プロレス史
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千代の富士と大日本プロレス構想
昭和の名横綱の一人である千代の富士こと九重親方が死去した、享年61歳。
なぜここで千代の富士のことを触れるのかというと、一度だけプロレス入りの話があったからだった。
仕掛け人はタイガーマスクの原作者である梶原一騎で、社長には当時野球解説者だった豊田泰光氏、役員には元日本プロレスである吉村道明と当時梶原氏の用心棒的存在だったユセフ・トルコが就任し大相撲の高見山(東関親方)と千代の富士をエースとした「大日本プロレス」を1978年に旗揚げしようと計画していた。
しかし役員の一人が出資金である1億5000万を全額使い込んでしまい計画は頓挫してしまったが、使い込みはなかったらグレート小鹿より先に大日本プロレスが旗揚げされていたのかもしれないが、高見山と千代の富士がプロレス入りをするかどうか、今となっては真意はわからない。
その後梶原氏とトルコ氏の「大日本プロレス」構想は昭和58年に再び再燃し、アントニオ猪木とジャンボ鶴田、維新軍団を起こしたばかりの長州力、アニマル浜口をエースとして計画されたが、ここでも若いスタッフが出資金を全額使い込んでしまい頓挫、梶原氏だけでなくトルコ氏も恐喝事件で逮捕され計画は永遠に封印された。
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大仁田厚とチャボ・ゲレロ シンデレラスターだった時代
(スポーツ報知より)
24日の試合で右前腕を骨折し全治3か月と診断された元参院議員でプロレスラーの大仁田厚(58)が26日、東京・渋谷区の事務所で会見し、8月26日にディファ有明での新団体「ファイヤー・プロレス」の旗揚げ戦で、かつてのライバル、チャボ・ゲレロ(67)とタッグを組むことを発表した。右手をギプスで固定した大仁田は「33年ぶりにチャボから戦いたいと電話があり、タッグを組んでくれと要請したらOKしてくれた」と大仁田はうれしそうに話した。大仁田は1982年に米国でチャボからNWAインタージュニア王座を奪取し、翌年にかけて日本で抗争を繰り広げたライバル。85年に大仁田が“最初の”引退をしてから、接点はなかった。
対戦相手は、ケンドー・カシン(47)の“はぐれIGF軍”と決まっているが、「カシンよ、藤田を連れてこい」とパートナーに総合格闘技RIZINに参戦中の藤田和之(45)を要求した。試合形式は「爆破の集大成にしたい。消防署と相談中」とした。
24日の船木誠勝(47)とのFMW対UWFの大将戦で骨折した右前腕は「右尺骨遠位端骨折」で全治3か月と診断され、8月1日に入院し、2日に手術(観血的整復内固定術)を受けるが、今月29日の水戸大会、8月に予定している9大会には強行出場する。「トップを張るならリングに上がり続けろ」という師匠・ジャイアント馬場さんの教えを実践する覚悟だ。
24日の超花火・大阪大会で船木誠勝のキックを受けた際に右手を鉄柱に直撃し骨折してしまった大仁田厚が会見を開き、欠場が濃厚とされていた新団体「ファイヤー・プロレス」のに旗揚げ戦(26日、ディファ有明)に強行出場することを発表された。
大仁田の右手の骨折は全治3ヶ月の重傷、1日に入院し2日に手術する予定だという、医師の立場からすればドクターストップかもしれないが、大仁田は師匠であるジャイアント馬場さんを引き合いに出していたものの、FMWもファイヤープロレスも大仁田が主役だけに安易に休めないというのもあるのかもしれない。
そして記事のなかで注目したのはチャボ・ゲレロの存在、1982年3月ノースカロライナ州シャーロッテでチャボが保持していたNWAインターナショナルジュニアヘビー級王座に海外武者修行中の大仁田が挑戦した、当時の日本マット界は新日本プロレスが初代タイガーマスク人気に沸いており、ライバル団体だった全日本もジュニアに力を入れざる得なくなり、ジュニアのエース候補として大仁田を抜擢、大仁田は回転エビ固めで3カウントを奪い王座を奪取し期待に応えた。全日本にしてみれば藤波辰爾がニューヨークMSGでWWFジュニア王座を奪取したように、大仁田も海外で王座を奪取したということでシンデレラスターとして扱いたいという思惑もあったのかもしれない。
大仁田とチャボの戦いはこの1戦に終わらず、日本に移って戦いが継続し、1982年7月にチャボが挑戦するもジャーマンスープレックスが崩れてダブルフォールとなり、王座は一旦PWF預かりとされると、王座決定三番勝負が組まれ、1勝1敗の後での決着戦では大仁田が逆さ押さえ込みでチャボを下し王座を奪還も、試合後にチャボが勝利者トロフィーを奪って大仁田を殴打する暴挙を働いたことで、抗争は継続かと思われたが、翌年に大仁田が左膝を骨折したため王座を返上、王座は決定リーグ戦を制したチャボに戻り、抗争相手は大仁田からマイティ井上へと変わったことで二人は二度と対戦することはなかった。
大仁田の歴史の中でもチャボはどうしても欠かせない存在、二人が揃うときは邪道・大仁田ではなくシンデレラスターだった大仁田を思い出すかもしれない。
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グレート小鹿とアジアタッグ王座
(11日大日本プロレス・東京ドームホテル札幌大会でアジアタッグ選手権の試合後=週プロモバイルより)
イサミ「なんとか札幌でも防衛することができました! 札幌の地で、小鹿さんに認定書読んでもらって、小鹿さんからベルトを返還してもらって、ホントに嬉しい限りです! ですがね、私は思いました。小鹿さん、あなたはもう認定書を読むだけで十分なんですか!? あなたはベルトを返還するだけでもう満足なんですか!? もうアジアタッグには興味がないんですか!?(小鹿がくる)小鹿さん、端的に言いますよ! 僕らのこれ以上ないオヤジ狩りに付き合ってもらえませんか?」小鹿「あのさ、オマエらのきょうの試合最高だったよ。挑戦者の丸山、竹田選手。素晴らしい試合だよ。だけど俺はリング上がってる以上は、このベルト、一回もあきらめたことない。もし、そのベルトに挑戦するとしたら、俺の腹の中は、パートナーは決まってるんだ!(とマイクをイサミに渡す)」
