プロレス史
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新日本プロレス 2004年11月13日 大阪ドーム事変① 踏みにじられた新日本の将来
午前0時から10月の月間MVP、ベストバウト、ベストシリーズ&興行の投票受付を開始します!投票はこちら→:https://t.co/HpgZqNVYdN 投票よろしくお願いします! #プロレス月間MVP #prowrestling
— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2017年11月2日有料サイト「Dropkick」で「多重ロマンティック」の管理人、漁師JJさんが2004年11月13日 新日本プロレス 大阪ドーム大会を「消えた棚橋vs中邑戦」というタイトルで振り返ったが、自分も11・13大阪ドームを観戦した一人として、当時の資料や観戦していた自分の視点を含めて総合して振り返ってみた。
2004年11月13日、新日本プロレスは「闘魂祭り」として大阪ドーム大会を開催。当時の新日本プロレスはオーナーであるアントニオ猪木の現場介入でファンから大きく信用を落としていた”暗黒期”と言われる時期だったが、新日本の執行役員だった上井文彦氏が猪木側である猪木事務所の窓口となり、猪木の意見を取り入れて格闘路線を継続しつつ、天龍源一郎や佐々木健介、鈴木みのるなど外敵フリー勢を参戦させ純プロレス路線も貫くなど、バランスを保ちながら、斜陽となった新日本を盛り立てようとして奮闘していた。ところが前月の10月8日、両国国技館で行われた藤田和之vs佐々木健介のIWGPヘビー級選手権で藤田が胴絞めスリーパーを仕掛けた状態で、レフェリーがカウント3を叩き、健介に王座が移動するという不可解な裁定で試合が終わる事態が起き、ファンが怒り暴動寸前になったことでファンからの信用は失墜、その後で上井氏が当時社長で犬猿の関係だった草間政一氏によって退社に追い込まれ、猪木事務所との交渉窓口を失った新日本は、猪木からの介入に歯止めが効かない状態となった。
自分はその大阪ドーム大会の観戦を決めていた。理由は新日本の大阪ドーム大会を全て生観戦しており、この年にはNOAHの東京ドーム大会を観戦した際にも係員から「NOAHと比べ新日本はこれほど集まらなかった」と話を聞き、新日本にかつての力はないとして、"新日本が大阪ドームで大会を開くのはこれで最後かな"というのもあって観戦することにした。
対戦カードも猪木の発案ということでカードが募集され、大阪ドーム大会のメインカードは棚橋弘至vs中邑真輔によるIWGP U-30選手権に決定となった。このカードが選ばれた理由はファンが見たいのは新日本の未来だというを感じた。大阪ドーム大会も売れ行きが悪いと自分も聞いていたが、そういう状況の中で2人が新日本の未来、将来をメインでアピール出来るかに注目のポイントにしていた。
しかし大会の2日前、仕事が終えて週プロモバイルを見ると、大阪ドーム大会のカードの変更が発表され。カードを見ると棚橋vs中邑、川田利明vs天山広吉の三冠統一ヘビー級選手権が消え、藤田&ケンドー・カシンvs中邑&中西、天山&棚橋vs小川直也&川田に変更となっていた。この記事を見た時自分は松田優作のジーパン刑事殉職シーンのように「なんじゃこりゃ!」と思わず叫んでしまっていた。
カード変更の理由はチケットの売りが延びなかったことで猪木の介入を受けたことは明白だった。大阪ドーム大会は「闘魂祭り」と銘打たれているように、実質上主催者は猪木だった。猪木にしても猪木の存在をこれだけアピールしているのだから、超満員にすることは至上命題だったものの、新日本は猪木の現場介入の影響で大きくファンから信用を落としており、また1ヵ月後の12月11日には大阪府立体育会館のビックマッチも控えていたことから、大阪ドーム大会に全精力を注ぐのは無理だった。
カード変更前にも猪木がマスコミに藤田、小川の投入を示唆していたが、まさか猪木自身が公募していたファン投票は崩すことはないだろうと思っていたが、ファン公募のカードを無視し猪木側の小川、藤田、カシンをごり押しするカード編成、選手やファンからは猛反発、中邑でさえも「ファンに申し訳ない。一番大切にしなければいけないのはファン。夢を裏切ってしまった」とファンに謝罪するコメントを出したが、猪木に頭が上がらない新日本プロレスはなす術もなく、変更されたカードのまま大会当日を迎えた。(続く)PR -
全日本プロレス 旗揚げ前夜
今年で全日本プロレスが旗揚げして昨日で45周年を迎えた、創始者であるジャイアント馬場さんが死去してからは体制が代替わりして、何度も崩壊の危機に晒されたが、看板だけ立派に守り通されている。
1972年5月に日本テレビで独占していたジャイアント馬場を、日本プロレス側が無断でNETの中継に放送したとして、日本テレビが怒り開局いらい中継してきた日本プロレスの中継を打ち切ったが、当時コンテンツとしてドル箱だっがプロレス中継を諦めたわけでなかった。
そこで日本テレビが日本プロレスから馬場を独立させ新団体を設立させる計画を打ち立てた。なぜ馬場だったのか?先に旗揚げしたアントニオ猪木の新日本プロレスの中継を開始するという選択肢もあったが、ら当時の日テレ社長だった小林與三次社長は「プロレスは正力松太郎さんの遺産だから、日本テレビはプロレスを続けなければいけない。そのためには大スターのジャイアント馬場でなければいけない」と信念を掲げたが、今思えば"馬場を引き抜けば日プロは間違いなく大打撃を被る"という報復もかねていたのかもしれない。
当の馬場本人は前年度のクーデター事件だけでなく、日本テレビとの関係を絶った日本プロレスの幹部達に不信感を抱いていたが、まだ新団体という選択肢はなく、日本プロレスと揉めれば、かつての主戦場だったアメリカへ戻ればいいと考えており、そのためにハワイにコンデミナムを購入し将来はハワイで余生を過ごすつもりだった。
日本テレビから話を持ちかけられた馬場は慎重居士の性格から安易に話には乗らず、交渉で日本テレビがどれだけバックアップするかを聞き出し、日本テレビが全面バックアップすることで合意に達し、全日本プロレス旗揚げを決意。1972年7月末に馬場は会見を開き独立を宣言、馬場が独立=新団体へ向けて動き出していることは日本プロレス側も把握しておらず、焦りの色を隠せなかった。
馬場は8月18日の宮城県石巻大会を最後に予定されていた試合を全てこなし、その間に日本プロレスも馬場の引きとめ工作をしたが、馬場は聞き入れず、身辺を綺麗にして去っていった。
馬場は旗揚げまでの間に外国人ルート確保に奔走、親友だったブルーノ・サンマルチノや、自分から売り込みをかけてきたアブドーラ・ザ・ブッチャーの確保に成功、また馬場に追随するかことを決めていたマシオ駒、大熊元司のルートで当時のNWA世界ヘビー級王者のドリー・ファンク・ジュニアの父であり、テキサス州アマリロのプロモーターでNWAにも発言力が強かったドリー・ファンク・シニアと接触、全面協力を得られることに成功し、全日本はまだNWAの会員ではないためドリーの派遣は出来なかったが、頭角を現していた弟のテリー・ファンク、シニア自身も旗揚げシリーズに参戦することになった。
唯一困ったのは日本人選手で馬場は日プロとはトラブルを起こさず、身辺を綺麗にして去っていたこともあって、誰も誘わなかったのだが、レフェリーのジョー樋口は樋口自身がアメリカへ行くことを決めて日プロに辞表を提出したと同時に馬場が口説いて確保に成功。駒、大熊、サムソン・クツワダ、付き人だった佐藤昭雄など馬場派のレスラーが追随し、引退していた藤井誠之や日本プロレスを退団していた百田光雄を確保したものの、まだまだ選手層は薄かった。そこで吉原功の国際プロレスに接触し元IWA世界ヘビー級王者だったサンダー杉山の獲得に成功、国際からも選手を借り受けることで、ようやく日本人選手をそろえた。
10月頭土曜8時から全日本プロレス中継がスタート、旗揚げは22日だったが、その間には馬場が外国人選手の確保に動いている間に行ったアメリカでの試合を放送、21日には旗揚げ戦の22日は日曜日だったこともあって、急遽21日の土曜日に東京・町田市体育館で旗揚げ前夜祭が行われ、実質上この日から全日本プロレスが旗揚げした。31日にはレスリングでミュンヘンオリンピック代表だった鶴田友美=後のジャンボ鶴田の入団も発表され、全日本プロレスは第1歩を示した。
(参考資料 日本プロレス事件史Vol.2) -
ジャンボ鶴田になれなかった男…谷津嘉章
1980年10月23日、レスリングでモスクワオリンピック代表の谷津嘉章が新日本プロレスに入団することが発表された。谷津はモスクワオリンピックでフリー100キロ級に出場する予定で、76年のモントリオールオリンピックで8位になったことから、メダルの期待がかかっていたが、米ソ冷戦の影響で民主主義国がこぞって出場をボイコット、日本もアメリカに同調してボイコットしたため、谷津は4年後のロスオリンピックまでには待てないとして、日本レスリング協会の会員だった福田和昭氏の仲介で新日本プロレスに入団を決意。入団会見の際にはシリーズ途中ながらのアントニオ猪木、坂口征二も駆けつけ、谷津の入団を歓迎し、谷津も会見の際には「アメリカの大学でレスリングをやっていた頃は1度も負けたことがない、僕も全米チャンピオンと何度が闘ってますけど、たいしたことはないと思ってるんですよ、だがらプロになって全米チャンピオンがどれだけ強くなっているか、早くバックランドと勝負してみたい」と当時のWWFヘビー級王者だったボブ・バックランドに対してビックマウスを叩くなど、即戦力ルーキーとして期待を見せつけていた。
