伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

アントニオ猪木vsマサ斎藤 巌流島の決闘② 命がけの2人が見せた究極のプロレス芸術

 アントニオ猪木とマサ斎藤が巌流島で対戦する。マスコミも大体的に報道するも、本当に実現するのかプロレスファンだけでなくマスコミも半信半疑で、誰もが猪木の冗談かその場限りのビックマウスかと思われていた。だが"猪木降ろし"に動いていたはずのテレビ朝日が一転して猪木の提唱する巌流島の戦いを推進する。「ワールドプロレスリング」が秋から火曜8時から月曜8時への移行するのあたって、移行第一弾として長州力のテレビ復帰を特番で放送することが決定していたが裏番組は「ザ・トップテン」「水戸黄門」など強力な番組もあったため、長州のテレビ復帰戦では心もとないと考えたテレ朝側が猪木の巌流島決戦を視聴率を稼げる美味しい素材と考えていたのだが、結局新日本やテレ朝も猪木が邪魔だとしても、最終的に頼るべき存在は猪木しかいなかったのだ。

 巌流島決戦は10月4日に決定、ワールドプロレスリングの特番も5日に決定していたことから、前日の開催となった。巌流島は現在船島と名づけられ、人すら住んでいない単なる無人島と化していた。猪木は「オレはこの試合をプロレス最大の試合にしたい、そして最大のメモリアルにしたい。そうなるのは間違いない。オレにとりゃ果し合い、誰にも邪魔されたくない、観客もマスコミもシャットアウトしたい、そしてノーリングだ。野原の決闘だ!賞金20万ドルだ!」と意気込んでいたが、「誰にも邪魔されたくない」「ノーマスコミ」はテレビ朝日の思惑には振り回されたくないという意味も込められていたと思う。だが猪木の要求は全て通ったわけでなく、副社長の坂口は観客のシャットアウトは認めたが、賞金マッチやマスコミのシャットアウトは難色を示した

そして後日、ルールと試合要項が決定しマスコミに発表された。
①決闘場所=山口県下関市船島(巌流島)
②試合時間は10月4日、日の出とともに、お互いに臨戦態勢に入った時点で試合開始とされ、時間無制限
③リングは使用するが横50m、縦100mの草地ならどこでも闘っていい
④反則自由のデスマッチ
⑤KOかギブアップ。あるいは立会い人が危険と判断した時に、TKOとする。
⑥もしもリング外でKOされたら、負けた者はリングに上げられて、恥を晒す。勝ったものは勝ち名乗り
⑦台風でも結構。
⑧見届け人は山本小鉄、坂口征二
⑨マスコミは各社1名、カメラマン2名

 試合形式は現在でいうエニウェアマッチやハードコアデスマッチ近い部分もあることから、そういった意味ではこの巌流島決戦がハードコアルールの原点なのかもしれない。立会い人を務める山本氏が「急所を狙おうが、目を突こうが、マイッタ(ギブアップ)するまで闘う。砂利を拾って投げようが構わない、古代パンクラチオンと同じ」と説明したように、猪木も坂口や山本氏も、このルールで試合をするのは最初で最後なだけに、場合によっては一線を越えかねないと考えていたのではないだろうか…。またノーマスコミだけは最終的に人数を限定することで猪木も妥協、東京スポーツも決戦まで連日に渡って巌流島決戦の記事を掲載したが、この時点で世代闘争より巌流島決戦の方が話題性で上回っていた。ニューリーダーたちは巌流島決戦に不快感を示し、特に自身が考えた巌流島決戦を猪木にパクられた藤波は巌流島決戦に対して「同日に伊豆大島で長州と闘う」とブチ撒けて反発の意志を見せたものの、藤波が普段慎重居士のイメージが強かったこともあって、猪木と比べてインパクトに欠けてしまい、マスコミもあまり相手にしなかったが、ニューリーダーたちも巌流島を意識せざる得ないというのが本音だった。

 10月4日の7時ににマスコミや関係者も巌流島に上陸、日の出は6時11分だったが肝心の猪木と斎藤はまだ上陸していなかった。前日に野営でもしたら両者共体調不良になるという配慮でホテルで待機していたものの、二人はなかなか上陸せず時間だけが過ぎていった。実は猪木は39度の高熱となって点滴を受けるだけでなく、氷風呂に入って身体を冷やすなどして高熱を下げ、じっくり身体を休めていたという。新日本が前日に野営させず、ホテルで待機させたことが結果的に良かったのかもしれない。そして軽い食事を取った猪木は用意された筆と半紙で遺書を書くも、実は後になってあることに決着をつけており身辺も整理して、巌流島の決戦に望んでいたのだが、その"あること"とは後で知ることになる。付き人だった船木優治と大矢剛功、秘書の坂口泰司を従えて大きなタオルを目出し帽のように頭からかぶって、斎藤より先に巌流島に上陸し用意されたテントの中に入って待機、1時間半後に遅れること斎藤も巌流島に上陸して用意されたテントの中に入ったが、既に試合開始とされた夜明けは過ぎて、時間は午後4時となっていた。
巌流島の決闘