イサミ「俺は無理ですよ! パートナーは決まってる? 私とですか?」
宮本「大熊さんはいませんよ」
小鹿「オマエらとぼけるんじゃねえよ。死んだヤツが、なんで出てくるんだよ。大日本の看板をしょってるあるレスラーだよ。これだけしかいまは言えない。ただそれだけや!」
イサミ「パートナーが決まってると言うんだったら、小鹿さん、勝負しましょうよ。パートナーは関係ないですよ。僕らが狙うのは小鹿さん一人なんで。一方的に狙い続けます。私の足のように、一方的に狙い続けます。僕らは狙い続けますよ。小鹿さんとアジアタッグができることを夢見て願い続けましょう、防衛し続けましょう」
11日大日本プロレス・東京ドームホテル札幌大会でアジアタッグ選手権が行われ、王者のヤンキー二丁拳銃(木高イサミ、宮本裕向)が丸山敦、竹田誠志を降しアジアタッグ王座を防衛したが、試合後に今年で28日で74歳を迎えるグレート小鹿がアジアタッグ王座に挑戦を表明した。決定となれば(全日本=PWFの承認待ち)小鹿がアジアタッグに挑戦するのは1983年以来で33年ぶりとなる。
小鹿は過去アジアタッグ王座を5回戴冠しており、うち4回は大熊元司との極道コンビでの戴冠だった。
アジアタッグ王座は元々日本プロレス時代からのタイトルで力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木なども戴冠したことがあったが、インターナショナルタッグ王座が定着してからは№2のタイトルに格下げ、日本プロレス崩壊後は一時封印されたが、新日本プロレスが独自にアジアタッグ王座設立に動いたため、全日本プロレスが新日本への牽制で日本プロレスからアジアタッグ王座を権利を獲得し、NWA公認PWF認可のベルトとして復活、王者には小鹿と大熊の極道コンビが着き、ジェリー・オーツ&テッド・オーツ、高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)&サムソン・クツワダ、当時国際プロレスの所属だったマイティ井上&アニマル浜口組に王座を明け渡したものの、極道コンビはすぐ奪還、(4回目の王座奪取は防衛期限切れで王座が剥奪され、王座決定戦で奪還=決定戦の相手はザ・キウイズと名乗っていたザ・ブッシュワッカーズ、後にWWE殿堂入り)、1976~1981年のアジアタッグ戦線は極道コンビの独壇場だった。
だが1981年に極道コンビはケビン・フォン・エリック&デビッド・フォン・エリックのエリック兄弟にアジアタッグ王座を明け渡すと、これを契機にアジアタッグ戦線の若返りが図られ、ブッカーに就任した佐藤昭雄、石川隆士、国際プロレスから移籍した阿修羅・原、井上がアジアタッグ戦線の中心となり、極道コンビは1983年2月、3月に当時王者だった原&井上に挑戦したが、2度とも敗れ王座奪取はならず、極道コンビは二度とアジアタッグ王座に挑戦することはなかった。
その後小鹿も全日本を離れたことで極道コンビも解消、1992年に全日本に留まった大熊も死去した、関本大介&岡林裕二がアジアタッグ王座を獲得したことで、小鹿とアジアタッグ王座の縁が復活し、33年ぶりに挑戦しようとしている。
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スタン・ハンセンとWWE
スタン・ハンセンのWWE殿堂入りが発表された。
ハンセンのWWEとは意外な組み合わせかもしれないが、ハンセンがレスラーとして大ブレイクしたきっかけを掴んだのはWWEで、テンガロンハットに左腕のサポーター、カウボーイスタイルの入場コスチュームなど、プロレスラー・ハンセンのキャラも作り上げたのも作り上げたのもWWEだった。
そしてハンセンは当時のWWEのトップスターだったブルーノ・サンマルチノの首をウエスタンラリアットで折ったことで、一気にスターダムへと昇り上がったが、実際はラリアットで折ったわけでなく、ハンセンのボディースラムのミスによるアクシデントが定説となっているものの、ハンセンは英雄サンマルチノの首を折ったということでヒールのトップとなった。しかし新参者がアクシデントとはいえトップに立ったことで他の選手らの嫉妬を買い、先代ビンス・マクマホンからも嫌われたが、悩むハンセンをケアしたのは意外にも欠場に追いやられたサンマルチノだった。
しばらくしてサンマルチノが復帰してハンセンにリベンジを果たし、サンマルチノの抗争相手はハンセンの盟友であるフランク・ゴーディシュことブルーザー・ブロディに交代した(ブロディのリングネームを命名したのも先代ビンスだった)、そしてハンセンは先代ビンスと揉めてWWEを去ることになったが、新日本プロレスへブッキングしたのは意外にも先代ビンスだった、先代ビンスは厄介払いしたかったのかもしれないが、ハンセンはアントニオ猪木との抗争で日本でもブレイクした、最後まで先代ビンスには嫌われ続けていたハンセンだったが、先代ビンスの選択には今でも感謝しているという。
ハンセンは新日本から全日本プロレスへ移籍したが、WWEとは縁が切れたわけでなく、WWEのトップとなっていたハルク・ホーガンの初主演映画「ゴールデンボンバー」に出演し、日米レスリングサミットではテリー・ゴーディに代わりホーガンの相手を務め、猪木がWWE殿堂入りをする際はインダクターを務めた。ハンセンにとってWWEはブレイクするきっかけを作ってくれた団体であり、WWEもサンマルチノとの抗争や引退後もWWEに協力的だったことを高く評価したこそ殿堂入りとなったのではと思う。
スタン・ハンセンはアメリカより日本を主戦場にしていたことを考えると、日本のファンからしてみればハンセンの殿堂入りは喜ばしいことでもある。 -
日本初のイリミネーションマッチが行われたのは全日本プロレス・・・なぜ話題にならなかったのか?