なぜ新日本プロレスは谷津嘉章を求めたのか?営業部長だった新間寿氏がジャンボ鶴田のような体格のあるレスリングのエリートを求めており、鶴田がプロレス転向の話が出たときは、猪木に獲得を進言するも、猪木は鶴田を「木偶の坊」と評して乗り気になれず、鶴田の代わりに同じレスリングでオリンピック代表だった長州力を獲得したが、新間氏も長州は同じレスリングエリートでも、体の小さい長州は望んでいた存在ではなく、その後も新間氏は鶴田個人に接触して新日本移籍を持ちかけたが、鶴田は動かず、また東京スポーツから「鶴田を引き抜こうとするのは何事か!」と一喝されたこともあった。
シリーズに帯同した谷津だったが、当時若手だった前田日明や高田延彦、ジョージ高野らがエリート扱いを受ける谷津に敵愾心を示した。新日本の若手は道場から下積みを経ているだけに、新人ながらも下積みを経験せず、エリート扱いを受ける谷津に対して面白くない感情を持っていたが、また谷津も「日本のレスリングの頂点にいる俺が強い」と前田らを見下していた。新間氏はWWF会長の座を利用して、道場での育成ではなくアメリカのWWFに送り込み、11月17日MSGのリングでデビューさせ、谷津は藤波がWWFジュニアヘビー級王座を奪取した相手だったカルロス・ホセ・エストラーダと対戦し。フロントスープレックスことワンダースープレックスで3カウントを奪い、大舞台で堂々のデビューを飾った。これまでの新日本はカール・ゴッチのいるフロリダへ送り込まれることが慣例となっていたが、新間氏は谷津は基礎的な部分はマスターしているとして、実戦で経験を積ませることを重視したのと、この頃の新日本はNWAの会員にもなり、これまで呼べなかったNWA系の選手も参戦するようになったことで、新日本の中ではでゴッチは不要な存在としてされつつあった。また鶴田が全日本入団と同時にアメリカのファンク一家に預けられてアメリカでプロレスを学んだのもあって、谷津に鶴田と同じコースを歩ませたい意図もあった。
谷津はWWFエリアでプロレスを実戦で学んで、わすか半年で帰国、6月24日 蔵前国技館で行われた「3大スーパーファイト」で谷津は日本デビューが行われることになった。、当初の予定ではメインは猪木、ダスティ・ローデスvsスタン・ハンセン、タイガー・ジェット・シンが組まれていたが、ローデスがNWA世界ヘビー級王座を戴冠したため来日をキャンセル、シンも全日本プロレスに引き抜かれたため、カード変更を余儀なくされ、新日本は猪木のパートナーに凱旋したばかりの谷津が抜擢、ハンセンのパートナーも全日本から移籍したばかりのアブドーラ・ザ・ブッチャーに変更となった。いきなり猪木と組んで大物タッグとの対戦は、それだけ谷津を即戦力ルーキーとして期待をかけていたということだった。また当日は通常のワールドプロレスリングではなく『水曜スペシャル』の特番枠で生中継されることも決定していたことから、谷津を売り出すには恰好の舞台が整っていた。試合は60分3本勝負で行われ、1本目から谷津が先発でハンセンと対峙、谷津はヒップトスからショルダースルー、ドロップキックと果敢にハンセン相手に攻めるが、ハンセンのエルボーとニーを浴びると失速、交代を受けたブッチャーの地獄突きや頭突きを浴び、ハンセン組にタッチワークの前に蹂躙される。谷津はやっと猪木に交代、猪木はハンセン組の勢いに押されつつも、猪木がアリキックでやっとブッチャーの動きを止めてお膳立てし、谷津に託したが、ブッチャーの頭突きを受けてまた失速、場外戦となるとハンセン組のダブルでの鉄柱攻撃や、ブッチャーのビール瓶攻撃を受け大流血してしまう。谷津はリングに戻るがハンセンにやられ続け、ウエスタンラリアットの前に3カウントを喰らって1本目を取られ、カットに入った猪木にもウエスタンラリアットを喰らってしまう。
2本目に入ろうとするがインターバルとなるが谷津は起き上がれず、焦れたハンセン組は猪木組を襲撃、二人がかりで谷津を痛めつけため、反則負けとなり1-1のイーブンとなるが、3本目となると谷津にお膳立てをしたにも係わらず、自分の思う通りに動かない谷津に猪木がキレ、ビール瓶を持ち出し、制止するメインレフェリーのユセフ・トルコ、ミスター高橋にもビール瓶で殴打、ハンセンやブッチャーにも殴打したため反則負けとなった。中継は放送時間内で試合が終わらなかったため、途中で終了となったが、大舞台でしかもTVの生中継という舞台を与えられながらも血だるまにされて何も出来なった谷津を見て、ファンは「ダメなヤツ」とレッテルを貼り、凱旋デビューの失敗は谷津のレスラー人生にも大きく影響した。(この試合は新日本プロレスワールドでも視聴できます)谷津は後年「自分が血祭りにされることが猪木の目論見だった」と猪木を逆恨みしていたが、自分が試合を見た限りではアメリカではセオリーどおりのプロレスを学ぶも、谷津の対戦相手にはハンセンやブッチャーのような狂乱型の選手がいなかったのもあり、また猪木も馬場さんのようにセオリーを学ばせるより、実戦で学ばせるタイプだったこともあって、ハンセンやブッチャーと対戦させることで経験を積ませようという考えもあって、序盤は敢えて谷津を引き立てていた。だがブッチャーも全日本から移籍したてで新人相手にまずい試合をするわけにはいかず、またこの時点で全日本に引き抜かれることが内定していたハンセンにしても商品価値を落とすわけにはいかなかった。それを考えると谷津の相手にハンセンとブッチャーは荷が重すぎた組み合わせで、どちからのパートナーに若干ランクが下ながらも、谷津に合わせられる選手と組ませるべきだったのではないだろうか?
凱旋マッチで失態を演じた谷津は再調整のために2度アメリカへ送り込まれ、3度目に帰国したときは長州力率いる維新軍団の一員として凱旋したが、新日本ではブレイクすることはないままジャパンプロレス、そして全日本プロレスへ移籍、全日本マットで鶴田と対戦、後にタッグを組んで五輪コンビを結成し世界タッグ王者にもなったが、鶴田の上へいくことはなく、SWSへ移籍してからは様々な団体を渡り歩いた。1度は引退するも、2015年から復帰、地方インディーを中心に活躍している。 谷津は新日本から鶴田のようなレスラーになるように求められたが、鶴田にはなれないどころか越えられなかった。
(参考資料 ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.16) -
幻に終わったヒクソン・グレイシーvs長州力
今年でヒクソン・グレイシーvs高田延彦戦が行われて20周年を迎えた。マット界は高田の敗戦はあくまで対岸の火事でしか留めておきたかったが、次第にK-1やPRIDEの格闘技がブームとなり、プロレスは押されはじめ、新日本プロレスも90年代の新日本人気が下火になりかけたのもあり、観客動員数もどんどん減り始めていた。そこでオーナーだったアントニオ猪木が暴走王・小川直也を軸にして格闘色の強いプロレスへの転換を図り、ワールドプロレスリングを放送していたテレビ朝日も他局と比べて格闘技には乗り遅れたのもあって、新日本に対してMMAをやるべきと求めるようになっていた。
そこでテレビ朝日にヒクソン・グレイシーの代理会社からヒクソン戦の放送を持ちかけられていた。ヒクソンは高田戦以降PRIDEを離れ、2000年5月にはテレビ東京が主催する「コロシアム2000」で船木誠勝と対戦して破ったものの、観客動員が思ったより入らず収益にならなかったためテレビ東京は撤退、テレビのバックアップを失った実行委員会は格闘技中継に乗り遅れたテレビ朝日と接触、テレビ朝日の中継でヒクソンの試合を放送させようとしていたのだ。
しかし肝心の新日本プロレスは乗り気ではなかった、理由はヒクソンと対戦できる相手は小川しかおらず、その小川も新日本の所属ではなく、あくまで大手芸能事務所がバックにいるUFOの所属に過ぎなかったからだ。また小川が勝ったとしてもギャラが釣り上がり、小川が負けたとしても新日本の負けとなって、受けるダメージも計り知れないものがあることから、新日本にとってリスクの高い賭けには乗ることが出来なかった。
それでもヒクソンという大きい素材を逃したくなかった新日本側は永島勝司氏や倍賞鉄夫氏が交渉役となって代理会社側と話し合い、倍賞氏が「長州が出てもいいと言っている」と持ちかけると、代理会社もテレビ朝日も乗り気となり、代理人会社も代理会社側は直ちにアメリカへ飛んでヒクソンと交渉、ヒクソンは長州のことはまったく知らなかったが、50歳近い年齢と聴くと笑って承諾したという。新日本もテレビ朝日も勝っても負けても長州なら船木と比べてビックネームであり、一度引退しているレスラーであることから、負けても新日本の受けるダメージは軽く、観客動員や視聴率が見込めると踏んで長州を人選したのだ。
だが長州本人はどうだったのか?後年長州は「真説・長州力」でヒクソン戦の話が持ち上がっていた事実はあったが「契約までいくという話ではないです。周りが騒いでいただけですよ」と答えていたが、知らなかったはずはなく、少なくとも永島氏や倍賞氏から報告を受けていたはず、だたこの頃の長州は猪木の現場介入で現場監督としての立場が微妙になってのもあり、新日本もテレビ朝日も長州vsヒクソン実現へ動きだしていたことから、長州もヒクソンと対戦せざる得ず、渋々承諾したと考えるのが自然なのまもしれない。
ヒクソン戦を承諾した長州はサイパンで合宿を張り、2001年5月5日の福岡ドーム大会で中西と組み、小川&村上一成のUFO組と対戦。長州は小川を仮想ヒクソンに仕立てて試合に臨んだが、いざ小川と対戦した長州は小川の左フックを顔面に喰らって倒れ、倒れた際に顔面を蹴られてしまう。小川はマウントパンチから亀になった長州をスリーパーで捕らえる。中西がカットに入って長州は九死に一生を得たが、再度対峙しても小川のパンチを顔面に浴び反撃できない。試合は中西が村上をしとめたが、長州は小川のパンチが全く見えなかったと永島氏に明かし、「ヒクソンとの試合は取りやめにして欲しい」と訴え、テレビ朝日も小川相手に何も出来なかった長州を見て、長州vsヒクソンは断念せざる得なかった。
