プロレス史
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全日本プロレスで開催された「3軍対抗戦」…鶴田、最後の三冠戦
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2017年7月2日DRAGON GATEで開催される「5ユニットによる敗者ユニット解散をかけた対抗戦」で、1992年全日本プロレス「新春ジャイアントシリーズ」で開催された「92新春三軍対抗戦」について改めて振り返ってみたい。
1992年全日本プロレスは「新春ジャイアントシリーズ」にて超世代軍(三沢光晴、川田利明、小橋健太、菊地毅)、鶴田軍(ジャンボ鶴田、田上明、渕正信、小川良成)、ハンセン軍(スタン・ハンセン、ジョニー・エース、ジョー・ディートン、ビリー・ブラック)による「'92新春三軍対抗戦」を開催した。ルールはシリーズ中にシングル、タッグ、6人タッグの試合形式による対抗戦を行い、対抗戦終了時点での最高勝率チームを優勝とされ、優勝したチームには、テリー・ゴーディ&スティーブ・ウイリアムス組が保持している世界タッグ王座への優先挑戦権が与えられることになった。世界タッグ王座は昨年度の最強タッグが開幕するまでは三沢&川田組が保持していたが、当時の最強タッグのルールで開幕前に王座は返上、前王者だったゴーディ&ウイリアムス組が三沢&川田組を破って優勝し王座を奪還していた。
超世代軍、鶴田軍もお馴染みのメンバーとなったが、ハンセン軍の副将格にエースが起用された。ハンセンのパートナーは昨年の最強タッグまではダニー・スパイビーだったが、2年連続で最強タッグの優勝を逃しただけでなく、スパイビー自身の伸び悩みもあってチームを解消、エースの抜擢は将来性に期待したのもあったが、自分らはエースにハンセンのパートナーが務まるのかどうか不安があり、また残りのメンバーもディートンやブラックでは、超世代軍、鶴田軍と比べると戦力不足なのではという不安も抱かせた。
三軍対抗戦は1月2日後楽園大会での開幕戦からスタート、鶴田軍-5戦3勝2敗、超世代軍-7戦3勝4敗、ハンセン軍、6戦3勝3敗と序盤は鶴田軍がトップに立つも、中盤からは超世代軍も巻き返し、15日の後楽園大会が終わった時点では超世代軍-17戦10勝7敗、鶴田軍-14戦7勝7敗、ハンセン軍-15戦6勝9敗と逆転、22日の半田大会が終わった時点で超世代軍-28戦17勝11敗、鶴田軍-25戦12勝13敗、ハンセン軍-21戦8勝13敗と超世代軍が鶴田軍を大きく突き放す。しかし24日後楽園での鶴田&田上&渕vs三沢&川田&小橋での6人タッグ頂上対決を鶴田軍が制してから鶴田軍が巻き返し、最終戦直前で鶴田軍-32戦17勝13敗 超世代軍-34戦19勝15敗 ハンセン軍-28戦9勝17敗と逆転して優勝マジック1が点灯、超世代軍は1敗も落とせない状況で最終戦を迎えてしまった。
最終戦の千葉大会は田上&小川vs川田&菊地、三沢&小橋vsエース&ブラック 三冠統一ヘビー級選手権(王者)鶴田vs(挑戦者)ハンセンが三軍対抗戦として行われたが、田上組vs川田組は田上がノド輪落としで菊地を下し勝利、この時点で鶴田軍の優勝が決定となる。三沢組vsエース組は消化試合となって三沢組が勝利も、勝った三沢に笑みはなかった。しかしメインの鶴田vsハンセンの三冠戦は、鶴田のジャンピングニーを喰らっても倒れなかったハンセンがそのままウエスタンラリアットを浴びせ3カウントを奪い王座を奪取、鶴田軍が優勝しても大将の鶴田が三冠王座転落で素直に喜べず、ハンセンもハンセン軍の戦力不足が響いてか負けが込み1度も首位に立てなかったが、最後でハンセンが三冠王座を奪取することで一矢報いた。だがハンセンに敗れた試合が鶴田にとって最後の三冠戦となった。
シリーズ終了後には専修大学レスリング部主将の秋山準(当時は秋山潤)の入団が発表されたが、今思えば1992年の新春ジャイアントシリーズは鶴田の三冠王座転落、秋山の入団を考えると、時代の移り変わりを予感させたシリーズだった。
最後に優勝した鶴田軍は鶴田&田上でゴーディ&ウイリアムス組に挑み、鶴田がバックドロップでウイリアムスを降し世界タッグ王座を奪取したが、まだこの時点では鶴田はまだまだ健在を思わせていた・・・
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猪木の泥仕合劇の根本…東京プロレス分裂劇
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2017年7月2日アントニオ猪木とIGFの間で告発合戦が繰り広げられ、泥仕合の様相を呈しているが、オールドファンからしてみれば"またか"と思う人が多いのではないだろうか。
一番古い話とすれば、猪木がかつて参加した東京プロレスの内紛劇による泥仕合がある。
1965年年末に日本プロレスの社長だった豊登が社長を辞任したが、実際はギャンブルによる横領が発覚しての追放で、日本プロレスを追われた豊登は新団体設立へ動き始めた。だが豊登に追随したのは付き人として常に豊登と行動していた田中忠治と、まだ若手だった木村政雄(ラッシャー木村)、斎藤昌典(マサ斎藤)、北沢幹之だけで、主力は誰も追随しなかった。選手層の薄さを危惧した豊登は、弟分として可愛がっていたアントニオ猪木の獲得に動き、凱旋帰国に向けてハワイでトレーニングしていた猪木をハワイまで出向いて勧誘し、猪木に対して「日本に戻っても馬場の下として扱われる」「新団体の社長はおまえだ」と口説き、猪木も「人に使われるのは嫌だった」という気持ちもあって豊登の誘いを受け、新団体・東京プロレスに参戦することになった。
しかし帰国していた猪木に待ち受けていたのは現実で、資金はなく豊登自身も既に借金を抱えていたが、猪木は同じく豊登から誘われフロントして参加していた新間寿氏とともに旗揚げへと動き始め、猪木自身は外国人選手を集めるために、日本プロレスの妨害の網をくぐってNWA会長だったサム・マソニック氏に直談判、ジョニー・バレンタインやジョニー・パワーズら6選手のブッキングに成功、日本プロレスもまだNWAには加盟していなかったことで、まさしく盲点を突いた行動だった。資金も猪木や新間氏などがどうにかかき集め、10月12日蔵前国技館で旗揚げ戦を行い、11000人を集め大成功を収めたものの、肝心の売り上げのほとんどが豊登に持っていかれてしまい、ギャンブルに使われたことでほとんど残らなかった。
旗揚げ戦は成功したものの、フロントやプロモーターも素人だったこともあって不手際を連続、大会の中止が相次ぎ、TV中継もなかったこともあって、開催できたとしても不入りの状態が続いた。おまけに豊登は僅かな売り上げを持ち出し、プロモーターにも借金をしてまでギャンブル通いを続け、猪木の元にも借金取りが来るようになり、5000万も借金を背負うハメになった。
さすがの猪木も堪忍袋の尾が切れて、豊登の子分だった田中を除く選手らを引き連れ、東京プロレスとは別の「東京プロレスリング株式会社」を設立、豊登の行状に飽きれていた新間氏も猪木派に加わろうとしたがプロモーターから売上金を回収できなかったとして、豊登一派の一人とされ、猪木は豊登と新間氏を業務上背任横領で告訴し、豊登と新間氏も「横領の事実はない」として、「猪木の生活費や当時の夫人が買い物をしたものを会社の経費で落としている」と逆告訴、この泥仕合による東京プロレスの分裂が決定的となった。
しかし東京プロレスで起きた泥仕合も、よく見ればIGFに起きている泥仕合に似ているのではないだろうか?。昨年で東京プロレスが旗揚げして50周年となったが、50年経ってからもまた同じことが起きているとは・・・
(参考資料=GスピリッツVil.41 特集・東京プロレス) -
中邑真輔による猪木への挑戦発言・・・呪縛から脱するための大いなる賭けだった
2009年9月27日の神戸ワールド記念ホール大会で真壁刀義を降しIWGPヘビー級王座を奪取した中邑真輔が「聞いてくれ! 言いたいことがある。新日本プロレスの歴史、すべてのレスラーの思い、このIWGPにはこもっている。その思い入れはある。ただ、輝き。このIWGPに、昔のような輝きがあるか? 俺はないと思う。足りない! 猪木--!! 旧IWGP王座は俺が取り返す! 時代も変われば、プロレスも変わります! それでも俺はやります! ついて来る奴はついて来てください!」とアピールした。
