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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

完全引退記念、ザ・グレート・カブキはこうして誕生した!

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完全引退記念、ザ・グレート・カブキはこうして誕生した!

 2017年に"東洋の神秘"ザ・グレート・カブキが完全引退することを発表した。カブキは1998年に引退したが、2002年にカンバック、今日まで様々なリングに登場して健在ぶりを見せつけて来た。


 カブキこと高千穂明久がデビューしたのは1964年、その後生え抜きながらも若手・中堅の一角を担い、受身や試合運びの定評さは当時若手だった藤波辰爾からも「プロレスの教科書のような人だった」と絶賛されていたほどだった。


 高千穂は1970年にアメリカ遠征へ出発するも、日本不在の間に日本プロレスにクーデター事件が勃発、これまで日本プロレスの2トップだったアントニオ猪木、続いてジャイアント馬場も退団=独立となったため、「オヤジ」と慕い日本プロレスの社長だった芳の里の要請で帰国するも、坂口征二も離脱したことで日プロの崩壊が決定的となり、芳の里の薦めもあって馬場の全日本プロレスに合流することになった。


 全日本での高千穂の扱いは外様ながらも中堅でサムソン・クツワダと組んでオーストラリアにも遠征し、帰国するとクツワダとのタッグでアジアタッグ王者にもなるも、待遇面においては決して満足できる扱いではなく、「若手のコーチ役を請け負っているから」ギャラアップ額が「1試合100円増(後に500円)」だったこともあって扱いは良いものでなかった。クツワダがジャンボ鶴田を巻き込んで全日本内でクーデターを画策する事件を起こし、クツワダはマット界から追放となったが、さすがに高千穂も全日本に嫌気を差してアメリカへ戻ることを決意、馬場も高千穂の扱いは良くはしなかったものの受身や試合運びの良さは内心評価していたことから「若手のコーチ役として留まって欲しい」と猛反対したが、既に高千穂はフロリダからオファーを受けていたこともあって、馬場は渋々了承し1年間だけの約束で1978年に高千穂はアメリカへ戻ったが、高千穂は「アメリカへ行ってしまえばこちらのもの」と1年で日本に帰るつもりはなかった。


 高千穂が向かった先であるフロリダは元NWA世界ヘビー級王者だったジャック・ブリスコ、ダスティ・ローデスがトップを張っていたこともあって、NWAの中でもギャラが稼げる屈指の黄金テリトリーだった。そこで再会したのはフロリダマットでヒールとして活躍したマサ斎藤で、高千穂とマサは日本プロレス時代からウマが合い、斎藤が高千穂のことを「お父さん」、高千穂が斎藤のことを「マサやん」と呼ぶ間柄だった。二人はフロリダマットで斎藤のレスリング時代の後輩でアメリカに滞在していたタイガー服部をマネージャーとして巻き込んでタッグを結成、たちまち売れっ子となり、またフロリダのプロモーターのエディ・グラハムもレスラー出身とあってレスリングの質には厳しかったが、高千穂の試合運びや受身の良さも高く評価した。


 1年経過するとマサはAWAに誘われためタッグは解消となり、高千穂はテキサス州アマリロ、1980年8月に開催された「プロレスオールスター戦」で一旦帰国してから、カンザスと渡り歩き、その間にグリーンカード(永住権)も取得、そしてカンザスでタッグを組んだブルーザー・ブロディを通じて、テキサス州ダラスのブッカーだったゲーリー・ハートからのオファーを受け、ダラスへと向かったが、ゲーリーとの出会いが高千穂の運命を変えるものとは、本人も気づいていなかった。


 1980年暮れにゲーリーと対面した高千穂は連獅子姿をした歌舞伎役者の写真を見せられ、こういったマスクマンにならないかと持ちかけられた。実はゲーリーは1度も日本に来日したことがなく、歌舞伎というものも全く理解していなかったのだ。高千穂は歌舞伎役者はマスクをしているのではなくメイクをしているんだと説明すると、ゲーリーはメイクをしてくれと要求され、また忍者コスチュームも自作し、ヌンチャクもロス滞在時にマスターしていた。そして毒霧も様々な液体を試し、吹き方も練習するなど、試行錯誤した末にザ・グレート・カブキが誕生、毒霧パフォーマンスもファンに大いに受けて、子供達がジュースを使って真似をするほどだった。カブキみたさに観客も増え始めて客を呼べるスターとなり、ダラスのプロモーターだったフリッツ・フォン・エリックからも絶大な信頼を寄せられるようになった。またダラスだけに留まらず、カンザス、ジョージアからもオファーがかかり、たちまち各エリアから引っ張りダコとなっていった。