代理会社側はヒクソンに長州戦はダメになったと報告すると、「ここまできてキャンセル、今更なぜなんだ!」と怒り、新日本も代替案として格闘技修行を行っていた佐々木健介の相手として打診するも、違う人間の名前を出したことでヒクソンは態度を硬化させてしまう。またヒクソンも長男であるハクソンを交通事故で亡くし精神的なショックを受けたことで試合をする気はなくなっていた。こうやって長州vsヒクソンは幻に終わった。
その後ヒクソンは2002年8月8日、UFOが主催するMMAイベント「LEGEND」に来賓として招かれ試合を観戦、リングにも上がり「100%戦える状態に戻った」とアピール、メインでマッド・ガファリを降した小川はヒクソン戦をアピールして、UFOも実現へ動き出したが、金銭面で折り合いがつかず断念、船木戦がヒクソンにとって事実上現役最後の試合となった。だが皮肉なものでヒクソンに敗れた船木はMMAで復帰を果たし、現在はプロレスラーとして活躍している。高田vsヒクソンが実現して20年が経過したが、格闘技ブームやヒクソンの名前もすっかり過去のものになった…(参考資料、日本プロレス事件史Vol.4 田崎健太著『真説・長州力』より)
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日本プロレス崩壊~全日本プロレスへ合流③ 合流で見た現実
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2017年10月2日残党となった日本プロレスが合流したのはジャイアント馬場の全日本プロレスだった。全日本プロレスは日本テレビをバックに旗揚げしたものの興行的には苦戦、馬場も離脱時に誰も声をかけなかったことから日本人選手も不足し、ザ・デストロイヤーを日本側に加え、提携していた国際プロレスから選手を借り受けることで日本人選手層の薄さをカバーしていた。高千穂はアメリカに戻るつもりだったが、芳の里の指示で日本に留まり、全日本に合流することになった。
記者会見では「日本プロレスの選手たちは、全日本プロレスに合流します」と発表したが、馬場はいい顔はしなかった。確かに日本人選手は欲しかったが、欲しかったのは高千穂以下若い選手で、扱いにくい大木らベテランは受け入れ難がったが、全日本を旗揚げする際に協力した日本テレビや百田家など大物の斡旋とあって馬場も断ることが出来なった。しかし馬場の本音を知らなかった大木は百田家からは「全日本と日プロの合同興行である」と説明を受けていたこともあり、大木は「これはあくまで対等合併である」と信じ込んだまま全日本に参戦した。
日本プロレス残党は日本テレビと契約、日本テレビからの派遣という形で全日本に参戦したが、マッチメークなどの全権限は馬場に委ねられた。6月30日から「サマーアクションシリーズ」が開幕すると、開幕戦からインタータッグ王者にもなった上田馬之介がカードから外され、アジアタッグ王者にもなり、日プロ末期にはダニー・ホッジの保持するNWA世界ジュニアヘビー級王座にも挑戦した松岡巌鉄は前座扱いとされるなど冷遇を受ける。上田はクーデター事件に関わっためだったが、松岡は実力はあるが若手に対するイジメや先輩への讒言、マスコミに対して横柄な態度をとることから選手間では評判が悪かった。二人は大木に「どうにかして欲しい」と抗議するが、大木は自分はメインからセミと扱われていたので文句はなく直訴もしようとしなかった。残党達は上田には同情するも、人望のなかった松岡には誰も同情しなかった。
上田は試合がやっと組まれるが前座扱い、松岡は外国人相手の噛ませ犬と扱われ、上田も合流2シリーズ目から外国人選手との対戦を組まれるが、格下外国人選手の噛ませ犬として扱われ、試合からも干される日もあった。一方の大木と高千穂はメインからセミと大関クラスの扱いを受け、、同じく日プロ末期にはアジアタッグ王者にもなり、アメリカでもカンフー・リーとして活躍したグレート小鹿も前座扱いだったが連日のように試合が組まれるなど、上田と松岡との扱いとは違っていた。上田は全日本での扱いを見てアメリカへ旅立つことを決意する。
自分の全日本での扱いに満足していた大木だったが、アメリカ武者修行に出していた鶴田友美の凱旋が決まり、10・9蔵前のビッグマッチで馬場とのパートナーに抜擢され、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクの保持するインターナショナルタッグ王座への挑戦が決まると、「全日本代表の馬場、日プロ代表の自分が組んで挑戦するのが筋だろう!」と馬場に抗議するも、馬場は鶴田は将来のエース候補、即戦力ルーキーとして売り出すことを決めていたことから大木の抗議を受け入れなかった。上田と松岡は10・9蔵前を最後に日本プロレスを離脱、大木は鶴田が帰国したことでNo3~No4クラスに降格、中堅外国人相手にお茶を濁すようになり、デビューして間もない鶴田の風下に立たされた大木はプライドを傷つけられ、韓国へ帰国したまま全日本に所属として戻ることはなかったものの、3人の離脱は馬場にとって望んでいたことでもあったことから咎めもしなかった。
その後、大木は馬場、猪木に挑戦状を叩きつけて、1974年10月10日に新日本プロレスに参戦、猪木と対戦、敗れはしたが名勝負を展開し、大木健在をアピール、猪木との対戦成績が1勝1敗1分となり商品価値が上がったところで、馬場が大木を引き抜き、対戦するも6分49秒で馬場が勝ち、以降は一時国際プロレスに移籍したが、全日本を主戦場にし、1982年に頭突きの影響から来る首の負傷を悪化させ、事実上の引退、1995年4月2日に東京ドームで行われた「夢の架け橋」で引退セレモニーが行われるも、2006年10月に死去した。は全日本を主戦場にしていった。
上田はフリーとなってアメリカにわたり、金髪に染めてヒールとして活躍、日本に帰国すると国際プロレスを経て猪木を標的に新日本プロレスに参戦、タイガー・ジェット・シンとのコンビで大活躍、シンと共に全日本に移籍。シンとのタッグ解消後は新日本に参戦、メジャーからはずれNOWやIWAジャパンのインディー団体に参戦したが、東京への帰京中、東北自動車道で交通事故に遭遇、事故により頸椎損傷の大怪我を負い、胸下不随となり車椅子での生活を余儀なくされ、2011年12月21日に死去した。
松岡もアメリカにわたるが、1974年に廃業、その後の動向を知るものはなく、現在でも消息を絶っている。社長だった芳の里は日本プロレスを綺麗に畳んで、その後経営上のライバルであり、プライベートでは盟友だった国際プロレスの吉原功氏の推薦で、東京12chの「国際プロレスアワー」の解説者を務め、昭和51年3月28日 蔵前国技館で行われた鶴田vsラッシャー木村戦では特別レフェリーを務めるなど様々な形でプロレス界に携わった。芳の里は日本プロレスの事務所が閉鎖される日、かつて日本プロレス社員が誇らしげに飾ったバッチが、見捨てられたかのように転がっており、芳の里は全部集めて持ち帰り1998年3月11日、死去するまで大事にしまわれていたという。
晩年芳の里は「プロレススーパースター列伝」で金庫から金を持ち出し豪遊したというレッテルが貼られていたが、カブキによると全部創作で、素顔は世渡り下手で揉め事を嫌う、情に厚い人間だったという。だがカブキが芳の里によってリストラを逃れ、受け取った退職金もカブキが返そうとしても、芳の里が「そのまま受け取っておけ」としたように、昭和のドンブリ勘定体質と芳の里の情の厚さが日本プロレスを窮地に追い込んでいったのも事実だった。芳の里は夫人に「俺に教育があれば、会社を潰すようなことはなかった」と後悔していたという。芳の里は日本プロレスのバッチを全て拾ったとき、何を去来したのだろうか・・・
(参考資料 日本プロレス事件史Vol.3 Vol.22 、ザ・グレート・カブキ自伝「東洋の神秘」) -
日本プロレス崩壊~全日本プロレスへ合流②新日本への合流は白紙に・・・遂に崩壊へ
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2017年10月2日韓国に帰国し選手会に出席していなかった選手会長の大木金太郎が「合併話など全く聴いていない。これは会社乗っ取りを企んだ猪木を認めることに他ならない、絶対反対だ!」と会見を開いたことで両団体の合流に暗雲立ち込めた。大木は馬場と猪木とは1年先輩だったが、二人に追い越されてNo3の座に留め置かれ、また「自分こそが力道山の後継者である」ことを自負していた。また大木も馬場、猪木がいなくなったことでせっかくエースとなるも、団体の主導権を握った猪木、坂口にエースの座を取られるという危機感もあった。
大木を交えた上で再度選手会が行われるが、坂口は「大木に合流話はNETの意向である」と説明するも、合流に賛成していた選手たちは一転して反対に周り、結局合流は白紙とされてしまう。選手会は坂口、大木の2派に分裂、大木は坂口を裏切り者として非難するだけでなく、先輩である芳の里に対しても呼び捨てにして「オマエがしっかりしないから、こんなことになったんだ!」と非難する。2派とは中立に立場を貫き、芳の里をオヤジと慕い、また合流は芳の里の意向であると知っていた高千穂は激怒して日本刀を持ち出し、以前から大木に対して面白くない感情も爆発して、大木を追い掛け回す一幕もあった。
