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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

三沢光晴死去…2009年6月13日という長い夜

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三沢光晴死去…2009年6月13日という長い夜



 当時のプロレス格闘技DXの速報…誰もが三沢が亡くなるとは思っていただろうか、自分もこの速報を見た時は、"三沢のことだから大丈夫"だろうしか思っていなかった。だが1ヶ月前の5月3日の京都KBSホール大会を自分が訪れ、いつもサインや記念撮影などファンサービスに応える三沢がしんどそうな顔を浮かべて、誰も寄せ付けなかった姿を見て、"三沢はもう休ませるべきなのでは"思っていた、しかししばらくしてYahoo!ニュースで三沢の訃報を聴いた瞬間、ショックを受け愕然としていた。そして思ったことは"バカやろう!""ふざけんな!"の言葉だった。なぜだかわからない、自然と出た言葉だった。今思えば悔しかったのかもしれない。
 
 2009年3月をもってNOAHは日本テレビによる地上波中継が打ち切り、TV局から支払われる放映権料が大幅にカットされたことで、資金繰りに苦しみ、また三沢自身も全日本プロレス時代からの四天王プロレス時代のダメージが齢を取るにつれて出始め、満足にトレーニングもできない状態になった。しかしNOAHは旗揚げから三沢、小橋建太、秋山準のイメージが強かったこともあり、3人がいなければ成り立たない団体だった、しかし小橋も腎臓ガンの闘病だけでなく四天王プロレス時代のダメージが身体に出始め、秋山も古傷の腰痛に苦しんでいた。だが彼らが出ないとプロモーターは興行を買ってくれず、また観客も動員できないという声が内部から多かったこともあって、丸藤正道やKENTAへの世代交代を阻み、三沢に負担をかける要因にもなった。

 三沢は潮崎豪とのコンビで「グローバルタッグリーグ戦」を優勝、試合内容も潮崎が前面に出て、出番の少ない三沢がお膳立てして、最後は潮崎が締めくくるというものだったが、潮崎も三沢のコンディションが悪いということは充分にわかっており、なるべく三沢に負担をかけまいと心がけていた。そして6月13日の広島県立総合体育館グリーンアリーナでは齋藤彰俊&バイソン・スミス組の保持するGHCタッグ王座に挑戦が決定、4月29日「グローバルタッグリーグ」米子大会で行われた公式戦では三沢自身がバイソンの雪崩式バイソンデニエルを喰らいフォール負けを喫していることから、三沢&潮崎組にとってもリベンジをかけての選手権だった。
 選手権に向けて三沢は潮崎と共に週刊プロレスのインタビューに答え、「今回みたいにちょっと長いと体の治癒力も落ちている」「ガタが来るのは、オレの方が先だし、すでに来ているからね」と自身の体調を自虐的に語ったが、オフレコでは「本当に大丈夫なのか?」と聴かれると「本当にヤバいんだ」と答えていたという。それでも三沢はNOAHを再び上昇気流に乗せるために最前線に出ることを選んだ。

 6月ツアーも開幕した11日、大阪大会に出場した三沢は翌日はオフだったこともあって、付き人だった鈴木鼓太郎や移動バスの運転手と共に食事をしてから朝方までカラオケを行うなどリラックスし、12日はホテルから出ず心と体も休ませていた。13日、三沢は移動バスで広島入りし、ホテルに荷物を置いて会場入り、大会はSAMURAI TVにて中継されることもあってインタビューに答え、大川正明リングアナに声を掛けられて逃げるという愛嬌も見せ、周囲には「コンディションはいいよ」と語っていた。試合開始直前、古傷の腰が悪化した秋山の処置をしていた浅子覚トレーナーにニコっと笑い、三沢はリングへと向かった。それが三沢の最後の姿になることは誰も思わなかった。
 選手権は、いくら三沢が「コンディションはいいよ」と答えていても、潮崎の目から見ても三沢のコンディションの悪さはわかっていた。だから今回も潮崎の出番は敢えて多めにして三沢の出番はなるべく少なくという試合運びをせざる得なかった。やっと三沢の出番になると、三沢はバイソンにランニングエルボー、セントーン、エルボーとバイソンを攻め込んでいくが、彰俊が入ると合体雪崩式アイアンクロースラムを食らってしまうが、このときに三沢の頭がいつも以上に頭が揺れていたという。本当ならこの時点で各自が異変に気づくべきだったのかもしれない、しかし三沢が普通に動きだしたのでレフェリーだけでなく、潮崎も三沢は試合が出来ると判断するが、だが三沢は彰俊の猛攻の前に防戦一方となり、彰俊の串刺しでの膝蹴りを顔面に喰らったあとで、バックドロップを受けてしまった…、実は浅子トレーナーから首全体に骨棘があることから下を向くことが出来ない三沢に「後ろに投げられるのは気をつけてください」と注意を受けていた。三沢がダウンした後で彰俊もラリアットを狙うためにコーナーに下がっていたが、三沢は横にくの字でダウンしたまま起き上がってこない、ここで西永レフェリーがチェックに入ると三沢の顔色がみるみるうちに紫色に変色したことで異変を察知、そこで三沢が突然目が開き、あらぬ方向に向けた、そして西永レフェリーは「動けるか?」と聴くと、三沢は「ダメだ」、西永レフェリー「止めるぞ」、三沢「止めろ」と指示し、試合終了のゴングが鳴らされた。

