1点差で追いかけるドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクのザ・ファンクスと優勝をかけて対戦。超獣コンビもブロディが4・21大阪でドリーを破ってインターナショナルヘビー級王座を奪取し、ハンセンも9・11後楽園でリングアウトながらもラリアットでテリーを粉砕、ハンセン自身も手リーに対して「テキサスの化石になれ!」と言い放つなど、時代は完全にファンクスからハンセン&ブロディに移り変わろうとしていたこともあって、世代交代をかけた対戦でもあった。
試合はファンクスでさえも超獣コンビの前になすすべもなく圧倒され、テリーが前年度同様場外でハンセンのラリアットでKOされると、ブロディがドリーを羽交い絞めにしてハンセンがラリアットを炸裂するはずだったが、二人掛りの攻撃を制止するために入ったジョー樋口レフェリーを巻き込んでKOしてしまい、レフェリーと鶴田のバックドロップの指南役としてシリーズに帯同していたルー・テーズがサブレフェリーに入ると、超獣コンビはうっかり大先輩であるテーズにも手を出したため、怒ったテーズが超獣コンビの反則負けを宣告、ファンクスが逆転優勝となったが、超獣コンビによってボロボロにされたファンクスはまるで敗者で、優勝を逃した超獣コンビが勝者に見えたが、時代は間違いなく超獣コンビに傾きつつあった。
しかし試合後に超獣コンビが結果に納得せず、リマッチを要求すると、超獣コンビの要求を飲んだ全日本が、83年4月の「グラウンド・チャンピオン・カーニバル パート1」にて馬場&鶴田の師弟コンビを加えた「10万ドル争奪!世界最強タッグ・リマッチ」を開催することを決定、ルールは3チームが2回総当りリーグ戦を行い、最多得点チームが優勝、得点方式もフォール・ギブアップ勝ちが5点、反則勝ち、リングアウト勝ち、引き分けが3点、負けが0点とされた。
最強タッグリマッチ開催に先駆けて4・14大阪ではハンセンvsテリーの最強タッグリマッチの前哨戦が行われるが、テリーを流血に追い込んだハンセンがブルロープで絞首刑にされるだけでなく吊るされ、これに怒ったドリーが乱入してテリーの反則負けとなるが(絞首刑にされたシーンはTVはカット)超獣コンビとファンスの遺恨はますます深まっていった。
リマッチの公式戦は4・16愛知での師弟コンビvsファンクスからスタートした
4・16愛知県体育館
▼世界最強タッグ・リーグ戦リマッチ1回戦/45分1本
〔1分=3点]ジャイアント馬場 ジャンボ鶴田(45分時間切れ引き分け)〔1分=3点]ドリー・ファンク・ジュニア テリー・ファンク4・20東京体育館
▼世界最強タッグ・リーグ戦リマッチ1回戦/45分1本
[1勝=3点]スタン・ハンセン ○ブルーザー・ブロディ(13分55秒 リングアウト)[1敗1分=3点]ドリー・ファンク・ジュニア ×テリー・ファンク4・22札幌中島体育センター
▼世界最強タッグ・リーグ戦リマッチ2回戦/45分1本
[1勝1敗1分=3点]ドリー・ファンク・ジュニア ○テリー・ファンク(16分38秒 反則勝ち)[1勝1敗=3点]スタン・ハンセン ×ブルーザー・ブロディ
※レフェリーに暴行4・24大宮スケートセンター
▼世界最強タッグ・リーグ戦リマッチ2回戦/45分1本
[1分両リン=3点]ジャイアント馬場 ジャンボ鶴田(26分5秒 両者リングアウト)[1勝1敗1分位両リン=6点]ドリー・ファンク・ジュニア テリー・ファンク4・26富山市体育館
▼世界最強タッグ・リーグ戦リマッチ1回戦/45分1本
[1勝1分1両リン=6点]ジャイアント馬場 ○ジャンボ鶴田(9分54秒 反則勝ち)[1勝2敗=3点]×スタン・ハンセン ブルーザー・ブロディ
レフェリーに暴行リマッチも反則、リングアウト、引き分けという結果となっているが、ファンクスは6点で公式戦を終了、超獣コンビは負けが先行、師弟コンビが超獣コンビとの2回戦を残して優勝に王手をかけるという意外な展開となった。
4・28京都府立体育館
▼世界最強タッグ・リーグ戦リマッチ2回戦/45分1本
[2勝2敗=8点]○スタン・ハンセン ブルーザー・ブロディ(13分9秒 体固め)[1勝1敗1分1両リン=6点]ジャイアント馬場 ×ジャンボ鶴田
※ウエスタンラリアット最終公式戦である師弟コンビvs超獣コンビはブロディが鶴田にシュミット流バックブリーカーを決めたところで、ハンセンがコーナーからニードロップを投下する合体技を決めると、最後はハンセンのラリアットが炸裂して3カウント、超獣コンビが5点プラスで8点目を獲得して優勝、全公式戦の中で唯一のフォール決着となったが、得点ルールを最大限に生かした超獣コンビのしたたかさが優る結果となり、超獣コンビが初めてファンクスを上回ることが出来た。
後年ハンセンはテリーとの対談で「トップチームのポジションを得るためにはリアルなコンペティション(競争)を仕掛けるしかなかったんだ。年齢にはそんなに差はないが、『俺たちが次の世代なんだ!』という意味で『ユース(ロングホーン)』が生まれた」と語れば、テリーも「それが人生だよ、リアルな人生だから、日本のファンを動かすことが出来たんだと思う、歴史を振り返ると、凄くミックスされたカクテルのようなものだよ」と答えた。ハンセンもブロディもファンクスに対する面白くない感情、押しのけてやるという気持ちをぶつけたからこそ、日本でトップに立つことが出来た。ドリーが「プロレスとはリアルとエンターテイメントのカクテルでなければいけない」と語っていたとおり、ファンクスvs超獣コンビもリアルとエンターテイメントのカクテルのような戦いでもあった。
8月31日にテリーも引退したことで、ドリーも一歩引き、外国人選手は超獣コンビの時代となり、本番である『83世界最強タッグ決定リーグ戦』も鶴田&天龍源一郎の鶴龍コンビを破って念願の優勝を果たし、世界最強タッグ・リーグ戦リマッチは翌年も初代PWFタッグ王座決定リーグ戦という形で開催され、超獣コンビ、馬場&ドリー組、鶴龍コンビ、AWA世界タッグ王者組であるグレッグ・ガニア&ジム・ブランゼルの4チームがエントリー、最終公式戦が行われた1984年4月25日横浜文体大会で初代王者をかけて超獣コンビと馬場&ドリー組が対戦するも、馬場が場外で超獣コンビの合体パイルドライバーを喰らった後で、ハンセンのラリアットを喰らってKOされると、最後はブロディにスピニングトーホールドを決めているドリーに対してもラリアットを浴びせてブロディがカバーして3カウントを奪って、超獣コンビが初代PWFタッグ王者となり、頭部と首を負傷した馬場は最終戦の大宮大会を欠場、国内無欠場記録記録に終止符を打たされ、師弟コンビで保持していたインタータッグ王座も返上、インタータッグ王座は後に鶴龍コンビが巻くことになるが、超獣コンビは全日本の世代交代への役目を果たす存在となったことを考えると、"春の最強タッグ"は超獣コンビのために開催されたリーグ戦でもあった。
<参考資料 日本プロレス事件史Vol.25 GスピリッツVol.38> -
世界最強タッグリーグ戦事件史⓷馬場の起死回生の一打!スタン・ハンセン、全日本電撃移籍!