@igapro24 @fullkichi 実は日本初のイリミネーションマッチは全日本プロレスのリングなんですよ。当時あまり話題にならなかったんですが。改めて調べたらそのことに触れたブログ記事がありました(文中の年が間違ってますが)。https://t.co/URdPicaKsO
— 高崎計三 「蹴りたがる女子」発売中! (@solitario_k) 2016, 3月 9自分が今朝ツイッターでのやりとりで新日本プロレスが日本初のイリミネーションマッチを行ったと発信したら、高崎計三氏から返信があり(ありがとうございます)、日本で初めてイリミネーションマッチを行ったのは昭和59年の全日本プロレスだということが明らかになった。
試合結果はこうなっている(サイトはこちら)
◎1986(昭和59)年6月14日・全日本プロレス後楽園ホール
イリミネーション8人タッグマッチ(時間無制限?)○G馬場、J鶴田、天龍源一郎、P.トンガ(一人残り)T.J.シン、上田馬之助、B.タイラー、鶴見五郎●
1.○鶴田(体固め、9:21)タイラー●
2.●トンガ(体固め、2:37)シン○
3.○天龍(片エビ固め、0:34)鶴見●
4.●天龍(片エビ固め、0:09)上田○
5.○馬場(片エビ固め、0:31)上田●
6.▲鶴田(両者リングアウト、2:17)シン▲
*シン組全滅、馬場の一人残りで全日側の勝利。当時の資料を調べてみると全日本プロレスは「グランド・チャンピオン・カーニバルⅡ」を開催、このときのチャンカンはシングルでの総当たり戦は封印、通常のシリーズとして行われ、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲと三シリーズに分けて開催されていた。
シリーズのメイン外国人はタイガージェット・シンと上田馬之助だったが、シリーズの前半戦にはNWA世界ヘビー級王座になったばかりのケリー・フォン・エリック、そして前王者のリック・フレアー、元王者のハーリー・レイス、後半戦にはピークが過ぎつつあったがビル・ロビンソンが特別参戦したが、当時のNWAのトップ3を揃えたのは同時期に新日本で開催されていた「第2回IWGP」への対抗意識の現れだったのかもしれない。また当時全日本所属でプエルトリコやカナダマットで活躍していたキング・ハクもプリンス・トンガのリングネームで凱旋した。
前半戦には鶴田がケリーのNWA王座に挑戦し1-1の引き分け(試合は3本勝負)、三日後にフレアーが挑戦して2-1で王座を奪還、その後レイスがフレアーに挑戦して1-1の引き分けとなったが、実質上のシリーズの主役はケリー、フレアー、レイスの3人であり、本来の主役であるシンも王座奪還したばかりのフレアーに挑戦を迫るなど自身のアピールに苦心していた、後半に参戦したロビンソンも2度鶴田の保持するインターナショナルヘビー級王座に二度挑戦したが、第一戦は両者リングアウト、第二戦は鶴田が勝利で王座を防衛した。
フル参戦しながらも主役になりえなかったシンは上田と組んで、馬場&鶴田組が返上し空位となっていたインタータッグ王座を巡って鶴田&天龍の鶴龍コンビと王座決定戦をシリーズの開幕戦で行ったが結果は無効試合、シリーズ後半には再戦を行ったが両者反則の引き分けに終わってしまい、決着もインタータッグ王座も持ち越しとなったが、鶴龍コンビが王者になったのは三ヶ月後で相手はシン&上田ではなかった(決定戦の相手はブルーザー・ブロディ&クラッシャー・ブラックウェル)
その中でシリーズ最終戦を迎え、全日本軍vsシン軍団のイリミネーション戦が行われたが、結果は馬場が一人残って全日本軍が勝利となるも、シンと上田が仲間割れとなり、上田はこのシリーズを最後に全日本をフェードアウト、トンガも大物揃いのシリーズでは目立った活躍もなく、日本には定着することはなかった。
全日本が行われたイリミネーションマッチが注目されなかったのは同日に行われた「第2回IWGP」のアントニオ猪木vsハルク・ホーガン戦での事件のせいもあったのかもしれないが、もう一つの理由があったとすればシンと上田がシリーズの主役ではなかったのもあったのかもしれない。
全日本と決別した上田は昭和60年。当時選手大量離脱で揺れる新日本プロレスに参戦、翌年に行われた新日本vsUWFのイリミネーションマッチでは、前田日明のキックを受け止めた上田がそのまま場外へと引きずり込み、両者オーバー・ザ・トップロープの場外心中という大活躍をした。
上田と切り離されたシンは上田以上のパートナーが見つからず、また長州力らジャパンプロレス勢の参戦もあってシリーズの主役に返り咲くことはなかった、それを考えると日本初のイリミネーションマッチは、ピークの過ぎたシンに引導渡した試合だったのかも知れない・・・
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ジュニア選手の座談会から始まったスーパーJカップ
1994年4月16日、両国国技館にて各団体のジュニアヘビー級選手が集まったトーナメント「スーパーJカップ」が開催された、開催のきっかけは単発もののプロレス雑誌だったと思う、獣神サンダー・ライガーを始め全日本プロレスを除く各団体のジュニアヘビー級選手が揃って座談会が行われ、その延長線上で団体の枠を超えた交流を通してジュニアの活性化を目的とした大会のライガーが開催を提案、座談会に参加した選手達の賛同を得て開催へと動いた。
ライガーは早速新日本プロレスへ企画を持ち込み、新日本側も乗り気となって4月16日の両国大会を提供、選手のブッキングに関しては新日本ではなく大会プロデューサーライガー自ら交渉に当たった。<出場選手>
