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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

なぜブルーザー・ブロディは新日本プロレスに移籍したのか?

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なぜブルーザー・ブロディは新日本プロレスに移籍したのか?

ブルーザー・ブロディが死去して29年目、来年はいよいよ30年目を迎える。

ブロディがプロモーターと揉めるトラブルメーカーだったというのは、ご存知方のファンが多いと思うが、そのブロディがどうしても逆らうことが出来ないプロモーターだったのはテキサス州ダラスのプロモーターだったフリッツ・フォン・エリックと全日本プロレスのジャイアント馬場だった。しかしブロディは1985年3月に全日本を裏切って新日本プロレスへ移籍した。

ブロディは1987年に全日本プロレスへ復帰する際に、全日本プロレスの所属だったザ・グレート・カブキに「ブッチャーに騙されたんだ」と新日本移籍の手引きをしたのはアブドーラ・ザ・ブッチャーで、ブッチャーに騙されていたとカブキに弁解していたが、最近になって新日本移籍を手引きしたのはエリックだったことが明らかになった。

1985年の新日本プロレスはWWF(WWE)との提携関係は継続していたが、莫大なブッキング料をせしめられるだけでなく、これまで新日本の常連だったハルク・ホーガンなどの大物が頻繁に参戦できなくなるなど、新日本にとって不利な条件を飲まされていた。WWFに頼らず独自の外国人エースを欲した新日本はNWAから脱退したばかりだったエリックのプロモーションであるWCCWに目を付け業務提携を結んだ。

ブロディは基本的にアメリカでは一地区に定着せず、渡り鳥のように各テリトリーを渡り歩いていたが、WWFの全米侵攻によりテリトリー制度が崩壊、活躍する場が少なくなったブロディは古巣であるダラスのWCCWやAWAなどアメリカでの主戦場にせざる得なかった。NWAとも切れたことで全日本プロレスとの縁が切れたエリックはブロディに業務提携の第1弾として新日本に参戦するように指示、だが全日本に愛着も感じていたブロディもさすがに戸惑いを隠せなかった。

ブロディは2月から開幕する「激闘!エキサイトウォーズ」に参戦、エリックからは「馬場に気づかれないように、シリーズ中は平静を装うこと、新日本への移籍はセンセーショナルなものにすること」と指示されていたが、ブロディ自身はまだ新日本との契約は結んでいなかったのもあって移籍することにまだ躊躇しており、馬場さんからのギャラアップを含めた引き止めを待っていたが、実は馬場さんも前年末からエリックが新日本に接近しブロディが新日本に移籍することを察知しており、ブロディはハンセンや長州ほど集客力がなかったこともあって、引き止めるつもりもなかった。つまり馬場さんの中ではブロディの離脱は想定内だったのだ。

馬場さんからの引き止めもなかったブロディは最終戦である3月14日の愛知県体育館大会で怒りが爆発、ブロディはラッシャー木村、鶴見五郎の国際血盟団と組んで馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎組と対戦したが、試合途中でバックステージに下がって試合を放棄してしまい、一旦アメリカへ戻った後で、1週間後の新日本プロレスの後楽園大会にベートーベンの「運命」と共にブロディが現れ、アントニオ猪木に対して対戦を要求した。このときの馬場さんはブロディの離脱は想定内と考えていたことから慌てず平静を保っていた。

新日本プロレスマットでは移籍時のインパクトや猪木との激闘でブロディの商品価値が上がったかに見えたが、この時期の新日本プロレスは長州ら大量離脱の影響もまだ残っており、思ったより集客に繋がらなかった。このことが一因にもなったのか新日本とブロディの間で亀裂が生じ、遂にIWGPタッグリーグ戦最終戦をドタキャンという形でトラブルを起こし、新日本から永久追放され、ブロディがIWGPタッグリーグ戦のギャラが未払いだったこともあって、新日本とは一時的に和解して再び参戦したものの、'86ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦への出場を来日直前でドタキャンしたことで、新日本は再びブロディを永久追放を宣言、この時期には新日本と全日本の間に引き抜き防止協定が結ばれ、ブロディも防止協定のリストに入っていたこともあって、ブロディは日本マットから締め出されてしまった。

ブロディはアメリカやプエルトリコなどを主戦場にせざる得なくなったが、ダラスのWCCWもゲスト参戦していたAWAも観客動員が低迷、WWFの全米侵攻の影響でテリトリー制も崩壊し、ブロディのようなフリーランスで活躍できる場も少なくなっていた。またWWFやジム・クロケットの一プロモーションと化していたNWAからもブロディはトラブルメーカーとして敬遠され、またブロディ自身も自身のスタイルをいじられるのを嫌って敬遠していた。そこでブロディは生活や自身のスタイルを壊されないためにエリックやカブキを通じて全日本との和解を選択、一度裏切った馬場さんに頭を下げることはブロディにとっても最大の妥協だった。

馬場さんに頭を下げたブロディは1987年にNWA世界ヘビー級王者だったリック・フレアーのドタキャンで代役という形で全日本マットに突如登場、新日本もブロディを2度と呼ぶつもりもなかったため防止協定のリストから外し事を荒立てることもなく、円満という形で全日本マットに戻ることが出来た。全日本に復帰したブロディは新日本へ移籍前のトゲトゲしさがなくなり、扱いやすくなっていたという。

しかしこの時期にはブロディも引退を考え始め、幼児の育成施設の経営の準備をしていたという。ブロディが引退を考え始めたのは、フリーランスながらも一個人で客を呼べる時代ではなくなり、WWFのような団体のブランドで客呼ぶ時代になったことで、ブロディ自身が「もう自分の時代ではない」と見切りをつけ始めたからなのだろうか・・・
<参考資料 GスピリッツVol.18 「特集ブルーザー・ブロディ」、日本プロレス事件史「反逆・決起の時」

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