倉持アナ「ブルーザー・ブロディとジミー・スヌーカが入場して参りました。おっと、誰でしょうか?その後ろにはウエスタン・ハットを被った大型の男がいますが……。あ、スタン・ハンセンだ!」
山田隆 「ハンセンですよ!」倉持「スタン・ハンセンがセコンド!大ハプニングが起きました!」
1981年12月13日 「世界最強タッグ決定リーグ戦」の最終戦が行われた全日本プロレス蔵前国技館、メインイベントでこの年の最強タッグの優勝をかけてドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクのザ・ファンクスが、秋から抗争を繰り広げているブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカー組と対戦するが、ブロディ組のセコンドに新日本プロレスのトップ外国人選手だったスタン・ハンセンが登場する事件が勃発、館内は騒然となった。当時は新日本プロレスと全日本プロレスの間に外国人選手による引き抜き合戦が勃発していたが、アントニオ猪木の好敵手でもあり、トップ外国人選手であるハンセンの全日本マット登場は、新日本を震撼させた。なぜハンセンは全日本に移籍したのか?話は遡って1981年5月8日の新日本プロレス川崎市体育館に、全日本プロレスのトップ外国人選手だったアブドーラ・ザ・ブッチャーが現れ、新日本が提唱していたIWGPに賛同という名目で新日本に参戦を表明、これを発端に新日本と全日本の間に外国人選手の引き抜き合戦が勃発した。ブッチャーを引き抜かれた馬場は「新間の野郎!」と怒り、地下室にトレーニングルームに入ってベンチプレスをガンガン始めたという。新日本プロレスは初代タイガーマスクのデビューから絶大な人気を誇るようになり、猪木の片腕で営業本部長である新間寿氏も「プロレスブームではなく、新日本プロレスのブームなんです」と言わしめるほどだった。一方ライバル団体の全日本プロレスは旗揚げから放送されていたテレビ中継が土曜8時から土曜夕方に降格され、観客動員も低迷し経営も苦しい状況だった。そこで全日本の経営危機をチャンスと見た新日本が攻勢をかけ、その第一弾としてブッチャーを引き抜きにかかったのだ。
しかしブッチャーを引き抜かれて怒った馬場さんだけではなく、ブッチャーを全日本にブッキングしていたザ・ファンクスも激怒、"猪木は馬場のビジネスを終わらせようとしている"と危機感を抱いたファンクスは自分の門下生でもあり、新日本プロレスのトップ外国人であるハンセンを引き抜くことを考え、馬場にハンセン引き抜きを提案し、馬場自身も同意した。テリーはハンセンとコンタクトを取った、ハンセンもアントニオ猪木と名勝負を繰り広げていたが、行き詰まりを感じ始めていた矢先だった。ハンセンは1981年6月極秘裏にダラスを訪れた馬場、元子夫妻と会談、話し合いにはテリーは立ち会わなかった。馬場さんはハンセンに全日本へ参戦して欲しいと持ちかけると、ハンセンも承諾したが新日本とは12月まで契約が残っているから全てクリーンにしてから移籍したいとすると、身辺をクリーンにした上での移籍は馬場さんも望むことでもあったことから承諾、密約を交わすことに成功したが、移籍は誰にも漏れないようにトップシークレットとされた。
7月3日に全日本熊谷大会ではハンセンと同じ新日本のトップ外国人選手だったタイガー・ジェット・シンが乱入、シンも全日本での商売敵であるブッチャーが移籍したことでプライドを傷つけられたことでの全日本移籍だった。その後新日本も全日本の所属だったタイガー戸口やディック・マードックを引き抜けば、全日本もシンの相棒である上田馬之介、チャボ・ゲレロを新日本のタイトルであるNWAインタージュニア王座ごと引き抜くと一進一退となるが、まだ全日本はハンセンという切り札を隠したままで、新日本も新間氏が「まもなく全日本は潰れるよ」とハンセンに全日本に移籍しないように契約更新を求めたが、ハンセンは話をはぐらかせ契約更新を先送りにし、新間氏も既に全日本とハンセンが密約を結んでいたことも全く気づいてなかった。
ハンセンは11月から開幕する「第2回MSGタッグリーグ戦」に参戦するが、一番懸念していたことがあった。それは盟友であるブロディの存在で、ブロディとは若手時代から苦楽を共にしてきた仲だったが、その分ブロディのプライドの高さも充分にわかっていた。ハンセンはあらかじめブロディの了承を得ておこうとコンタククトを取り、ちょうど新日本も全日本も愛知県内で興行していた11月30日に二人は再会するも、ハンセンから全日本移籍を打ち明けられたブロディは不快感を示した。しかしハンセンはブロディとのタッグを再結成できるなどブロディを説得、ブロディも盟友であるハンセンの頼みとあって、ハンセンが全日本に移籍することは秘密にすると約束したものの、ハンセンを誘ったファンクスに対しては不満を抱えたままだった。
12月10日に「第2回MSGタッグリーグ戦」が終了となり、新日本もハンセンは全日本に移籍しないと安堵したが、11日にハンセンはホテルをチェックアウトして姿を消し、全日本側が用意したホテルへ秘かに移った。ホテルに新日本関係者がハンセンを成田空港まで送るために迎えにいったが、チェックアウトしたと知らされるも、新日本側は「一日早く予定を切り上げて帰った」としか考えていなかった。ハンセンは当初13日に帰国する予定だったが、新日本側はハンセンは自分で予定を切り上げて1日早くアメリカへ帰ったとしか考えていなかった。そして全日本の興行が行われている横須賀にハンセンが現れた。ハンセンは、「久しぶりにブロディと話したいから寄った。明日は予定通りアメリカに帰るから」と会場の中へ入っていったが、この時点でハンセンが全日本に引き抜かれたことは明白だった。
そして1981年12月13日の蔵前大会、ハンセンが登場すると館内のファンはハンセンコールで歓迎を受けた。ハンセンがブロディ組のセコンドとして姿を現すシーンは馬場さんとファンクスが考えたものだったが、狙い通りに大きなインパクトを与えた。試合は五分の攻防もブロディは自分抜きでハンセンを引き抜いたファンクスに怒りをぶつけて徹底的に痛めつけた。試合は終盤にドリーがスヌーカーをスピニングトーホールドで捕らえている間に、場外でブロディがテリーをハンセンめがけてホイップすると、ウエスタンラリアットが炸裂、テリーはKOされ、この時点でハンセンが全日本に上がる既成事実を作り上げてしまう。そして孤立したドリーをブロディ組が集中攻撃を与え、最後は懸命に粘るドリーをブロディがキングコングニードロップで3カウントを奪い、ブロディ&スヌーカーがこの年の最強タッグを優勝。優勝トロフィーを手にするブロディ、ハンセン、スヌーカーはドリーを袋叩きにする。これに怒った馬場&ジャンボ鶴田の師弟コンビが乱入して馬場さんはハンセンの脳天チョップを乱打して流血に追い込むなどして大乱闘となる。ブロディとハンセンが引き揚げた後で馬場さんはファンにハンセンを迎え撃つことをアピールした、後年テリーは自分の中でベストマッチの一つとしていた最強タッグは修羅場の中で幕を閉じた。
同日に新日本プロレスでは藤波辰己の結婚披露宴が行われていたが、披露宴に出席していた新間氏はハンセンが全日本のリングに乱入したことを知らされ愕然としていた、そして会見でハンセンを引き抜いた全日本に対して怒りを露わにしたが、後の祭りだった。
年明け早々新間氏は週刊ゴングの竹内宏介氏を通じて馬場さんに会談を申し入れ、竹内氏はハンセンの全日本移籍第1戦が行われた1982年1年15日の木更津大会で馬場さんに打診、馬場さんも応じると新間氏も猪木も出席させることを提案、2月7日のホテルニューオータニで馬場-猪木会談が実現、新日本が休戦を申し入れたことで、8ヶ月に及ぶ引き抜き抗争は一旦終止符が打たれたが、もし引き抜き抗争が継続されるなら馬場はアンドレ・ザ・ジャイアントや新日本では神様として崇められていたカール・ゴッチにも触手を伸ばすつもりだったという。
1982年2月4日に東京体育館で馬場はハンセンとPWFヘビー級王座をかけて対戦したが、1月から日本テレビから松根光雄氏が派遣され社長に就任、馬場は会長に棚上げされ、日テレから経営建て直しを厳命された松根氏は、観客動員や視聴率の低迷の責任は全て馬場にあるとみて、全日本の若返りを図り、エースの座とプロモート全てを鶴田に譲ることを含めて、馬場に引退勧告を突きつけており、ハンセンに敗れたら馬場は引退というムードの中での対戦となったが、試合は両者反則で引き分けに終わったものの、馬場はハンセン相手に互角以上に渡り合い、馬場引退ムードを一掃させることに成功、松根氏も馬場の必要性も認めざる得なかった。後年新間氏は「引き抜きのメリット?それはマンネリ刺激と馬場さんを長生きさせたことだよ。今思うと新間がいたおかげでレスラー生命が延びた。新間の野郎!と怒ったことで活力が出たから」と語っていたが、新間氏の全日本潰しだけでなく、引退勧告を突きつけた新体制への怒りも馬場の復活への活力にもなった。そう考えるとハンセンの引き抜きは、全日本だけでなく馬場にとって起死回生の一打だったのかもしれない。その後全日本は馬場の愛弟子である佐藤昭雄がブッカーに就任、馬場を補佐しつつ一歩退かせて、鶴田と天龍の時代へと移行させていった。1983年9月3日、千葉公園体育館大会で馬場はハンセンのウエスタンラリアットに敗れてPWF王座を明け渡し、ジャンボ鶴田がインターナショナルヘビー級王座を獲得したことで、再び世代交代が叫ばれたが、1984年7月31日に馬場は蔵前国技館大会でハンセンを首固めで破り王座を奪還。しかしその1年後の1985年7月30日の福岡スポーツセンター大会でハンセンのバックドロップを喰らい敗れ王座の奪還を許したが、この試合を最後に馬場はシングル王座戦線から撤退、馬場vsハンセンが行われたのもこの試合が最後となった。
(参考資料参考資料Gスピリッツ Vol.27、日本プロレス事件史Vol.8 スタン・ハンセン著「魂のラリアット)
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MSGタッグリーグならではのドリームタッグ!アントニオ猪木&ハルク・ホーガン!