ワイルド・ペガサス(WCW、優勝)
ザ・グレート・サスケ(みちのくプロレス、準優勝)
外道(WAR)※負傷欠場した折原昌夫の代役
ディーン・マレンコ(WCW)
スペル・デルフィン(みちのくプロレス)
大谷晋二郎(新日本プロレス)
ブラック・タイガー(WCW)
TAKAみちのく(みちのくプロレス)
エル・サムライ(新日本プロレス)
茂木正淑(SPWF)
リッキー・フジ(FMW)
ネグロ・カサス(EMLL)
獣神サンダー・ライガー(新日本プロレス)
ハヤブサ(FMW)新日本からはライガーを始め、サムライ、大谷、WCWの所属となっていたペガサス、ブラック・タイガー(エディ・ゲレロ)、ディーン・マレンコが参戦、新日本と提携関係だったWARからは当初折原昌夫がエントリーする予定だったが負傷で参戦できず、当時冬木軍に属していた外道が参戦した。FMWからは新日本出身だったフジ、そしてメキシコで修行していたハヤブサを大抜擢し、旗揚げしたばかりのみちのくからはサスケ、デルフィン、TAKA、SPWFからは茂木、メキシコEMLLからはカサスと豪華なメンバーが揃ったが、全日本プロレスは同日に武道館大会を開催していたため不参加となるも、同日は「スーパーJカップ」を意識したのか小川良成vs菊地毅が組まれていた。
大会は前評判が良かったのか超満員札止めとなり、TV中継も1時間枠だった「ワールドプロレスリング」が2週にわたって放送した。
1回戦から白熱とした試合が続出するも大ブレークしたのはハヤブサとTAKAで、日本に帰国したばかりのハヤブサは一回戦でいきなりライガーと対戦、ハヤブサはゴング前にライガーに奇襲をかけトペ・コンヒーロを炸裂させるなどファンの度肝を抜き、ライガーの最終兵器であるシューティングスタープレスまで披露したが、自力に優るライガーが反撃してフィッシャーマンズバスターで3カウントを奪うも、敗れたハヤブサはファンから高い評価を得た。
TAKAはブラック・タイガーと対戦し敗れたものの、当時入場テーマ曲に使用していた「みちのくひとり旅」が中継でも放送されて視聴者にもファンに大きなインパクトを与えた。
準決勝にはライガー、サスケ、ペガサス、外道が進出し、ライガーはサスケと対戦したがサスケも連戦の疲れが見え始めライガーに攻め込まれ、スワンダイブ式の技も失敗してしまう、だが一瞬のウラカンラナで逆転3カウントを奪い決勝に進出、ペガサスvs
外道も疲れは見え始めた外道にペガサスがワイルドボムを連発してからのダイビングヘッドバットで3カウントを奪い決勝に進出した。 -
猪木を始め新日本所属選手が実名で登場した「タイガーマスク二世」
新日本プロレスの木谷高明オーナーがに「タイガーマスク アニメ化計画」と「新日本プロレス所属の選手が実名で登場予定」を発表した。
タイガーマスクは梶原一騎の原作の漫画で日本プロレスの選手もジャイアント馬場、アントニオ猪木を始め日本プロレスの選手が実名で登場した。
そして昭和56年にはテレビ朝日系列で「タイガーマスク二世」が放送が開始された、伊達直人のタイガーマスクに憧れた孤児が自ら再興された「虎の穴」に入って修行を積み、卒業後は世界各地を旅してエジプトでタイガーマスクの覆面被ってタイガーマスク二世になり、アントニオ猪木率いる新日本プロレスと共に、日本プロレス界乗っ取りをたくらむ宇宙プロレス連盟と戦うストーリーで、こちらも猪木を始めとした新日本プロレス所属レスラーや新日本に移籍したばかりのアブドーラ・ザ・ブッチャーやスタン・ハンセンなど実名で登場。そして同時期に新日本マットで初代タイガーマスク(佐山聡)がデビュー、アニメでも初代タイガーの活躍ぶりが放送され、タイガー人気に一役買った。
そして21世紀に再びアニメでタイガーマスクが登場するが、果たしてどんなストーリーとなるのだろうか・・・
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橋本真也と90年代の新日本プロレス
7月11日で橋本真也が死去して10年が経過する。橋本真也とはどんなレスラーだったのか?豪快でぶっ壊すレスラー、パワーファイターでありながらも重たいキックを放ち、袈裟斬りチョップを放つ、まさしく破壊王の異名そのままであり橋本の魅力であり、また人間性にも出ていた。
橋本が新日本プロレスでデビューした1989年9月が武藤敬司や蝶野正洋など新人が大量にデビューした年でもあったというかせざる得ない状況だった、3月には前田日明が離脱してUWFを旗揚げ、9月には長州力ら維新軍団が離脱してジャパンプロレスを通じて全日本プロレスに参戦し、それをきっかけに前田や長州に追随するかのように中堅・若手がこぞって離脱したが、長州や前田らが離脱しなければ橋本を含む闘魂三銃士のデビューが遅れていたのも事実である。
橋本は同時期にデビューし海外修行に出ていた蝶野正洋、武藤敬司と共に闘魂三銃士を結成し、二人に先駆けて帰国した。橋本が帰国した当時1989年の新日本プロレスはこの年から東京ドームへ進出するも、テレビのゴールデンタイムからも外れ、第二次UWFの台頭、ライバル団体である全日本プロレスは天龍源一郎が中心となって活気づく状況で、新日本は藤波辰爾と長州力がトップとなっていったが、完全にピークを過ぎたアントニオ猪木が中心にせざる得ない状況が続いていた。