この頃の中邑は2008年1月4日の東京ドームで棚橋弘至を破ってIWGPヘビー級王座を防衛、2月17日の両国大会にはカート・アングルを破り王座防衛と共に、IGFに流出していた三代目IWGPベルトを回収に成功。棚橋との再戦を制したことで中邑時代到来かと思われたが、4月27日の大阪で全日本プロレスの武藤敬司に敗れ王座から転落、10月両国で行われた再戦でも破れIWGP戦線から大きく後退、2009年1月4日の東京ドーム大会で棚橋が武藤を破ってIWGP王座を奪還し、2月15日に中邑が棚橋に挑戦するも敗れ、ライバルである棚橋に差をつけられるどころか、タイトル戦線やトップ争いからも大きく後退してしまった。
そこで中邑は立ち位置を変え、矢野通ら旧GBHメンバーと共に反体制ユニットCHAOSを結成、この頃から顔面への膝蹴り"ボマイェ”を使用するようになり、この年のG1 CLIMAXでは準決勝ではボマイェで棚橋を破ったものの、決勝では真壁を敗れ準優勝に終った。ところがG1準決勝で中邑のハイキックを顔面に食らった棚橋が眼窩内側壁骨折で負傷したため王座は返上となり、9・27神戸で行われる予定だった棚橋vs真壁のIWGPヘビー級選手権試合は、真壁vs中邑による王座決定戦に変更となった。思わぬ形でチャンスを得た中邑は真壁をボマイェで破ってリベンジを果たし王座奪取に成功、その後でマイクで猪木への挑戦をアピールしたのだ。この中邑の事前予告もないアピールは新日本プロレスを震撼させた、この頃の新日本プロレスはユークスの連立子会社となっていた時代で、創始者であり象徴だったアントニオ猪木じゃユークス体制と経営方針で対立し新日本を離脱してIGFを設立、猪木という象徴を手に入れたIGFは"新日本にはストロングスタイルはない"など様々な形で挑発したが、棚橋エース路線が固まってからは棚橋自身も「猪木の神通力はもう通用しない!」といわんばかりに猪木の名前を口にしなくなり、また新日本も猪木の存在すら封印したことで、新日本とIGFとの軋轢も沈静化して平行線となっていたが、中邑のアピールで両団体の軋轢が再燃されることが予想され、またワールドプロレスリングでもカットされることもなく放送されたことで、ファンだけでなくマスコミも中邑だけでなく猪木の出方を注目した。
特に色めきだったのはIGFだった。当時GMに就任していた宮戸優光は会見で「会長承諾のもとに前回会見をしたわけですけども、リング上からチャンピオンが猪木会長を名指しで“挑戦”という言葉を使って、旧IWGPベルトを獲り返すと言った以上、長く放置しておくわけにもいかない。向こうは『IGFは関係ない』と言うんでしょうけど、猪木会長=IGFというのは誰もがわかる話でしょうし、リングが絡んでくるのは当然」として中邑発言をIGFへの挑戦と受け止め受けて立つ姿勢を示し、11月3日のIGF・TDC大会への来場を求めた。しかし中邑は「IGFの理論にスリ変えられては困る。自分としてはマジで猪木さんとやりたい。悪いけどJCBには行かないよ」とあくまで標的はIGFではなく猪木としたためIGF側の要求を拒否、事態は混沌化していった。そうなってくると猪木本人の見解を待つしかなかったのだが、肝心な猪木は姿を見せようとせず、IGFも"IGFの見解こそ猪木の見解"と振りかざすだけだった。
その猪木本人は実は腰椎すべり症の受け入院しており13時間に及ぶ大手術を受け、騒動から蚊帳の外に置かれていた。退院し会見に応じたが、猪木が中邑へ出した答えは「オレは引退してるし、早く実現しろとかそういう感じにならない。オレが出て行くわけねぇだろ」と中邑の挑戦発言は歓迎はするも引退を理由に対戦を拒否するという消極的な態度だった。また宮戸もSAMURAI TVの生番組に出演した際に自身が出した見解はIGF側が用意したものであったことを明かし「未だにリング上の話なのかどうか中邑の真意を図りかねる。」「IGFは先走ってリングの話に直結させすぎた。」としてリセットを宣言する。そして中邑は「(猪木の)口から発せられたのは、『俺は出ねぇ』『引退している』『できるわけねぇ』って。要はノーでしょう。正直ショックでね。すぐにコメントってわけにもいかなかったですよ。」とこれ以上の深追いは必要とないとして、抜いた刀を矛へ納めた。
中邑の狙いは何だったのか?棚橋が中邑発言に関して「ストロングスタイルの呪いにかかっている」と答えたが、中邑はデビュー前から猪木の直接指導を受けた最後の弟子、猪木に接することで大きく影響を受け、また猪木も中邑を大きく期待していた。だが2004年11月の大阪ドーム、メインカードに棚橋vs中邑がファン投票で選ばれたのにも関わらず、ファン投票の提唱者であった猪木が鶴の一言で大会数日前に突如カードが変更され、猪木の決定に大きな不満を抱いていた中邑は中西学と組んで藤田和之、ケンドー・カシン組と対戦し、藤田に蹴られまくって敗れると、中邑の不満を知っていた猪木は突如殴りつけたことで、師弟関係に亀裂が生じ、中邑も"猪木がまた殴ってきたら殴り返す"と周囲に告げ、一時引退まで考えるほど荒れた。この事件をきっかけに中邑は猪木か離れていくも、猪木という存在が付いてまわり、ユークス期になって新日本から猪木が離れても、中邑には猪木といういつまでも纏わりついていた。中邑の猪木への挑戦発言は、猪木という呪縛から脱するための大きな賭けでもあった。そして猪木が対戦を避けたことで中邑は賭けに勝ち、猪木という呪縛から脱することが出来た。
だが収まりがつかなかったのはIGFだった。猪木からのGOサインを期待していたIGFは拍子抜けするどころか、「猪木の了承を得ている」と振りかざして新日本や中邑を挑発するだけでなく、また11・3TDC大会に中邑が現れるとPRしてしまっていたためしまっていた手前引っ込みがつかなくなっていたのだ、新日本11月1日後楽園大会にジョシュ・バーネットを始めとするIGFに参戦している選手達が来場し、中邑が入場すると一触即発の雰囲気となったが、特にアクションは起こさず、HP上や新日本の会場に来場して挑発するなど中邑バッシングを展開するも、子供じみた行為に中邑どころか新日本すら相手にしなかった。
中邑は新日本の象徴は棚橋に任せて、自身の個性を高めることでレスラーとしてステータスを高め、新日本プロレスのトップとして君臨したが、新日本プロレスの枠組みさえも飛び越えて、WWEに挑戦することで世界の中邑にまで昇り詰めてしまった。猪木への挑戦発言は新日本プロレスを脱猪木を鮮明にするだけでなく、中邑自身も呪縛から逃れ、更なる飛躍へのきっかけとなった事件でもあった。
ただ一つ気になることがある、入院中の猪木は本当に中邑発言を知らなかったのか?本当に知らされていなかったのであれば「オレが出て行くわけねぇだろ」と答えざる得なかったのかもしれないが、知っていたとなれば、猪木自身を蔑ろにするだけでなく、名前まで勝手に利用し事を始めようとしたIGFに対して面白くないものがあったのでは・・・・
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新日本、IGFの骨肉の10年間はここから始まるも、10年後また猪木は同じことを繰り返していた
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2017年6月3日2005年11月に新日本プロレスのオーナーだった猪木は敵対的買収から防ぐために、経営危機に陥っていた新日本を売却した。売却前の新日本は猪木がオーナーでありながらも猪木事務所を本拠にして外部から院政を敷いて新日本に干渉し続けていたが、執行役員として在籍していた上井文彦氏が新日本と猪木事務所側の調整役となり、双方のパワーバランスは保たれていた。ところが猪木が新日本の経営改善のために送り込んだ草間政一氏が社長に就任し、経理面で不明瞭さを理由に上井氏を退社に追い込んでしまうと調整役がいなくなったことで、これまで押さえられてきた猪木事務所からの干渉を抑えられなくなってしまい、また草間氏も猪木の意に反して新日本内の不正を正そうとしたため失脚に追いやられ、猪木は自分の意見を反映させやすいように娘婿であるサイモン・ケリー氏を社長として送り込んだが、失脚した草間氏も猪木や新日本への報復として夕刊紙や著書にて猪木を批判するだけでなく経営状態も暴露、かねてから噂されていた新日本の経営危機が表面化してしまった。
