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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

「有吉、マツコの怒り新党」で放送された大仁田劇場、1998~2000年の新日本プロレス

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「有吉、マツコの怒り新党」で放送された大仁田劇場、1998~2000年の新日本プロレス


 TV朝日で深夜に放送された「有吉・マツコの怒り新党」で新日本プロレスに殴り込みをかけた大仁田厚と当時ワールドプロレスリングのアナウンサーだった真鍋由(現在社会部記者)による大仁田劇場が放送されたが、改めてこの頃の新日本プロレスを振り返ってみたいと思う。


 1998年の新日本プロレスは1月に長州力、4月にアントニオ猪木が引退し、猪木の引退興行では70000人を動員したが、ドーム大会をやるのにネタ切れの状態だった、そこでFMWを追放に近い形で去っていった大仁田が新日本プロレスと全日本プロレスに参戦をアピール、そして大仁田は竹内宏介氏を介して当時の新日本の仕掛け人だった永島勝司氏の接触、現場監督だった長州力のGOサインも出て大仁田は新日本参戦となった。


 しかし大仁田参戦に新日本のオーナーであるアントニオ猪木が異を唱えた、勝負論を唱えている猪木にしてみれば負けても存在を打ち消すことが出来ない大仁田は否定すべき存在、大仁田を挙げてしまえば新日本がやってきたことを否定することになると危惧していたが、長州と永島氏は東京ドーム大会での集客力を重視し大仁田参戦を踏み切ってしまった。


 99年1月4日の東京ドーム大会から大仁田が上がりビッグマッチ要員として欠かせない存在となっていったが、これを面白くなかった猪木が大仁田を排除し暴走王(小川直也)を据えようと画策、社長だった藤波辰爾も大仁田に関していい感情を持っていなかったのもあって猪木を後押しする。2000年からは大仁田は外され暴走王がビッグマッチの中心となり、猪木も長州vs暴走王の流れに持っていこうとしていた。だが長州は猪木の仕組んだ流れを拒絶し7月30日の横浜アリーナ大会で長州vs大仁田が実現、長州が勝利を収め以降大仁田は新日本から去っていったが、それ以降長州、永島氏と猪木の間に大きな溝が出来てしまい、暗黒期へと繋がっていった・・・

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