この年の4月24日東京ドーム大会に参戦した橋本はIWGPヘビー級王座決定トーナメントの1回戦で長州を破り、決勝では超ヘビー級であるビッグバン・ベイダーと対戦して敗れはしたが互角に渡り合うなどファンに大きなインパクトを与えた。その猪木が参議院議員に当選したため一歩引き、藤波も腰痛で長期欠場となったことで橋本はトップへと昇りつめるが、蝶野と武藤が帰国し新日本もWCWとの提携が中心になったことで、橋本は大きく後退、新日本が最も期待をかけていた武藤に遅れを取るようになった。新日本はWCW路線から天龍率いるWARとの対抗戦が中心となると橋本は対天龍に名乗りを挙げ、天龍と対戦することで橋本自身も再浮上しグレート・ムタを破ってIWGPヘビー級王座を奪取、以降橋本が新日本の中心となりスポットで参戦する猪木に代わってドーム大会を締めくくるようになっていったが、新日本は創始者として猪木、現場監督として長州が新日本で幅を利かせていた。
1998年に長州、猪木が続けて引退したが、この二人の引退が橋本の新日本でのレスラー人生を大きく左右させた、IWGPヘビー級王座から転落した橋本はいつしか新日本全体を仕切りたいを考え始めたが、長州が現役を引退しても現場監督として現場を牛耳る現状は変わらなかった、橋本は長州に対して現場監督からの退陣を要求していた、またこの頃の新日本は方向性を巡って選挙で落選しオーナーとして新日本に口出すようになっていた猪木と長州が対立し始めていた、その中で起きた小川直也によるセメント事件、長州との対立でストレスを溜め込みコンディションを崩していた橋本はセメントを仕掛けてきた小川になすすべもなかった、橋本は猪木の敷いた路線に乗るかのように小川と抗争を展開したが、2000年4月7日の東京ドームで小川に敗れた橋本は新日本を去っていった。今思えば橋本が去ったことで90年代の新日本プロレスの終わってしまった、橋本が小川に敗れたのは今思えば時代の流れでもあった。
1990年代のプロレスは新日本プロレスは闘魂三銃士、全日本プロレスは四天王の時代、2000年になるとそれぞれがジャイアント馬場、アントニオ猪木の手のひらから出て新しい時代を築いていったと同時にB,I時代は終わりを告げた。そして橋本はZERO-ONEという一国一城の主となるも守りきれず、最後は一レスラーとして生涯を閉じた、橋本が生きていたらどんなプロレス人生を送っていただろうか・・・
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なぜNWA世界ジュニアヘビー級王座が曰くつきの王座となったのか!?
10月13日、新日本プロレス両国大会でBUSHIがNWA世界ジュニアヘビー級王座に挑戦する。自分がこの王座を知ったのは昭和57年5月25日、当時王者だったレス・ソントンに初代タイガーマスクが挑戦し王座を奪取、その後初代タイガーは初代ブラックタイガーを破ってWWFジュニアヘビー級王座も奪取しジュニア二冠王の偉業を達成してからだった。
なぜ曰く付きの王座なのか、歴史を紐解けば1943年に王座が創設(初代王者はケン・フェネロン)。1949年にはレロイ・マグガークが王者となるも交通事故で失明したため引退、オクラホマのプロモーターとなったマグガークにNWAは世界ジュニア王座の管理を委託、NWA世界ジュニア王座はマグガークのテリトリーであるオクラホマ、ルイジアナ、ミシシッピ、アーカンソーを中心に選手権が行われた。
NWA世界ジュニア王座はマグガークの管理化の時代はダニー・ホッジを始め後のAWAの帝王となるバーン・ガニア、アマリロの大物プロモーターでザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク)の父親であるドリー・ファンク・シニア、WWA王者となるフレッド・ブラッシー、ホッジのライバルであるヒロ・マツダなどが歴代王者に名を連ねるも1960〜1970年代はさほど注目される王座ではなかった。
1978年に新日本プロレスの藤波辰爾がWWF(WWE)ジュニアヘビー級王座を奪取すると、日本でジュニアヘビーブームが巻き起こり、新日本は当然ながらNWA世界ジュニア王座にも目をつけるが、当時の新日本はNWAの会員でありながらも世界王座のブッキング権は全日本プロレスに独占され、ジュニア王座も全日本が最優先とされた(全日本ではケン・マンテルvsジャンボ鶴田、マツダvsマイティ井上、ネルソン・ロイヤルvsアド・マドリルがNWA世界ジュニアヘビー級選手権として行われた)。
そこで新日本は反主流派の大物プロモーターであるWWFの先代ビンス・マクマホンとフロリダのプロモーターであるエディ・グラハムと組み、当時の王者だったロイヤルが引退したのをよいことにマグガークを無視して勝手に王座決定トーナメントを開催、その王座は日本に渡り藤波が王者となりNWAインターナショナルジュニアヘビー級王座となって新日本の王座となった、マグガークも反撃して王座決定トーナメントを開催しNWA世界ジュニア王座が二つ存在するという事態を招くもマグガークが主流派に属していたのもあって、マグガークの管理するNWA世界ジュニア王座が正当であると認められた。
ところが1981年に日本では外国人選手の引き抜き戦争が勃発、全日本は当時のインタージュニア王者だったチャボ・ゲレロを王座ごと新日本から引き抜く、またアメリカではマグガークがブッカーだったビル・ワットと対立、ワットはマグガークに叛旗を翻してMSWAを設立、マグガークとMSWAは興行戦争となるが、主力選手のほとんどがMSWAに走ったためマグガークは惨敗しプロモーターから引退する、この頃にはソントンが既に王者だったがマグガークが王座の管理権も放棄していたため、おそらくだが個人で所有し防衛戦を続けていた。