猪木がなぜユークスに新日本を売却したのか、猪木は事業や投資による失敗で借金返済を抱えていたが、猪木の院政体制の堅守のためだったと思う。猪木は「自分あっての新日本プロレスであり、オレ抜きでやっていけるわけがない」と考えていたことから、"新日本の再生は自分自身の手で再生させる、ユークスはその手助けをすればいい"と考えいたのではないだろうか?、猪木は年明けには商標など権利関係を持ち出し猪木事務所を解散に追いやっていた、理由はユークス側が使途不明金が猪木事務所に流れていることを見抜き、猪木が慌ててサイモン氏に権利関係を持ち出させて解散に追いやったのだ。猪木は一発逆転の大ホームラン級のイベントを成功させれば、新日本は再生し新日本や自身の売却していた権利関係も買い戻せる。おそらくだがユークスへの売却は新日本と権利関係を担保にして金を借りた程度しか考えておらず、猪木はビックイベントを当てた上で新日本や権利関係も買い戻すつもりだったのかもしれない。
しかし当時はライブドアや村上ファンドの影響で企業買収、M&Aが叫ばれ始めた影響でガラス張りの経営が叫ばれていた時代になっており、上場企業であるユークスもガラス張りの経営への改善を条件にして新日本を買収し当然ながら経営状態も調べたが、隠された負債や経理による不正も次々と明るみになり、ユークスは補填するために更なる金をつぎ込むハメになってしまった。だが当の猪木は新日本に干渉し続け、バングラディッシュ大会を開催するために新日本から金を引き出そうとしていた。
ところがバングラディッシュ大会は新日本の主催ではなく現地プロモーターによる売り興行で、開催までに莫大な経費がかかっていたことがわかると、ユークス体制となった新日本は中止を決定するが、猪木はサイモン氏を通じてバングラディッシュ大会の必要性をユークス体制に訴えるも、多額の金を新日本につぎ込んでいたユークスは無駄な金を出せず、バングラディッシュ大会の中止を公式発表したことで、猪木と新体制となった新日本との対立が生じるようになった。その猪木が「イノキ・ゲノム~格闘技世界一決定戦2006~」の9月1日に猪木vsアリが行われた日本武道館で開催を発表、社長だったサイモン氏は新日本が全面バックアップすることをアピールしたが、この年には猪木が提唱したバングラディッシュ大会が中止に追いやられるだけでなく、猪木の管轄だったロス道場も経理の不明瞭さを理由にリストラ対象に入ってしまっていたことから、一発逆転を狙った猪木の意向が反映されたイベントであることは明らかだった。
ところが「イノキ・ゲノム2006」の開催は新日本だけでなくユークスにも承諾もしていないことが明るみになり、新日本の名前を勝手に使った猪木に対して「イノキ・ゲノム2006」には協力しないことを通告する。
猪木にしてみれば"オレの会社なのに、なぜ新日本の名前を使ってはいけないんだ!”と怒っただろうが、猪木が新日本を売却した時点で新日本は猪木のものではなくなっていたが、猪木にはその自覚がすらなく、またユークスも新日本の買収だけでなく再建に向けて莫大な金をつぎ込んでしまったことから、成功の可能性がかなり低い一発逆転のプランにはどうしても乗ることが出来なかったのだ。そのユークスの読みがあたったのか「イノキゲノム2006」は開催発表と同時に杜撰さも露呈、出場予定選手に入っていたビックマウスラウドの村上和成、柴田勝頼が事前交渉もないまま出場予定選手と発表されたことで怒り、発表して数分後に出場拒否を表明。小川直也や藤田和之もPRIDEとの契約があったことから出場出来ないなど早くも暗雲が垂れ込め始める。、
負の連鎖はこれだけでは終わらなかった。7月に月寒グリーンドームにてIWGPヘビー級王座をかけて棚橋弘至と防衛戦を行う予定だったブロック・レスナーが防衛戦を拒否しドタキャンをする事件が発生。レスナーは猪木事務所を通じて新日本に参戦していたが、猪木事務所が閉鎖後は新日本が契約を引き継ぎ、猪木だけでなくサイモン氏も新日本再生の切り札としてプッシュしていたが、相手の技を受けずに一方的に勝つスタイルはファンから支持されず、観客動員低下の一因となり、またシリーズにはフル参戦しないどころか、僅か数試合だけで莫大なギャラと支払うなどレスナー側有利な契約を結んでしまっていたことから、新日本にとっては再生の切り札どころか金食い虫と化してしまっていた。レスナーがなぜドタキャンをしたか理由は明らかになっていない、来日にあたってサイモン氏が交渉にあたっていたが、レスナーはHERO'Sを要するFEGからオファーを受けていたこともあって、FEGからの話やIWGPベルトを盾にしてギャラアップを要求し、サイモン氏も「イノキゲノム2006」にとってはレスナーは大事な選手であることから、新日本に対してギャラアップに応じるように説得するも、新日本の答えはNOでレスナーに対してギャラアップに応じないどころか月寒大会をもって契約打ち切りを通告するように指示、ギャラアップに失敗したレスナーは怒り札幌大会のドタキャンとベルトの返還拒否という報復処置に出た。だが当時の新日本の事情とレスナー自身がプロレスよりMMAの方がビジネスになると考え始めていたことから、参戦か拒否かどちらにしても、「イノキゲノム2006」には参戦する気はなく、来日して棚橋戦を行っていたとしても、新日本との契約も打ち切るつもりだったのかもしれない。
レスナーのドタキャンが正式に発表され、渡米中だったサイモン氏に代わり菅林直樹副社長が現場にて対応、猪木も駆けつけてファンに挨拶することで火消しに追われたが、失態続きの新日本はファンからソッポを向かれ、開催された王座決定トーナメントでは棚橋弘至が王者となるも、ファンは棚橋プッシュと揶揄し支持しなかった。それでもユークス体制の新日本は棚橋を新たなる象徴と掲げて、棚橋エース路線を推進し始める。
一方アメリカから戻ったサイモン氏は会見でレスナーに対して永久追放を宣言したが、「イノキゲノム」の中心選手の一人であり、またレスナーエース路線を推進していた猪木やサイモンにとってはレスナーのドタキャン事件は大打撃であり、またレスナーと交渉しながらもIWGPベルトを回収できなかったことで、サイモン氏の発言力は一気に低下、猪木の意向も通らなくなっていく、それでも猪木は「イノキゲノム2006」に一発逆転をかけて開催へ奔走するも、負の連鎖はまだまだ終わらなかった。今度は会場を予定していた日本武道館が押さえられていないことが発覚する。サイモン氏は新日本プロレス名義で日本武道館を押さえていたのだが、日本武道館は東京都の管轄でよほどの後援がない限り押さえられない会場であったことから、おそらくだが後援をしてくれるはずの新日本が協力しなくなったことで、東京都の判断で予約を取り消したとみていいのかもしれない。
これに慌てた猪木は「アリ親娘の来日交渉、国内の地上波テレビと米国のFOXスポーツネットなど海外テレビ局との交渉、そして30周年にふさわしいカード編成のため準備期間が必要」を理由に10月に延期、スポンサー探しに奔走するが結局見つからなかったことで武道館を押さえることが出来ず、その最中に猪木のライバルである大木金太郎が死去したことで、猪木vsアリの記念イベントから大木の追悼イベントとして韓国で「イノキゲノム2006」を開催することを目論むも開催できなかった。2007年新日本プロレスは全日本プロレスの協力の下で1・4東京ドーム大会が開催されるも、これまで必ずといって東京ドーム大会には顔を出していた猪木はプロレス界撤退を宣言して現れず、このままマット界から撤退するのではと思われていた。2月20日の「アントニオ猪木の誕生日を祝う会」で星野勘太郎が「「こじんまりとしたプロレスが発展しても仕方ない。猪木会長の力で戻してほしい」猪木にプロレス復興の嘆願書を手渡した。しかし猪木はサイモン氏ら一部スタッフを引きずり込み新日本から飛び出して新団体「IGF」旗揚げへと動き出した。「やるからには俺が旗を振るしかない。大衆とのズレは生じるがプロレス界をどうしていくのか危機に立ち向かうには理念がないと。もう一度元気にするための軌道修正をする」と恒例だった成田会見で記者団に答え、自身の手でプロレス人気を復活させると意気込んでいたが、後になって新日本を買い戻そうとして交渉するも失敗し、ユークスが新日を他に売ろうとした事実も暴露、「許せない」と激怒したが、プロレス界復興だけでなくバングラディッシュ遠征の中止や、ロス道場とレスナーのリストラ、「イノキゲノム」を潰し、自身のやり方を否定したユークスへの怒りも入り混じっていたのだ。
