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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

ラッシャー木村の「こんばんわ」事件…失笑から猪木vs国際軍団の抗争が始まった!


 1981年9月23日、新日本プロレス田園コロシアム大会でメインイベントとしてアントニオ猪木がタイガー戸口とシングルマッチを行ったが、試合前に2人の男たちがリングに上がって入場する猪木を待ち構えていた。2人の名は元国際プロレスのラッシャー木村、アニマル浜口、木村は10・8蔵前国技館で猪木との対戦が決定しており、保坂正紀アナからインタビューを受けたが、木村の第一声が「こんばんわ」だった。木村の第1声に館内は失笑が起き、保阪正紀アナからコメントを求められた猪木も失笑が起きたことを嫌ったのか、何もコメントをすることはなかったが、この失笑から猪木vsはぐれ国際軍団の抗争が始まった。

 新日本プロレスvsはぐれ国際軍団の抗争を仕掛けたのは、当時新日本プロレスの営業本部長で"過激なる仕掛け人"として猪木の側近として活躍した新間寿氏だった。木村ら属していた国際プロレスは吉原功氏が1967年に旗揚げ、ヨーロッパ路線を開拓して外国人エースとしてビル・ロビンソンを据え、金網デスマッチなど斬新なアイデアを駆使してて独自性を打ち出していたが、日本人エースの不在や営業力不足もあって、経営状態は常に火の車、TV中継をしていたTBSからの放映権料だけが団体にとって命綱だった。
 また ラッシャー木村は相撲出身だったが、プロレスラー志望だっため、相撲から廃業後は日本プロレスに入門してデビューを果たすが、豊登の付き人をしていた関係から東京プロレスに参加、ここから猪木や新間寿氏、寺西勇と関係が出来るも、東京プロレスが崩壊すると、猪木は一部選手を連れて日プロにUターンすることが出来たが、木村は豊登に近いこともあり、デビューしたばかりで日プロを飛び出したとして除名処分を受け、日本プロレスに戻れなくなった木村は一時は廃業を考えるも、吉原社長の誘いを受けて国際に移籍、アメリカに渡ったロビンソンに代わりエースとなっていたストロング小林に次ぐトップ選手として台頭し始め、1970年8月に金網デスマッチを行うことで"金網デスマッチの鬼"と異名を取るようになっていた。

 ところがTBSがTV中継を打ち切り、エースだった小林は新日本に引き抜かれてしまうと、ただでさえでも営業基盤の弱い国際は窮地に立たされてしまう。吉原社長は提携を結んでいた全日本プロレスに協力を頼んでジャイアント馬場を始めとする全日本勢が助っ人参戦し、東京12チャンネルがTV中継を開始するなど急場を凌いだが、新日本に移った小林が猪木に、小林に代わって国際のエースとなっていた木村も馬場と対戦して敗れてしまったことで、国際は団体としてのイメージを大きく低下させてしまい、新日本や全日本と比べマイナー扱いされ、選手達もファンから評価されないことで苛立ちを抱え、特に新日本に対しては選手を引き抜くやり方に選手達は猛反発していた。

 だが国際の吉原社長は提携する団体を全日本から敵対していた新日本に乗り換えることを決意する。全日本が旗揚げした頃から国際は協力関係を結んでいたが、最終的に美味しいところだけはしっかり持っていく全日本に対して不満を抱いていた。国際は次代のスターとして売り出すはずの剛竜馬も新日本に引き抜かれ、国際は東京地裁に剛の新日本への出場停止を申し立てていたが、裁判所は両団体同士で話し合いを求めため却下も、皮肉にも剛の引き抜きをきっかけに新間氏と吉原社長は度々会うようになっていたのだ。
 新間氏と吉原社長は知らない仲ではなく、日本プロレス時代からの仲で、新間氏がフロントとして携わっていた東京プロレス崩壊後は、国際に移籍していた豊登を頼ってフロントとして国際入りを希望していたものの、吉原社長から「営業は必要ない」と断れていた。その後新間氏は猪木と組んで辣腕を振るって新日本を隆盛に導いたことで、吉原社長も敵ながら認めざる得ず、国際入りさせなかったことを後悔していた。