管理者不在の王座に目をつけた新日本はソントンを招き、初代タイガーが王者となるが、NWAのアジア支部長だった全日本のジャイアント馬場がNWA会長だったボブ・ガイケルに抗議する。しかし「まあまあ、そんなに事を荒立てず。今回は全日が折れてくれよ」とNWA本部が認めてしまったため渋々承認するも、馬場は「ただ、向こうさん(新日本)のタイトルはもうNWAは管理していないんです。管理していたレロイ・マクガークは引退してNWAから脱退している。かといって新日本に管理を委ねたなんて話は、少なくとも(NWAアジア支部長の)俺は聞いてない。現にソントンはその後もテキサス、プエルトリコで王者としてタイトルマッチを行っている。一体誰があのベルトを管理しているのか、そこら辺はハッキリさせなくていいんでしょうかね?」と強引なやり方で王座の管理権を取得した新日本を批判した。
その後全日本に渡ったインターナショナルジュニアヘビー級王座はNWAから、「今後は半永久的にPWFと全日本プロレスに一任する」と全日本の王座となり、後に世界ジュニアヘビー級王座と改められ、ベルトも一新して現在に至る。
NWA世界ジュニア王座はWWFと共に新日本が管理し初代タイガーの後はザ・コブラが王者となるが、その間にソントンが勝手に王者を名乗る事態も発生する(その後ソントンがWWFへ移籍したため王座は返上となる)。WWFがNWAから脱退、新日本もWWEとの業務提携を解消したためベルトは返上となり、ベルトはNWA第一副会長だった馬場によってNWAの直轄となるも、この頃にはWWFが全米侵攻を開始、NWAは組織が低下すると共に王座の権威も低下する。その後新日本を始めとする各団体が提唱したジュニア8冠王座の一つとなったり、4代目タイガーマスクが奪取するがIWGPジュニアヘビー級王座より格下と扱われた。
現在の王者はチェイス・オーウェンズという選手だが、どんな選手なのかは不明も既に3度も王座を奪取しているという。果たしてBUSHIが王座を奪取して王座の権威を取り戻すのだろうか・・・? -
テレ朝の新番組でジャンボ鶴田vs長州力を特集・・・果たして勝者は誰だったのか?
テレビ朝日公式HPより
「侃侃諤諤(カンカンガクガク)」とは正しいと思うことを堂々と主張する様。
特に主義や主張を持っているからこそ熱く激しい討論となること。
この番組では「あるある的な問題」から「地域問題」など、日本人が関心のある様々な
テーマを取り上げ、そのテーマに対して熱を持つ、ファン、マニア、研究者、専門家たち
のインタビューショーを、笑いあり情報ありのVTR形式でお見せしていきます。
10月3日(木)
「ジャンボ鶴田 VS 長州力」強いのはどっち??
今日からテレビ朝日系列で始まる「侃侃諤諤(かんかんがくがく)(司会・太田光)という番組で鶴田vs長州どっちが強いのか討論することになった。
鶴田vs長州は1985年11月4日、全日本プロレス・大阪城ホール大会で実現した試合で試合は60分フルタイムドローとなった。
残念ながらこの番組は大阪や名古屋でも現時点で放送するかわからない(CSでいいから放送してくれないかな・・・)
鶴田と長州はどっちが強かったのか、1試合だけだったが試合は内容的には鶴田の勝利、長州のハイスパートレスリングに対し、鶴田は最初から長期戦狙いでどっしり構える、鶴田にどっしり構えられるとさすがの長州も鶴田のフィールドで勝負せざる得ない、長州が鶴田のペースを崩そうとしても王者のプロレスで軌道をしっかり修正し、力で押さえつけようとしても体格差でスタミナをロスしてしまう、それで60分も試合をさせられたものだから長州にしてみれば思い切りしんどい試合だったのではと思う。
またここでもジャイアント馬場さんの王道プロレスの片鱗が見られた試合でもあった、馬場さんは鶴田に「自分から動くな、常にリングの中央で構えて長州を動かすんだ、それだけでどちらかが格上かがわかる、もし時間切れになりそうだったら、最後に攻めていろ、最後に攻めていたほうが勝ちなんだ」とアドバイスを贈り、見ている側に長州より鶴田の方が格上だというものを印象を付けさせた。そういった意味では本当の勝者は馬場さんの王道プロレスなのかもしれない。
鶴田は死去し長州はまだ現役を続けている、ミュンヘンオリンピックのレスリング代表から同時期にプロレス入りし、団体が違いと育成方の違いもあって、周囲かからも比べられ、また長州自身も意識せざるえない存在だったが、近年に長州が鶴田戦のことを振り返り「ボクシングのような判定制だったら(俺の)負けだったな」「彼には勝てないよ」とコメントしていることから、現在でも鶴田に対する劣等感は背負ったままなのかなと思っている。 -
ブルーザー・ブロディ
今日はブルーザー・ブロディの命日、自分がプロレスファンを始めた昭和56年頃のブロディはドリー・ファンク・ジュニアとインターナショナルヘビー級王座を巡る抗争中で、ブロディがドリーの息子であるディンク君をキングコングニーでKOする暴挙を働いていた、全日本プロレス創立10周年記念大会の蔵前国技館では息子をKOされ完全に冷静さを失ったドリーがブロディのチェーンを奪い制止するジョー樋口レフェリーを突き飛ばして反則負け、ブロディは新日本プロレスに引き抜かれたアブドーラ・ザ・ブッチャーに代わりザ・ファンクスの敵役になることで全日本プロレスのトップ外国人選手へと昇りつめた。
スタン・ハンセンとの超獣コンビ、ジャンボ鶴田とのインターナショナルヘビー級王座巡る抗争で全日本にとって欠かせない存在となったブロディだったが、鶴田にインター王座を明け渡してから立場が微妙なものになり、昭和60年に新日本プロレスから全日本に戦場を移してきた長州力を徹底的に痛めつけたあとで新日本に移籍(ザ・グレート・カブキによるとブッチャーに誘われる形での移籍だったという)、ブロディの相手はアントニオ猪木となったが、プロモーターと揉めるブロディは新日本ではコントロールすることが出来ず、新日本マットから追放され、日本マット界から締め出された。今思えば馬場さんがブロディの離脱に関して事を荒立てようとしなかったのは、新日本ではブロディは扱うことは出来ないと考えていたのかもしれない。