孤立した坂口は小沢正志(キラー・カーン)木村聖裔(木村健悟)大城勤、レフェリーの田中米太郎と共に日本プロレスを離脱して新日本プロレスに合流、保持していたタイトルも譲り渡すかのように明け渡し。大木に反抗した高千穂は坂口には追随せず、日本プロレスと共にする決意を固めた芳の里に追随するために日本プロレスに留まり、大ベテランの吉村道明も体力の限界で引退してしまった実質上日本プロレスの主導権を握った大木はマスコミの前でも「力道山先生伝統の日本プロレスをNETが見捨てるわけがない」と答え、坂口がいなくなっても放送は継続されると考えていたが、NETは『坂口を切るだけでなく、合流案を無視した日プロには用はない』と判断、NETも3月9日の佐賀県佐野大会の収録をもって日本プロレスの放送を打ち切り、新日本プロレスの放送を開始すると発表、坂口の離脱は日本プロレス崩壊に拍車をかける結果となったが、それでも大木は「4月以降もNETは自分達を見捨てることはない、新日本を放送しても隔週ぐらいの頻度で、ウチを放送してくれると思う」とマスコミに答え、「力道山伝統の日本プロレスをNETが見捨てるわけがない」をタカをくくっていた。しかしメインレフェリーだった沖識名も退団、芳の里も「テレビのバックアップがない以上、興行を続けていくことは無理」と撤退を表明し、営業も含めたフロントも全員辞表を提出するなど、日本プロレスの崩壊は決定的となった。
それでも大木ら選手会は選手の貯金をかき集め、最後に支払われたNETの放映権料を使って、僅か6戦の「アイアンクローシリーズ」を開催することを決意、全日本プロレスが招こうとしたフリッツ・フォン・エリックを横取りに成功し、1973年4月13日に大阪府立体育館で大木vsエリックのインターナショナルヘビー級選手権をメインにして選手会主催のビックマッチを開催するも、営業力を失い、TVも失った日本プロレスを観に来る観客は少なく4000人(実数は1000人ぐらい)と惨敗、さすがの選手会も現実に気づき存続にギブアップ、翌日に東京に戻った選手たちは解散会見を開き、力道山本家である百田家に預けられることになった。百田家に斡旋したのは芳の里で、撤退はしても残された選手たちの面倒は最後まで見るつもりだった。日本プロレスは4月20日群馬県吉井町(現在は高崎市と合併)大会を最後に活動を停止した。(続く)
(参考資料 日本プロレス事件史Vol.2 GスピリッツVol.28、ザ・グレート・カブキ自伝「東洋の神秘」)
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日本プロレス崩壊~全日本プロレスへ合流①猪木、坂口が合体!新団体設立目前も…
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2017年10月2日プロレスとは関係のない話になるが、民進党が新党である希望の党に合流となった、民進党の代表だった前原誠司氏はおそらく対等な関係と思って合流したと思う。しかしいざ合流となると新党・希望の党に主導権を奪われており、これに納得しなかった枝野幸男氏が新党・立憲民主党を設立、プロレスファンで元総理大臣だった野田佳彦氏は無所属での出馬と、一時政権与党だった民進党は三つに分裂した。政党のあり方はプロレス団体に似ているような感じもするが、思い出したのは昭和48年の日本プロレス崩壊~全日本プロレスへの吸収合併だった。
日本プロレスは昭和38年に力道山死去後も、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2大スターを要して日本テレビだけでなくNET(テレビ朝日)との二局放送もあって絶大なる人気を誇っており、競合団体だった国際プロレスに対して圧倒的な差を見せつけていた。だがその時代もいつまでも続くわけがなく、昭和46年12月にクーデター事件が起き、2大スターの一人である猪木は日本プロレスから追放されたのを契機に陰りが見え始め、翌年には日本プロレスが日本テレビとの取り決めを破り、馬場の試合をNETで放送したことで放送を打ち切り、その報復として馬場を独立させて全日本プロレスが旗揚げした。
馬場と猪木という2大スターを失った日本プロレスは一気に傾きだすも幹部達は「馬場や猪木が抜けても、坂口征二や大木金太郎がいる!」と強気な態度を取り続けていたが、これまで圧倒的な差をつけていた国際プロレスとの興行戦争に惨敗、NETの中継は継続されてはいたものの、視聴率は低迷、観客動員も落ち込み、観客よりもTV中継スタッフの方が多かった興行もこともあったという。日本プロレスは絶大なる力を失いつつ状況の中でアメリカ武者修行に出ていた高千穂明久、後のザ・グレート・カブキは芳の里の命令で凱旋帰国した。
高千穂は昭和39年に入門、体が小さかったこともあって入門僅か3ヶ月でリストラされそうになり、退職金も当時の大卒初任給の2ヶ月分を受け取ったが、芳の里から残れと言われ、退職金も返還しようとしたが、芳の里は「そのまま受け取っとけ」と言われてそのまま受け取った。高千穂明久のリングネームを与えたのも芳の里だった。デビューを果たした高千穂は芳の里ら幹部らの付き人になり、芳の里をオヤジと慕うようになった。昭和45年に念願だったアメリカ武者修行に旅立ち、各地を転戦、トップとはいかないまでも稼げるレスラーとなりアメリカ定着も考えた矢先での帰国命令だった。
日本プロレスは大木、坂口、高千穂、大ベテランの吉村道明が中心になるも、視聴率どころか観客動員も好転せず、経営も苦しくなった日本プロレスは人減らしのために中堅・若手を5~6人海外遠征に出し、事務所&合宿所&道場&倉庫のあったビルを移転、所有していた2つのビルのうち1つを売却するなど資金難に陥り始めるも、選手のギャラはNETの放映権料から辛うじて支払われていた。
そこでNETはテコ入れのために猪木に戻ってきてもらうことを決断、水面下で猪木側である新日本プロレスに接触した。日本プロレスを追われた猪木は新日本プロレスを旗揚げするも、TV中継もなく、外国人招聘ルートも弱かったこともあって旗揚げから苦戦し、巨額の赤字を抱えていたていたことから、NETからの話は猪木だけでなく新日本にとっても渡りに舟であった。NETは日本プロレスの現状に危機感を抱いていた芳の里にも声をかけ、坂口に"お前は猪木とやれ”と接触を命じた。二人はNETの仲介で極秘会談を何度も重ね、新日本と日本プロレスを発展的解消させ、日本プロレスは全選手が独立、双方が対等な形で合体して新団体「日本プロレス」を設立、猪木が持ち株60%を持つ社長、坂口が持ち株を40%を持つ副社長に就任、新団体は4月からNETで放送することで合意に達した。なぜ芳の里が猪木と坂口を引き合わせたのか?、芳の里は逼迫する日本プロレスの経営に疲れており、日本プロレスを綺麗に畳んで退陣することを決め、残った選手の面倒を猪木、坂口に見てもらおうと考えていた。早速新日本との合体案は選手会の合意を取りつけ了承を得ると、昭和48年2月に猪木と坂口が会見を開き、4月から両団体は合流することを発表した。しかしこの計画をひっくり返した者がいた、それは韓国に帰国していたため選手会の会合に参加していなかった大木金太郎だった。(続く)
(参考資料 GスピリッツVol.28、ザ・グレート・カブキ自伝「東洋の神秘」) -
大谷晋二郎の運命を決めた長州力との口論、そして解雇事件
大谷晋二郎、高岩竜一が今年でデビュー25周年を迎えた。二人がデビューした1992年は新日本プロレスにとって若手が豊作の年で、既にデビューを果たしていた山本(天山)広吉、中西学や大谷、高岩を含め、小島聡、西村修、永田裕志、石澤常光などがデビューを果たした。
翌年の1993年には「第4回ヤングライオン杯」が開催されるも、すぐ開催された「第4回トップ・オブ・ザ・スーパー・ジュニア」に大谷がライガーの推薦で抜擢され(新日本側は西村を出場させる予定だった)が、大谷は新日本ジュニアのトップ選手へと浮上、高岩は大きく出遅れたものの1996年に開催された「第3回ベスト・オブ・ザ・スーパー・ジュニア」にエントリーしてから、やっと頭角を現し、大谷とのコンビで初代IWGPジュニアタッグ王者にも就き、大谷も1997年にIWGPジュニアヘビー級王座を含めた8冠王となり、ジュニアの第一人者となった。
2000年の「第7回ベスト・オブ・ザ・スーパー・ジュニア」にもエントリーした二人は優勝決定戦に進出、大谷は1度も優勝を果たせていなかったこともあって、今年こそ優勝を果たすべく大谷は全勝でリーグ戦を突破したが、優勝決定戦に同じく進出したのは相棒の高岩だった。試合も高岩がラリアットで大谷を降し優勝、大谷はリング上では盟友の優勝を祝福するも、バックステージでは悔し涙を流していたが、大谷のスーパージュニア参戦はこの年で最後となった。
スーパージュニアも優勝を果たせず、高岩にも抜かれてしまった大谷は何もテーマを見出せないまま次期シリーズに臨むも、6月30日海老名大会の試合前に、7月の横浜アリーナ大会で長州力と対戦することが決定していた大仁田厚が電流爆破マッチ実現の嘆願書を持って現れ、フェンス内に入ろうとする大仁田に対して、長州が「またぐなよ!」と一喝する「またぐなよ!」事件が起きたが、しかしその裏でもう一つの事件が起きていた。
1998年に引退していた長州と、長州をカンバックさせようとする大仁田に面白くなかった大谷が「何が長州復帰だ!」とマスコミの前で批判、大谷にしてみれば"シリーズの盛り上げるため"のリップサービスに過ぎなかったが、自身への批判と受け止めた長州に呼び出されると口論となり、長州も「オレが復帰することがお前は面白くないんだろ!、オレはお前をここまで育てたことを後悔しているよ、お前にギャラを払うぐらいなら、分配して渡した方がいい。今すぐ帰れ!辞めろ!」と言い放って、解雇を通告してしまう。この頃の新日本プロレスはオーナーであるアントニオ猪木の現場介入で現場は混乱、大仁田起用や自身の復帰でも長州は猪木だけでなく内部からも突き上げを喰らい、神経を尖らせていた。