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2017年12月3日1980年、全日本プロレスの「世界最強タッグ決定リーグ戦」に対抗して、新日本プロレスもタッグリーグ戦に進出、WWFと提携していたこともあって冠名も「MSGタッグリーグ戦」とした。
第1回はアントニオ猪木がWWF王者だったボブ・バックランドと帝王コンビを結成し、スタン・ハンセン&ハルク・ホーガン組を破って優勝、しかし昭和56年度の第2回はバックランドのスケジュールの都合がつかず、猪木はヘビー級に転向したばかりの藤波辰己との師弟コンビでエントリーする。最終戦では1位がアンドレ・ザ・ジャイアント&レネ・グレイ組となり、2位で同点の師弟コンビはハンセン&ディック・マードック組と優勝戦進出決定戦を行った。試合はマードックが藤波にブレーンバスターを狙ったところで猪木がドロップキックを放ち、藤波が丸め込んで3カウントとなって優勝決定戦に進出。しかし優勝決定戦では猪木がグレイに場外でひきつけられている間に、藤波がアンドレの18文キックを喰らうとジャイアントプレスで圧殺され3カウントとなり、猪木は優勝を逃した。
<第3回MSGタッグリーグ戦の出場チーム>
アントニオ猪木&ハルク・ホーガン組
坂口征二&藤波辰巳組
キラー・カーン&タイガー・戸口組
アンドレ・ザ・ジャイアント&レネ・グレイ組
ディック・マードック&マスクド・スーパースター組
アドリアン・アドニス&ディノ・ブラボー組
エル・カネック&ペロ・アグアヨ組
ウェイン・ブリッジ&ヤング・サムソン組前年優勝を逃した猪木はスタン・ハンセン移籍後に外国人エースとなったホーガンと組んでエントリーした。この年の猪木は体調を崩し2度に渡って欠場してことから、新日本側は苦肉の策としてホーガンを日本側の助っ人に回し、ホーガンとのタッグも新日本だけでなく猪木にとっても苦肉の策だった。また当初は藤波に叛旗を翻していた長州力も、はぐれ国際軍団のラッシャー木村と組んでエントリーが発表されたが、新日本の敷いたレールに乗るのを嫌った長州は、木村との共闘を拒否し、そのままアメリカへ遠征に出てエントリーは幻に終わった。
開幕戦では猪木組と前年度優勝チームのアンドレ組と対戦し、グレイを狙い撃ちにした猪木組は猪木が延髄斬りで3カウントを奪い白星発進、勢いに乗った猪木組は白星を重ね、ダントツで1位通過と思われていたが、全くのノーマークだったカーン&戸口組が2位でマークし、猪木組との公式戦でもリングアウトながらも勝利を収め、坂口&藤波を1点差で差し置いて優勝決定戦に進出した。
優勝決定戦は戸口がホーガンの額に噛みついてナックルを浴びせるなどして流血に追い込んだが、交代を受けた猪木もナックルアローでカーンを流血に追い込んで仕返しする。しかしカーン組は体調不安の残る猪木を狙い撃ちにして試合の主導権握っていく、猪木組は猪木とホーガンによるショルダーアームブリーカーの競演から試合の流れを変え、戸口が猪木をコブラツイストで捕らえたところでホーガンがカットに入ると、カーンをアックスボンバーで排除、最後は戸口にもアックスボンバーを炸裂させてから、猪木が延髄斬りからの卍固めで捕らえてギブアップを奪い、猪木&ホーガン組が優勝を果たした。
猪木&ホーガン組は前年度覇者として第4回もエントリーするも、この年の6月にはホーガンのアックスボンバーで猪木がKOされたことで、二人の立場は微妙に変わりはじめ、公式戦でもチームワークの悪さを露呈したが、それでも1位で優勝戦へ進出。公式戦で敗れたマードック&アドニス組を破って2年連続を果たしたものの、優勝を契機に猪木&ホーガン組は解消。アメリカに戻ったホーガンは翌年にアイアン・シークを破りWWF王者となって、全米を代表するスターレスラーとなった。
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世界最強タッグ決定リーグ戦事件史⓶長州力率いるジャパンプロレスが乱入!