昭和62年にブロディは全日本にUターンした、馬場さんは裏切った人間を二度と使わないことを主義にしていたが、ブロディはカブキとフリッツ・フォン・エリックのとりなしがあり、新日本側が長州を奪還して貸しがあったことから、借りを返す意味でブロディを奪還することが出来Uターンを認めた。ブロディは株をしており大損をしたということで金が必要となり馬場さんに泣きついたという話もあった。馬場さんは「昔と違って扱いやすくなった」と周囲に漏らしていたという。
最強タッグでは盟友であるハンセンとタッグながら対戦も実現させ、昭和63年にブロディは鶴田からインター王座を奪還、天龍源一郎とPWFヘビー級、UNヘビー級をかけた三冠統一戦も実現させた、鶴田に初フォール負けを喫しインター王座を明け渡したが、ハンセンとのシングル戦という話も浮上していた最中の7月16日『ズームイン朝』でブロディ死去の一報を聴いた。
ブルーザー・ブロディは今でも自分の中では好きなレスラーの一人である。 -
田上明はジャンボ鶴田の最後の正パートナーだった
今日はジャンボ鶴田の命日、そして昨日に田上明が引退を表明したことで、鶴田と田上のタッグについて書きたいと思う。
鶴田は過去にジャイアント馬場さん、天龍源一郎、2代目タイガーマスクこと三沢光晴、谷津嘉章、ザ・グレート・カブキと組んできたが、鶴田にとって田上は最後の正パートナーだった、
1990年に天龍源一郎だけでなく中堅や若手が全日本プロレスを退団して設立したばかりのSWSへと移籍していった、当時の鶴田は谷津嘉章、ザ・グレート・カブキと組んで三沢光晴率いる超世代軍の壁となっていたが、谷津が退団してSWSへと移籍、鶴田はカブキと組んでテリー・ゴーディ、スティーブ・ウイリアムス組を破り世界タッグ王座を奪取したが、シリーズ終了後にカブキも全日本プロレスを退団してSWSへと移籍、鶴田は正パートナーが不在の状況となってしまい、その鶴田のパートナーに抜擢されたのは超世代軍の一員だった田上だった。
田上は鶴田軍の一員となり、三沢率いる超世代軍やスタン・ハンセン、ゴーディ、ウイリアムス率いる外国人組と対戦していったが、タッグを結成した当時はいきなり超世代軍から鶴田軍へ移ったことでの戸惑いもあったのか田上自身がドタバタしていて、鶴田や鶴田軍の参謀格だった渕正信がリードしているという印象が強かったが、組んだ当初は鶴田も我慢していたと思う。田上も鶴田のファイトスタイルを模倣するなどして鶴田の足手まといにならないように懸命に喰らいついていった。
世界タッグ王座はなかなか獲得することが出来なかったが1992年にゴーディ、ウイリアムス組を破ってやっと獲得、だがこの頃から鶴田の体調が悪くなった影響なのか、鶴田が一歩引いて田上がフィニッシュを任される機会が増えていった。そして10月にゴーディ、ウイリアムス組を破り王座を防衛した後、世界最強タッグリーグ開幕直前で鶴田がB型肝炎で欠場、長期欠場することで田上とのコンビは解消となった。チームとしての実働期間は2年で世界タッグ王座は1回だけだったが、鶴田とのタッグで田上も成長して今日があるではと思う。 -
力道山没後50年で力道山を刺した男が死去
(毎日新聞より) 戦後のヒーローとして国民的人気があったプロレスラーの力道山(当時39歳)をナイフで刺して死亡させたとして、懲役7年の実刑判決を受けた当時暴力団組員の村田勝志元受刑者(74)が亡くなっていたことが12日、関係者への取材で分かった。関係者によると、死因は病死とみられ、東京都内の病院で9日ごろに死亡したという。
東京地裁の判決などによると、1963(昭和38)年12月8日深夜、千代田区永田町のナイトクラブで力道山とけんかになり、腹をナイフで刺した。当初、命に別条はないとされたが、力道山はこの傷が原因で1週間後に死亡。村田元受刑者もボディーガード役に殴られて入院していたが、容体が回復後に逮捕された。
力道山は40年に角界入りし、関脇まで昇進した後に引退してプロレスラーに転身。空手チョップで人気を博し、プロレス中継する街頭テレビは黒山の人だかりとなった。
力道山没後50年で力道山をナイフで刺して死亡させた村田勝志元受刑者が病死で死亡していたことが明らかになった。
昭和38年12月8日、赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で酒を飲んでいた力道山に大日本興業の暴力団員だった村田元受刑者が通りかかった際に、力道山が足を踏んだ踏まないので口論となり、力道山が仲直りをしようとして和解を持ち出すが村田受刑者は「自分の立場がないと」と拒否、力道山は村田元受刑者の顎を殴り倒したところで馬乗りとなって殴り、村田元受刑者は“殺される”と判断して力道山の脇腹をナイフで刺した・・・
力道山は感情の起伏が激しく、特に酒が入ると粗暴となり、暴力沙汰を起こして新聞に報道されることが多く、また当時のプロレス興行は暴力団と密接な関係にあったにも関わらず暴力団とのトラブルも耐えなかった。また力道山もこの時期はレスラーとしても下り坂にさしかかっていたことから、痛みを和らげるために酒の量が多くなっていたという。
力道山は刺された7日目の12月15日に化膿性腹膜炎で死去、医療事故説もあったが、長年の激闘のツケもあって内蔵も悪くしていたのもあり、結果的にはナイフで内臓を刺されたことが遠因とされた。
