伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

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地味で目立たなかった保永昇男がジュニアの第一人者になった日

 1991年4月、現在の「BEST OF THE SUPER Jr.」である「TOP OF THE SUPER Jr. 」が9年ぶりに開催された。

【出場選手】獣神サンダー・ライガー、保永昇男、ペガサス・キッド、ネグロ・カサス、オーエン・ハート、デイブ・フィンレー、フライング・スコーピオ

 出場選手はライガーを筆頭に後にクリス・ベノワとなるペガサス・キッド、WWEでトップスターとなるオーエン、デビット・フィンレーの父親であるデイブ・フィンレーなど8選手、日本選手はライガー以外に保永のみで、このときのSUPER Jr.は新日本の1シリーズのサブタイトルに過ぎなかった。「TOP OF THE SUPER Jr. 」は誰もがライガーが優勝すると思われていたが、優勝したのは下馬評を覆してヒールでありながらも、地味で目立たない存在と評価されていた保永だった。

 保永は1979年に新日本プロレスに入門、1980年4月にデビューを果たし、1982年に後にブロンドアウトローズで一緒になるヒロ斎藤、平田淳嗣と共にメキシコへ武者修行に出され、1984年3月に帰国、だが凱旋帰国ではなくメキシコでの環境が合わず、体調を崩しての帰国だった。しかし1984年9月に長州力ら維新軍団が新日本を離脱しジャパンプロレス設立へ走ると、維新軍団に去られたことで副社長の坂口征二の弱気ぶりを見て失望した保永は永源遥らと共にジャパンプロレスに合流、1985年に寺西勇と組んでアジアタッグ王者となり、小林邦昭の保持するインターナショナルジュニアヘビー級王座にも挑戦した。そして1987年にジャパンプロレスの分裂騒動がおきると保永は長州、マサ斎藤との個別面談で、全日本に居心地のよさを感じていなかった保永は新日本に戻りたいと志願、だが長州がUターンする先である新日本があくまで求めていたのは長州、マサ、谷津、小林、そしてレフェリーのタイガー服部だけだったこともあっていたこともあって、保永は新日本が受け入れるかどうかわからず、長州とマサは即答を避けるも、保永も新日本に戻れることになった。

 新日本に戻ったが中堅から前座のポジションは変わらず、1988年の「TOP OF THE SUPER Jr.」にもエントリーしたが負傷欠場してしまい、公式戦を1試合もこなせないまま全戦不戦敗となるなど不名誉な記録を残した。しばらくしてメキシコ修行で行動を共にしていたヒロの誘いを受けてブロンド・アウトローズ入りを果たしてヒールターンを果たすも、常に前面に出たのはヘビー級のスーパー・ストロング・マシン、ヒロ、後藤達俊で保永はヒールターンを果たしても地味で目立たない存在だった。その保永が「TOP OF THE SUPER Jr. 」にエントリーをしたが、保永はなぜ自分がエントリーされたのか理解出来なかった。

