訃報
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ケビン・ランデルマンとプロレス
PRIDEで活躍した総合格闘家であるケビン・ランデルマンが12日、肺炎で死去した。44歳の若さだった。
ランデルマンは日本ではPRIDEに参戦していたが、2002年にプロレスのリングにも上がった。
2002年11月に武藤敬司の全日本プロレスと当時ケイ・ワンを運営していた石井和義氏が組み、プロレスイベント「ファンタジーファイトWRESTLE-1」を横浜アリーナで開催、運営協力にはPRIDEを運営していたDSEも携わっていたが、武藤全日本に地上波放送を着かせることが目的で組まれたプロレスイベントだった。
ランデルマンはマーク・コールマンと組んで小島聡、馳浩組と対戦、試合はランデルマンがジャンピングエルボーやフランケンシュタイナーなど驚異的な跳躍力を披露して小島を苦しめ、最後は小島のラリアットの前に敗れたがプロレスへの順応性があることを感じさせた。
「ファンタジーファイトWRESTLE-1」は1月19日東京ドームでも開催され、ランデルマンはコールマンとのタッグでジャイアント・シン(グレート・カリ)、ジャイアント・ノルキア組と対戦した。
「ファンタジーファイトWRESTLE-1」はフジテレビが当時大人気だったボブ・サップを中心として扱い、ゴールデンタイムで放送していたのにも関わらず、視聴率は想定してより稼げず、エンタメ色が強すぎたため当時のプロレスファンからは受け入れなかった。そして後押ししていた石井氏が脱税事件で逮捕され失脚、DSEも社長だった森下直人氏が死去、その後双方共体制が変わり、K-1とPRIDEの関係が険悪化したことで「ファンタジーファイトWRESTLE-1」は休止となった。
ランデルマンはその後ハッスルに参戦、そして2007年6月29日に旗揚げされたIGFに参戦し旗揚げ戦ではアレクサンダー大塚と対戦して勝利を収め、9月8日に開催された名古屋大会ではPRIDEで対戦した小原道由に敗れたが、小原戦が最後のプロレス参戦となった。
ご冥福をお祈りします。
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AWA世界ヘビー級王者 ニック・ボック・ウインクル
AWA世界ヘビー級王者だったニック・ボック・ウインクルが死去した。享年80歳
ニックは自分がプロレスファンを始めた頃からAWA世界ヘビー級王座に君臨しジャンボ鶴田が何度も挑んだが反則裁定などであと一歩でベルトを奪うことが出来なかったことが印象に残っているし、リック・フレアー同様なぜ世界王者なのかと疑問に思っていた。
しかし昭和59年2月にジャンボ鶴田がニックを破ってAWA王座を奪取したときはキラーぶりを発揮、いつも相手を引き立てていたニックが先手必勝とばかりに奇襲をかけ、試合をリードしていた、また大阪での再戦も挑戦者となったニックは一転して追われる立場となった鶴田を大いに苦しめたが、AWA世界王者としては二度と来日することはなく、世界最強タッグではハーリー・レイスとのコンビを実現させるなど、全日本のレギュラーとして参戦していた。
ニックが最後に来日したのはZERO1のリングでAWA選手権(現世界ヘビー級王座)の立会い人としての来日だった。
ニックが遺した格言である「相手がワルツを踊れば私もワルツを踊り、ジルバを踊れば私もジルバを踊る」はいつまでも残り、他のレスラー達に受け継がれていくだろう。
ご冥福をお祈りします。 -
ロディ・ハイパー
WWEがWWEの殿堂入り者であるロディ・パイパーが死去したことを報じた、享年61歳。ハイパーは2006年にホジキンス・リンパ腫と診断され昨年11月にはガンであることを公表していた。
ハイパーの初来日は新日本プロレス、1978年3月に来日した際にはマスクマンのマスクド・カナディアンとなり凱旋帰国した藤波辰爾の凱旋マッチの相手を務め、ドラゴン・スープレックスで敗れた。