しかしその猪木に追随したのはサイモン氏ら一部のスタッフだけで、選手らは誰も追随せず、棚橋も「もうアントニオ猪木の神通力は通じない」と猪木へ三行半を突きつけた。猪木が敢えて選手らに声をかけなかったのは、「自分が行動を起こせばユークスに対して不満を持っている選手らは自分に追随してくるはず」という考えもあったのかもしれない、実はサイモン氏を含めたIGFスタッフも水面下で選手達にIGFに移籍を促していた。この頃になると猪木の目指すプロレスと棚橋らの目指すプロレスとで隔たりが生まれ、埋めがたいものになっていたが、新日本は猪木への気遣いもあってか声にすることはなかった。そして猪木自ら新日本を離れたことで、棚橋らは自分らの目指すプロレスへ舵を切るには今しかないと考えて、脱・猪木へ舵を切った。猪木は「レベルが低い。批判は批判で受けるけど、引き抜きなんかしない。上がりたい奴は上がればいいだけ」とコメントしていたが、"なぜ誰一人オレについてこなかったんだ"という思いもあったはず、それだけ猪木と新日本の方向性にズレが生じていたことを猪木は気づいていおらず、それをまたユークスからの圧力と決めつけるようにして怒りをぶつけていた。
6月29日にIGFは旗揚げしカート・アングルvsブロック・レスナーによる3代目IWGP王座かけた試合を実現させ、ジョシュ・バーネット、マーク・コールマン、ケビン・ランデルマン、小川直也や田村潔司、安田忠夫などが参戦。観客動員も8426人を記録、IGFで取締役となったサイモン氏も「観客数は実数で発表していると公表したが後に旗揚げの観客数は手違いで少なめに発表してしまった」と告白するなど大成功を収めた。猪木にしてみれば"ユークスよ、オレの力を見たか"と実感していたのかもしれない。だがこの成功も一時だけのもので年数が経過すると満員と謳っても空席が目立つようになり、猪木が本来獲得を狙っていた藤田和之やジェロム・レ・バンナやピーター・アーツなどのK-1ファイターなども参戦するようになったが、猪木の目指す格闘プロレス路線は一部マニアに受けるだけでプロレスファン全体を取り込むまでには至らず、次第に観客動員も満員マークもつかないことも多くなり、猪木の影響力もDRAGON GATEやDDT、大日本プロレスなど猪木の影響力を受けない団体も台頭し始めたことで低下、IGF内にだけに及ぶだけとなっていった。
猪木が去った後の新日本は猪木が抜けた影響だけでなく、長年に渡っての内紛に辟易していた影響もあって離れたファンも多く、新しい象徴となった棚橋も「新日本の棚橋プッシュ」と皮肉られてファンから支持されず、観客動員も苦戦強いられた。この年11月に行われた両国大会では6000人と過去ワーストを記録するも、メインで行なわれた棚橋vs後藤洋央紀戦では両者共命を削り合うような激戦を展開したことで新日本の目指すプロレスに手ごたえを掴み、、この間にもユークスが新日本の経営改善に着手、様々な企画に取り組んで試行錯誤を繰り返しながらもV字回復へのきっかけを作り上げていった。経営改善に成功したユークスはブシロードへと新日本を売却、様々なテコ入れを受けた新日本はスター選手による個人商店から脱却して企業プロレスへと変わり、新しい客層を増やしたことで新たなる黄金時代を迎えようとしていた。
そして昨年にはマカオで行われる予定だった「猪木vsアリ40周年世界大会」が再三延期となる事態が起き、しばらくして猪木が自身の権利を持ち出してコーラルZを設立、自身が10年前に設立したはずだったIGFに絶縁を突きつけたが、今思えば10年前と同じような光景がまた猪木によって繰り返されていたのだ。この10年の間に新日本は変わったのだが、猪木だけは10年間時が止まったままなのかもしれない。
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破壊されたニックベルト…スタン・ハンセンによるベルト轢き潰し事件!
5月18日 新日本プロレス後楽園ホール大会で内藤哲也が自ら保持しているIWGPインターコンチネンタル王座を鉄階段に叩きつけ、また試合後には鉄柱めがけて投げつけるなど破壊行為を行い、ベルトは上部の部分がひん曲がってしまった。前シリーズから内藤はベルトをサッカーボール代わりにして蹴飛ばしながら入場する行為を行い、賛否を呼んでいる。内藤にしてみればヒール的立場だからこそ出来る行為でもあり、賛否も反響のうちにぐらいしか考えてない。だがオカダ・カズチカが試合スタイルを変えたことで再評価を受け、ケニー・オメガの台頭、打ち消したはずの棚橋弘至が田口ジャパンを通じて存在感を残したことで内藤なりに焦りも感じているのも事実だと思う。
ベルト破壊行為はいろんな例があるが、一番印象的だったのはスタン・ハンセンによるAWA世界ヘビー級ベルト破壊事件だ。
85年12月にスタン・ハンセンはリック・マーテルを逆エビ固めで下しAWA世界王座を奪取した。当時のAWAは昭和59年頃から始まったWWF(WWE)による全米侵攻のターゲットにされ、ハルク・ホーガンを始めとする選手・スタッフが引き抜かれたことで組織として衰え始めていた。AWAはニック・ボックウインクルの長期政権に終止符を打って、ジャンボ鶴田が王者となり、鶴田を破ったリック・マーテルが王者になることで若返りを図ろうとしていた。王者となったマーテルはNWA世界ヘビー級王者だったリック・フレアーと日本でダブルタイトル戦を行うなど活躍していたが、ベビーフェース的なカラーがAWAのファンから支持されず、王者としての力量も不足していた。そこでAWAは全日本プロレスでヒール的な立場にいたハンセンに白羽の矢を立てた。
ハンセンが主戦場にしていた全日本もAWAでの影響力を誇示できると考えてハンセンを出向という形で送り出しが、全日本はあくまでハンセンを貸し出していたに過ぎず、またハンセンも主戦場は全日本で、アメリカでは特定の主戦場をおかずフリーランスとしていたことからあくまで全日本のスケジュールを優先にした。これは新日本とDDTにおける飯伏幸太の二団体同時契約に似ているが、ハンセンもあくまで全日本の所属としてAWAに上がっていたに過ぎなかったのかもしれない。だがハンセンはAWAエリアを優先にしなかっただけでなく、日本でも防衛戦を行っていたことで、ハンセンとAWAの間に亀裂が生じる。
86年6月にカナダ・デンバーにてハンセンがニックとの防衛戦を行おうとして会場入りしたが、前日の試合で反則暴走をしたとして出場停止処分とされ会場から追い返された。2日後にAWAがハンセンが防衛戦をドタキャンしたため王座を剥奪、新王者としてニックを指名したことを発表すると、AWAの不意打ち的なやり方にハンセンは激怒、ハンセンはベルト返還に応じず、そのまま全日本でAWA王者として防衛戦を行うも、AWAはハンセンを告訴する構えを見せたため、ハンセンはAWAへの報復の意味を込めて、ベルトをトラックでひき潰しAWAへ突き返し、馬場さんもハンセンを咎めもせず全日本に参戦させた。おそらくだがハンセンから事情を聴いた上で咎めもしなかったのだろうが、馬場さんにしてもAWAの権威は完全に落ちたと思わざる得なかったのかもしれない。
AWA王座はニックの手に戻るも、使用されたベルトはかつて鶴田に渡ったニックベルトではなく、初代のベルトをモチーフにしたベルトだったこともあり、ハンセンによって思い入れのあるニックベルトを破壊されたことを知ってニック自身も落胆、ベルトはニックの手で修復したがひん曲がったプレートは元に戻らず、ニックはニックベルトを個人所有として二度と腰にベルトを巻いてリングに登場することはなかった。またAWAもピークの過ぎたニックでは立て直すことは出来ず、ニック自身も1987年5月にカート・ヘニングに王座を明け渡した後は二度と王座に就くことはなく、9月の全日本・新潟大会でラストマッチを行いひっそりと引退、長年活躍したAWAと距離をとり、ロードマネージャーとしてWWEと契約、AWAも権利関係を全てWWEに売却して1991年に閉鎖した。
ニックは2015年11月14日に死去後にニックベルトが日本人コレクターの手に渡っていたことが「Gスピリッツ」にて明らかになった。自分にとってAWA王者はガニアよりニックの方が印象深く、またニックが巻いていたベルトの方が一番印象深かった。ニックは晩年「たとえ(ベルト)が私の手を離れても、私以外のものでもない。これはニック・ボックウインクルのためのベルトなんだ」とニックベルトの裏にサインを記した。例え誰が巻こうが潰そうが自分の魂がこもっている限りは自分の魂が込められているんだと言いたかったのかもしれない。
(参考資料=「GスピリッツVol.38小泉悦次「ジャイアント馬場の海外行脚」「GスピリッツVol.39 清水勉「検証"ニックベルト”と呼ばれた3代目AWA世界ヘビー級王座」より) -
1981年・なぜジャンボ鶴田は全日本プロレスを辞めるつもりだったのか?
