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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

新日本プロレスはこうして旗揚げした

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新日本プロレスはこうして旗揚げした

 1972年3月6日、新日本プロレスが大田区体育館にて旗揚げした。


 1971年12月、アントニオ猪木が側近で猪木の個人事務所である「(株)アントン」の経理を担当し、またプロモーターも兼ねていた木村昭政(故人)と組んで、金銭面で不明瞭で杜撰な経営をしている日本プロレスを改革しようとしていたが、猪木と共闘していたはずのジャイアント馬場が猪木に近かった上田馬之介から、猪木と木村氏は日本プロレスの幹部達だけではなく馬場も追放するという計画だったと明かされると、馬場が芳の里社長に進言、猪木と木村が計画していたクーデター計画は失敗となったが、元々馬場は猪木が考える改革には乗り気なれないだけでなく、猪木の側近である木村を信用出来る人物かどうか疑っており、中堅選手からも木村氏の評判も良くなかった。


 シリーズが終了すると猪木は「日本プロレスの乗っ取りを画策した」として選手会から除名・追放され、猪木も「乗っ取りは濡れ衣だ!」と反論するも、猪木は木村、猪木派の中心だった
ユセフ・トルコと共に行動を起こして新団体旗揚げへと動き、トルコの付き人だった木戸修、猪木の付き人だった藤波辰己が追随、猪木派の一人である山本小鉄も日プロに辞表を出し、メキシコ遠征に出ていた北沢幹之、柴田勝久も猪木自らメキシコへ出向いて二人を勧誘、北沢と柴田もメキシコでのスケジュールが終わり次第合流することになった。


 1972年1月には猪木、倍賞美津子夫妻の新居を合宿・道場に改築し道場開きが行われ、2月には浜田千秋(グラン浜田)関川哲夫(ミスター・ポーゴ)が入門、東京プロレス時代に業務上背任横領容疑で告訴し、袂を分かっていた新間寿氏も猪木と和解し、パートという形で合流しフロント業務に携わるも、レスラーやフロントなどの放送してくれるテレビ局もなく、人材、資金など全ての面で圧倒的に不足していた。だが猪木を始めとする選手らは練習だけはしっかり休まずこなし、理想へ向かって突き進んでいった。


 外国人選手もカール・ゴッチの参戦が決定し旗揚げ戦では猪木と対戦が決定も、ゴッチが外国人ブッカーとなって招聘した他の外国人選手は無名の2流選手ばかり、トルコが自身のタニマチを使って日プロから坂口征二の引き抜きを画策したが失敗、この時点で猪木vsゴッチしか旗揚げ戦の売りはなく、新間氏も営業としてチケットを売り歩いていたが苦戦を強いられていた。そこで猪木は新間氏から豊登の面倒を見ていることを知ると、旗揚げ戦のサプライズとして豊登の復帰を計画する。豊登は猪木の日プロ時代の兄貴分で、日プロを退社していた豊登の誘いで東京プロレスに猪木が参加も、豊登の金の使い込みが原因で猪木と告訴合戦となって袂を分かち、猪木は日プロに復帰したが、豊登は東プロ残党と共に国際プロレスへと移籍、1970年2月に引退していた。
 猪木から計画を聞かされた新間氏も、自身も懇意にしていた豊登をもう1度リングに立てるならと快諾し説得するが、豊登は「今更カンバックできるか」「引退興行をしてもらった国際プロレスには義理がある」「トレーニングは満足に出来てない」と拒み、それでも新間氏は豊登を説得してなんとか猪木と引き合わせ、当時の猪木夫人だった倍賞美津子さんも豊登を手料理でもてなした後で、猪木は説得して豊登に小遣いを手渡すと、しばらくして豊登はやっと道場を訪れ、豊登も年齢から来る体力の衰えを痛感して弱音を吐きつつ体つくりを行い、猪木を始めとする選手らは必死で豊登をおだて盛り立てていった。


 旗揚げ戦当日は客席には美津子夫人でなく姉である倍賞千恵子、歌手の坂本九と女優・柏木由紀子夫妻もリングサイドに座り旗揚げ戦に華を添え、当日になって「出たくない」とゴネていた豊登も新間氏がどうにか説き伏せて客席に座り、大会前に猪木が登場して挨拶を行うと、豊登がリングに上がり猪木を激励し、その場でトルコが復帰を呼びかけ、豊登はタイツがないことを理由にあくまでまだ拒否するが、観客の前で逃げ場がないと悟った豊登は復帰を決意、小鉄と組んでセミファイナルに登場し、ジョン&ジムのドランコ兄弟と対戦、試合は3本目に豊登組が反則勝ちとなるが、試合後も日本組を痛めつけるドランコ兄弟の前に猪木が駆けつけ、豊登を救出し館内を大いに沸かせる。
 メインの猪木vsゴッチ戦は初代世界王者フランク・ゴッチゆかりのベルトをかけた実力世界一決定戦として行われ、ゴッチはジャーマン、ゴッチ式パイルドライバーで猪木を追い詰め、猪木はドロップキックで反撃して卍固めを狙い、誰もが猪木が勝ったかと思ったが、ゴッチはリバーススープレックスで切り返して3カウントを奪い、猪木は敗れるも鮮やかなテクニック合戦に館内は猪木を称え、試合を見ていた豊登もゴッチ相手に戦いぬいた猪木を絶賛した。


 試合後に猪木は改めて豊登に復帰を依頼し頭を下げると、豊登も「テレビが付くまで」ということで正式にカンバック、ゴッチは「猪木以外に戦える選手がいない」という理由で旗揚げシリーズを3戦をこなしたあとで帰国したが、実はゴッチにギャラが高くて支払えなかったのが本当の理由だった。旗揚げシリーズは開催するも不入りは続き、観客も「つまらないぞ!」と野次を飛ばした。そして5月に日プロからジャイアント馬場が独立宣言をした頃には新日本は累積赤字は1億円に達し、台所も火の車となっていた。そこで猪木はこれまでパートとして新日本を手伝っていた新間氏に正式に新日本入りを要請、新間氏も豊登のマネージャーとして新日本入りを決意する。この頃には専務となっていた木村氏は赤字を抱えた新日本を見限って手を引いたのか、新日本を去っていた。しかし新間寿という軍師を手に入れた猪木新日本が快進撃を始めるのは後の話である。(参考資料=ベースボールマガジン社、日本プロレス事件史Vol.12)

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