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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

橋本真也と90年代の新日本プロレス

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橋本真也と90年代の新日本プロレス

  橋本真也
7月11日で橋本真也が死去して10年が経過する。橋本真也とはどんなレスラーだったのか?

 豪快でぶっ壊すレスラー、パワーファイターでありながらも重たいキックを放ち、袈裟斬りチョップを放つ、まさしく破壊王の異名そのままであり橋本の魅力であり、また人間性にも出ていた。

 橋本が新日本プロレスでデビューした1989年9月が武藤敬司や蝶野正洋など新人が大量にデビューした年でもあったというかせざる得ない状況だった、3月には前田日明が離脱してUWFを旗揚げ、9月には長州力ら維新軍団が離脱してジャパンプロレスを通じて全日本プロレスに参戦し、それをきっかけに前田や長州に追随するかのように中堅・若手がこぞって離脱したが、長州や前田らが離脱しなければ橋本を含む闘魂三銃士のデビューが遅れていたのも事実である。

 橋本は同時期にデビューし海外修行に出ていた蝶野正洋、武藤敬司と共に闘魂三銃士を結成し、二人に先駆けて帰国した。橋本が帰国した当時1989年の新日本プロレスはこの年から東京ドームへ進出するも、テレビのゴールデンタイムからも外れ、第二次UWFの台頭、ライバル団体である全日本プロレスは天龍源一郎が中心となって活気づく状況で、新日本は藤波辰爾と長州力がトップとなっていったが、完全にピークを過ぎたアントニオ猪木が中心にせざる得ない状況が続いていた。
 この年の4月24日東京ドーム大会に参戦した橋本はIWGPヘビー級王座決定トーナメントの1回戦で長州を破り、決勝では超ヘビー級であるビッグバン・ベイダーと対戦して敗れはしたが互角に渡り合うなどファンに大きなインパクトを与えた。その猪木が参議院議員に当選したため一歩引き、藤波も腰痛で長期欠場となったことで橋本はトップへと昇りつめるが、蝶野と武藤が帰国し新日本もWCWとの提携が中心になったことで、橋本は大きく後退、新日本が最も期待をかけていた武藤に遅れを取るようになった。 

 新日本はWCW路線から天龍率いるWARとの対抗戦が中心となると橋本は対天龍に名乗りを挙げ、天龍と対戦することで橋本自身も再浮上しグレート・ムタを破ってIWGPヘビー級王座を奪取、以降橋本が新日本の中心となりスポットで参戦する猪木に代わってドーム大会を締めくくるようになっていったが、新日本は創始者として猪木、現場監督として長州が新日本で幅を利かせていた。

 1998年に長州、猪木が続けて引退したが、この二人の引退が橋本の新日本でのレスラー人生を大きく左右させた、IWGPヘビー級王座から転落した橋本はいつしか新日本全体を仕切りたいを考え始めたが、長州が現役を引退しても現場監督として現場を牛耳る現状は変わらなかった、橋本は長州に対して現場監督からの退陣を要求していた、またこの頃の新日本は方向性を巡って選挙で落選しオーナーとして新日本に口出すようになっていた猪木と長州が対立し始めていた、その中で起きた小川直也によるセメント事件、長州との対立でストレスを溜め込みコンディションを崩していた橋本はセメントを仕掛けてきた小川になすすべもなかった、橋本は猪木の敷いた路線に乗るかのように小川と抗争を展開したが、2000年4月7日の東京ドームで小川に敗れた橋本は新日本を去っていった。今思えば橋本が去ったことで90年代の新日本プロレスの終わってしまった、橋本が小川に敗れたのは今思えば時代の流れでもあった。

 1990年代のプロレスは新日本プロレスは闘魂三銃士、全日本プロレスは四天王の時代、2000年になるとそれぞれがジャイアント馬場、アントニオ猪木の手のひらから出て新しい時代を築いていったと同時にB,I時代は終わりを告げた。そして橋本はZERO-ONEという一国一城の主となるも守りきれず、最後は一レスラーとして生涯を閉じた、橋本が生きていたらどんなプロレス人生を送っていただろうか・・・

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