GスピリッツVol.42「特集・ジャンボ鶴田」(今回の参考文献)でタイガー戸口が全日本を退団し、新日本プロレスへ移籍しようとした際に、鶴田も「戸口さんが辞めるなら、自分もこんな会社辞めますよ!」と言い出し、辞表も準備していたことを明かしていた。
理由は戸口にも明かさなかったが、鶴田が亡くなったことで永遠の謎となった。しかし自分なりに考察すると、理由はジャイアント馬場さんを震撼させたクーデター事件だった可能性が高いと見ている。
1977年末に当時全日本プロレスのNo3的存在だったサムソン・クツワダがジャンボ鶴田を中心とした新団体設立を計画、その上でジャイアント馬場だけでなくアントニオ猪木に対して高額な引退準備金を用意して引退させ、世代交代も図ろうとしていた。
しかしクツワダは馬場以外の選手に声をかけたこともあって、馬場が計画を知ることになりクツワダを解雇、新日本だけでなく国際プロレスにも通報したことでクツワダはマット界から追放となったが、鶴田には厳重注意だけでお咎めはなかった。
クーデター事件に関してはGスピリッツVol.42「特集・ジャンボ鶴田」での各自の証言を照らし合わせると、今思えば鶴田に馬場さんだけでなく猪木を押しのけて日本マット界のトップに立つ野心というものはなく、政治面は馬場さんに任せておいて純粋にプロレスを楽しみたい、一レスラーでいたいという考えだったのではないだろうか、そう考えるとクーデター事件は鶴田は首謀者の一人ではなく、クツワダが勝手に鶴田の名前を使ったに過ぎず、たとえ鶴田に話を持っていたとしても、鶴田は当たり障りのない返事をしたが、クツワダはそれを同調したと受け止めたと考えるのが自然なのではとも思う。
クーデター事件後馬場と鶴田の師弟関係はおかしくなり、鶴田は馬場の関連会社の役員にさせられるだけでなく、他の選手からも隔離され、常に馬場と行動共にさせられるようになった。馬場さんにしてみれば隔離することで変な気を起こさせないようにしたのだろうが、鶴田にしてみれば信用していた馬場さんに信用されなくなったことのショックの方が大きかったかもしれない。
また昭和56年に日本テレビが経営不振の全日本にテコ入れをすることになり、松根光雄氏が社長に送り込まれると、松根氏は全日本は馬場に任せられないと判断し鶴田への世代交代を計画、鶴田にエース兼任でブッカーも任せようとしていたが、鶴田は思い悩んだという。この理由はいろいろあったのだろうが、世話になっている馬場と松根氏の間で板ばさみになっていたのと、ブッカー業はやったことはなく、今まで他の選手から隔離されていたのもあって現場をまとめ上げる自信がなかった。だから全てを投げ出したい気持ちになって一時は辞表を出そうとするまで追い詰められていたのではないだろうか…
鶴田が最終的に全日本に留まった理由は佐藤昭雄の存在があった。鶴田はたまたまアメリカから帰国していた佐藤にブッカー業のことを相談すると、ブッカー業はなんたるかを説明する佐藤を見て適任と考え、松根氏に佐藤をブッカーに推薦、佐藤もブッカー業に興味があったため引き受けることになったが、今思えば佐藤の存在がなければ鶴田は全日本を去っていたと思う。
鶴田は最終的には全日本でレスラー人生を全うしたが、鶴田が天龍源一郎や長州力のように馬場さんや猪木を押しのけてマット界の頂点に立つ野心があったら、またマット界の歴史が大きく変わっていたことは間違いないだろう。
今年で17年目を迎えた鶴田の命日、鶴田は天国で馬場さんや三沢光晴と共に現在のマット界をどう眺めているのだろうか・・・・
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ベイダー誕生30周年、今振り返る両国暴動
先日にドラディション大阪大会の試合後に藤波辰爾とベイダーのトークショーが行われ、ベイダーは席上で今年はベイダーというキャラが誕生して30周年を迎えたことを明かしたが、今年でベイダーの誕生と両国暴動から30年を迎えようとしていた。ベイダーことレオン・ホワイトが来日したのは1987年12月、TPG(たけしプロレス軍団)が送り込む新日本プロレスへの刺客として来日した。きっかけになったのはビートたけしが東京スポーツで「プロレス新団体設立」をぶち上げたのが発端で、新日本プロレスが興味を抱き、マサ斎藤を参謀役に据えて、TPGの刺客が猪木へ挑戦するという計画だった。当時の新日本プロレスは「ワールドプロレスリング」が月曜8時に放送されていたものの、裏番組に押されて視聴率が低迷し、またたけしもフライデー襲撃事件から復帰したばかりでテレビ朝日が放送していた「スポーツ大将」を含めてレギュラー番組が一時的に低迷していた時期でもあったことから、互いのテコ入れということで利害が一致していたのかもしれない。
そこで抜擢されたのはレオン・ホワイトだったが当時はAWAのリングに上がっており、王者だったスタン・ハンセンと対戦していたことから全日本プロレスも狙っていたが、斎藤がAWAに参戦していたこともあって、AWAは全日本から新日本に乗り換え始め、ホワイトも斎藤のルートで新日本が獲得した選手だった。
来日したホワイトはマスクと甲冑を手渡されたという、マスクと甲冑は『ギブアップまで待てない!ワールドプロレスリング』時代に企画としてテレビ製作側から制作されたキャラクターだったが、『ギブアップまで待てない!ワールドプロレスリング』が通常のプロレス中継に戻ったことで没となっていた、そのキャラクターを東スポ側が生かしそうとして誕生したのはビッグバン・ベイダーだった。コスチュームや甲冑を手渡されたベイダーは「自分の身に重大なことが起ころうとしている」とトークショーで語っていたが、これから起きる修羅場だけは、さすがのベイダーも予期していなかったと思う。
1987年12月27日に新日本は両国国技館大会でビックイベントを開催メインは猪木の保持するIWGPヘビー級選手権に世代交代をかけて長州力が挑戦、ベイダーは斎藤と組んで藤波辰己、木村健悟組と対戦となり、テレビ朝日も2時間の特番を組んだ。
当時の新日本は「ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦」は藤波&木村が優勝するものの、シリーズ中に前田日明が長州顔面蹴撃事件で謹慎処分を受けたことで暗い影が差し込み、タッグリーグを負傷欠場した長州も復帰第1戦がいきなり猪木とのタイトルマッチだった。試合は藤波vsベイダー組になるとベイダーのセコンドにはたけし軍団だけでなく、たけし本人も登場し、TPGの渉外的役割だったガタルカナル・タカやダンカンが「我々の挑戦状を自ら受け取ったのだから、ベイダーと戦うべき人はアントニオ猪木さんのはずです」「あんたらアントニオ猪木の逃げる姿を見に来たのか?あんたら猪木を卑怯者にしていいのか?やらせろーっ!やらせてくださーい!やらせてくれー!」挑発し、斎藤も「猪木!この男(ベイダー)と戦え!俺がわざわざアメリカから連れてきた男だ!怖いか?猪木!出てこーい!」と挑発すると、長州が現れて師匠であるマサ斎藤に詰め寄り、斎藤もなだめているところで、猪木が現れ「受けてやるかコノヤロー!(お客さんに対し)どーですか!(挑戦者と対戦してもいいか)」とアピールしたことで、カードも猪木vs長州から猪木vsベイダーに変更してしまう。猪木は長州に「オマエとの対決はお預けだ」と引き下がるように求めるが、長州は納得しないどころか、猪木vs長州見たさに会場に訪れたファンも納得せず、「やめろコール」が巻き起こる。だが強行的に猪木vsベイダーにカードが変更され、長州は斎藤と組んで藤波組と対戦するが、納得しないファンからは試合中にも関わらず物が投げ込まれる異様な雰囲気となり、試合は長州が6分足らずで木村をリキラリアットで下すも、試合後に長州が「オレが猪木を倒す」とアピールした後で、猪木が現れ、長州との対戦を受けることになり、5分間のインターバルの後で猪木vs長州戦が行われた。
猪木vs長州が行われたことでファンも納得したかに見えたが、試合も猪木が鉄柱攻撃で流血に追い込み、頭突きから卍固めで捕獲するも、セコンドの馳浩が救出に駆けつけたため、6分6秒で長州の反則負けとなり、あっけない結末にファンの怒りは再び爆発してしまう。そんな状況の中で猪木はベイダーと対戦するも、さすがに完全にピークを過ぎた猪木では長州、ベイダー相手のダブルヘッダーは無茶であり、2分49秒であっさり敗れてしまう。