 リーグ戦となると保永は、ラフだけでなく、インサイドワークやアウトローズでも見せないスライディング式足掛けエビ固めテクニックまで披露して白星を重ね、ライガーやペガサスには敗れたものの残り5選手を破りライガー、ペガサス、カサスに並んでトップで公式戦を終え、優勝決定進出決定トーナメントでは公式戦で敗れたペガサスを破り優勝決定戦に進出、優勝決定戦の相手はカサスを破って進出したライガーで、誰もがライガーの優勝と思われており、家族も観戦していたが、家族ですらライガーに勝てるとは思っていなかった。
 初めて両国国技館のメインに登場する保永にアウトローズが騎馬を組んで入場、保永から手を差し伸べて握手でスタートし、ライガーがヘッドシザースからレッグロックやデスロックなどで足攻めで先手を奪い、保永の首四の字も倒立で逃れたライガーはキャメルクラッチからグラウンドコブラで保永のスタミナを奪いにかかる。
 ライガーは逆水平から串刺しドロップキック、ブレーンバスターからコーナー最上段からのアトミコ、ニールキックと攻勢をかけると、場外に逃れた保永にプランチャを狙うが、保永がかわして自爆し、保永はコーナー最上段からのプランチャから鉄柱攻撃、パイルドライバー、そして本部席でのテーブル貫通パワーボムでライガーに大ダメージを与え、一気に流れを変える。
 保永はリングに戻ったライガーのマスクを破って揺さぶりをかけると、ブレーンバスターの体勢から前へ投げトップロープに直撃させる荒技を敢行、ナックルをはさんでジャーマンスープレックスホールドで投げ、ストマックブロックを決めるも、ライガーは風車式バックブリーカーからスクールボーイ、キックアウトしてコーナーに昇った保永にドロップキックを放って雪崩式ブレーンバスターで投げる。
 保永はミサイルキックを狙うライガーをドロップキックで迎撃すると、メキシカンストレッチで捕獲、動きが鈍ったライガーにボディーブローやストンピングを浴びせていくが、ライガーは突進する保永をスロイダーで投げると、場外に保永を追いやってからスライディングキック、エプロンからのトペレペルサを放ち、保永も反撃してコーナーからダイブも、ライガーは剣山で迎撃する。
 ライガーはDDTで突き刺すが、ショルダースルーを狙ったところで保永が下へ潜ってエビ固めで丸め込むと、ライガーも丸め込みで応戦してからラリアットを放ち、ライガーボムで勝負を狙うが、保永はカウント2でキックアウトする。
 館内は保永コールが巻き起こる中で、ライガーは再度ライガーボムを狙うと、保永は体を浴びせて押し潰して丸め込み、コーナーからのダイビングネックブリーカーを狙ったところでライガーが追いかけ、雪崩式DDTを狙うが、急所打ちでライガーを落とした保永はダイビングネックブリーカードロップからジャンピングネックブリーカー、ジャーマンスープレックスホールド、そしてクロスアーム式ジャーマンで3カウントを奪い「TOP OF THE SUPER Jr. 」するだけでなく、リーグ戦開催にあたってライガーが返上していたIWGPジュニアヘビー級王座も奪取した。試合後もアンとローズの面々が祝福、再び騎馬を組んで保永の優勝をアピールしたが、保永が「三人(ブロンド・アウトローズのメンバー)が自分のことのように喜んでくれたのが嬉しかったですね」と語っていた通り、マシンを除く中堅の集まりであるアウトローズが存在意義を示し、また地味で目立たなかった保永がジュニアの第一人者として上り詰めた証でもあった。

 後年ライガーは「あの時(1991年のスーパージュニア)、保永さんの参加はたぶん長州さん(当時の現場監督)が決めたんだと思います。後輩の僕がこういうことを言うのはアレですが、保永さんは凄い地味な感じだけど持っているものは凄いよ! 確実なレスリングをするから。僕はああいうタイプが苦手なんですよ。暖簾に腕押しみたいな感じで。感情を表に出さずに飄々と確実なレスリングをやられると、こっちもあれよあれよという間に保永さんのペースに引きずり込まれる。僕も世界のいろんなところで試合をしましたけど、やっぱり王道と言われた全日本のプロレスは、基本というか世界に通じると思います。だから保永さんがそういうスタイルを確立したのは当然だと思います。あの決勝戦のお客さんの爆発は凄かった。ジェラシーにも似た気持ちが沸くぐらいの大保永コールだったことも覚えています。保永さんがジュニアに参入したのは大きかったですね。ジュニアが幅広く厚くなりましたよ」を評した。保永は全日本参戦時にはジャイアント馬場やドリー・ファンク・ジュニア、ザ・グレート・カブキ、ザ・デストロイヤー、ミル・マスカラス、ニック・ボックウインクルと大物とも対戦、特にニックとの試合は保永にとっても大きな印象を与えたことから、これまで培ったルチャのスタイルにニックのスタイルを織り交ぜたることで、自身のスタイルを確立させていた。現場監督だった長州は保永の試合ぶりを見てスーパージュニアに推薦したのかもしれない。