自分が始めてTVで見たのは全日本プロレス、昭和58年にはディック・スレーターと組んでジャイアント馬場、ジャンボ鶴田組の保持するインターナショナルタッグ選手権に挑戦したが、アメリカではリック・フレアーの保持しているNWA世界ヘビー級王座に挑戦するなどトップとして扱われていたが、日本ではトップとして扱われず、新日本また全日本でも常連として定着しなかった。
ハイパーがトップに扱われるようになったのはWWFに移籍してから、WWF王座は獲得しなかったがパイパーズ・ピットというトークコーナーで抗争相手と舌戦を繰り広げる、トークという部分で存在感を発揮し、後に映画俳優として「ゼイリブ」の主演となり、日本でも公開され、時折りTVでも放送された。
晩年はWWEを出たり入ったりを繰り返していたが、WWEの殿堂入りも果たし、最終的にレスラーとしてのキャリアはWWEで終えた、WWEではビッグタイトルには恵まれず、2005年にリック・フレアーと組んで世界タッグ王座を獲得したのみだったが、ベルトより存在感で発揮したレスラーだった。
ご冥福をお祈りします -
“アメリカンドリーム”ダスティ・ローデス
(プロレス格闘技DXより)
米WWEは現地時間11日、“アメリカン・ドリーム"ダスティ・ローデスさんが死去したと発表した。69歳だった。現地メディアが伝えるところによると、11日の早朝に体調が悪化し腎不全のため亡くなったという。ローデスさんは1968年にデビュー後、故ディック・マードックさんとのタッグチーム「テキサス・アウトローズ」で活躍。1971年に国際プロレスへ参戦して初来日を果たし、その後全日本と新日本にも参戦した。NWA世界ヘビー級王座を3度獲得し、尻を振るダンスなどで独特の存在感と地位を確立。多くのアメリカン・プロレスファンに愛された。
息子であるダスティン・ローデス(ゴールダスト)、コーディ・ローデス(スターダスト)もWWEでレスラーとして活躍。2007年にはWWE殿堂入りを果たし、現在はWWEでプロデュース業にあたるかたわら、教官として後進の指導にもあたっていた。
ご冥福をお祈りいたします。
元NWA世界ヘビー級王者で“アメリカン・ドリーム"ダスティ・ローデスさんが死去した、享年69歳。
ローデスは自分がプロレスファンを始めてから知ったレスラーで新日本プロレスに参戦していた、過去に国際プロレスや全日本プロレスに参戦した経歴をもっているが、ショーマン度は強いローデスはジャイアント馬場さんは高く評価せず、ローデスの相棒であるディック・マードックの方を高く評価していた。ローデスが主戦場にしていたフロリダマットが新日本とのつながりが深かったせいもあって日本では新日本を主戦場にしていた。印象に残っているのは昭和57年に開催された「第五回MSGシリーズ」の最終戦直前の愛知大会、ディック・マードックとのテキサス・アウトローズでアントニオ猪木、藤波辰己組と対戦し、当時左膝を痛めていた猪木に対してマードックと共に徹底的に左膝に集中砲火を浴びせ、猪木は左膝の負傷を悪化させてしまい、進出を決めていた優勝決定戦を棄権を余儀なくされてしまった。昭和59年の後楽園で行われた元日興行で猪木とのシングルが組まれたが両者リングアウトの凡戦に終わり、それ以降はローデス自身もアメリカでの活動を重点に置いたため、2004年にハッスルに参戦した以外は日本に来ることはなかった。
最近ではNXTのGMを務めたりRAWでは息子であるゴールドダスト、スターダスト(ゴーディ・ローデス)との絡みに登場するなど元気な姿を見せていたが、アメリカンプロレスを象徴するレスラーの一人だった
ご冥福をお祈りします。
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全日本プロレスの名物タッグ“ザ・ファンタスティックス”の片割れトミー・ロジャース
(日刊スポーツより)
全日本に14回参戦しイケメンで女性に人気だったトミー・ロジャース(写真右)さんが1日(日本時間2日)、ハワイ・ホノルルの自宅で早朝亡くなっているのを発見されたと、米メディアが報じた。54歳だった。死因は不明。
ロジャースさんは、82年にデビュー。84年にボビー・フルトンと名コンビ、ザ・ファンタスティックを結成し、全米各地でタッグ王座を獲得した。87年7月から全日本に14回参戦し、アジアタッグに6度挑戦するなど好試合を演じた。97年にWWEに参戦、07年に引退していた。