この結末にファンが激怒し敗れた猪木に罵声を浴びせるだけでなく物を投げつけ、国技館の升席やイス席を破壊し、中には火を投げつけたファンもいた。ベイダーもトークイベントで「火を投げつけたファンに驚いた」「日本のファンは直ぐヒートアップすると暴動になり火をつけるのが当たり前だ」と振り返っていたが、ベイダーも暴動という異様な光景にさぞかし驚いていたと思う。ビートたけしとたけし軍団はベイダーの試合を見ないまま逃げるように会場を後にし、猪木は控室へ下がり、田中秀和リングアナが涙ながらファンに土下座するも、それでもファンは納得せず、猪木は再び現れて「みんな今日はありがとう。長州選手とは今一度、正々堂々と戦います。みんなの期待を裏切りません」とコメントしたことでファンの怒りはエスカレートし物を投げつけた・・・
なぜ猪木は突然カードを変更したのか?猪木の環状線の理論でいえばプロレスファン層より一般ファン層を取り込むためにどうアピールするかを常々考えていたことを考えると、プロレスファン層をターゲットにした猪木vs長州よりも、一般ファン層をターゲットにしたビートたけしを相手にした方が外の部分である一般層にアピールできると考え、あえてサプライズとハプニングという劇薬を投入するも、あくまで猪木vs長州を見たかった現場のファンが劇薬を拒んでしまった。大きな読み違いをしてしまった猪木は、長州やベイダーを相手にダブルヘッダーを行うことで軌道修正を図ったが、長州戦は不完全燃焼、ベイダー戦は惨敗に終わったことで軌道修正に失敗し暴動に至ってしまった。さすがの猪木も良かれと思って使った劇薬が悪い作用に働いてしまったことで落胆していた、だが悪い作用はこれだけでは終わらなかった。
特番の視聴率もビートたけし効果もあって二桁を記録するなど裏番組である「笑っていいとも年末特大号」に対して健闘はしたが、暴動騒ぎで国技館を管理する日本相撲協会が升席などが破壊されたことで怒り、新日本に対してら多額の損害賠償を請求だけでなく、無期限で国技館の貸し出し禁止を通達する。本来なら間に立つべきテレビ朝日も「相撲ダイジェスト」を放送していたことでの相撲協会への配慮からか新日本を庇うこともなかったが、猪木の後ろ盾になっていた三浦甲子二専務も死去していたことも大きく影響していたのかもしれない。またビートたけしもプロレスから撤退、通常枠のワールドプロレスリングの視聴率も苦戦のままで4月からのゴールデンタイムからの降格も決定するなど、猪木の投入した劇薬も結局は打ち上げ花火に終わってしまった。しかし猪木の投入した劇薬で成果を出したのはベイダーで、劇薬を利用して新日本プロレスのトップ外国人選手へと伸し上った。今年でベイダーというキャラが誕生して30周年、ベイダーにとって猪木の劇薬はまさに起爆剤でもあった。
(参考資料 ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史 「暴動・騒乱」より)
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もう一つのドラゴンヒストリー・・・無我と西村修
スポーツ報知で藤波辰爾のデビュー45周年を記念して「ドラゴンヒストリー」が連載されているが、その中で触れていなかったのは、かつて藤波が新日本内で旗揚げした"無我”と西村修の存在、無我は自身が掲げた理想でもあったが悪い思い出でもあることから、ストーリーの今後の展開を見てもおそらくもう触れることはないだろう。
1995年に闘魂三銃士(武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也)の台頭もあって、新日本プロレスでの今後の方向性を見失った藤波は「古き良き時代のプロレスの復活」、「1800年代の伝統あるプロレスを蘇らせる」をコンセプトに新日本の1ブランドとして無我を設立、新日本からの帰国命令を拒否し海外に留まっていた西村修を帰国させ、イギリスのジミーライレージムとも提携を結び、10月29日大阪・南港のATCホールでとして旗揚げし、藤波は旗揚げ戦ではタリー・ブランチャードをドラゴンスリーパーで降し、この頃FMWを離れ新日本でデビューした際に藤波がデビュー戦の相手を務めたミスター・ポーゴや、ジュニア時代のライバルである剛竜馬が観戦に訪れ参戦を取り沙汰されたが、藤波はスタイルの違うポーゴや、絶縁していた剛を上げる気はなかった。無我は倉島信行や正田和彦(MAZADA)竹村豪氏を輩出、藤波が新日本の社長に就任したことで興行数が低下すると、新日本内でも台頭してきた西村が中心となり無我は継続されたが、西村に無我を任せたことで藤波との軋轢を生む一因になった。
2005年に新日本がユークス体制になると新体制は選手・スタッフの契約内容を見直し、それによって西村修や田中秀和リングアナが新日本を退団、吉江豊やヒロ斎藤と共に無我をコンセプトにした新団体設立へと動くと、藤波も新日本を退団して合流して「無我ワールド・プロレスリング」を旗揚げ、そのまま社長に就任したが当初は西村と田中リングアナは藤波を誘うつもりもなかった。だが社長になる人間が不在だったため社長経験のある藤波をそのまま社長に据えるも、西村は一番後に合流してきた藤波が社長に就任することに不満だった。
無我は旗揚げしたが興行数も少なく観客の入りも芳しくない状況となると、全ての責任は藤波にあると思い込んだ西村は他の選手にクーデターを持ちかけるが、以前から西村の身勝手さに呆れていた選手らは誰も賛同せず、2007年10月に無我内で孤立した西村は若手だった征矢を引き連れ突如全日本へ移籍、移籍の際には無我の経営に携わっていた藤波伽織夫人を名指しで批判するだけでなく、自身で勝手に登録した無我の商標まで持ち出したことで、藤波に無我の名称を使えないようにした。藤波は伽織夫人まで批判されただけでなく、自身が名づけた無我の名称も取り上げた西村に怒り絶縁、団体名もドラディションに改めた。新日本の一ブランドとしてスタートした無我だったが、今でも思うことは団体にすべきではなく、藤波が選手を育成する道場レベルに留めるべきだったのではと思うし旗揚げ戦を観戦してきた自分とすれば現在でも残念でならない。
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優勝してもIWGPには挑戦出来ない・・・意味のなさから「NEW JAPAN CUP」が始まった
2005年1月に新日本プロレスが第1回「NEW JAPAN CUP」の開催を発表した。
当時の渉外部長だった田中秀和氏は「このNEW JAPAN CUP~新日本無差別級トーナメントを、今年から新たな<春のG1>という形で新たな戦いの場を作っていきたいと思っています。G1という形がとても大きくなってしまったので、敢えてG1という名称は使いませんが、春はトーナメント、夏はリーグ戦で、選手一人一人がアピールし、力を競ってもらいたいです。」と趣旨を説明したが、G1 CLIMAX=リーグ戦というものが定着していたファンの反応は今ひとつだった。
また新日本プロレスの展開もNJCの存在を薄くした要因になった、当時のIWGPヘビー級王者は全日本プロレスの所属だった小島聡で、3月26日の両国大会では中邑真輔を相手に時間切れ引き分けで防衛するが、同日に開催された挑戦者決定トーナメントで前王者だった天山広吉が優勝、5月14日の東京ドーム大会での挑戦を決めたことで、なぜ"挑戦者決定トーナメントをやったのに、またトーナメントなんかやるの?"と開催の意義も問われた。
NJCが開幕、蝶野正洋、中西学、タイガーマスク、棚橋弘至、後藤洋央紀、スコット・ノートン、吉江豊、ケンドー・カシン、中邑真輔、獣神サンダー・ライガー、天山広吉、稔、西村修、柳澤龍志、金本浩二、永田裕志などヘビー、ジュニアの枠を超えて16選手がエントリーし、最終戦の4月26日大阪府立体育会館大会まで勝ちあがったのは天山、中西、カシン、棚橋で、IWGP王座への挑戦が決定している天山にしてみれば優勝しなければいけなかった。
準決勝の組み合わせは天山vs棚橋、中西vsカシンだったが、天山はアナコンダバイスを仕掛けた際に丸め込まれて逆転負けを喫して脱落する。そして棚橋は準決勝でカシンを破った中西をスリングブレイドで破り、第1回のNJCの覇者となったが、ファンの反応も今イチ、観客動員も満員止まりと散々たる結果となった。
しかしNJCを制した棚橋は挑戦することが出来ず、既に挑戦者決定トーナメントを制していた天山がそのまま小島の保持するIWGPヘビー級王座に挑戦、天山がTTDで小島を破り王座を奪還するが、試合後に藤田和之に襲撃を受け、また大会後には当時社長だった草間政一氏がオーナーだったアントニオ猪木の鶴の一声で失脚しサイモン・ケリー氏が社長に就任するという内紛が起きるなど、棚橋のNJC優勝はあっという間にかき消され意味のないものにされていった。棚橋が挑戦とされなかったのはファンからの不支持だけでなく、後押ししていた草間氏の失脚した影響もあったのかもしれない。
正直言ってNJCはこの1回で終わりだろうと思っていたら、翌年も継続され現在では新日本の看板シリーズの一つとなった。今年の春の本場所は誰が制するのか?