 話し合いの席で吉原社長は新間氏に『国際の社長にならないか』と持ちかけてきた。吉原社長の狙いは新日本の傘下団体になることで、吉原社長は会長職に下がり、新間氏は新日本のフロント兼任で国際の社長になってもらい、様々な面でテコ入れをしてもらおうというものだった。新間氏も吉原社長の後押しを受けて、国際を意のままに動かし、全面対抗戦に持ち込め面白いものが生まれ、また『ワールドプロレスリング』の中継で国際の選手が放送されれば観客動員にも繋がると考えて乗り気になる。早速新間氏は社長の猪木に相談するが「オマエが国際の社長になって、何が面白いんだ!オレの下にいる人間が国際なんかに行って、五分に話が出来るかよ!」と却下されてしまう。猪木は元々対抗戦を嫌っているだけでなく、東京プロレス時代に国際に参戦した際に吉原社長とギャラの支払いを巡って揉めた一件から吉原社長だけなく国際も毛嫌いしており、またマイナーな国際を新日本と対等に扱って対抗戦に持ち込むことにはどうしても猪木は納得出来なかったのだ。結局国際と新日本は提携を結ぶだけに留まり、新日本から国際に選手が派遣されるも、全日本との関係を継続を望んだ選手達にとっては新日本との提携は納得し難い話だった。また猪木の意向が反映されてか、新日本から派遣されたのはピークの過ぎた中堅選手ばかりも、その中堅選手に国際勢が苦戦を強いられ、また国際が次代のエースとして売り出そうとしていた阿修羅・原もWWFジュニア王者の藤波辰己に挑み完敗を喫したことで、国際のイメージはますます低下し、観客動員も低迷、選手達へ支払うギャラも遅配が出始めていた。

 その後も悪戦苦闘を強いられていた国際だったが、1981年3月に東京12チャンネルでの中継がTV中継が打ち切られ、唯一の資金源を失った国際は自主興行を開催する力も次第に失い、8月9日の北海道羅臼町大会で興行活動を停止、吉原社長は選手達の再入団先を探すために新日本、全日本の両団体と交渉するも、馬場は吉原社長に裏切られたことあって拒まれるが、猪木は木村、浜口、寺西の3人だけなら国際の名前を自由に使えることを条件にして使ってもいいと申し入れた。猪木が3人を指名した理由は全日本から引き抜いたアブドーラ・ザ・ブッチャーが自分と手が合わず、使い物にならないと判断していたのもあり、対抗戦で新日本に反発する選手が多い中で、吉原社長の命令に黙って従っていた木村、浜口、寺西の3選手は信頼できると判断していたからで、猪木は国際の看板を使って3人のヒールに仕立てることを考えていた。

 新間氏は浜口と秘かに会い木村と寺西を説得して欲しいと依頼、浜口も吉原社長の恩義に報いるために木村と寺西を説得し3人は新日本と契約を結んだ。8月27日に新間氏と吉原社長が会見を開き、10月5日の大阪、10月8日の蔵前、11月末の福岡と両団体の全面対抗戦を行うことを発表するが、ここで全日本が対抗戦を潰すために国際の選手らに吉原社長を通さずに独自にオファーをかけ一本釣りを画策、木村に次ぐNo.2でありアンチ新日本の急先鋒だったマイティ井上は吉原社長に義理は果たしたとして「ゴング」の編集長の竹内宏介氏の仲介で中堅の米村天心、若手の冬木弘道、アポロ菅原も引き取ってくれるならという条件で全日本へ移籍を決めてしまう。木村も全日本からオファーを受けていたことも明らかになったが、木村は新日本を選んだ。理由は吉原社長に従っただけでなく、東京プロレス時代から恩義がある新間氏との関係を優先し、ギャラや契約金も含めた待遇面で新日本の方が条件が良く、苦労をかけてきた家族を楽をさせてあげたいという考えのあっての選択だった。吉原社長は国際の名前を使う使用料として新間氏から5000万を受け取り負債の返済にあてるはずだったが、吉原社長を嫌う猪木の意向で3分の1にカットされ落胆していた。そのことを知ったのか木村は契約金の全てを吉原社長に渡した。木村が新日本を選択したもう一つの理由は自分を拾ってくれた吉原社長の恩義に報いるためにどうすべきか考えた末の決断だったのかもしれない。