 山本立会人から試合開始は4時半とされ、時間となって試合開始となるも、両者はテントから出ず、先に斎藤がテントから出てリングで待ち構えたが、猪木が現れないため一旦テントへと引き揚げ、しばらくして斎藤がテントから出ると「猪木!」と叫んでリングに上がり、やっとテントから猪木が登場するも、なかなかリングに上がらないため、斎藤も「どうした!」と叫ぶが、猪木は斎藤を焦らすようになかなかリングに上がらないどころか、またテントへと引き揚げる。斎藤が焦れたかを見計らって猪木は再び現れると斎藤も現れ、やっと戦闘を開始、そしてマスコミが用意したヘリが一台飛び始め、空から空撮を始める。二人はリングを離れて草地へと移動し、猪木が長時間にわたってヘッドロックで絞めあげれば、斎藤はスリーパーから首四の字で捕らえる。そしてリングに戻ると猪木がバックドロップで投げる。
 夕方の6時となって日没となったため、リングの周りの4隅に設置されていたかがり火が点火されると、再び二人は草地へと移動、互いにヘッドロックで絞めあげるが、斎藤がヘッドロックで捕らえたところで、猪木がかがり火に斎藤を叩きつけ、かがり火が倒れて火の粉が飛び交う。当時はまだデスマッチが認知されていなかったこともあって、自分もこのシーンは衝撃を受けた。そして猪木は斎藤に頭突きを連発して流血させると、リングに上がってナックルを打ち込み、草地へ降りても猪木はナックルの猛打を浴びせるが、斎藤は苦し紛れに薪を取って猪木を殴打、リングの鉄柱に猪木を叩きつけて、頭突きを打ち込んでいくも、猪木は薪を取ってかがり火のほうへ向かうも、足がもつれて転倒したところで、斎藤は頭突きを連発し猪木も流血する。
 猪木は斎藤をリングに上げてブレーンバスターで投げ、再びリングに降りるとしばらく歩いてから疲れが出たのか、膝をついてしまうと、斎藤が起き上がり「猪木!まだだ!」と叫んで、猪木にとびかかって頭突きを連打、鉄柱にぶつけてからリングにあげ、得意のサイトースープレックスを決めるも、猪木も起き上がって「死ぬまで闘うぞ!」と叫んで延髄斬りを一閃、だが斎藤はエプロンに置かれていた薪を取り出すと、猪木を殴打して再びサイトースープレックスで投げる。

 斎藤はこれで猪木は敗れたかと思ったが、猪木が起き上がり、斎藤はラリアットを狙うも、猪木はドロップキックで迎撃、そして二人は再び草地へ転がり落ちるように降り、頭突きを乱打する斎藤を、猪木が晩年フィニッシュにしていた魔性のスリーパーで捕獲、絞め落としたと確信した猪木は夢遊病者のように出口へ向かう。ルールでは出口に出た瞬間猪木の勝ちとなる。意識は朦朧としていながらも猪木はまだルールは把握していたのだ。その前に山本氏が倒れ込んでいる斎藤の意識を確認、戦意喪失しているのを確認して試合はストップ、坂口が「殺し合いじゃないんだ、あれ以上、斎藤は戦闘不能、見届け人の権限で試合をストップしました」と説明、猪木の勝利で2時間5分14秒にわたる死闘を終えた。猪木は出口へ向かう途中倒れ、意識を朦朧としていたためか方向感覚を失い、出口とは違う方向へ歩き出すも、やっと出口に辿り着き、船着場で待たせたあった船に乗り込み、付き人だった船木や大矢と共に巌流島を離れたが、猪木も鎖骨、斎藤も肩甲骨を試合中に骨折しており全身はガタガタ、気力も使い果たして二人共精根尽き果てていた。

 斎藤は後日「巌流島はシュートだった」と答えていた。現代ではDDTや大日本プロレスなどがハードコアマッチや路上プロレスなどが行われているが、猪木vs斎藤の巌流島は慣れない試合形式を二人が真剣に命がけ挑んだ意味ではシュートだった、また派手な技はバックドロップやブレーンバスターのみ、主な技はパンチや頭突き、そして絞め技と原始的なものばかり、また見ていたのもマスコミや立会人だけだったということもあり、二人は客を意識することもなく、猪木は自分がやりたかったプロレスを命がけでやった。当日はどうしても二人の死闘を見たくて巌流島に上陸しようとしていたファンもいたが、おそらく観客などいたら二人は"プロレス"をやっていたかもしれず、考案者とされた藤波は長州と巌流島で命がけのプロレスをやることが出来ただろうか・・・、巌流島は猪木にとって究極のプロレスであり、猪木と斎藤でしか出来ない究極のプロレス芸術作品だった。