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長州からフォール勝ち・・・稲妻戦士・木村健悟が最も輝いた日
昭和62年11月9日の新日本プロレス後楽園ホール大会から「87ジャパンカップ争奪タッグリーグ」が開幕した。
<参加チーム>
アントニオ猪木 藤原喜明
藤波辰己 木村健悟
長州力 マサ斎藤
前田日明 スーパー・ストロング・マシン
武藤敬司 高田伸彦
ケンドー・ナガサキ ミスター・ポーゴ
ディック・マードック スコット・ホール
ロン・スター、ロン・リッチ当時の新日本は前シリーズまで猪木率いるナウリーダーvs長州、藤波、前田率いるニューリーダーによる世代闘争となっていたが、長州と斎藤が双方から離脱したことで世代闘争は終結し、新たに長州軍を率いて猪木に宣戦布告を果たしていた。また前田率いるUWFも参戦していたものの、正規軍と共闘という図式とされ、次第に新日本に取り込まれそうになっていた。
この時代はまだ「ワールドプロレスリング」はゴールデンタイムで放送されていたものの、枠は金曜8時ではなく月曜8時に放送され、TBSでは「水戸黄門」「大岡越前」などの時代劇、NTVでは「ザ・トップテン」、フジテレビは「志村けんのだいじょうぶだぁ」などが裏番組で放送されていたことから、ワープロは視聴率的に苦戦を強いられていた。
まだ学生だった自分はどのチームが優勝するかクラスメイトと予想していたが、本命は長州&斎藤組、対抗馬は猪木&藤原組が圧倒的に多く、他のチームは全く眼中にされていなかった。
猪木は右肩を負傷し開幕戦を欠場したが、猪木のパートナーにはマードックが名乗りを挙げたことでパートナーが藤原からマードックに変更され、空席となったホールのパートナーには急遽坂口が入った。
開幕戦では長州&斎藤組は藤波&木村の元祖ニューリーダーズと対戦したが、誰もがいつもの通り長州組が木村を仕留めて勝つだろうと予想していた、試合も長州組が徹底的に木村を狙い撃ちにし流血に追い込む、そして長州組がバックドロップ&ラリアットの合体技であるハイジャックラリアットを狙ったが、ここで藤波が長州に延髄斬りを浴びせてカットに入ったところで生放送だったため中継が終わってしまう。
続きは次週に放送されたが、藤波からの思わぬ延髄斬りを浴びた長州を木村が首固めで3カウントを奪い大逆転勝利、普段長州にフォールされることが多かった木村だったが、館内は健悟コール一色となり、木村も長州からフォールを奪ったことで感涙していた、一方の長州は木村に怒るどころか「木村もニューリーダーの一人だから・・・」と潔く敗戦を認め、このときもクラスメイトも「木村ごときに長州が負けるなんて」「まぐれだ!」と驚くしかなかった。木村の番狂わせというハプニングからリーグ戦はスタートしたものの、ハプニングはこれだけでは終わらなかった。前田による顔面蹴撃事件が起き、前田のキックを顔面に浴びた長州は負傷欠場、前田も謹慎処分となってしまう。
斎藤のパートナーには藤原が起用されリーグ戦は継続、(マシンは代役不在のまま不戦敗扱いに)、リーグ戦は猪木組がトップ、2位に藤波組、斎藤組が同点で全公式戦は終了し、最終戦である12月7日の大阪大会を迎える。藤波組は決勝戦進出決定戦で斎藤組と対戦、藤波が足の生爪をはがすというハンディを背負いつつも木村が懸命に粘り、最後は藤波が藤原を首固め勝利を収め優勝決定戦に進出、メインも藤波も木村も満身創痍の状態だったが、藤波がマードックを首固めで3カウントを奪い大逆転優勝を果たした。
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ハルク・ホーガンがWWF王者となった1984年…日米マットの激動はここから始まった
1984年1月、ハルク・ホーガンがアイアン・シークを破りWWFヘビー級王者となった。このときは日本で活躍したホーガンも頂点にまで昇りつめたのかと喜んでいたが、王者交代の経緯も前々王者だったボブ・バックランドがアイアン・シークの腕固めを極められた際にセコンドがタオルを投入して敗れ王座から転落するという謀略めいたもので、すぐシークがホーガンの挑戦を受けて王座を明け渡すというものだった。
1984年2月の新日本プロレス「新春黄金シリーズ」には王者として参戦、前年度まで日本人側の助っ人として参戦していたが、「第4回MSGタッグリーグ戦」の優勝を契機にアントニオ猪木とのタッグも解消し外国人側として参戦したが、前年度のIWGPではアックスボンバーで猪木をKOしたのを契機に下り坂だった猪木と昇り調子のホーガンの関係は逆転しつつあった。
ホーガンがシリーズを終えて帰国すると、すぐさまWWFによる全米侵攻が開始され、NWAの総本山だったセントルイスに侵攻した。この頃のNWAは体力のあるテリトリーとないテリトリーとの格差が広がりつつあったことでテリトリー制が崩壊しつつあった。総本山だったセントルイスも大物プロモーターだったサム・マソニックが引退してからはハーリー・レイス、ボブ・ガイゲル、AWAのバーン・ガニアの合議制で運営されていたが足並みが揃わず客足が落ち始めたところでWWFに狙い撃ちにされた。
WWFの全米侵攻は新日本プロレスへも大きく影響を与えた、WWFはこの頃にはビンス・マクマホン・シニアからジュニア=現在のビンス・マクマホンに代替わりしていたが、ビンスは格安で選手をブッキングしていた新日本の関係も見直し始め、新日本側もWWFとの窓口だった新間寿氏が前年度のクーデター事件で失脚し、新間氏がシニアを動かし、ブッキング契約が切れる新日本から新団体UWFへ提携先を変えさせようとして暗躍していた。
新日本はWWFと新たな契約を結んで提携関係を維持したが、今思えばビンスがUWFというカードをチラつかせて新日本に不利な契約を結ばせたという見方も出来る。
しかし激動の1984年は新日本がUWFの旗揚げ、長州力ら維新軍団の離脱=ジャパンプロレスの設立という形で続き、WWFはNWA&AWAをますます弱体化させてアメリカプロレスシーンを一新させ、ホーガンもアメリカを代表する大スターへと伸し上がっていった。
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藤原テロ事件はこうして起き、2月の札幌伝説が生まれた
1月の月間MVP、ベストバウト、ベストシリーズ&興行の投票受付中です!投票はこちら→: https://t.co/Wd1mEAlKmh 投票よろしくお願いします! #prowrestling
— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2017年2月2日新日本プロレス2月の札幌伝説が始まったのは1984年2月3日札幌中島体育センターで行われるはずだった藤波辰己vs長州力における藤原喜明テロ事件から始まった。
事件の背景は何だったのか?この大会のプロモートは大塚直樹氏の「新日本プロレス興行」で大塚氏が副社長である坂口征二に「藤波vs長州を組んで欲しい」と依頼し組まれた試合だった。
大塚氏の「新日本プロレス興行」は新日本の関連会社で、前年の1983年に起きたクーデター事件に関わったとして大塚氏は新日本を去る決意を固めていたが、社長のアントニオ猪木から「新日本プロレス興行」という会社を譲り受け、新日本の興行を請け負っていた。しかしクーデターの首謀者の一人である大塚氏が新日本に関わっていることを良く思っていない人間も多く、猪木自身も「新日本プロレス興行」の創立記念パーティーに出席しないなど距離を取りはじめたことで、大塚氏は猪木に不信感を抱くようになっていた。
そして藤原テロ事件が起き、首謀者は猪木とされているが、なぜ事件が起きたのか、猪木は坂口が決めたマッチメークに対して「こうすれば面白くなる」とばかりに選手をけしかけるなどしてカードをいじることが度々あった、藤波vs長州も猪木にしてみれば「何度もやっているカードだしマンネリかな」と感じ、試合を盛り上げるためにアニマル浜口と谷津嘉章ら維新軍団に血祭りにされた藤原をけしかけて事件が起こさせた。
しかし藤波vs長州が行われなかったことを受けて観客は激怒し、大会が終わっても納得しないファン数十人が居残り大塚氏らに抗議した、ファンからの信用を落とされる形となった大塚氏は猪木だけでなく新日本に対する不信感から「新日本プロレス興行のメンツを潰すために猪木に試合を潰された!」と嫌がらせを受けたと勘ぐった。今思えば猪木はただ面白ければいいという考えが、大塚氏の不信感を増幅させる結果になり、長州ら維新軍団を引き抜いてジャパンプロレスを旗揚げに繋がるとは、猪木にとっても想定外だったのではないだろうか・・・このテロ事件をきっかけに藤原も成り上がったが、その藤原も半年後にUWFへ移籍、大塚氏もジャイアント馬場さんの全日本プロレスと組んでジャパンプロレス創設へと動き、新日本から長州ら維新軍団だけでなく、永源遥ら中堅・若手を引き抜いて新日本の屋台骨をぐらつかせた。
一つの事件をきっかけに波紋が広がったが、誰もが新日本の屋台骨までぐらつかせるとは、誰が想定しただろうか・・・?