長州の一言でプロレスに対して醒めてしまった大谷は「わかりました、帰ります」と荷物を片付けて帰ろうとするが、この事態に取締役だった永島勝司氏、佐々木健介が会場から出る大谷を止めるも、大谷も意思は変わらない。そこでライガーが「わかった。帰れ、でも今日の試合をやってから帰れ。おまえはプロだろ、少なくともお前を観に来ているお客さんは数人いるかもしれないぞ!」とプロとしての責任を全うしてから去れと説き、大谷も引退試合のつもりで試合に臨んだ。だが試合が終わると選手らが順番で大谷が黙って帰らないように鞄を交代で見張り、大谷も選手らに引き止められる感じで強引にバスに乗せられ、金本だけでなく健介、高岩も大谷を励ました。
幸い海老名大会後に長州が巡業から離れたため、選手らに「いいじゃないか、残れ」と言われ、大谷はそのままシリーズに帯同して試合をこなしたが、シリーズ後半に長州が戻ると大谷は呼び出され控室で1vs1で話し合いとなり、控室でも"二人はまた口論になるのでは"とピリピリムードとなった、だが長州が出た言葉は「俺も言いすぎた、悪かった」だった。長州は元々シャイで不器用な性格なだけに、本来なら厳重注意で済ませるはずが、猪木との対立でイライラしていたのもあって、大谷への八つ当たりで解雇を言い放ってしまい、しばらくして頭を冷やすと『まずいことを言ってしまった』と思ってしまったのかもしれない。
頭を下げることのないと思っていた長州に頭を下げられたことで大谷も頭を下げ和解となったが、その場で長州から海外遠征武者修行に出るように通達された。海外武者修行は大谷とっても念願で契約更改の場でも何度もお願いしていたが、新日本ジュニアの看板となっていたことでなかなかGOサインが出なかった。新日本側としても大谷の頭を冷やす意味もあったが、ジュニアでも目標を失ったタイミングでの海外武者修行は大谷にとっても願ってもないことだった。話し合いが終えると大谷を心配し、万が一の事態に備え飛び込もうとしていたライガーが外で待っていた。大谷は全てを報告するとライガーは「良かった」と胸をなでおろした。
シリーズ最終戦の7月20日、北海道立総合体育センター大会で高岩がライガーの保持するIWGPジュニアヘビー級王座に挑戦して破り王座を奪取、この試合以降ライガーが王座に返り咲くことなく、大谷より出遅れていた高岩が皮肉にもライガーに引導を渡してしまった。高岩の戴冠を見届けた大谷は日本を離れ海外遠征へと旅立ち、大剛鉄之介氏の下で肉体改造に成功、ヘビー級へと転向した。
長州との口論は大谷にとってジュニアからヘビー級へと転向するきっかけとなった事件でもあるが、翌年に帰国~1シリーズのみ参戦後に新日本も高岩と共に橋本真也の設立したZERO-ONEに移籍することはさすがに長州も想定していただろうか、また大谷も一国一城の主になることも想定していただろうか・・・?まさしく長州と大谷の口論は大谷と高岩の今後の運命を決める事件でもあった。
(参考資料GスピリッツVol.39 『90年代の新日本ジュニア』金沢克彦著『元・新日本プロレス』より) -
津市体育館で起きたもう一つのミステリー 長州力失踪事件
1983年5月6日、福岡市スポーツセンターにてアントニオ猪木が念願だった「IWGP」が開幕したが、シリーズの中盤に差し掛かる16日の津市体育館で長州力がアニマル浜口と共に大会出場をボイコットし、そのまま失踪する事件が起きていた。1982年10月8日、メキシコから凱旋帰国した長州はタッグを組んでいた藤波辰己と仲間割れとなり、藤波に対して「噛ませ犬発言」をしたことで、中堅レスラーからスターダムに一気にのし上がり、打倒・藤波を掲げて抗争を展開するだけでなく、そしてマサ斎藤とキラー・カーンと組んで"革命軍"を結成、猪木と藤波率いる正規軍だけでなく、ラッシャー木村と浜口率いる"はぐれ国際軍団"ともユニット抗争も展開、、83年4月3日の蔵前国技館大会では長州は藤波をリキラリアットで破りWWFインターナショナルヘビー級王座を奪取、21日の蔵前での再戦では猪木を差し置いてメインに登場、藤波をリングアウトで破り王座を防衛し、猪木に代わって蔵前のメインを飾ったことで長州は念願だった打倒・藤波を果たすだけでなく、新日本の主役に躍り出たかに見えた。しかしそれは一時だけのもので、IWGPリーグ戦が開幕すると主役はリーグ戦に出場する猪木、ハルク・ホーガン、アンドレ・ザ・ジャイアントに代わってしまい、長州はアジア予選リーグ戦を突破していなかったためリーグ戦には出場することは出来ず、主役からも外された。
また長州の周囲でも変化が置き、革命軍で組んでいたマサ斎藤も4月シリーズを終えると主戦場であるアメリカへ戻り、カーンもIWGPが終わるとアメリカに戻ることになっていたが、国際軍団を離脱した浜口が長州に合流、革命軍も再編を余儀なくされ、ライバルの藤波は長州に連敗を喫するだけでなく『新日本で必要とされなくなった』と"傷心"の海外遠征に出てしまった。テーマを見失った長州はリーグ戦にも出場しないIWGPに参戦したが、タッグマッチでホーガンに敗れ、津大会前日の後楽園大会ではタッグマッチながらも猪木に直接フォール負けを喫し試合でも覇気を失っていた。長州は「いくら新日本で頑張っても主役は猪木、しょせんオレは藤波を倒すまでのレスラーかな」と危機感を抱いていた。そこで長州はシリーズ途中でボイコットという行動に出て、浜口も当初は「シリーズ最終戦まで出よう」と長州を説得していたが、長州に逆に口説き落とされ行動を共にした。
『長州が姿を消した』と報告を受けた猪木は、すぐ長州の投宿するホテルに電話をかけ長州本人にコンタクトをとったが、長州の口から出たのは新団体設立の話だった。実はスポンサーから「3~4億出すから」と新団体設立を持ちかけられており、長州も乗り気になっていた。さすがの猪木も動揺を隠せず「新団体を作るのはオマエの考えている以上大変なんだぞ」と引き止めにかかった。長州が藤波と仲間割れした際も、猪木は"ヘビー級へ転向しても結果を出せない藤波に対して刺激材料になり、新日本マットがまた盛り上がる"と考えていたからこそ、長州の行動を黙認していたが、長州の離脱~新団体設立まではさすがに容認することは出来なかった。だが長州は猪木の説得には応じず、新日本との連絡を一切断って雲隠れした。
雲隠れした長州は新団体設立に奔走、外国人選手もAWAを主戦場にしていた斎藤のラインで選手が派遣されることになり、TV局とも折衝し好感触を得るなど旗揚げは秒読み段階にまで漕ぎ着けていた。ところが斎藤が長州に「新団体は時期尚早ではないだろうか」と慎重論を唱え始めたことで新団体へと突っ走る長州にストップをかけた。斎藤も東京プロレス時代に社長に祭り上げられ、勝手にハンコを乱用されたことで不渡り手形を出し、銀行でもブラックリストに載せられ、銀行からの融資がままならなくなった過去があったからだった。斎藤は「打倒・猪木を果たしてから新団体を興してもいいのではないだろうか」と長州を説得。さすがの長州も斎藤の説得を聞き入れ、新団体設立を一旦凍結した。
IWGP終了後の6月17日に姿を見せた長州は新日本に辞表を提出、浜口と共にフリーとして新日本に参戦することを選択した。当初は斎藤やカーンのように日本をアメリカを行き来して外国人選手と同じ扱いにするように求めたが、新間寿氏は辞表は受け取ったものの、猪木との対戦を条件にアメリカ行きは許さず全シリーズ参戦を要求した。新日本はIWGPを成功させたものの、猪木が決勝戦でホーガンのアックスボンバーでKOされ次期シリーズは全休することになり、猪木の穴埋めするのは藤波と長州しかないと考えていた。海外に出ていた藤波は山本小鉄の説得に応じて帰国を決め、長州は浜口や斎藤とも相談し新間氏の条件を飲む代わりに、海外武者修行中の谷津嘉章を新ユニット"維新軍団"に引き入れることを条件にして、長州は新日本に留まった。
猪木を抜きの「サマーファイトシリーズ」は藤波、長州の名勝負数え歌を軸にして大盛況に終わり、猪木の抜けた穴を埋めきったが、シリーズ終了後に初代タイガーマスクの引退が引き金になってクーデター事件が起き、猪木と坂口も社長、副社長から降格され、新間氏も謹慎という形で失脚、このクーデター事件が後にUWF、ジャパンプロレスへの分裂劇に繋がっていったが、長州の新団体構想はクーデター事件の余震であり、新日本に鳴らされた非常ベルだったのかもしれない。
(参考資料 ベースボールマガジン社「移籍・引き抜き・興行戦争」)
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高山善廣が帝王への扉を開くきっかけになった川田利明のUインター参戦
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2017年9月2日
