伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

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1981年・なぜジャンボ鶴田は全日本プロレスを辞めるつもりだったのか?

 GスピリッツVol.42「特集・ジャンボ鶴田」(今回の参考文献)でタイガー戸口が全日本を退団し、新日本プロレスへ移籍しようとした際に、鶴田も「戸口さんが辞めるなら、自分もこんな会社辞めますよ!」と言い出し、辞表も準備していたことを明かしていた。


 理由は戸口にも明かさなかったが、鶴田が亡くなったことで永遠の謎となった。しかし自分なりに考察すると、理由はジャイアント馬場さんを震撼させたクーデター事件だった可能性が高いと見ている。


 1977年末に当時全日本プロレスのNo3的存在だったサムソン・クツワダがジャンボ鶴田を中心とした新団体設立を計画、その上でジャイアント馬場だけでなくアントニオ猪木に対して高額な引退準備金を用意して引退させ、世代交代も図ろうとしていた。


 しかしクツワダは馬場以外の選手に声をかけたこともあって、馬場が計画を知ることになりクツワダを解雇、新日本だけでなく国際プロレスにも通報したことでクツワダはマット界から追放となったが、鶴田には厳重注意だけでお咎めはなかった。


 クーデター事件に関してはGスピリッツVol.42「特集・ジャンボ鶴田」での各自の証言を照らし合わせると、今思えば鶴田に馬場さんだけでなく猪木を押しのけて日本マット界のトップに立つ野心というものはなく、政治面は馬場さんに任せておいて純粋にプロレスを楽しみたい、一レスラーでいたいという考えだったのではないだろうか、そう考えるとクーデター事件は鶴田は首謀者の一人ではなく、クツワダが勝手に鶴田の名前を使ったに過ぎず、たとえ鶴田に話を持っていたとしても、鶴田は当たり障りのない返事をしたが、クツワダはそれを同調したと受け止めたと考えるのが自然なのではとも思う。


 クーデター事件後馬場と鶴田の師弟関係はおかしくなり、鶴田は馬場の関連会社の役員にさせられるだけでなく、他の選手からも隔離され、常に馬場と行動共にさせられるようになった。馬場さんにしてみれば隔離することで変な気を起こさせないようにしたのだろうが、鶴田にしてみれば信用していた馬場さんに信用されなくなったことのショックの方が大きかったかもしれない。


 また昭和56年に日本テレビが経営不振の全日本にテコ入れをすることになり、松根光雄氏が社長に送り込まれると、松根氏は全日本は馬場に任せられないと判断し鶴田への世代交代を計画、鶴田にエース兼任でブッカーも任せようとしていたが、鶴田は思い悩んだという。この理由はいろいろあったのだろうが、世話になっている馬場と松根氏の間で板ばさみになっていたのと、ブッカー業はやったことはなく、今まで他の選手から隔離されていたのもあって現場をまとめ上げる自信がなかった。だから全てを投げ出したい気持ちになって一時は辞表を出そうとするまで追い詰められていたのではないだろうか…


 鶴田が最終的に全日本に留まった理由は佐藤昭雄の存在があった。鶴田はたまたまアメリカから帰国していた佐藤にブッカー業のことを相談すると、ブッカー業はなんたるかを説明する佐藤を見て適任と考え、松根氏に佐藤をブッカーに推薦、佐藤もブッカー業に興味があったため引き受けることになったが、今思えば佐藤の存在がなければ鶴田は全日本を去っていたと思う。


 鶴田は最終的には全日本でレスラー人生を全うしたが、鶴田が天龍源一郎や長州力のように馬場さんや猪木を押しのけてマット界の頂点に立つ野心があったら、またマット界の歴史が大きく変わっていたことは間違いないだろう。


 今年で17年目を迎えた鶴田の命日、鶴田は天国で馬場さんや三沢光晴と共に現在のマット界をどう眺めているのだろうか・・・・

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