昭和50年代に古いプロレス関係者は「力道山が生きていれば3団体(新日本、全日本、国際)に分かれてなかった」とコメントしているが、力道山は引退後のことを考えて事業に走って借金を抱え、またジャイアント馬場さんも力道山のことは快く思っておらず、アントニオ猪木も力道山を称えながらも本音ではと含むこともあり、日本プロレスも力道山の作った借金を背負うのを嫌がって事業と切り離したことを考えると、例え力道山が生きていてもプロレス界の分裂は避けられず、また力道山も性格的な問題や事業問題もあって晩節を汚す結果になっていたのではと思う。
そして没後50年で力道山を刺した村田元受刑者も死去、またこれも偶然とはいえ因縁めいたものを感じた。 -
ボブ・サップもIWGPヘビー級王者だった・・・
話が少し遅くなるが新日本プロレス1月4日東京ドーム大会のカードが変更され第1試合の6人タッグマッチ(中西学、MVP、ストロングマンvs矢野通、飯塚高史、高橋裕二郎)が本隊側に曙、CHAOS側にボブ・サップが加わり、8人タッグマッチ(中西、MVP、ストロングマン、曙vs矢野、飯塚、裕二郎、サップ)に変更となった。
曙とサップは「K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!」で対戦しサップがKO勝利を収め瞬間視聴率も紅白歌合戦を超えたが、あれから9年も経つとは時の流れを感じてしまう。
またサップが新日本に参戦するもの8年ぶり、サップもかつてはIWGPヘビー級王者でもあった。サップは2002年からPRIDEに参戦、それ以降はFEG体制のK-1の“顔”となって「INOKI BOM-BA-YE 2002」での高山善廣戦では高視聴率を獲得、2002年のプロレス大賞も受賞、バラエティー番組などにも出演するなど絶大な人気を誇っていた。
サップが新日本のリングに参戦したのも絶頂期である2002年から当時ブッカーを務めていた上井文彦氏がサップの人気とレスラー経験のあることに目をつけて谷川貞治氏にサップ参戦のオファーをかけ、同年の10月14日の東京ドーム大会では中西と対戦、サップはドロップキックで中西を場外へ吹き飛ばしリングアウト勝ちを収め、その後もビッグマッチ要員として新日本に参戦した。
2004年3月28日に魔界倶楽部の一員となったサップは佐々木健介の保持するIWGPヘビー級王座に挑戦して奪取、試合後に魔界倶楽部を裏切ってK-1ファイターらをリングに呼び込んでジャック、新日本vsK-1の図式を作り上げた。
サップは5月の東京ドームで中邑真輔を破り初防衛を果たし、6月の大阪府立体育会館大会では棚橋弘至との防衛戦が決まっていたが、その直前の5月22日に開催された「K-1 ROMANEX」で藤田和之と対戦するも藤田の打撃の前にワンサイドで敗戦を喫してしまい、サップは試合後に負傷を理由にして王座を返上、6月の大阪大会ではサップの代わりに藤田が出場して棚橋と王座決定戦となるも、このときはアントニオ猪木が初代IWGPベルトである猪木ベルトを持ち出して藤田に巻かせるなどしてIWGPの権威が問われた。
しかし藤田vsサップ戦がきっかけになったのかサップの商品価値が一気に落ちてしまい凋落の一途をたどってしまった、 今思えば新日本とサップは何だったのかというと、新日本にしてみればサップは人気もあったことから集客力のある存在だったが、サップを壊してしまったのは皮肉にも猪木の遺伝子を引き継いだ藤田だったということ、これも猪木からのメッセージだったのかどうかは定かではない。
サップは今ではIGFのかませ犬要員、かたやサップが破った曙はプロレス界では引っ張りダコ、9年間は二人の立場を大きく逆転させてしまった。その二人がこうしてまた出会うのもプロレスの面白さかもしれない。 -
「有吉、マツコの怒り新党」で放送された大仁田劇場、1998~2000年の新日本プロレス
TV朝日で深夜に放送された「有吉・マツコの怒り新党」で新日本プロレスに殴り込みをかけた大仁田厚と当時ワールドプロレスリングのアナウンサーだった真鍋由(現在社会部記者)による大仁田劇場が放送されたが、改めてこの頃の新日本プロレスを振り返ってみたいと思う。
1998年の新日本プロレスは1月に長州力、4月にアントニオ猪木が引退し、猪木の引退興行では70000人を動員したが、ドーム大会をやるのにネタ切れの状態だった、そこでFMWを追放に近い形で去っていった大仁田が新日本プロレスと全日本プロレスに参戦をアピール、そして大仁田は竹内宏介氏を介して当時の新日本の仕掛け人だった永島勝司氏の接触、現場監督だった長州力のGOサインも出て大仁田は新日本参戦となった。
しかし大仁田参戦に新日本のオーナーであるアントニオ猪木が異を唱えた、勝負論を唱えている猪木にしてみれば負けても存在を打ち消すことが出来ない大仁田は否定すべき存在、大仁田を挙げてしまえば新日本がやってきたことを否定することになると危惧していたが、長州と永島氏は東京ドーム大会での集客力を重視し大仁田参戦を踏み切ってしまった。
99年1月4日の東京ドーム大会から大仁田が上がりビッグマッチ要員として欠かせない存在となっていったが、これを面白くなかった猪木が大仁田を排除し暴走王(小川直也)を据えようと画策、社長だった藤波辰爾も大仁田に関していい感情を持っていなかったのもあって猪木を後押しする。2000年からは大仁田は外され暴走王がビッグマッチの中心となり、猪木も長州vs暴走王の流れに持っていこうとしていた。だが長州は猪木の仕組んだ流れを拒絶し7月30日の横浜アリーナ大会で長州vs大仁田が実現、長州が勝利を収め以降大仁田は新日本から去っていったが、それ以降長州、永島氏と猪木の間に大きな溝が出来てしまい、暗黒期へと繋がっていった・・・