 その後、保永はペガサス、ライガーと防衛し、ライガーとの3度目の対戦では敗れ王座を明け渡したが、3ヵ月後にはライガーを破り王座を奪取していた野上彰を降して王座を奪還も、1989年2月札幌では再びライガーに敗れ王座を明け渡し、帰国したエル・サムライや、金本浩二、大谷晋二郎の台頭、属していたブロントアウトローズがユニット名をレイジングスタッフと改めるも、後藤が平成維震軍へ移り、マシンもWARへ出向したため、ヒロと保永だけとなっていたレイジングスタッフは自然消滅、保永は本隊の扱いとなっていたことで王座戦線からは1歩退いた。ところが1994年9月にペガサスとの防衛戦を控えていたライガーが左足首を骨折して長期欠場を余儀なくされるハプニングが起きると、保永が代役としてペガサスとの王座決定戦を行い王座を奪取、ライガーの代わりにジュニアを牽引し、6度防衛して防衛最多記録を樹立する。王座転落後は再び前座戦線に戻ると、IWGPジュニアヘビー級王座を奪取して1年後の1995年1月に高岩竜一との試合で左足アキレス腱断裂の重傷を負ってしまった。欠場前には古傷だった右目を負傷し自律神経失調症でドクターストップもかかっており、保永は長州に欠場を申し出ていたが『バカ野郎! そんなの三日も休めば十分なんだ!』と突っぱねられ、すぐ3日間欠場し復帰していた矢先での負傷だった。 

 保永は1996年5月の「BEST OF THE SUPER Jr」から復帰し、保永自身も負傷した左足とブランクもあってリーグ戦は脱落したが、大谷との公式戦では、勝てば優勝決定トーナメント進出を決める大谷とレフェリー交錯させ、レフェリーが意識を取り戻すタイミングを見計らって、急所打ちから丸め込んで勝利を収めて、大谷の優勝決定トーナメント進出を阻み、また1997年5月にはみちのくプロレスで猛威を振るう平成海援隊DXが参戦した際には保永は敗れたものの、ディック東郷相手にインサイドワークだけでなく、ロープで顔面をこする古典的なラフプレーで東郷を翻弄するなど、脇役に徹しながらも存在感を発揮した。

 1998年の契約更改、現場監督だった長州から「お前、レスラーとしてはこれだから(クビ)。レスラーなら一年契約、引退してレフェリーになるなら二年契約。黙ってレフェリーになりますと判子を押せ。それがお前のためなんだ」から戦力外通告を受けた。このときは長州を始め、アントニオ猪木まで引退していたこともあって、一部ベテランの整理が始まっていた。保永もこの決定には納得しがたいものがあり、保永も自宅で泣いたが、保永もこのときは42歳になっており、ジュニアも新世代が次々と台頭していたジュニアの中心からも外れていた。またレフェリーの席に空きはなかなか出ないことから、長州は自身のせいでレスラー生活に影響が出る怪我をさせてしまった贖罪と、引退してレフェリーになった方が後々の生活には困らないと考えてくれたのだ。

 1998年4月30日に保永はIWGPジュニアを巡って抗争を繰り広げたライガー相手に引退試合を行い、ライガーが勝って保永を介錯するも、試合後に保永に何度も煮え湯を飲まされてきた大谷、金本、高岩が乱入、引退を惜しむかのように「もう一試合、俺達とやってくれ!」と引退試合を志願する。そこでサムライが入ってライガー、サムライ、保永vs大谷、金本、高岩戦が急遽実現し、保永がアキレス腱断裂をしたときの相手である高岩をウラカンラナで3カウントを奪い有終の美を飾った。

 「TOP OF THE SUPER Jr. 」がもしライガーが優勝していたら、現在のように「BEST OF THE SUPER Jr」になっていただろうか?「TOP OF THE SUPER Jr. 」の後に開催された第1回「G1 CLIMAX」も下馬評を覆して蝶野正洋が優勝して大きなインパクトを与えて現在に至ったように、「TOP OF THE SUPER Jr. 」も下馬評を覆して保永が優勝したからこそ大きなインパクトを与え、「BEST OF THE SUPER Jr」に至った。保永もSUPER Jrの大きな功労者でもある。

(参考資料、GスピリッツVol.39『90年代の新日本ジュニア』Vol.47『ジャパンプロレス』、新日本プロレスワールド)

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