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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

大日本プロレスのリングで行われた最初で最後のMMAマッチ、ケンドー・ナガサキ・47歳の挑戦

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大日本プロレスのリングで行われた最初で最後のMMAマッチ、ケンドー・ナガサキ・47歳の挑戦


 1995年9月13日、大日本プロレス愛知・露橋スポーツセンター大会でケンドー・ナガサキがジェラルド・ゴルドーの実兄でありUSA大山空手に所属するニコ・ゴルドーとバーリ・トゥード(MMA)マッチで対戦した。

 ナガサキは日本プロレス出身で、日本プロレス崩壊後は全日本プロレスに移籍、そしてアメリカへ渡って定着し、坂口征二の誘いで新日本へ移籍した。そしてSWSの旗揚げに参画しエージェントして天龍源一郎をスカウトするも、SWS分裂後は、新団体NOWを旗揚げするが、順調な経営とは行かず、1994年10月に経営不振で解散、ナガサキは引退を考えたが、当時WARで営業をしていたグレート小鹿に誘われ、大日本プロレスの設立に参加、大日本は1995年3月16日、横浜文化体育館で旗揚げし、旗揚げ時は有刺鉄線を主にしたデスマッチ路線を強いていた。
 この頃から社長だった小鹿が当時週刊プロレスの編集長だった山本隆司氏と接触しており、金を渡しつつも、大日本の存在をどうアピールするかアドバイスを求めていた。そこで山本氏が送ったアドバイスはナガサキに総合格闘技バーリ・トゥードに挑戦させることだった。

 1993年にホイス・グレイシーがUFCでパンクラスに参戦していたウェイン・シャムロックを破ってから、ホイスの存在がクローズアップされた同時に、バーリ・トゥードがプロレスファンどころか格闘技ファンからも認知され始め、正道会館の石井和義氏が「K-1 GRAND PRIX '93」を成功させたことで、格闘技ブームが起きようとしていた。4月20日、日本武道館で行われたヒクソン・グレイシーも参戦した「バーリ・トゥード・ジャパン」を小鹿と共に視察すると、突然小鹿が打倒・ヒクソンを掲げてバーリ・トゥード路線に挑戦を表明、ヒクソンは昨年の1994年12月に道場破りに来たUWFインターナショナルの安生洋二をチョークスリーパーで絞め落としており、『400戦無敗』ということでクローズアップされようとしていた。ナガサキは日本プロレス時代からセメントマッチに強いとされ、坂口征二と共に新日本プロレスへ移籍しようとしてた大城勤の顔面をボコボコにするまで殴って制裁を加え、また海外でもケンカで数々の武勇伝を誇っていた。週刊プロレスは「セメントマッチならナガサキが最強」と大体的にPRするが、当のナガサキ本人は乗り気でなかった。

 ナガサキvsニコ・ゴルドー戦は自分も観戦していた、理由は当時バーリ・トゥードが注目されていたこともあって、バーリ・トゥードとは何なのかというものを生で見たかったからだった。会場には「バーリ・トゥード・ジャパン」を仕切っていた修斗の佐山聡、ニコのセコンドとしてジェラルド・ゴルドーが来場、自分もかつて憧れていた初代タイガーマスクこと佐山が目の前にいることから、サインを求め、本人も気軽に応じてくれた。メインのナガサキvsニコ戦になると、リングは金網に囲まれ、ナガサキのセコンドには小鹿だけでなく、SPWFから大日本に参戦していた谷津嘉章が着いた、試合はニコのパンチは受けたものの、受けきる自信があったナガサキは組み付いて裏アキレス腱固めで勝利を収めたが、ナガサキのケンカ強さは見せることがなく、インパクトに欠けたものになり、生で見ていた自分も「これで大丈夫なの?」「ケンカと格闘技は違うものでは」と疑問に思わざる得なかった。

ナガサキは後年「アメリカで金網デスマッチやってるから、あの中に入るのは別に抵抗なかったし関節極めりゃあいいと思ってたからさ。KOされちゃったやつは、ただボーっとしてるところにバーンとやられて、それで終わり。掴めば勝てると思ってたんだよ。いけると思ってたから、パンチをガードしなかったんだよね。それに、そういう練習はしてなかったんだから。あの時47歳だっけ?まだ30代半ばだったら、いけたと思うけどね」と振り返っていたが、ナガサキがプロレスの習性である打撃を正面で受ける癖が染み付いていただけでなく、47歳だった年齢を考えるとMMAに挑戦するには齢を取りすぎていたのかもしれない。

 ナガサキはその後、元ボクシングWBA世界フライ級王者だった花形進氏からパンチを指導してもらい、26日に駒沢オリンピック公園体育館で行われた「バーリ・トゥード・バーセプション」に出場、UFCに参戦経験のある元ボクサーのジーン・フレジャーと対戦し、いきなりナガサキがグラウンドを狙って捕らえにいったところで、フレジャーの右ストレートを喰らってダウンしてしまい。再び立ち上がって突っ込んだところで再び右ストレートを浴びてKO負けとなり、失神したナガサキは病院送りにされ、小鹿も「目の前が真っ白になった。力道山先生が亡くなった時以来の衝撃だ」と大きく落胆した。自分も正直言ってこの結果を受けたときは、対戦前から嫌な予感はしていた。

 このままでは終われないと感じたナガサキは当時若手だった山川竜司を伴い10月にブラジルへ渡り、アカデミア・ブドーカンという道場でバーリ・トゥードの戦い方を学び、12月29日に決定していた次戦に備えようとしていた。そして同地では山川もバーリ・トゥードに挑戦、ナガサキも会場でヒクソンとも対面した。しかし日本に戻ると12月に予定していた次戦は小鹿の方針で中止となり、これで大日本のバーリ・トゥード路線は撤退することで幕を閉じた。

 大日本は再びデスマッチ路線へと戻り、97年1月4日新日本プロレスとの対抗戦から他団体との交流が活発となったが、新しい選手が成長すると共にナガサキは大日本で浮いた存在となって退団、フリーとなって様々な団体に参戦も、不整脈で心臓の手術を受け、ナガサキは静かに引退した。

<参考資料 GスピリッツVol.15 ケンドー・ナガサキ自伝より>

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