 そのカブキが日本に逆上陸を果たしたのは1983年2月の「エキサイトシリーズ」、馬場からの命令で、カブキ本人は乗り気にはなれなかったが、全日本に籍を残していた事もあって断ることが出来ず、一旦帰国を決意、本人は高千穂明久としての帰国を望んだが、カブキの評判は日本にも知れ渡っていたこともあって、カブキでの帰国をリクエストされた。この頃の全日本はブッカーは佐藤昭雄に代わっており、また馬場自身もハーリー・レイスに奪われたPWFヘビー級王座を奪還するため渡米、シリーズを全休することになっていた。馬場の留守をジャンボ鶴田と天龍源一郎が預かることになったが心もとないため、カブキに帰国を要請したのだ。


 1993年2月11日の後楽園ホールは超満員札止め、カブキの試合はセミファイナルに組まれ、会場が暗転すると入場テーマ曲「ヤンキーステーション」に乗ってカブキが入場、リングアナがコールするとヌンチャクパフォーマンスを披露、開始ゴングが叩かれると天井に向けて毒霧を噴射、このパフォーマンスだけでも観客を魅了する。対戦相手は中堅ヒールで全日本の常連だったジム・デュラン、カブキは持ち前の試合運びの良さでデュランを翻弄、最後はカブキ蹴りと言われたトラースキックから、セカンドロープからの正拳突きで3カウント、この一戦だけでカブキは日本でも認められ、爆発的な人気を呼んだ。このシリーズではトップ外国人選手だったタイガー・ジェット・シンとも対戦、元NWA世界ヘビー級王者だったトミー・リッチとの試合では反則負けを喫してしまうが、カブキ人気は衰えず、自分の留守にカブキ人気で盛況だったと聞きつけた馬場も慌てて帰国して最終戦のみに参戦するなど、馬場を含めた全日本内部でも嫉妬するぐらいだった。




 しかしカブキはシリーズが終えると日本に留まらずアメリカへと戻った、カブキが爆発的な人気を呼んだにも関わらず、当時の全日本は経営危機からの再建中でギャラも高千穂明久時代と変わらなかったからだった。アメリカに戻ってもカブキ参戦のリクエストが多かったため、カブキは多忙なスケジュールの合間を縫って帰国し全日本に参戦し続けた。当時の全日本は夕方5時半に放送されていたが、新日本の初代タイガーマスクのような子供に人気のあるレスラーはミル・マスカラスしかいなかった。だがマスカラスも自身のピークが過ぎると共に人気も停滞していったため、マスカラスに代わる新しいスターを欲していた。


 1983年12月12日、蔵前国技館大会でNWA世界ヘビー級王者だったリック・フレアーにも挑戦、この試合も佐藤からのリクエストだったが、世界最強タッグ決定リーグ戦が主役にも関わらず、フレアーvsカブキ戦を見たさにチケットが売れて超満員札止めとなり、試合も佐藤がアメリカでのカブキを見せて欲しいというリクエストを受けて、序盤はショルダークローを駆使してオーソドックスな攻めから、次第にカブキらしさを見せる試合運びを披露、試合はフレアーが足四の字固めで捕獲し、カブキがロープに逃れたところで、焦れたフレアーがミスター林レフェリーを突き飛ばして反則負けとなり、王座奪取はならなかったが、向かってくるフレアーにカブキは赤い毒霧を噴射して撃退するなど、最後までカブキらしさを貫いた。




 その後日米を股にかけて活躍してきたが、WWFの全米侵攻の余波を受けてNWAの各テリトリーが崩壊、アメリカでの活躍の場を失ったカブキは日本に定着を余儀なくされ、全日本では天龍率いる天龍同盟の試合で再び脚光を浴びたが、カブキも天龍に追随する形で全日本を退団、SWSではブッカーに就任、その後WAR、新日本プロレス、東京プロレス、IWA JAPANと渡り歩いて1998年にIWA JAPANのリングで引退したはずだった。引退後は居酒屋経営をしつつ、女子やインディーレスラーを指導していたが、4年後の2002年に新日本プロレスで武藤敬司とは別のGREAT MUTAとジョニー・ローラーのマネージャーに就任することで再びマット界へ戻ると、試合を行うはずだったMUTAが骨折して欠場してしまい、新日本はカブキに復帰を要請する。カブキは断ったものの、レフェリーでフロリダ時代の盟友である服部や、大会プロモーターで日プロ時代の先輩だった星野勘太郎に頭を下げられ、1度限りの約束で仕方なく復帰も、それから各団体から次々とオファーが舞い込み、なし崩し的に本格復帰を果たした。


 そのカブキも2017年をもって完全引退し、長きに渡るレスラー生活に終止符を打つ。
(参考資料=辰巳出版「東洋の神秘」ザ・グレート・カブキ著)
 
 

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