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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

大谷晋二郎の運命を決めた長州力との口論、そして解雇事件

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大谷晋二郎の運命を決めた長州力との口論、そして解雇事件

 大谷晋二郎、高岩竜一が今年でデビュー25周年を迎えた。二人がデビューした1992年は新日本プロレスにとって若手が豊作の年で、既にデビューを果たしていた山本(天山)広吉、中西学や大谷、高岩を含め、小島聡、西村修、永田裕志、石澤常光などがデビューを果たした。


 翌年の1993年には「第4回ヤングライオン杯」が開催されるも、すぐ開催された「第4回トップ・オブ・ザ・スーパー・ジュニア」に大谷がライガーの推薦で抜擢され(新日本側は西村を出場させる予定だった)が、大谷は新日本ジュニアのトップ選手へと浮上、高岩は大きく出遅れたものの1996年に開催された「第3回ベスト・オブ・ザ・スーパー・ジュニア」にエントリーしてから、やっと頭角を現し、大谷とのコンビで初代IWGPジュニアタッグ王者にも就き、大谷も1997年にIWGPジュニアヘビー級王座を含めた8冠王となり、ジュニアの第一人者となった。


 2000年の「第7回ベスト・オブ・ザ・スーパー・ジュニア」にもエントリーした二人は優勝決定戦に進出、大谷は1度も優勝を果たせていなかったこともあって、今年こそ優勝を果たすべく大谷は全勝でリーグ戦を突破したが、優勝決定戦に同じく進出したのは相棒の高岩だった。試合も高岩がラリアットで大谷を降し優勝、大谷はリング上では盟友の優勝を祝福するも、バックステージでは悔し涙を流していたが、大谷のスーパージュニア参戦はこの年で最後となった。


 スーパージュニアも優勝を果たせず、高岩にも抜かれてしまった大谷は何もテーマを見出せないまま次期シリーズに臨むも、6月30日海老名大会の試合前に、7月の横浜アリーナ大会で長州力と対戦することが決定していた大仁田厚が電流爆破マッチ実現の嘆願書を持って現れ、フェンス内に入ろうとする大仁田に対して、長州が「またぐなよ!」と一喝する「またぐなよ!」事件が起きたが、しかしその裏でもう一つの事件が起きていた。


 1998年に引退していた長州と、長州をカンバックさせようとする大仁田に面白くなかった大谷が「何が長州復帰だ!」とマスコミの前で批判、大谷にしてみれば"シリーズの盛り上げるため"のリップサービスに過ぎなかったが、自身への批判と受け止めた長州に呼び出されると口論となり、長州も「オレが復帰することがお前は面白くないんだろ!、オレはお前をここまで育てたことを後悔しているよ、お前にギャラを払うぐらいなら、分配して渡した方がいい。今すぐ帰れ!辞めろ!」と言い放って、解雇を通告してしまう。この頃の新日本プロレスはオーナーであるアントニオ猪木の現場介入で現場は混乱、大仁田起用や自身の復帰でも長州は猪木だけでなく内部からも突き上げを喰らい、神経を尖らせていた。


 長州の一言でプロレスに対して醒めてしまった大谷は「わかりました、帰ります」と荷物を片付けて帰ろうとするが、この事態に取締役だった永島勝司氏、佐々木健介が会場から出る大谷を止めるも、大谷も意思は変わらない。そこでライガーが「わかった。帰れ、でも今日の試合をやってから帰れ。おまえはプロだろ、少なくともお前を観に来ているお客さんは数人いるかもしれないぞ!」とプロとしての責任を全うしてから去れと説き、大谷も引退試合のつもりで試合に臨んだ。だが試合が終わると選手らが順番で大谷が黙って帰らないように鞄を交代で見張り、大谷も選手らに引き止められる感じで強引にバスに乗せられ、金本だけでなく健介、高岩も大谷を励ました。 


 幸い海老名大会後に長州が巡業から離れたため、選手らに「いいじゃないか、残れ」と言われ、大谷はそのままシリーズに帯同して試合をこなしたが、シリーズ後半に長州が戻ると大谷は呼び出され控室で1vs1で話し合いとなり、控室でも"二人はまた口論になるのでは"とピリピリムードとなった、だが長州が出た言葉は「俺も言いすぎた、悪かった」だった。長州は元々シャイで不器用な性格なだけに、本来なら厳重注意で済ませるはずが、猪木との対立でイライラしていたのもあって、大谷への八つ当たりで解雇を言い放ってしまい、しばらくして頭を冷やすと『まずいことを言ってしまった』と思ってしまったのかもしれない。


 頭を下げることのないと思っていた長州に頭を下げられたことで大谷も頭を下げ和解となったが、その場で長州から海外遠征武者修行に出るように通達された。海外武者修行は大谷とっても念願で契約更改の場でも何度もお願いしていたが、新日本ジュニアの看板となっていたことでなかなかGOサインが出なかった。新日本側としても大谷の頭を冷やす意味もあったが、ジュニアでも目標を失ったタイミングでの海外武者修行は大谷にとっても願ってもないことだった。話し合いが終えると大谷を心配し、万が一の事態に備え飛び込もうとしていたライガーが外で待っていた。大谷は全てを報告するとライガーは「良かった」と胸をなでおろした。


 シリーズ最終戦の7月20日、北海道立総合体育センター大会で高岩がライガーの保持するIWGPジュニアヘビー級王座に挑戦して破り王座を奪取、この試合以降ライガーが王座に返り咲くことなく、大谷より出遅れていた高岩が皮肉にもライガーに引導を渡してしまった。高岩の戴冠を見届けた大谷は日本を離れ海外遠征へと旅立ち、大剛鉄之介氏の下で肉体改造に成功、ヘビー級へと転向した。


 長州との口論は大谷にとってジュニアからヘビー級へと転向するきっかけとなった事件でもあるが、翌年に帰国~1シリーズのみ参戦後に新日本も高岩と共に橋本真也の設立したZERO-ONEに移籍することはさすがに長州も想定していただろうか、また大谷も一国一城の主になることも想定していただろうか・・・?まさしく長州と大谷の口論は大谷と高岩の今後の運命を決める事件でもあった。
(参考資料GスピリッツVol.39 『90年代の新日本ジュニア』金沢克彦著『元・新日本プロレス』より)

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