11月の月間MVP、ベストバウト、ベストシリーズ&興行の投票受付中です!投票はこちら→:https://t.co/giw2C09u2j 投票よろしくお願いします! #プロレス月間MVP #prowrestling
— 伊賀プロレス通信月間MVP (@igapro24mvp) 2017年12月3日前回は「1984世界最強タッグ決定リーグ戦」からダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスのブリティッシュ・ブルドックスが新日本プロレスから全日本プロレスに電撃移籍したことを更新したが、この年の最強タッグから全日本に戦場を移したのはブルドックスだけではなかった。
1984年8月、大塚直樹氏の新日本プロレス興行が、新日本プロレスのライバル団体である全日本プロレスと提携したことで、新日本プロレスは新日本興行との取引契約を解除することを通告、これを受けた大塚氏は報復として新日本から選手を引き抜くことを公言、その第1弾として長州力、アニマル浜口、谷津嘉章、小林邦昭、寺西勇の維新軍団を引き抜き、第二弾として中堅だった永源遥、栗栖正伸、保永昇男、新倉史祐、新倉史祐、仲野信市、そしてマサ斎藤とキラー・カーンも合流し、会社名も新日本プロレス興行からジャパンプロレスと改称した。
長州らジャパンプロレス勢は「ジャイアントシリーズ」を開催している11月1日全日本後楽園大会を視察、長州はメイン終了を待たずにに会場を後にするが、メインに出場しジャンボ鶴田と組んでテリー・ゴーディ、バディ・ロパーツと対戦していた天龍源一郎も、試合を観ていた長州を意識せざる得ず、席を立つ長州と睨み合いを展開、長州らジャパンプロレス勢の全日本参戦は時間の問題となった。
「1984世界最強タッグ決定リーグ戦」が11月22日、松戸大会から開幕した
出場チーム
ブルーザー・ブロディ スタン・ハンセン組ジャンボ鶴田 天龍源一郎組
ドリー・ファンク・ジュニア テリー・ファンク組
ジャイアント馬場 ラッシャー木村組
ハーリー・レイス ニック・ボックウインクル組
ダイナマイト・キッド デイビーボーイ・スミス組
タイガー・ジェット・シン マイク・ショー組
ワンマン・ギャング 鶴見五郎組
前年度覇者のブロディ&ハンセンの超獣コンビを筆頭に8チームがエントリー、新日本から引き抜いたブルドックス、8月の田園コロシアム大会からカンバック宣言をしていたテリーもドリーと組んでザ・ファンクスを復活させた、注目は馬場のパートナーで開幕までXとされていたが、入場式に登場したのは木村で、木村は第一次UWFに旗揚げから参戦していたが、一緒にUWFに参戦していた剛竜馬と共に離脱していた。
そして最強タッグも後半となった12月8日愛知県体育館大会、この日は通常の土曜日夕方枠でなくゴールデンでの特番で生放送となったが、12月4日に高松にてプレ旗揚げ戦を終えていた長州らジャパンプロレス勢も大会を観戦していたことで、試合よりも長州の動向が注目された。公式戦では鶴田&天龍の鶴龍コンビが馬場&木村組と対戦、試合は木村は馬場のコントロールを受け付けず、一人勝手に暴れ、馬場が制止してリングに戻ったところでリングサイドに剛が現れ、木村に耳打ちすると、突如馬場にラッシングラリアットを浴びせ、鶴見や剛も乱入して試合をぶち壊し控室へ去ってしまう。試合は鶴龍コンビが木村の試合放棄で勝利となる。後に木村は鶴見、剛、そして同じ国際プロレスの高杉政彦、菅原伸義と共に国際血盟団を結成、馬場を標的にして全日本マットに参戦することを表明する。
メインの超獣コンビvsファンクスは、超獣コンビが二人係りでドリーを痛めつけると、怒ったテリーがブロディからチェーンを奪って襲い掛かり、ジョー樋口レフェリーをも殴打しため反則負けとなるも、事件はメイン終了後に起きた。
リングに上がった馬場は長州に対して「上がって来い!」と挑発すると、長州らジャパンプロレス勢はリングに雪崩れ込み、長州と浜口は上半身裸となって臨戦態勢を取ると全日本勢とジャパン勢が小競り合いとなり、天龍も着ていたシャツを引き裂いて臨戦態勢を取るもここは馬場が宥め、長州らはリングを後にするが、長州が全日本のリングに上がったことでジャパンプロレス勢の参戦は決定的となった。
この模様は生中継が終わった後で行われたもので、ゴールデンでの特番も長州登場を見越して組んだものだったが、長州もブルドックス同様テレビ朝日と契約を結んでおり、長州が全日本のリングに上がり、日本テレビ上で放送されるのは契約上NGとされていた。長州登場に向けては日本テレビ側もテレビ朝日側と交渉を持ったが、結局間に合わず、苦肉の策として生中継が終わった後での長州登場となったのだ。最終戦を迎えた12日の横浜文化体育館大会、最強タッグは鶴龍コンビが超獣コンビと対戦し、ハンセンが天龍をウエスタンラリアットでKOした後で、超獣コンビが鶴田にツープラトンパイルドライバーを狙うが、制止に入ったジョー樋口レフェリーを突き飛ばしたため、反則負けとなり、鶴龍コンビが優勝となったが、話題をさらったのは長州で、この日は維新軍団を伴って全日本に参戦、国際血盟団も参戦、長州は浜口、谷津と組んで石川敬士、グレート小鹿、 大熊元司の全日本の中堅勢と対戦、この試合も日本テレビでは放送されることはなかったが、長州はハイジャックニードロップなど維新軍お馴染みの連係を披露、最後は大熊もリキラリアットを降し、来るべき本格参戦へ向けての予告編を充分に見せつけた。また木村ら国際血盟団もシンとの共闘を表明する事で存在感を見せつけた。
そして1985年1月、テレビ朝日との契約もクリアされた長州は全日本に本格参戦を果たしたが、それと同時に新たなる苦悩も始まった。それはまた別の話である。
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世界最強タッグリーグ戦事件史①キッド&スミス、全日本に電撃移籍!
1984年11月14日、新日本プロレスの「第5回MSGタッグリーグ戦」にエントリーする予定だったダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスが全日本プロレスの「1984世界最強タッグ決定リーグ戦」に電撃参戦することが発表された。
当時の新日本プロレスは長州力、アニマル浜口、キラー・カーン、谷津嘉章、小林邦昭、寺西勇の維新軍団が離脱するだけでなく、永源遥、栗栖正伸ら中堅・若手が大量に離脱するなど大揺れとなっていた矢先に新日本のジュニアのトップだったキッドとスミスの全日本への電撃移籍は新日本を大きく震撼させた。
キッドとスミスの移籍を仕掛けたのは、当時カルガリーのブッカーを務めていたミスター・ヒトこと安達勝治氏で、キッドとスミスはカルガリーの「スタンピート・レスリング」を主戦場にしていた。ところが1984年7~8月にかけてキッドとスミスが新日本に遠征している間に、「スタンピート・レスリング」のボスだったスチュ・ハートがビンス・マクマホンのWWFに「スタンピート・レスリング」を売却、WWFが参入したことによって安達氏も失職してしまい、また新日本から武者修行に来る若手達の面倒を見ていたこともあって、新日本に経費を要求していたが、新日本は要求した金額の4分の1程度しか経費を払わず、同じ外国人ブッカーで安達氏とは犬猿の関係だったジョー大剛氏が新日本の北米支部長に就任したことで、安達氏は怒り新日本を敵に回すことを決意、ちょうどそのときにキッド&スミスが安達氏に相談を持ちかけてきた。
キッド&スミスはスチュの命令でWWFに上がったものの、WWFが初めてカルガリーで興行を行った際には地元で人気のあるキッド&スミスを含めたカルガリー勢が前座として扱われたことで大きな不満を持っていた。キッド&スミスは安達にWWFと提携している新日本には上がらず、NWAと通じている全日本に参戦したいと持ちかける。キッド&スミスは全日本で活躍すればNWAからオファーがかかりアメリカで試合が出来ると計算していたのだ。
安達氏から話を持ちかけられた馬場はキッド&スミスを受け入れた。この頃の馬場はNWAの副会長に就任しており、NWA各テリトリーに侵攻し、選手を引き抜くWWFのやり方に懸念を抱いていた。そこで馬場はWWFに引き抜かれても起用方に不満を抱いているレスラーを全日本に参戦させ、全日本を経由してNWA系の各エリアに帰すことを計画、その第1弾がキッド&スミスだった。会見同日、前代未聞の事態に新日本の副社長だった坂口征二が馬場さんの下へ訪れ会談するも、馬場さんは「キッド&スミスとスチュとの契約は信頼関係だけで、正式な契約書は交わしていない、だからWWFとも正式な契約は交わしていない」として、坂口の抗議も受け入れず、今度はビンス自身が緊急来日して馬場と会談、内容は明かされず表敬訪問だけとされたが、馬場も小さい頃のビンスを知っており、ビンス相手にも一歩も譲らない態度を示したことから、二人が全日本参戦後もWWFのリングに上がっていたことを考えると、全日本とWWFの間でキッド&スミスを1年間共有することで折り合いがついたということなのか、結果的にはキッド&スミスを取られた新日本だけか泣きを見ることになったが、馬場にしてもキッド&スミスが全日本に参戦している間にNWAでの受け入れ先を探し、一刻も早く橋渡ししたかったのかもしれない。
キッド&スミスはそのまま「1984世界最強タッグ決定リーグ戦」に参戦したが、二人はテレビ朝日との契約が残っていたのもあって二人の公式戦は日本テレビで放送されることはなく、優勝することも出来なかったが、公式戦ではジャンボ鶴田&天龍源一郎の鶴龍コンビと時間切れ引き分けとなるなど健闘、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディの超獣コンビ、ハーリー・レイス&ニック・ボックウインクルの元世界王者コンビ、ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクのザ・ファンクスと対戦するなど大きな成果を得てカルガリーへと戻り、スチュにこれからは全日本に上がりNWAに上がることを報告、スチュは2人のブッキング料を新日本から受け取る契約を結んでおり、二人が全日本に移籍したことで受け取れなくなったとキッドに怒ったが、2人に黙ってブッキング料を受け取っていたことで、キッドが怒って逆にスチュをやり込めてしまい、スチュも二人の行動を黙認するしかなかった。
これでキッド&スミスは全日本に晴れて参戦したが、NWAには参戦することは出来なかった。この頃のアメリカマットはWWFの全米侵攻でNWA・AWAの各テリトリーは崩壊しており、2人が受け入れる先はノースカロライナのジム・クロケット・プロモーションしかなかったが、2人を高額で受け入れる余裕もなかった。またこの頃からNWAもクロケットの専横が始まっており、馬場との対立が生じ始めていたことから、馬場の計画した"人返し策”は頓挫してしまう。
馬場だけでなくキッド&スミスは結局目論みは外れ、2人は全日本とWWFを主戦場にせざる得なかったが、全日本も長州力らジャパンプロレス勢が参戦したことで選手が飽和状態となり、活躍の場は与えられず、1985年にWWFと正式に契約、「ブリティッシュ・ブルドックス」としてタッグ戦線で活躍した。
(参考資料、日本プロレス事件史Vil.8) -
完全引退記念、ザ・グレート・カブキはこうして誕生した!