 巌流島は翌日のワールドプロレスリングの特番で放送されたが、先に長州力のテレビ復帰戦が行われ、藤波か前田、どちらかを相手にするかコイントスで決められることになったが、コインがマットに落ちた瞬間に長州が藤波に襲い掛かって、長州vs藤波となるも、2度にわたる延長戦の末、向こう試合となり後味の悪い結果に終わったことで大きなインパクトを与えることが出来ず、巌流島を上回ることが出来なかった。そして16日に猪木が長年に渡って連れ添っていた倍賞美津子との離婚が巌流島決戦直前に成立していたことが明らかになり、またしても猪木に話題の中心を持っていかれることになる。離婚が報道された3日後の19日に静岡大会、長州は藤波と組んで猪木&X組と対戦したが、猪木はまだ若手だった山田恵一を抜擢したことで、長州は"世代闘争はこの辺が潮時"と考え、藤波と仲間割れすることでフライングし、自ら掲げた世代闘争に自分自身で幕を閉じ、猪木の思惑通り世代闘争は終焉となったが、猪木が一歩引いて長州が新日本を仕切るようになるのは、もう少し先のことだった。

 斎藤はアメリカマットがテリトリー制が崩壊したことで、日本での定着を余儀なくされ、長州と共に次第に体制側へと入り、長州が現場監督に就任すると、斎藤は外国人選手のまとめ役である外国人ブッカーに就任、長州は普段外国人選手との交流があまりなかったことから、斎藤にまとめ役を依頼したものだったが、斎藤は外国人選手のまとめ役だけでなく、選手発掘やWCWのパイプ役となり、現役選手としては1990年2月10日の東京ドーム大会ではAWA世界ヘビー級王座を奪取、ジャンボ鶴田に次いで二人目の日本人王者であり、シングルで初めてビックタイトルだった。斎藤は1999年2月まで現役を続けながらも、外国人ブッカーとして長州だけでなく新日本プロレスを支えた。

  その斎藤も今年である2018年7月14日に死去、猪木は本葬には駆けつけなかったが、通夜には斎場の前までは駆けつけ、倫子夫人へのお悔やみの電話だけに留まり、お通夜の会場近くに車を寄せてくれて斎藤を見送った、猪木は車の中で巌流島の戦いを振り返っていたのかもしれない。二人が最後に会ったのは佐々木健介引退記念パーティーの席上で猪木は斎藤との再会を喜こぶも斎藤はタックルを浴びせ、猪木も頭突きで返してエールを交わし合い、最後に猪木は「いつか焼肉を食べに行こう」と約束して別れたという、猪木は「抱きついたらあの野郎タックルしてきやがった」って笑えば、斎藤は「アントニオ猪木がいきなり頭突きをかましてきたんだよ」と答えていたが、二人は引退してもライバルであり、斎藤が亡くっても、二人でしかわからないライバル関係はいつまでも続く…

(参考資料 日本プロレス事件史Vol.18 マサ斎藤著「プロレス『監獄固め」血風録)

追記
 最後に斎藤さんのインタビューが掲載されているGスピリッツVol.40が物置から出てきた、これはおそらく斎藤さんにとって最後のインタビューであり、巌流島に触れたのもこれが最後なったと思う。

「それを(巌流島)をアントニオ猪木の相手として出来るやつなんていないじゃん。俺しか出来ないんだよ、それをアントニオ猪木が見抜いて、俺を選んだ。(中略)アントニオ猪木も俺も…お互いの鬱憤をリングにぶつけ合って、その結果がああいうことになった。」

-観客不在の状況でよくモチベーションを持続できたなと
「簡単よ、無になればいいんだよ。リングさえあれば、どこだっていいんだよ。戦えば。こっちだって慣れたもんだよ。リングの中だけでなく外であろうと、どこでも戦える。アントニオ猪木もそう。でも、その真似は誰も出来ない」

「あの時はハイになった。ハイで戦って。ふと気づいたら闇夜になっていてたいまつに火がつけられて…あれで余計にハイになった」

「アントニオ猪木のキックで骨が折れて、アントニオ猪木は鎖骨を折ったはずだよ。最後はスリーパーホールドで負けたけど、悔いはなかった。試合後、病院に運ばれて、額を縫って、胸をチェックしてもらってホテルに戻ったけど、ビールを50缶も飲んだんだ。2時間5分も戦って脱水症状になっているし、身体中痛いんだよ、だからガンガン飲んで、山本小鉄ちゃんが俺の部屋に来て、一緒に飲んだけど酔えなかった」

「巌流島はプロレスをやったよ、ああいうプロレスをやりたかったんだ。あれはやったものじゃないと、わからないよ。」

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