4日、怪我からのリハビリを続ける高山善廣の状況が公式に発表され、新日本プロレスを始め各団体が高山を助けるために基金を呼びかけている。高山はNOAHから退団後はプロレス各団体だけでなく、MMAにも参戦することで幅広く活躍し、いつの間にかプロレス界の"帝王"の異名を取るようになった。高山が大きくその高山が帝王としての扉を開くきっかけとなったのは、まもなく迎えることになるが1996年9月11日に行われた、UWFインターナショナルで行われた川田利明戦だった。1996年のUWFインターナショナルは前年度開催された新日本プロレスとの全面対抗戦から他団体との交流を活発化させ、新日本だけでなくWAR、バトラーツ、みちのくプロレス、大日本プロレス、東京プロレスとの交流を開始させたが、高田延彦が武藤敬司に敗れUインターの最強のイメージが崩壊、高田は再戦では武藤を破ったものの、最初の敗戦が尾を引いたことで、Uインターファンが離れてしまい、団体としては下り坂となっていた。厳しい状況のなかでUインターは8月17日、9月11日と2ヶ月に渡って神宮球場大会を開催、団体としては起死回生を狙ったが、8月17日に行われた神宮球場大会では高田vs当時ゴールデンカップスで大ブレイクした安生洋二をメインにしたものの、観客動員的には厳しい結果に終わった。失敗は許されない9月11日では高田延彦vs天龍源一郎をメイン、新日本プロレスから橋本真也、佐々木健介を借りたものの、新日本との対抗戦は既にピークを過ぎてインパクトに欠け、チケットも売れず伸び悩んでいた。そこでジャイアント馬場さんが当時の週刊プロレスの編集長だったターザン山本氏を通じてUインター取締役の鈴木健氏に接触を求めてきた。Uインターにとって全日本ははトップ外国人選手だったゲーリー・オブライトが全日本に移籍した際に「引き抜きだ!」と批判したことで敷居の高い団体だったが、その敷居の高い団体である全日本からUインターに接近してきたのだ。90年代の全日本プロレスは四天王(三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太)を中心とした四天王プロレス時代を迎え、他団体との交流はせず鎖国することで独自路線を敷いていたが、新日本がUインターとの全面対抗戦を行い、またメンバーが固定していることによるマンネリ化も懸念してことから、鎖国から開国に転じようとしていた。馬場さんがUインターに接触した理由は、三沢の相手として高田はまだまだ商品価値があるのと、Uインターは新日本と提携していたものの、新日本リードの関係にUインター側が内心不満を抱いていると情報を得ていた上で接触を求めてきたのだ。鈴木健氏は山本氏を間に入れず、一人だけで馬場さんとの交渉に臨み、Uインターのスタイルに合わさられる選手としてスティーブ・ウイリアムスか、元Uインターのオブライトをリクエストしようとしていたが、馬場さんの口から出たのは「川田か田上じゃダメか?」だった。しかし業界を知らないどころか全日本をリサーチしていなかった鈴木氏は川田と田上の価値をわかっておらず、返事を先送りにして高田に「ゲーリーもスティーブもダメだって。『川田か田上じゃダメ?』って言われちゃったよ。そんなのいらないよね?」と経過を報告すると、高田は「何言ってるの!川田がいいよ!」と叫んだ。高田の一言で川田の価値がわかった鈴木氏は全日本から川田を借りることを決意するが、頭を下げる形での返答は足元を見られると思い「馬場さん、しょうがないから川田でいいや』」と馬場さんに返事をすると、馬場さんからGOサインが出て川田の参戦が決定となった。そして川田のUWFインター参戦が発表されると、全日本は開国を宣言したとはいえ、他団体に四天王の一人である川田が派遣されるインパクトが強かったのもあって、あまり売れていなかったUインター神宮大会のチケットが一気に売れ出し、用意されていた前売り券が全て完売、鈴木氏は「あ~ホントに川田でチケットが売れるんだ」と痛感させられたという。川田を迎え撃ったのは当時ゴールデンカップスの一員として活躍していた高山が抜擢され、試合も川田が前年度にオブライトと渡り合ったことでUスタイルにも順応できることを見せつけ、高山のキックやジャーマンも全て受けきった川田はジャンピングハイキックで勝利となったが、この試合で敗れたものの高山の評価は一気に上がり、高山がプロレス界の帝王への扉を開くきっかけになった。しかし神宮大会が成功に終わってもUインターの経営は好転せず打ち上げ花火に終わり、12月27日に団体は解散。Uインターはキングダムへ移行するも、高山は垣原賢人と共に全日本を主戦場にするが、馬場さんの王道哲学を学んだ高山はプロレス界の帝王の座を駆け昇っていった。(参考資料「俺たちのプロレス vol.4」より) -
閉館する津市体育館の最大のミステリー…前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアント
1986年4月29日三重県津市体育館で前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアントの一戦が行われた。
当時の前田は1984年3月に新日本プロレスを離脱し旧UWFに移籍、後に佐山聡や藤原喜明、木戸修、高田延彦、山崎一夫も旧UWFに移籍し、従来のプロレスとは一線を画し「格闘プロレス」でカルト的な人気を呼ぶも、経営に行き詰まり活動を停止、前田は対立した佐山を除いた選手らと共に1985年12月に業務提携という形で長州力ら維新軍団の大量離脱で日本人選手不足となっていた新日本プロレスにUターンするも、前田らが出戻りだったことでの残留組との感情的な対立、スタイル的な違いもあり、また2月に藤原喜明を破ったアントニオ猪木に対して前田がキックを浴びせ「猪木だったら何をしてもいいのか!」と猪木批判したことで、新日本とUWFの間に確執が生まれていた。
一方アンドレは全米侵攻を始めたWWF(WWE)を主戦場にしており、新日本とWWFの関係は1985年に解消されていたが、アンドレは新日本に参戦を続け、マシン軍団を解散していた若松市政をマネージャーにして、マスクを被ってジャイアント・マシーンに変身することがあったが、急増した体重を起因とする膝や腰の痛みに悩まされ始めたこともあり、レスラーとしてはピークが過ぎつつあった。
アンドレは4月11日から開幕する「ビッグファイターシリーズ」に気心が知れているディック・マードック、マスクド・スーパースターと共に参戦、アンドレは5月1日に行われる両国国技館での最終戦ではマネージャーだった若松と組み猪木&上田馬之介との試合が組まれ、前田はUWF軍と共に藤波辰己を中心とする新日本軍との5vs5シングル勝ち抜き戦が組まれていた、その両国大会2日前の津大会に前田vsアンドレがマッチメークされたが、カードが決まったのは大会の2日前でTV中継も入り、プロモーターの要請もあって組まれた試合だった。
カードが組まれたときは前田も1983年の第1回IWGPでアンドレと対戦していたこともあって、自分がどれだけ成長したかを知るのに格好のチャンスでもあり、外国人選手からクレームがあったキックを正面から受け止めてくれたアンドレに対して前田も絶大な信頼を寄せていた。だが大会当日になると、メインレフェリーだったミスター高橋から「気をつけろよ。アンドレが今日、お前をつぶすって言ってるぞ」と忠告を受け、レフェリーも新日本のレフェリーではなく、アンドレの個人マネージャーであるフレンチ・バーナードが裁くことを告げる。しかし前田はプロレスの試合でそんなことをするわけがなく、またアンドレに対する信頼もあって仕掛けてくるわけがないと楽観していた。
そして試合となったが序盤は膠着から始まり、前田がグラウンド狙いにタックルを仕掛けるが、タックルを潰したアンドレが圧し掛かり、目潰しやチョークで攻める。いつものアンドレと違うと感じた前田は試合の軌道修正を狙ってショルダータックルを狙うが、アンドレはセオリー通りにタックルで返さずナックルを浴びせ、フルネルソンで捕らえたアンドレは全圧力をかけて絞り上げ、身体の柔軟性に定評があった前田は何とかロープに逃れるがフレンチは前田のロープブレイクを認めない。
そこでセコンドの藤原がアンドレが仕掛けてきたと察知して「構わねえ、殺せ!」と激を飛ばす、前田も本来なら試合の軌道修正を図らなければいけないレフェリーが軌道を修正せず、アンドレのであるセコンドの若松も叫ぶだけ、猪木を始めとする日本人選手だけでなくや外国人選手らも試合を眺めているにもかかわらず、乱入して試合を壊そうとしない状況を見て、罠にハメられたと察知する。やっと逃れた前田はタックルからアンドレの上を奪い腕十字を狙うが、リーチの長いアンドレの腕を極めることは出来ず、アンドレはノド輪で逃れ、スタンディングになって前田がドロップキックを放つも、アンドレは払い落とす。膠着してから前田は片足タックルからのアキレス腱固めで捕獲、アンドレは一旦ロープに逃れるが、前田は再び片足タックルからアキレス腱固めで捕らえるとヒールホールドへ移行、ヒールホールドで膝に大ダメージを負ったアンドレは蹴って逃れようとするが前田は逃さない。
アンドレがロープブレークに逃れ、セコンドの若松が「前田逃げるな!」と叫ぶ中で両者は膠着、館内も一旦は沸くも再び静まり返る。前田が巧みに距離を取りながら、アンドレの足の外と内側にローキックを放っていく、アンドレは腕を大きく開いて構えるも足を引きずり出す。そこで猪木がやっとリングサイドに現れるが、完全に足に来ていたアンドレはロープにもたれかかる。猪木はリングに上がって臨戦態勢を取るが、フレンチは猪木に下がるように命じて猪木は一旦リングから降りる。前田は膝だけでなく腿にもローキックを浴びせていくが、館内は試合が単調になったことで罵声が飛び交いだすも、前田は膝だけでなく腿にもローキックを放ち、膝への関節蹴りも放っていく。アンドレは若松に声をかけるが手を大きく広げるだけ、藤原喜明からの指示を受けた前田はアンドレを何度も倒して足関節を奪うもアンドレはロープに逃れ、起き上がろうとしない、そこで猪木がリングインするとUWF勢もリングに上がって睨み合いとなったところで試合終了のゴングが鳴り藤波も駆けつける。釈然としない前田に猪木が駆け寄って再試合を支持するが、結局ゴングは鳴らされず無効試合となった。試合後に猪木や現場責任者である坂口征二に詰め寄るも「これはどういうことですか」。しかし猪木と坂口は「自分は知らなかった」と口を濁すだけ、真相は闇から闇へと葬られ、テレビの録画からもカットされたが、真相が闇に葬られたことで前田の評判を高める結果となっていった。