2017年に"東洋の神秘"ザ・グレート・カブキが完全引退することを発表した。カブキは1998年に引退したが、2002年にカンバック、今日まで様々なリングに登場して健在ぶりを見せつけて来た。
カブキこと高千穂明久がデビューしたのは1964年、その後生え抜きながらも若手・中堅の一角を担い、受身や試合運びの定評さは当時若手だった藤波辰爾からも「プロレスの教科書のような人だった」と絶賛されていたほどだった。
高千穂は1970年にアメリカ遠征へ出発するも、日本不在の間に日本プロレスにクーデター事件が勃発、これまで日本プロレスの2トップだったアントニオ猪木、続いてジャイアント馬場も退団=独立となったため、「オヤジ」と慕い日本プロレスの社長だった芳の里の要請で帰国するも、坂口征二も離脱したことで日プロの崩壊が決定的となり、芳の里の薦めもあって馬場の全日本プロレスに合流することになった。
全日本での高千穂の扱いは外様ながらも中堅でサムソン・クツワダと組んでオーストラリアにも遠征し、帰国するとクツワダとのタッグでアジアタッグ王者にもなるも、待遇面においては決して満足できる扱いではなく、「若手のコーチ役を請け負っているから」ギャラアップ額が「1試合100円増(後に500円)」だったこともあって扱いは良いものでなかった。クツワダがジャンボ鶴田を巻き込んで全日本内でクーデターを画策する事件を起こし、クツワダはマット界から追放となったが、さすがに高千穂も全日本に嫌気を差してアメリカへ戻ることを決意、馬場も高千穂の扱いは良くはしなかったものの受身や試合運びの良さは内心評価していたことから「若手のコーチ役として留まって欲しい」と猛反対したが、既に高千穂はフロリダからオファーを受けていたこともあって、馬場は渋々了承し1年間だけの約束で1978年に高千穂はアメリカへ戻ったが、高千穂は「アメリカへ行ってしまえばこちらのもの」と1年で日本に帰るつもりはなかった。
高千穂が向かった先であるフロリダは元NWA世界ヘビー級王者だったジャック・ブリスコ、ダスティ・ローデスがトップを張っていたこともあって、NWAの中でもギャラが稼げる屈指の黄金テリトリーだった。そこで再会したのはフロリダマットでヒールとして活躍したマサ斎藤で、高千穂とマサは日本プロレス時代からウマが合い、斎藤が高千穂のことを「お父さん」、高千穂が斎藤のことを「マサやん」と呼ぶ間柄だった。二人はフロリダマットで斎藤のレスリング時代の後輩でアメリカに滞在していたタイガー服部をマネージャーとして巻き込んでタッグを結成、たちまち売れっ子となり、またフロリダのプロモーターのエディ・グラハムもレスラー出身とあってレスリングの質には厳しかったが、高千穂の試合運びや受身の良さも高く評価した。
1年経過するとマサはAWAに誘われためタッグは解消となり、高千穂はテキサス州アマリロ、1980年8月に開催された「プロレスオールスター戦」で一旦帰国してから、カンザスと渡り歩き、その間にグリーンカード(永住権)も取得、そしてカンザスでタッグを組んだブルーザー・ブロディを通じて、テキサス州ダラスのブッカーだったゲーリー・ハートからのオファーを受け、ダラスへと向かったが、ゲーリーとの出会いが高千穂の運命を変えるものとは、本人も気づいていなかった。
1980年暮れにゲーリーと対面した高千穂は連獅子姿をした歌舞伎役者の写真を見せられ、こういったマスクマンにならないかと持ちかけられた。実はゲーリーは1度も日本に来日したことがなく、歌舞伎というものも全く理解していなかったのだ。高千穂は歌舞伎役者はマスクをしているのではなくメイクをしているんだと説明すると、ゲーリーはメイクをしてくれと要求され、また忍者コスチュームも自作し、ヌンチャクもロス滞在時にマスターしていた。そして毒霧も様々な液体を試し、吹き方も練習するなど、試行錯誤した末にザ・グレート・カブキが誕生、毒霧パフォーマンスもファンに大いに受けて、子供達がジュースを使って真似をするほどだった。カブキみたさに観客も増え始めて客を呼べるスターとなり、ダラスのプロモーターだったフリッツ・フォン・エリックからも絶大な信頼を寄せられるようになった。またダラスだけに留まらず、カンザス、ジョージアからもオファーがかかり、たちまち各エリアから引っ張りダコとなっていった。
そのカブキが日本に逆上陸を果たしたのは1983年2月の「エキサイトシリーズ」、馬場からの命令で、カブキ本人は乗り気にはなれなかったが、全日本に籍を残していた事もあって断ることが出来ず、一旦帰国を決意、本人は高千穂明久としての帰国を望んだが、カブキの評判は日本にも知れ渡っていたこともあって、カブキでの帰国をリクエストされた。この頃の全日本はブッカーは佐藤昭雄に代わっており、また馬場自身もハーリー・レイスに奪われたPWFヘビー級王座を奪還するため渡米、シリーズを全休することになっていた。馬場の留守をジャンボ鶴田と天龍源一郎が預かることになったが心もとないため、カブキに帰国を要請したのだ。
1993年2月11日の後楽園ホールは超満員札止め、カブキの試合はセミファイナルに組まれ、会場が暗転すると入場テーマ曲「ヤンキーステーション」に乗ってカブキが入場、リングアナがコールするとヌンチャクパフォーマンスを披露、開始ゴングが叩かれると天井に向けて毒霧を噴射、このパフォーマンスだけでも観客を魅了する。対戦相手は中堅ヒールで全日本の常連だったジム・デュラン、カブキは持ち前の試合運びの良さでデュランを翻弄、最後はカブキ蹴りと言われたトラースキックから、セカンドロープからの正拳突きで3カウント、この一戦だけでカブキは日本でも認められ、爆発的な人気を呼んだ。このシリーズではトップ外国人選手だったタイガー・ジェット・シンとも対戦、元NWA世界ヘビー級王者だったトミー・リッチとの試合では反則負けを喫してしまうが、カブキ人気は衰えず、自分の留守にカブキ人気で盛況だったと聞きつけた馬場も慌てて帰国して最終戦のみに参戦するなど、馬場を含めた全日本内部でも嫉妬するぐらいだった。
しかしカブキはシリーズが終えると日本に留まらずアメリカへと戻った、カブキが爆発的な人気を呼んだにも関わらず、当時の全日本は経営危機からの再建中でギャラも高千穂明久時代と変わらなかったからだった。アメリカに戻ってもカブキ参戦のリクエストが多かったため、カブキは多忙なスケジュールの合間を縫って帰国し全日本に参戦し続けた。当時の全日本は夕方5時半に放送されていたが、新日本の初代タイガーマスクのような子供に人気のあるレスラーはミル・マスカラスしかいなかった。だがマスカラスも自身のピークが過ぎると共に人気も停滞していったため、マスカラスに代わる新しいスターを欲していた。
1983年12月12日、蔵前国技館大会でNWA世界ヘビー級王者だったリック・フレアーにも挑戦、この試合も佐藤からのリクエストだったが、世界最強タッグ決定リーグ戦が主役にも関わらず、フレアーvsカブキ戦を見たさにチケットが売れて超満員札止めとなり、試合も佐藤がアメリカでのカブキを見せて欲しいというリクエストを受けて、序盤はショルダークローを駆使してオーソドックスな攻めから、次第にカブキらしさを見せる試合運びを披露、試合はフレアーが足四の字固めで捕獲し、カブキがロープに逃れたところで、焦れたフレアーがミスター林レフェリーを突き飛ばして反則負けとなり、王座奪取はならなかったが、向かってくるフレアーにカブキは赤い毒霧を噴射して撃退するなど、最後までカブキらしさを貫いた。