(参考資料=ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.29 襲撃・乱入」より) -
1999年1月31日
1999年1月31日、午後4時4分、ジャイアント馬場さんが永眠した、享年61歳だった。
馬場さんが死去したという一報が流れたのは、馬場さんが死去してから翌日の2月1日、自分がちょうど夜の19時頃TBSで放送していた「東京フレンドパーク」を見ていた最中にニューステロップで流れ、突然の訃報に愕然としていたことを今でも憶えている。
馬場さんの最後の試合を見たのは前年である1998年11月17日の大阪なみはまドーム大会、馬場さんはいつもどおり試合をしていて異常を感じさせなかったのだが、12月に入って突然欠場となり、全日本側から風邪で欠場と発表されたときは「今年の風邪はそれほどタチが悪いのかな」と思っていた程度で、最終戦である12月5日に復帰したときは安心していた。
しかし1999年1月の新春ジャイアントシリーズから突如欠場、内臓疾患で療養中としか発表されておらず、いずれ元気な姿を見せるものだと思い、また週刊ファイトではこの年の5月に開催される東京ドーム大会から復帰と報じていた。
馬場さんが死去してから3月に全日本プロレス愛知県体育館大会を訪れていたが、自分はどうしても仕事の都合で4月17日のファン葬に出席できないため、せめてこの大会で顕花をと思ったが、グッズ売り場では主のいない馬場さんのイスがあった。このグッズ売り場に馬場さんが座っていないことで改めて馬場さんの死を実感し、ファン葬には出席できない代わりに、5月1日の東京ドームで開催された「ジャイアント馬場引退試合」には駆けつけ、馬場さんに別れを告げた。
死去する前に馬場さんは三沢光晴と元子夫人の対立に悩んだ際に「全日本はもういいか、後は三沢プロレスなり小橋プロレスをやればいい、オレは全日本の看板を持って出ていくから」と和田京平さんにこぼしていたが、皮肉にも全日本プロレスの看板は代替わりしながらも、馬場さんの教えを乞うた秋山準に受け継がれている。
天国で馬場さんは現在の全日本プロレスをどう見ているだろうか・・・、今年も1月31日を迎える。
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全日本プロレスの全米進出・・・「IWF」構想とは?
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2017年1月13日週刊プロレス誌上で木谷高明オーナーが新日本プロレスの全米進出プランを明らかにしたが、現在はネット全盛の時代で新日本の試合も海外で見られ、また海外の試合も見られるようになったことから、つくづく時代が変わったと痛感させられる。
1980年代には新日本プロレスが全米進出を考える前にジャイアント馬場体制の全日本プロレスが全米進出を計画したことがあった。
1987年11月、ジャイアント馬場さんがIWF構想を掲げ全米進出計画を発表した。アメリカなど海外に頻繁に遠征していた馬場さんだったが、この頃になるとWWFやWCWの侵略によってテリトリー制度が崩壊し、NWA側の大物プロモーターだった馬場さんのWCWのトップでありNWA会長でもあったジム・クロケットJrとの間に亀裂が生じ始めていた。
馬場さんのプランはWWFやWCWによって崩壊寸前のテリトリーをIWF中心にまとめ、世界王者を認定して第三勢力を作り上げ、また全日本プロレスと契約している選手をIWFのテリトリーに派遣するという計画であり、元NWA会長だったボブ・ガイゲルやAWAのバーン・ガニアも協力する姿勢を見せていた。ガイゲルもこの頃にはNWAから離れてWWAなる団体を旗揚げしていたがWWFやWCWに太刀打ちできる力はなく、AWAも選手が次々と離れていたことで崩壊寸前にまで追いやられていた。
翌年の88年から馬場さんは計画推進のため動き出し各プロモーターに働きかけるも快い返事はもらえず、AWAにいたっては新日本プロレスとの提携を結んでしまったこともあって計画から手を引いてしまった。
それでも馬場さんはハワイにてAUP(オール・ジャパン・イン・USA)と名前を変えてプレ旗揚げ戦を全日本の所属していた選手や参戦、またフリーを中心とした選手を集めて開催、89年の1月にガイゲルの協力もあってガイゲルのお膝元であるカンザスにて旗揚げ興行を開催し、全日本プロレスからもジャンボ鶴田、谷津嘉章、天龍源一郎、タイガーマスク、スタン・ハンセン、テリー・ゴーディ、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク、ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスを投入したが、寒波襲来もあって不入りに終わり、この大会を契機にIWF構想は頓挫した。
馬場さんが計画したのは昔のテリトリー制度の復活であり、全日本プロレスそのものをアメリカに持ち込む計画ではなかった、馬場さんとてアメリカマット界の流れを変えるまでには至らなかった。
その後馬場さんの全日本プロレスはNWAからも脱退して日本国内重視に方針を変えていったが、馬場さんなりのアメリカマットへと決別だったのか、1998年にWWFが全日本に急接近し馬場さんも自ら交渉にあたろうとしたが、馬場さんが死去したことでWWFとの交渉も実現することはなかった・・・
(参考文献=GスピリッツVol。38=小泉悦史「ジャイアント馬場の海外行脚」より) -
長州力が結婚、そしてジャパンプロレス分裂劇、新日本Uターンから30年あまり・・・
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2017年1月13日日本テレビ系列で放送された「行列のできる法律相談所3時間SP」で長州力が夫人である英子さんと共に出演したが、英子さんがTVに出演するのは自分の記憶が正しければおそらく2度目、昭和61年4月に当時火曜日に放送された「ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング」にて長州の披露宴が生放送され、そのときに英子夫人が披露されたが、このときの長州は当時参戦していた全日本プロレスから新日本プロレスへのUターンが取り沙汰されていた時期でもあった。
長州は維新軍団や新日本の中堅・若手らと共に昭和59年9月に新日本を離れてジャパンプロレスへ移籍、ジャパンと提携していた全日本プロレスへ参戦するようになっていたが、61年ごろになると全日本での戦っていくことに行き詰まりを感じるだけでなく、ジャパン内の内紛に悩まされるようになっていた。
そこで新日本側からUターンを持ちかけられ、右手首の腱鞘炎を理由にシリーズを欠場したことで新日本へのUターンは秒読み段階に入っていたが、今思えばワープロ内で放送した長州の結婚披露宴理由は新日本へUターンするという既成事実を作りたかったのか、それだけ当時の長州は商品価値が高い存在でもあった。当然全日本も黙ってはおらず法的処置も辞さない姿勢を示したが、長州は自分に追随する選手だけを率いて新日本へ強行Uターンを図るも(ジャパンプロレスは分裂)、日本テレビとの契約とも契約を結んでいたことで日本テレビ以外で長州の試合は放送できないことになっており、長州はリングサイドなどでテレビ朝日の画面に映ることはあっても、試合は放送されない日々が続き、長州の試合はワープロに放送されたのは半年後の10月だった(長州と馬場との話し合いで放送契約は解除となった)が今思えば馬場さんなりの長州や新日本、またテレビ朝日に対する報復だったのかもしれない
長州が結婚した昭和61年は激動の年でもあったが、長州が結婚して30年余り、改めて時の流れを痛感してしまう。