 対抗戦プランは猪木の猛反対もあって10・8の蔵前大会しか実現できず、予定していたカードも猪木vs木村、藤波辰己vs阿修羅原、タイガーマスクvsマッハ隼人、長州力vs浜口、星野勘太郎&剛vs寺西&鶴見と発表されたが、土壇場になって原が国際中継で解説を務めていた門馬忠雄氏の仲介で馬場に口説き落とされて、全日本への移籍を決め、マッハも鶴見も海外へ行くことを決めていたことから対抗戦には不参加となってしまう。新日本は対抗戦を盛り上げるために、国際軍団に小林を入れようとしていたが、小林は腰痛を悪化させて欠場しており、もう試合が出来ない状態だったため、3人だけで新日本との対抗戦に臨まなく得ない状況になってしまっていた。
 対抗戦のカードも猪木vs木村は予定通りも、浜口vs剛、藤波vs寺西と変更となってしまう。藤波vs寺西はジャーマンスープレックスホールドで藤波が勝利も、浜口は剛から勝利を収め、1勝1敗のタイスコアとなる。そして猪木vs木村の大将戦は、猪木が速攻勝負を狙ったか開始早々から延髄斬りを放って先制も、打たれ強い木村も頭突きの連打で反撃、場外戦で猪木を流血に追い込む、猪木はショルダーアームブリーカーから腕ひしぎ逆十字を決めるも、木村はロープに逃れる。だがエキサイトした猪木はブレークに応じなかったため反則負けとなり、対抗戦は2勝1敗で国際が勝利も、ここから猪木vs木村による遺恨が始まった。

 11月5日に猪木vs木村の再戦がランバージャックマッチで行われ、逆に鉄柱攻撃で木村を流血に追いこんだ猪木がショルダーアームブリーカーから腕十字で捕らえるも、木村がギブアップしなかったため、セコンドがタオルを投入して猪木がTKO勝ちも、木村はギブアップしてないとしてタオルを投げた浜口、寺西、小林に代わり国際軍団入りしていた剛に怒りをぶつけ、猪木に再戦を要求、ファンは敗れてもなお食い下がる国際軍団を次第にヒールとして扱うようになる。翌年の1982年2月9日に第3Rが行われ、場外戦で両者がリングに戻ろうとしたところで、セコンドの浜口が猪木を場外へ引きずり降ろして猪木のリングアウト負けとなったことで、国際軍団がヒールとして見られることが決定的となった。国際軍団はブッチャーとも共闘してヒールユニットとして存在意義を示し始め、試合に度々乱入していは猪木を襲撃するなどファンの憎悪を一身に受けることになり、猪木も外国人より国際との抗争に軸を置きはじめた。この頃の猪木は実力的にもピークが過ぎつつあり、体調も崩し始めていたことから、猪木だけでなく新日本的にも木村は猪木の強さを見せられる絶好の相手だった。木村も新日本から国際より莫大なギャラを得ることで、長年にかけて苦労をかけてきた家族に楽をさせることが出来たが、自宅には生卵を投げられ、飼い犬も嫌がらせを受けて円形脱毛症になるなど代償も大きかった。

