日本人で最初にWWF王者になったのはアントニオ猪木だった
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日本人で最初にWWF王者になったのはアントニオ猪木だった
8月20日にアメリカ・ニューヨークで開催される「サマースラム」にて中邑真輔がジンダー・マハルの保持するWWE王座に挑戦することになり、中邑に王座奪取の期待が高まっている。
ご存知のファンもいるだろうが日本人でWWEの前身であるWWFヘビー級王座を唯一巻いているのはアントニオ猪木だけだ。
新日本プロレスは1974年からニューヨークに本拠を持っていたWWWFと業務提携を結び、アンドレ・ザ・ジャイアントなどWWWF系の選手が来日するようになり、タイガー・ジェット・シン頼みだった外国人供給ルートが強化されたが、WWWF王者であるブルーノ・サンマルチノだけは親友であるジャイアント馬場の全日本プロレスへの参戦を優先していたため新日本には来日せず、当時のWWWFのボスであるビンス・マクマホン・シニアもサンマルチノが一番集客力のあったレスラーだったこともあって、サンマルチノの意向を優先せざる得なかった。
提携を結びながらWWWF王者を派遣できない状況が続いたが、1977年にサンマルチノが"スーパースター""ビリー・グラハムに王座を明け渡し、長期政権に終止符を打つと、WWWFは王者となったグラハムを1978年2月に新日本に参戦させ、猪木は上田馬之助と釘板マッチでの一騎打ちが決まっていたこともあって挑戦せず、坂口征二がグラハムに挑戦したが、リングアウトで敗れ王座奪取はならなかった。
グラハムが帰国して、しばらくすると王者はグラハムからボブ・バックランドに代わり、新王者となったバックランドはすぐ新日本に送り込まれ、6月1日日本武道館で猪木がNWF王座をかけてWWF王座とのダブルタイトル戦を実現させるも、3本勝負の1本目は猪木がリングアウトで先取したが、2本目はフルタイムのドローに終わり2-1で猪木が勝利も王座は奪取できず、1ヶ月後同じ武道館で猪木がWWF王座に挑戦する形で再戦が行われたが、互いに1本を取り合うも時間切れ引き分けとなり、その後大阪でも再戦が行われたが王座を奪取することが出来なかった。
1979年11月30日の徳島で猪木はバックランドを破り念願だったWWF王座を奪取したが、12月6日に蔵前で行われた再戦ではタイガー・ジェット・シンの乱入もあって無効試合となり、猪木は裁定に納得いかず王座を返上、ニューヨークMSGで猪木とバックランドによる王座決定戦が行われると思われていたが、王者決定戦でバックランドの相手になったのは猪木ではなくボビー・ダンカンで、バックランドはダンカンを破り王座を奪還、その後猪木は3度に渡ってバックランドに挑み王座奪取はならなかったが、この頃には猪木もIWGP構想を掲げていたこともあって、WWF王座奪還には本腰を入れる気はなく、新日本も猪木がバックランドには1度も負けなかったことから、WWF王者より猪木の方が上だと示すことが出来たことで満足だったのかもしれない。
WWF王者狙いはヘビー級へ転向したばかりの藤波辰己に譲り、猪木はIWGP構想に戦いの軸を置くが、WWFはビンスシニアから現在のビンス・マクマホンに代替わりすると、これまで格安で選手をブッキングしていた新日本との関係を見直し始め、1985年に提携関係は解消、WWFも団体名をWWEに改め、猪木の戴冠も日本で王座が移動されたのもあって、アメリカのファンには説明されず、現在のWWEでは猪木の戴冠は公式には記録されなかった。猪木は2010年にWWE殿堂入りを果たしたが、現在でも猪木の戴冠は公式には記録されていない。
そして猪木が戴冠してから17年後に猪木が育てた中邑がサマースラムの大舞台でWWE王座に挑戦する。果たして2人目のWWE王者となるのか・・・
(参考資料 ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.16『王者の宿命』)
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