前田vsアンドレの真相はいろんな説が出て、前田は坂口の仕業と疑り、坂口は全面否定するなど、未だ真相は明らかになっていない。ただ気になることはあるとすればアンドレがなぜ前田に対して仕掛ける気になったのか?アンドレの死去の前年である1992年10月にプライベートを明かさなかったアンドレが日本のマスコミにプライベートを公開、アンドレの自宅を訪問した井上譲二氏はアンドレの同居人で当時のレフェリーだったフレンチに試合の核心部分に触れ、フレンチは「アンドレ自身の意志」「本気でマエダをつぶす気はなかった。自分の強さだけをアピールしようとするマエダをちょっとこらしめただけ」と答えていたという。そして前田vsアンドレ戦が行われた同じ年の11月に前田との一騎打ちが組まれていたブルーザー・ブロディは「シュートを売りにしているヤツなんだって、それだったらオレが本当のシュートってヤツを教えてやろうか」と答えていた。結局ブロディは来日せず新日本から追放されたことで前田戦は幻となったが、アンドレも前田に「オレが本当のシュートってヤツを教えてやろうか?」と考えていたのだろうか…これもアンドレが亡くなったことで永遠の謎となった
そして2017年9月、大きなミステリーを呼んだ前田vsアンドレが行われた津市体育館も閉館になることで幕を閉じようとしている…
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三沢光晴の運命を決めた2代目タイガーマスク誕生秘話
1984年7月31日、全日本プロレス蔵前国技館のリングで当時日本テレビのアナウンサーだった徳光和夫氏の呼びかけでタイガーマスクが登場、全日本プロレスのリングに参戦することが発表されたが、自分は眼の感じからいって初代タイガーマスクの佐山聡の眼でなく、三沢光晴であることを察知、館内からも"三沢"の声が飛び交っていた。
この年の2月に新間寿氏がUWF設立かで新日本プロレスが揺れ動くなかで、初代タイガーマスクのマネージャーだったショウジ・コンチャ氏が当時全日本の会長となっていたジャイアント馬場さんと日本テレビから出向していた松根光雄に、初代タイガーマスクの復帰意を全日本に打診してきたのだ。初代タイガーは前年度に起きた新日本のクーデター事件で引退とされており、馬場さんも「新日本との関係は大丈夫なのか?」と返したが、コンチャ氏は「引退はしておらず新日本との契約は解除しており、現在はフリーだ」として新日本との関係はクリアしているとして、契約金などの金銭的な話を積極的にしてきた。だが馬場さんは即座に返答しなかった、理由は馬場さんはコンチャ氏は信用出来る人間なのか?新日本との関係はクリアされているのか?コンチャの言うことは鵜呑みに出来ないとして慎重に調査する必要があったからだった。馬場さんの読みが当たったのか、佐山の知らないところでコンチャ氏が全日本に接触したことがわかると、佐山は怒りコンチャ氏とは距離を取り始め、コンチャ氏のラインで初代タイガーの全日本参戦は消えてしまった。佐山はUWFのリングでスーパー・タイガーとして再デビューを果たす。
話が遡って1983年11月に新日本クーデター事件に加担していた営業部長の大塚直樹氏は辞表を提出していたが、アントニオ猪木から引き止められ、猪木が休眠会社だった新日本プロレス興行を譲り受け、新日本の興行を手がけていた。しかし設立パーティーに猪木が出席しなかったことで大塚氏が猪木を不信感を抱くようになり、また幹部らからも「裏切り者なのに、アイツらだけ美味しい汁を吸っている」と陰口や批判を受け始めたことで、新日本との亀裂が生じ始めていた。その情報を耳にした1984年5月に馬場さんが大塚氏に全日本の興行を手がけないかと打診、新日本に愛想を尽かしていた大塚氏も馬場さんと会談、オファーを受ける形で新日本興行で押さえていた8・26田園コロシアム大会を全日本で行うことになった。田園コロシアム大会は新日本の興行を開催するために押さえていたが、新日本が開催しないことを新日本興行に通達していた。
大塚氏は新日本の幹部達に全日本の興行を手がけることを報告すると、大慌てした新日本側がは大塚氏ら新日本興行側に好条件を提示し全日本の興行をやめるように求めるが、大塚氏の気持ちは新日本から離れており、馬場さんからも「大塚さん、関係ないよ。もうやろうよ」と後押しを受けて、全日本と新日本興行の提携会見を開いた。提携の話し合いを進めていたところで馬場さんはコンチャ氏から初代タイガーマスクの売り込みがあったことを明かすと、大塚氏は「全日本で2代目タイガーマスクを作っちゃえばいいじゃないですか?」と提案、馬場さんも乗り気になり、大塚氏はタイガーマスクの原作者である梶原一騎にコンタクトを取り了承を得て、2代目タイガーマスク計画が動き出した。当初の候補は梶原一騎が『2人のタイガーマスクを誕生させてくれ』と条件を出していたことで、推薦する士道館の若手空手家が一人の候補され、もう一人の候補は馬場さんはメキシコへ武者修行に出ていた三沢をピックアップしていた。三沢は越中詩郎と共にこの年の春に武者修行に出たばかりだった。馬場さんから「コーナーポストに飛び乗れるか」と聴かれると三沢は「出来ます」と答えたことで日本から出て僅か数ヶ月で帰国を命じられた。帰国が決まった三沢は先輩である越中より先に帰国することの心苦しい思いをしたという。
2代目タイガーは2人の候補に絞られ、最悪2人のタイガーをデビューさせる案もあった。2人タイガーは、現在の新日本プロレスで4代目タイガーマスクとタイガーマスクWとのタッグが実現していたが、今思えば梶原の案が現在になって実現していたことになる。話は戻るが梶原の推薦していた空手家は全日本の道場にも通い、巡業にも帯同していたが、最終的に断念し2代目タイガーマスクは三沢一人に絞られた。新日本興行が全日本プロレスの興行を手かげた8・26田園コロシアム大会が開催されたが、2日前に新日本側から「全日本との業務提携を破棄しなければ、一切の新日本との契約を9月末をもって破棄する」と通告を受けた中での開催だった。2代目タイガーマスクは手の合う相手として選ばれたラ・フィエラ相手にデビュー戦を行い、"三沢"という野次が飛び交うもノータッチトペコンを披露するなど、ファンのド肝を抜き、最後はタイガースープレックス84でデビュー戦を勝利を収め、ヘビー級でも昨年夏に引退していたテリー・ファンクがスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ組の手を出したことで復帰を宣言するなど新しい流れが生まれていた。その翌日に大塚氏が会見を開き、新日本に対して絶縁を宣言、全日本と組んで新日本潰しに出ることを表明、その第1弾として選手の引き抜きを明言、その後長州力率いる維新軍団、永源遥ら若手中堅勢などが引き抜かれたのは別の話である。
2代目タイガーマスクはこれからマット界に起きる激震前夜にデビューを果たしたわけだが、2代目タイガーとなる三沢光晴がプロレス界の担うトップレスラーになっていくことは誰が予想出来ていただろうか…?2代目タイガーマスク誕生はまさしく三沢の運命を決めた出来事だったのかもしれない。
(参考資料=ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.22「夏の変事」) -
日本人で最初にWWF王者になったのはアントニオ猪木だった
8月20日にアメリカ・ニューヨークで開催される「サマースラム」にて中邑真輔がジンダー・マハルの保持するWWE王座に挑戦することになり、中邑に王座奪取の期待が高まっている。
ご存知のファンもいるだろうが日本人でWWEの前身であるWWFヘビー級王座を唯一巻いているのはアントニオ猪木だけだ。
新日本プロレスは1974年からニューヨークに本拠を持っていたWWWFと業務提携を結び、アンドレ・ザ・ジャイアントなどWWWF系の選手が来日するようになり、タイガー・ジェット・シン頼みだった外国人供給ルートが強化されたが、WWWF王者であるブルーノ・サンマルチノだけは親友であるジャイアント馬場の全日本プロレスへの参戦を優先していたため新日本には来日せず、当時のWWWFのボスであるビンス・マクマホン・シニアもサンマルチノが一番集客力のあったレスラーだったこともあって、サンマルチノの意向を優先せざる得なかった。
提携を結びながらWWWF王者を派遣できない状況が続いたが、1977年にサンマルチノが"スーパースター""ビリー・グラハムに王座を明け渡し、長期政権に終止符を打つと、WWWFは王者となったグラハムを1978年2月に新日本に参戦させ、猪木は上田馬之助と釘板マッチでの一騎打ちが決まっていたこともあって挑戦せず、坂口征二がグラハムに挑戦したが、リングアウトで敗れ王座奪取はならなかった。
グラハムが帰国して、しばらくすると王者はグラハムからボブ・バックランドに代わり、新王者となったバックランドはすぐ新日本に送り込まれ、6月1日日本武道館で猪木がNWF王座をかけてWWF王座とのダブルタイトル戦を実現させるも、3本勝負の1本目は猪木がリングアウトで先取したが、2本目はフルタイムのドローに終わり2-1で猪木が勝利も王座は奪取できず、1ヶ月後同じ武道館で猪木がWWF王座に挑戦する形で再戦が行われたが、互いに1本を取り合うも時間切れ引き分けとなり、その後大阪でも再戦が行われたが王座を奪取することが出来なかった。