 TKOで王者組が勝利も、三沢が起き上がらないことで館内は騒然となり、セコンドで試合を見ていた杉浦貴も石森太二に浅子トレーナーを連れてくるように指示、鼓太郎も氷嚢を持ってリングに上がる。そして観戦していた医師二人もリングに呼び込まれ、浅子トレーナーは人工呼吸、医師も心臓マッサージを行うなど応急処置が施され、ファンも三沢が起き上がってくることを信じて"三沢コール"が発生する。やっとAEDが運ばれ処置が行われ、秋山だけでなく佐々木健介、高山善廣も駆けつけ、救急隊も駆けつけ三沢は担架ごとストレッチャーに乗せられ会場を後にするが、三沢が意識が戻らないまま病院に搬送される姿を見たファンも涙を流し、リングから目を背ける人もいるなど動揺が広がる。選手会長の森嶋猛は「必ず三沢さんは帰ってきます!今日はありがとうございます!」と大会を締めくくったが、誰もが森嶋の言葉を信じたかったと思う。だが午後10時10分、三沢は顎髄離断で死去した…

 死去が報じられてから自分は三沢の死がまだ受け入れないでいた。だが日本テレビ系列で放送されていた「スポーツうるぐず」で三沢の死が報道された。また翌朝には三沢の親交がある徳光和夫さんの司会する「THE・サンデー」でも三沢の死が報道されただけでなく、広島大会に試合後の模様が放送されたが、自分はこの夜は眠れない夜をすごしたが、悲しくて悔しい夜はジャイアント馬場さんの死去以来だったのかもしれない。

 三沢に死からしばらくしてから三沢にバックドロップを放った彰俊に様々なバッシングを受けていることが報じられ、NOAHサイドも自重を呼びかけていたが、自分も三沢がこの光景を見ていたら悲しみ、また人間ってこんな嫌なものかと思い知らされるようになった。自分はお別れの会にはどうしても仕事で上京できず、三沢追悼興行の大阪大会で緑の献花を献花台に置いて三沢に別れを告げたが、この間にはNOAHは新体制を巡って強引に田上明体制を固めた仲田龍氏を百田光雄が批判しNOAHを去るなど、三沢亡き後のNOAHは大きく揺れ始め、後に泉田純の告発よってタニマチによる巨額詐欺事件が発覚し、三沢亡き後GMとなってNOAHを支えてきた仲田氏、常務だった永源遥も失脚、旧体制が崩壊し新体制が発足するなど、三沢が遺したツケが一気にNOAHに圧し掛かった。

 三沢は仲田氏に9日に行われた静岡・沼津大会で引退をすると告白しており、仲田氏とどう引退するかを段取りしていたという、仲田氏は「2、3年前に(引退できる)環境を整えてあげないといけなかった。誰のせいかと言われると…」と、三沢に頼ってしまった自身を責めていたが、いや三沢が亡くなるまでのNOAHは誰もが三沢に頼りきっていたし、甘えていたし、そして三沢は応えようとしていた…

 NOAHは今年で旗揚げして18年目を迎え、旗揚げしたメンバーも次々と去って残ったのは丸藤正道と小川良成だけとなり、新体制となってもNOAHの看板だけはしっかり守り通されていた。NOAHの看板だけは三沢が唯一遺した財産、しっかり守り通して欲しい。

 最後に今でも自分は「スパルタンX」が流れると三沢光晴が入場するのではと思ってしまう…

(参考資料=6月13日を忘れない、三沢光晴最後の一日 週刊プロレス著)

過去の三沢特集はこちら

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