 9月21日の大阪府立体育会館で木村は猪木と敗者髪切りマッチで対戦、試合中にセコンドの浜口が猪木の髪をハサミで刈る暴挙に出ると、猪木が怒り木村にナックルをあひせてイスで殴打、この日は小林も木村のセコンドに着いていたがイスで殴打されてしまう。猪木はリングに戻った木村に延髄斬りを浴びせ勝利も、木村は髪を切らずに逃亡、館内は暴動寸前となり、猪木はこの場を収めようとしたのか国際軍団に対して永久追放を宣言、新間氏も木村に代わって髪を切ることでその場を収めたが、10・8後楽園大会で永久追放に納得いかない国際軍団がTV中継開始と共に乱入し猪木との対戦を要求、猪木は国際軍団と1vs3によるハンディ戦で対戦することをアピールする。1vs3は国際軍団にとっては屈辱的だったが、猪木にしてみれば体調不安説を一掃するために組んだ試合でもあった。11月4日と1983年2月7日に2度行われたハンディキャップ戦は2人は破るものの、最後の一人で疲れが見え始め、敗れてしまい猪木の復活を示すことは出来なかったが、この頃から正規軍に叛旗を翻した長州力が台頭し始めたことで、猪木vs国際軍団の抗争もピークが過ぎようとしていた。

 3月に長州と意気投合した浜口が国際軍団を離脱、国際軍団は木村と寺西だけとなり、国際軍団を影ながらプッシュしていた新間氏もクーデター事件で失脚したことで、国際軍団の扱いも次第に悪くなっていく、木村も国際時代から抱えていた腰痛が悪化、最悪のコンディションの中で髪切り事件のちょうど1年後の1983年9月21日の大阪府立体育会館で猪木と対戦するが、猪木のナックルの前に血だるまにされた木村は延髄斬りの前に無残なKO負けを喫し、猪木vs国際軍団の抗争に終止符が打たれ、木村は腰痛の治療のため欠場、一人だけとなった寺西は長州率いる維新軍団に組み込まれてしまい、国際軍団は事実上の解散となった。

 1984年1月に木村は一匹狼として復帰も、新日本vs維新軍団の抗争が主軸となったことで割って入ることは出来ず、新間氏の誘いを受けて旧UWFへ移籍、だが旧UWFでも新間氏は失脚、居場所を失った木村は国際時代から懇意にしていたプロレス解説者の菊池孝の仲介で全日本へ移籍、最初は国際血盟軍としてヒールとされていたが、マイクパフォーマンスが受けてファンから支持を得るようになり、馬場と義兄弟タッグを結成、バラエティー路線で観客を大いに沸かせた。2000年に木村に好意を持っていた三沢光晴の誘いを受けてNOAHに移籍も、古傷の腰痛の影響で歩くのにもままならない状況となり、それでも専用のギブスを巻いて試合をこなしていたが、2003年3月の武道館大会を最後に欠場、2004年7月10日の東京ドーム大会で引退が発表されたが、木村はレスラーとしてのプライドからかファンの前に出ることを拒み、ビデオレターによる発表だけに留まり、三沢の葬儀には出席していたが、この頃には脳出血を患っており、公の場に出るのはこれが最後となり、2010年10月4日に死去、死去の半年前からいつ亡くなってもおかしくない状況だったという。

 木村は私生活では馬場の悪口は言わなかったが、猪木に関しては東京プロレス時代の経緯もあり、この頃から猪木が選手のギャラまでも事業につぎ込んでいた評判も聞いていたことあって、猪木のことはあまり良くは思っていなかったことを家族にだけ明かしていたが、木村がUWFへ移籍する際に猪木が木村を引きとめていた。敵対はしていたが猪木は内心仕事が出来る木村を高く評価しており、正規軍に入れることも視野に入れていたという。だが木村はUWFは誘ってくれた新間氏の義理を優先して新日本から離れた。木村とは日プロ時代から同期で東京プロレスも経験したマサ斎藤はレスラーとしても尊敬し、猪木も信頼したことで敵対しながらも盟友関係を築いていたが、木村の場合はレスラーとしてだけでなく、猪木の人間性も見てしまったことで尊敬するまでには至らず、敵対しながらも盟友関係を築けなかった。吉原社長への恩義がなければ、馬場の誘いに乗って、もっと早い段階で全日本に移籍していたのかもしれない。

<参考資料 GスピリッツVol.39、46 新日本プロレスワールド、こんばんわ事件、猪木vs木村、猪木vs国際軍団の1vs3は新日本プロレスワールドにて視聴できます。>

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