1979年11月30日の徳島で猪木はバックランドを破り念願だったWWF王座を奪取したが、12月6日に蔵前で行われた再戦ではタイガー・ジェット・シンの乱入もあって無効試合となり、猪木は裁定に納得いかず王座を返上、ニューヨークMSGで猪木とバックランドによる王座決定戦が行われると思われていたが、王者決定戦でバックランドの相手になったのは猪木ではなくボビー・ダンカンで、バックランドはダンカンを破り王座を奪還、その後猪木は3度に渡ってバックランドに挑み王座奪取はならなかったが、この頃には猪木もIWGP構想を掲げていたこともあって、WWF王座奪還には本腰を入れる気はなく、新日本も猪木がバックランドには1度も負けなかったことから、WWF王者より猪木の方が上だと示すことが出来たことで満足だったのかもしれない。
WWF王者狙いはヘビー級へ転向したばかりの藤波辰己に譲り、猪木はIWGP構想に戦いの軸を置くが、WWFはビンスシニアから現在のビンス・マクマホンに代替わりすると、これまで格安で選手をブッキングしていた新日本との関係を見直し始め、1985年に提携関係は解消、WWFも団体名をWWEに改め、猪木の戴冠も日本で王座が移動されたのもあって、アメリカのファンには説明されず、現在のWWEでは猪木の戴冠は公式には記録されなかった。猪木は2010年にWWE殿堂入りを果たしたが、現在でも猪木の戴冠は公式には記録されていない。
そして猪木が戴冠してから17年後に猪木が育てた中邑がサマースラムの大舞台でWWE王座に挑戦する。果たして2人目のWWE王者となるのか・・・
(参考資料 ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.16『王者の宿命』) -
脇役キラー・トーア・カマタの大金星…馬場を破りPWF王座を奪取
全日本プロレスで流血大王の異名で活躍したキラー・トーア・カマタが亡くなって今年で10年目となる。
カマタは最初の来日は1975年の国際プロレスでラッシャー木村の保持するIWA世界ヘビー級王座に挑戦、金網デスマッチでも対戦するなど大活躍した。
1978年に全日本プロレスに円満移籍、6月1日の秋田でジャイアント馬場さんの保持するPWFヘビー級王座への挑戦した。当時の馬場さんはPWF王座を38度に渡って防衛するなど長期政権を築いていたが、持病の坐骨神経痛もあって前年度の10月以降は防衛戦を避けていた。
しかし防衛期限である6ヶ月がまもなく過ぎ、防衛戦が出来なかったら王座剥奪となるため、馬場さんは仕方なく防衛戦を行うことになり、挑戦者にカマタを指名。馬場さんがカマタを指名した理由はビル・ロビンソンとの防衛戦も控えているのもあり、ロビンソン戦へ向けての試運転と、カマタだったら勝てるだろうという判断があったからだった。
試合はカマタの鉄階段攻撃やコーナーからのボディープレスを喰らった馬場さんは腰にダメージを負い、再度の場外戦もカマタが馬場さんの腰を何度も殴りつける。これに馬場さんが怒り放送用の放送用のマイクケーブルで首を絞め、エプロンで何度もカマタをチョップで乱打するなど暴走、冷静さを失った馬場さんをジョー樋口レフェリーが制止に入ったが、馬場さんは無視したため、試合終了のゴングが鳴って馬場さんの反則負けとなり、PWFルールで王座転落、格下と思っていたカマタ相手に自らの暴走で長期政権に終止符を打ってしまった。
しかしカマタは12日の愛知県一宮大会でロビンソン相手に初防衛戦を行うも、ワンハンドバックブリーカーの前に敗れ王座転落で短期政権に終わり、その後PWF王座はロビンソンからアブドーラ・ザ・ブッチャーを経て再び馬場さんの手に戻った。
その後カマタはベルトを奪還した馬場さん2度に渡って挑戦したが全て返り討ちとなって、カマタは2度と王座に返り咲くことはなく、次第にスタン・ハンセンやブルーザー・ブロディの台頭もあってベルト戦線に浮上することはなかった。
カマタは全日本ではブッチャーのパートナーを務めるなど脇役として扱われたが、カマタの金星は脇役が僅かながらも輝いた瞬間だったかもしれない。
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なぜブルーザー・ブロディは新日本プロレスに移籍したのか?
ブルーザー・ブロディが死去して29年目、来年はいよいよ30年目を迎える。
ブロディがプロモーターと揉めるトラブルメーカーだったというのは、ご存知方のファンが多いと思うが、そのブロディがどうしても逆らうことが出来ないプロモーターだったのはテキサス州ダラスのプロモーターだったフリッツ・フォン・エリックと全日本プロレスのジャイアント馬場だった。しかしブロディは1985年3月に全日本を裏切って新日本プロレスへ移籍した。
ブロディは1987年に全日本プロレスへ復帰する際に、全日本プロレスの所属だったザ・グレート・カブキに「ブッチャーに騙されたんだ」と新日本移籍の手引きをしたのはアブドーラ・ザ・ブッチャーで、ブッチャーに騙されていたとカブキに弁解していたが、最近になって新日本移籍を手引きしたのはエリックだったことが明らかになった。
1985年の新日本プロレスはWWF(WWE)との提携関係は継続していたが、莫大なブッキング料をせしめられるだけでなく、これまで新日本の常連だったハルク・ホーガンなどの大物が頻繁に参戦できなくなるなど、新日本にとって不利な条件を飲まされていた。WWFに頼らず独自の外国人エースを欲した新日本はNWAから脱退したばかりだったエリックのプロモーションであるWCCWに目を付け業務提携を結んだ。
ブロディは基本的にアメリカでは一地区に定着せず、渡り鳥のように各テリトリーを渡り歩いていたが、WWFの全米侵攻によりテリトリー制度が崩壊、活躍する場が少なくなったブロディは古巣であるダラスのWCCWやAWAなどアメリカでの主戦場にせざる得なかった。NWAとも切れたことで全日本プロレスとの縁が切れたエリックはブロディに業務提携の第1弾として新日本に参戦するように指示、だが全日本に愛着も感じていたブロディもさすがに戸惑いを隠せなかった。
ブロディは2月から開幕する「激闘!エキサイトウォーズ」に参戦、エリックからは「馬場に気づかれないように、シリーズ中は平静を装うこと、新日本への移籍はセンセーショナルなものにすること」と指示されていたが、ブロディ自身はまだ新日本との契約は結んでいなかったのもあって移籍することにまだ躊躇しており、馬場さんからのギャラアップを含めた引き止めを待っていたが、実は馬場さんも前年末からエリックが新日本に接近しブロディが新日本に移籍することを察知しており、ブロディはハンセンや長州ほど集客力がなかったこともあって、引き止めるつもりもなかった。つまり馬場さんの中ではブロディの離脱は想定内だったのだ。
馬場さんからの引き止めもなかったブロディは最終戦である3月14日の愛知県体育館大会で怒りが爆発、ブロディはラッシャー木村、鶴見五郎の国際血盟団と組んで馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎組と対戦したが、試合途中でバックステージに下がって試合を放棄してしまい、一旦アメリカへ戻った後で、1週間後の新日本プロレスの後楽園大会にベートーベンの「運命」と共にブロディが現れ、アントニオ猪木に対して対戦を要求した。このときの馬場さんはブロディの離脱は想定内と考えていたことから慌てず平静を保っていた。
新日本プロレスマットでは移籍時のインパクトや猪木との激闘でブロディの商品価値が上がったかに見えたが、この時期の新日本プロレスは長州ら大量離脱の影響もまだ残っており、思ったより集客に繋がらなかった。このことが一因にもなったのか新日本とブロディの間で亀裂が生じ、遂にIWGPタッグリーグ戦最終戦をドタキャンという形でトラブルを起こし、新日本から永久追放され、ブロディがIWGPタッグリーグ戦のギャラが未払いだったこともあって、新日本とは一時的に和解して再び参戦したものの、'86ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦への出場を来日直前でドタキャンしたことで、新日本は再びブロディを永久追放を宣言、この時期には新日本と全日本の間に引き抜き防止協定が結ばれ、ブロディも防止協定のリストに入っていたこともあって、ブロディは日本マットから締め出されてしまった。
ブロディはアメリカやプエルトリコなどを主戦場にせざる得なくなったが、ダラスのWCCWもゲスト参戦していたAWAも観客動員が低迷、WWFの全米侵攻の影響でテリトリー制も崩壊し、ブロディのようなフリーランスで活躍できる場も少なくなっていた。またWWFやジム・クロケットの一プロモーションと化していたNWAからもブロディはトラブルメーカーとして敬遠され、またブロディ自身も自身のスタイルをいじられるのを嫌って敬遠していた。そこでブロディは生活や自身のスタイルを壊されないためにエリックやカブキを通じて全日本との和解を選択、一度裏切った馬場さんに頭を下げることはブロディにとっても最大の妥協だった。
馬場さんに頭を下げたブロディは1987年にNWA世界ヘビー級王者だったリック・フレアーのドタキャンで代役という形で全日本マットに突如登場、新日本もブロディを2度と呼ぶつもりもなかったため防止協定のリストから外し事を荒立てることもなく、円満という形で全日本マットに戻ることが出来た。全日本に復帰したブロディは新日本へ移籍前のトゲトゲしさがなくなり、扱いやすくなっていたという。
しかしこの時期にはブロディも引退を考え始め、幼児の育成施設の経営の準備をしていたという。ブロディが引退を考え始めたのは、フリーランスながらも一個人で客を呼べる時代ではなくなり、WWFのような団体のブランドで客呼ぶ時代になったことで、ブロディ自身が「もう自分の時代ではない」と見切りをつけ始めたからなのだろうか・・・
<参考資料 GスピリッツVol.18 「特集ブルーザー・ブロディ」、日本プロレス事件史「反逆・決起の時」