その後日米を股にかけて活躍してきたが、WWFの全米侵攻の余波を受けてNWAの各テリトリーが崩壊、アメリカでの活躍の場を失ったカブキは日本に定着を余儀なくされ、全日本では天龍率いる天龍同盟の試合で再び脚光を浴びたが、カブキも天龍に追随する形で全日本を退団、SWSではブッカーに就任、その後WAR、新日本プロレス、東京プロレス、IWA JAPANと渡り歩いて1998年にIWA JAPANのリングで引退したはずだった。引退後は居酒屋経営をしつつ、女子やインディーレスラーを指導していたが、4年後の2002年に新日本プロレスで武藤敬司とは別のGREAT MUTAとジョニー・ローラーのマネージャーに就任することで再びマット界へ戻ると、試合を行うはずだったMUTAが骨折して欠場してしまい、新日本はカブキに復帰を要請する。カブキは断ったものの、レフェリーでフロリダ時代の盟友である服部や、大会プロモーターで日プロ時代の先輩だった星野勘太郎に頭を下げられ、1度限りの約束で仕方なく復帰も、それから各団体から次々とオファーが舞い込み、なし崩し的に本格復帰を果たした。
そのカブキも2017年をもって完全引退し、長きに渡るレスラー生活に終止符を打つ。
(参考資料=辰巳出版「東洋の神秘」ザ・グレート・カブキ著)
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ザ・コブラは、なぜ凱旋マッチで"しくじった"のか?
昭和58年11月3日蔵前国技館、初代タイガーマスクが引退に伴い、空位となったNWA世界ジュニアヘビー級王座を巡ってザ・コブラとザ・バンビートの間で王座決定戦が行われた。(この試合は新日本プロレスワールドで視聴できます)
コブラの正体はカルガリーマットで修行していたジョージ高野で、コブラはヒールのマスクマンとしてダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスらと抗争を展開していた。昭和58年8月にアントニオ猪木、藤波辰己ら新日本勢が遠征に来ると、コブラは小林邦昭と組んでスミス、ブルース・ハート組と対戦、華麗な空中殺法を披露、この模様はワールドプロレスリングでも放送されたが、高野も新日本が初代タイガーマスクの突然の引退で大揺れだったことを知る由はなかった。
コブラに目を付けた新日本はポスト・タイガーマスクとしてコブラを売り出すことになり、ジョージに帰国命令を出すが、カルガリーでの居心地の良さもあって本人は帰国を辞退。しかし尊敬する猪木の説得もあって帰国を決意、帰国時には成田空港でマスク姿のコブラが登場、インタビュアーが突撃取材をするも、コブラはノーコメントであくまで謎のマスクマンで通したが、それだけ新日本プロレスだけでなく、テレビ朝日もコブラに期待をかけていた。
コブラの相手はこちらも謎のマスクマンであるザ・バンピートが務めることになったが、コブラはタイガーマスクやマスカラスのマスクを被った若手選手らが担ぐ白煙を噴く神輿に乗って、白いタキシードを身に纏い登場、コーナー昇ったコブラはバク宙を披露するも、すぐさまバンピートがコブラを襲撃、マスクを脱ぐと、ファンはダイナマイト・キッドだと思ってキッドコールを贈ったが、正体はキッドに似ていたスミスで、スミスはコブラはタキシードを脱いでいないコブラを場外へ追いやってボディースラムで叩きつけ、リングに戻ろうとするコブラにロープ越しのブレーンバスター、リフトアップスラムで場外に放り投げるなどコブラを徹底的に痛めつける。
改めて試合開始のゴングが鳴らされると、館内はコブラコールではなく「高野コール」が起きる。試合も期待されたコブラの空中戦は封じられ、グラウンド中心の攻防に終始、コブラが空中殺法を狙うと、スミスは受けようとしないなどの行為が目立ち、コブラの良さを引き出さずに自身の良さばかりをアピール、ジュニアらしい華麗な空中戦も攻防はなく、さすがの館内も野次が飛び始める。
それでもコブラはドロップキックでスミスを場外に追いやると、ノータッチトペを発射するが、スミスはかわして鉄柵へ直撃しコブラは両膝を負傷してしまう。スミスは場外パイルドライバーで突き刺すが、コブラも鉄柱攻撃から同じ技でやり返し、リングに戻るとスミスはミサイルキックをを狙うが、コブラも下からのドロップキックで迎撃、コブラは痛い両膝でのダブルニーからフライングラリアットを狙うが、タイミングが合わずに相打ちとなって失敗、しかしスミスのセントーンをかわしたコブラはフライング・ラリアットを決めて3カウントを奪い勝利も、フィニッシュの技にはインパクトに欠け、技の失敗も目立って、新日本やテレビ朝日の期待を大きく裏切る結果となってしまい、肝心の試合の模様は試合途中からトペの失敗まではダイジェストで放送され、放送されたのは終盤でのフィニッシュシーンでの攻防だけだった。
新日本もテレビ朝日もコブラの入場シーンを派手にするなど、ポスト・タイガーマスクとして大きな期待をかけていたと思う。しかし凱旋マッチで手の合う相手として用意したスミスが大誤算で、コブラを引き立てようとしなかった。コブラの凱旋マッチの相手が小林邦昭、寺西勇だったら凱旋マッチも大きく違ったものになり、コブラの評価も違ったものになっていたのかもしれない。その後コブラは1984年1月に開催された「WWFジュニアヘビー級王座決定リーグ戦」にエントリー、公式戦では初代タイガーのライバルであるキッド、初代ブラックタイガーを破る殊勲を挙げたが、それでもコブラの評価は覆ることはなく、優勝決定戦はキッド、スミスと三つ巴で争われ、三つ巴戦はスミスがコブラと引き分け、キッドに敗れて脱落し、優勝はコブラとキッドの間で争われたが、キッドがバックドロップホールドでコブラを破り優勝、コブラは凱旋から初黒星を喫した。
キッド、スミスが全日本プロレスへ移籍したため、コブラはブラック・タイガーとMSGで王座決定戦を行って破り、初代タイガーマスクに次ぐNWA、WWFジュニアの二冠王となり、ヒロ斎藤と抗争を繰り広げるも、新日本がWWFと提携を解消したことで両王座は返上、それに伴ってIWGPジュニアヘビー級王座が新設、王座決定リーグ戦が行われ、コブラは優勝決定戦に進出して全日本プロレスから移籍した越中詩郎と対戦したが、スペース・フライング・タイガー・ドロップは飛距離が足りずに失敗し、ダイビングボディープレスも剣山で迎撃されたコブラは越中のジャーマンに敗れ王座奪取はならず、越中を破って2代目王者となった高田伸彦と対戦したが、両者リングアウトで王座は奪えず、「キング・コブラになって帰ってくる」と言い残し、ザ・コブラは消え、ヘビー級へと転向した高野がリングに登場したが、越中に敗れた時点でコブラとしての役目は終わってしまっていたのかもしれない。新日本ジュニアは越中vs高田によるジュニア名勝負数え歌から日本人中心に変わり、マスクマンの王者が1989年獣神ライガー、後の獣神サンダー・ライガーがデビューするまで誕生しなかった。
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新日本プロレス 2004年11月13日 大阪ドーム事変 番外編 崩壊危機のZERO-ONEを新日本がリングジャック
話は戻って2004年10月8日、両国国技館に長州力が突如出現、当時の長州はWJプロレスが活動停止になりリキプロに属していた。石井智宏を引き連れた長州は「外からやってきた俺がど真ん中にたった。何をやってるんだ新日本!」とアピールすると、永田裕志は登場すると長州は「天下を取り損ねた永田君、良く俺の前に立ったな。今度来るときにはパワーホールを全開で流せ」と挑発、天山広吉も駆けつけるが、長州はリングを後にする。
長州復帰は当時執行役員だった上井文彦氏の仕掛けで、誰にも長州が登場することは明かさず、登場直前で永田に告げた。案の定永田が反応し永田vs長州の抗争が勃発かと思われたが、この直後に上井氏は新日本を退社、長州の存在が宙ぶらりんとなってしまう。
11月13日大阪ドームのに長州のカードが組まれ、蝶野正洋と組み永田、パートナーには長州に対して面白くない感情を持っていた西村修が起用され、試合形式もイリミネーションマッチとされた。試合は開始と同時に西村が猛ラッシュをかけるが、蹴り上げた長州はサソリ固めを狙う。しかし西村はアキレス腱固めで切り返すと、長州はロープに逃れるが西村は離さない。一旦分かれると西村がドロップキックを狙うが、かわした長州はリキラリアットを連発、西村は血反吐なのか口から血を流しながらダウンしそのまま立ち上がれずKO負けとなる。しかしその長州も蝶野と同士討ちになると、永田のサンダーデスドライバーを喰らってフォール負けを喫し、長州は蝶野にもリキラリアットを浴びせると、永田が蝶野にサンダーデスドライバーで3カウントを奪い、永田の一人舞台で勝利となった。しかし事件はここから始まっていた。長州は自分の試合を終え、同日に大阪府立体育会館第二競技場で行われていたZERO-ONEに出場するために移動すると、セミを終えた蝶野が獣神サンダー・ライガー、中西学、邪道、外道らブラックニュージャパンと共に移動バスで長州を追いかけ、府立体育館に乗り込み、そのままZERO1-ONEのリングをジャックし、ZERO-ONE勢と乱闘を起こす、蝶野が長州に対して「どうしてこんなところで試合をしてやがるんだ」と挑発して去っていくと、長州は「これは俺と新日本の問題、でもあいつらがここに土足で上がってきたことは許されないだろ、大谷」と大谷に共闘を持ちかけ、新日本との対抗戦に持ち込もうとしたが、大谷「個人的な闘いならヨソでやってくれ」と拒絶、ファンも支持した。バックステージに戻った長州は大谷に「申し訳ない。お前の言うとおりだ。悪かった。俺のせいだ。ごめん」と頭を下げた。
このときのZERO-ONEは橋本真也による放漫経営によって莫大な負債を抱えて崩壊に危機に晒されており、橋本自身も左肩の負傷だけでなく、経営を中村祥之氏らフロントに任せきりにして、現実逃避するかのようにプライベートにのめり込んでしまっていたが、橋本はZERO-ONEを一旦倒産させ、中村氏を外して新しい側近らと共にアパッチプロレス軍と合併して新会社を設立し、蝶野とのルートで新日本との対抗戦に持ち込もうと画策していた。
橋本は選手らに計画を明かして自身に追随するかを迫り、橋本はみんな追随すると思っていたが、選手達は誰も橋本に追随しなかった。大谷らがなぜ橋本に追随しなかったのか明らかにしてないが、この計画は中村氏を追い出して、橋本の新たなる側近を中心とした計画だったことから、「橋本は慕っているが、もうついていけない」だったのではないだろうか・・・大阪大会2日前の11日の後楽園大会では大谷が「オレたちは橋本真也に捨てられたんじゃねえ。旅立ったんだよ。」と橋本と袂を分かったことを観客にアピールし、選手らが橋本と決別していたことが明らかになっていた。対抗戦の話を進めたい蝶野は試合を出来ない橋本に代わって長州を旗頭にして、新日本vsZERO-ONEを推し進めようとして、ZERO-ONEの会場に乗り込んだ。だが大谷はファンの前で蝶野らを拒絶した。大谷らにしても蝶野と長州の敷いたレールに乗ると、対抗戦を敷いた橋本のレールに乗ることになることから、新日本との対抗戦は飲めなかったのかもしれない。結局蝶野の殴りこみは空振りという結果となり、長州もあくまで新日本だけでなくZERO-ONEの人間ではないため無理強いすることは出来なかった。
大阪大会からしばらくして橋本が弁護士立会いの元でZERO-ONEの活動停止を発表、大谷は中村祥之氏らと共に新団体ZERO-ONE MAX設立へと動き、2005年1月に再スタートを切った。
大谷らと袂を分かった橋本は翌年2005年7月11日に脳幹出血に倒れ、そのまま急死、橋本の葬儀には大谷らZERO1勢も駆けつけるが、新しい側近たちによって焼香も許されず、棺すら担ぐことさえ許されなかったが、夫人だったかすみさんの手引きで遺体には対面することが出来た。
そして大阪ドーム大会が行われた翌年の2005年11月14日、猪木が保有する新日本の株式を全てユークスに売却、これと共に猪木体制の新日本は終焉を迎えた。2004年11月13日の大阪ドーム大会は今思えば、新日本と猪木の方向性の違いが示された大会だったのかもしれない。
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新日本プロレス 2004年11月13日 大阪ドーム事変③果たして猪木から『子殺し』を受けたのは…
メインで行われた中西&中邑vs藤田&カシンは藤田のサッカーボールキックを浴びせ中邑をKOで藤田組が勝利も、試合後に猪木が登場、ダウンしている中邑を引き起こして、怒りの表情で殴り蹴りつけた。実は後年に中邑がカード変更を猪木に抗議しており、猪木は「怒りを見せろ!」と答えるだけで、中邑の抗議を受け付けなかったことに怒り、猪木に対して「私は猪木さんに中指立てますよ」と言い放っていたという。
藤田から制裁されるだけでなく、猪木から殴る蹴ると追い打ちされた中邑は悲しげでやるせいない表情を浮かべ、バックステージに下がるが、下がる中邑に猪木は「遠慮するなと言ったはずだぞ! 男を見せろ、この野郎!!」と叫び、藤田に対しても「オメエらも遠慮無く殺せ!コノヤロウ! オメエらが高い壁になれよ! 頼むぞ!」と激を飛ばし、「123ダー」で締めくくられた。」自分は猪木がレスラー猪木の眼をしていたことで"これぞアントニオ猪木だ”と一人納得してドームを後にするも、バックステージでは中邑が「次、猪木が殴ったら殴り返す!」と怒り、「やってられねえ、って」会場からそのまま実家に帰ってしまった。のちに安田拡了氏は週刊プロレスで「猪木としては、そのDynamiteに新日本の選手をどんどん参戦させたいはずだった。曙も来ていたし、K-1の選手が多く訪れていた。彼らに新日本の強さというものを見せつけたかった。それがあったからこそ、試合前に中邑に「遠慮するな」と言葉を送っているのだ。」と記しているが、それが猪木の真意だったとしても、猪木に反発したことでの制裁、理不尽なカード変更とファンの民意を踏みにじった猪木への怒りを感じていた中邑には届くことなく、また「新日本側の憤りは、マッチメークという名の元にブッキング料をゴソッと猪木事務所に持っていかれ、新日本の収益が理不尽にもなくなってしまうことなのだ」と週プロに報じられたことで、猪木の真意もファンに届くことはなかった。
13年前の一件を今になって振り返ったが、猪木の怒りに説得力があったのは確かであり自分もレスラー猪木の目を見て納得していた。しかしファン投票でメインが棚橋vs中邑が選ばれた時はファンが望んだのは新日本の未来であり将来であることを棚橋も中邑も実感しているはずであり、大阪ドームでは例え少ない観客であろうと、新日本の将来を見せる試合にしたかったはず、それだけ猪木と選手やファンとの意識にズレが生じて、今回の一件で修復不可能になるぐれい、亀裂が深まったが、猪木にしてみれば「頼ってきたのは新日本だろう」であり、将来より目先の猪木に頼ってしまい、新日本も頼った手前猪木に意見することが出来なかった。今思えば猪木が全て悪いのではなく、猪木に依存しきっていた当時の新日本にも原因があったのではないだろうか・・・
2004年11月13日のことを誰か猪木に聴いてほしいと思うのだが、おそらく猪木は「そんな昔なこと忘れた」とトボけると思う。猪木が何を伝えたかったのか、猪木の口から聞くことがなければ永遠の謎として終わりそうだが、わかるのは猪木から子殺しを受けたのは、ハッスルポーズを否定された小川と、猪木から制裁を受けた中邑だったということだ。中邑は2009年9月27日に猪木に挑戦発言をしたことで、猪木という呪縛を脱し、小川はハッスル離脱後はIGFに参戦、表向きはリスペクトは口にしても、猪木に対する面白くない感情は抱えたままで、再び疎遠となっている。
しかし大阪ドーム大会では猪木とは別にもう一つの事件が起きていた。
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新日本プロレス 2004年11月13日 大阪ドーム事変⓶ハッスルポーズ阻止の裏側
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2017年11月2日
大会当日に自分も大阪ドームを訪れたが、当時の大阪ドームは経営破綻しており、中に入っていたテナントも撤退するなど閑散、まるでこのときの新日本を象徴しているかのようだった。自分は入り口に到着するも開場を待っていたのは4~5名だけ、開場までには2~3人は来たものの長蛇の列とはならなかった。この年の7月に行われたNOAH東京ドーム大会を観戦した際に、自分は係員と話をしたが新日本よりNOAHのほうが並んでいたと聴かされると、大阪ドームで新日本の力が落ち込んでいると改めて実感してしまった。急遽参戦することになった小川直也は当時「ハッスル」のエースだったが、新日本にとってハッスルは新日本とストロングスタイルと相対するエンタメプロレス。小川自身も新日本を「某老舗メジャー団体」と皮肉り、小川自身もこの頃になると猪木と決別していたため、新日本との関係は良好ではなかった。しかし猪木からオファーを受けた小川はハッスル普及の一環と割り切って新日本に参戦を決意、猪木と再会した際には表向きは師匠と称えていた。今回のマッチメークも小川と川田がハッスルのスタイルで臨むことが必至とされ、小川自身も「猪木さんにも一緒に“ハッスルのポーズ”をやって貰う」と宣言していた。
この発言に新日本の選手たちはどう思っていたか、当時新日本の所属だった成瀬昌由のブログ『成瀬昌由の自由人ブログ』によると、「猪木さんが小川を呼んだのだから、ハッスルはやらしても良いのではないか」といえば、「小川と共に猪木さんもあのポーズを一緒にやるという報道もあるし、邪魔してはいけないのではないか?」という意見もあった。しかし成瀬がトレーナー室で猪木がマッサージを受けていた際に小川は「お疲れ様です会長!今日の試合“コレ”やりますんで、宜しくお願いします!」と声をかけ、猪木は「お~ぅ」と答える姿を成瀬は目撃してしまう。第7試合を終えると最終的な作戦会議が行われた。成瀬によると「セミ前の試合になったあたりで、最終的な作戦会議が行われた。ここで言っておくが、俺はやや血走って先走っていた感があったが、あくまでも俺達のプライオリティーとしては今回の小川直也の“ハッスルのポーズ”に対して、先ずは徹底的に断固阻止というのが一番。そして、もし小川サイドがあくまでも強硬に“ハッスルのポーズ”をやるというならば、そこは俺達も強行な手段を使ってでも絶対に阻止をしなければならない。そしてもし、本当に猪木さんがリングに上がって小川と共にあのポーズをやろうとしたならば、俺達はたとえ相手が猪木さんでも、全員で猪木さんの前に人柱となって立ちふさがり、殴られようがなにされようが、何が何でもリングに上げさせてはならないと、俺や真壁リーダー、そして永田さんも一緒になって俺達の意見に同調してくれました。」とハッスルポーズ断固阻止で意見が一致した。
そしてセミで行われた天山、棚橋vs小川、川田は小川、川田がハッスルのコスチュームで試合に望み、試合中には高田モンスター軍の島田二等兵とアン・ジョー司令長官もリングサイドに現れるが、それと同時に新日本本隊の選手達がほぼ勢ぞろいでリングサイドに陣取った。試合は小川が棚橋に勝つも小川がハッスルポーズを取ろうとすると永田を始めとする選手らがリングに雪崩れ込んで阻止し、そのまま花道奥へ下がらせる。永田の説得で小川もハッスルポーズを取るのを諦めて下がろうとするが、蝶野正洋が「やりたいならやれ」とリング内でアピールすると再び騒然となるが、それでも小川はハッスルポーズを取ることはなく退散、猪木も現れなかった。蝶野にしてみれば小川にハッスルポーズを取ることを許したのではなく、「この状況の中でハッスルポーズをとれるものならやってみろ」と迫っていたのかもしれない。この試合の真意は一体何だったのか?観戦していた上井文彦氏は「「絶対にハッスルをやらせるな!」と大声で叫び続け、猪木の心情を。『オマエら、ここまでやられて怒らないの!? 俺がこんなプロレスを許していると思うのか!?』って問いかけてるんですよ」と理解し、成瀬も「猪木さんからも『ハプニングやアクシデントをどのように乗り切るかで、プロとしての値打ちは決まるものだよ』と言われていたので、今回の急な小川直也の緊急参戦は、猪木さん流の自分達に対する“試練”というか、『新日本プロレスのリング上で、しかも自分達の目の前であのポーズをやらせてもイイのか?おぃっ!』と自分達を試しているのであろうと俺は直感的に理解した」としている。確かにハッスルポーズを阻止したことで新日本勢は支持を受けたのも事実だった。
だが小川にしてみれば、猪木の承諾という大義名分を得たとしてハッスルポーズを狙ったはずが、新日本の選手らの反発に遭い、肝心の猪木は出てこないどころか、大会後の猪木が「世界で通用するものではない。米国の物まねをしてもだめ」「(ハッスルポーズは)中指立てるポーズを大衆の前でやっているようなもの」「ハッスルを引きずっていると、地に落ちる。勢いある時に変化をしないと。流行は長続きするものではない」と痛烈に批判されたことで、一転して小川は梯子を外される結果となってしまった。誇りとしていたハッスルを猪木によって全否定された小川はハッスルを飛び出してIGFに参戦するまで猪木と疎遠の関係となっていった。
しかしメインではセミでの溜飲を挙げた雰囲気から一転してしまった。