全日本プロレスの常連外国人選手の一人だったトミー・ロジャースさんが死去した、享年54歳。
ロジャースさんはボビー・フルトンとのタッグ『ザ・ファンタスティックス』で89年7月全日本プロレスの「サマーアクション・シリーズ」に初来日、合体技であるファンタスティックフィリップ(トップロープのパートナーを空いてに向かって投げ下ろす)を披露してファンから高評価を得て、同シリーズではジョー・マレンコとディーン・マレンコのマレンコ兄弟と対戦し敗れはしたが大熱戦を展開、以降全日本の常連となったがアジアタッグ王座は奪取できず、ロジャースもシングルプレーヤーとして渕正信の保持する世界ジュニアヘビー級王座に挑戦したが敗れるなど王座には縁がなかった。
1996年スーパーパワーシリーズを持って全日本を離れてしまってからは消息が聞かれなったが、2004年3月にIWA JAPANにファンタスティックスとして来日、選手としてはこれが最後の来日だった。
タイトルには縁がなかったが全日本のタッグ戦線を大いに沸かせた選手だった。
ご冥福をお祈りします -
AWAの帝王バーン・ガニア
AWA世界ヘビー級王者で同団体のオーナーだったバーン・ガニアさんが死去したことをWWE.COMが報じた、享年89歳。WWE.COMより
WWEはバーン・ガニアの訃報に接し、悲しみにたえません。
89歳で生涯を閉じたガニア氏は、スポーツ・エンターテインメントの世界で高い人気を博したパフォーマーであり、プロモーターでした。ミネソタ州ロビンズデールで育ち、高校時代では野球とフットボール、レスリングの選手として活躍した彼は、とりわけレスリング才能を発揮しました。
ミネソタ州立大学に進学後もフットボールとレスリングで活躍。第二次大戦末期には1年間、海兵隊に従事しましたが、その後復学しました。
学生時代には4度のビッグ・テン・レスリング・チャンピオンシップ優勝、2度のNCAAレスリング・チャンピオンシップ優勝の記録を残し、1949年のAAUレスリング・チャンピオンシップでも優勝、1948年では米国五輪代表にも選ばれています。1950年にプロ・デビューを果たすと複数回の地区王者を経験した後、1960年には発足間もなかったアメリカン・レスリング・アソシエーション(AWA)へ入団、同年8月にはAWA世界ヘビー級王座獲得を果たしました。
1960年代から1970年代にかけては、レスラー兼プロモーターとして活動し10度のAWA世界ヘビー級王座を獲得。やがてAWAのオーナーに就任し、1981年に引退するまではオーナー権現役レスラーとして活躍しました。
ガニア氏が運営したAWAは、ハルク・ホーガン、ジェシー・ベンチュラ、ボビー・ヒーナン、パット・パターソン、ホーク&アニマル、ショーン・マイケルズ&マーティ・ジャネッティ、カート・ヘニング、スコット・ホール、ジーン・オカーランド、シェリー・マーテル、ジェリー・ローラー、ラリー・ズビスコ、サージェント・スローターなど、後にWWEの第一線で活躍したスーパースター達を輩出しました。
また、リック・フレアー、ケン・パテラ、ボブ・バックランド、アイアン・シーク、リッキー・スティムボートらもガニア氏からの教えを受けています。その業界への功績は大きく、2006年4月1日にはWWE殿堂入りも果たしています。
WWEは、ガニア氏の友人とご家族の皆さんに心より哀悼の意を現します。
自分はガニアという存在を知った頃には既に引退しており、昭和56年1月にジャイアント馬場さんの3000試合連続出場記念試合としてAWA、PWFのダブル選手権試合が後楽園ホールで行われ、その年のプロレス大賞ベストバウトに選ばれていたが、ガニアは王者のまま引退しニック・ボックウインクルに明け渡した、だから自分にとってAWA王者はニックの方が印象が強い。
ガニアの足跡を紐解くと1948年にレスリングでロンドンオリンピックに代表に選ばれ、フットボール選手としても活躍した後でプロレスへ転向、NWA世界ジュニアヘビー級王者にもなったが、NWAに反発してミネアポリスを本拠地としたAWAを創設した。しかし初代王者にはガニアではなく当時のNWA世界ヘビー級王者だったパット・オコーナーを認定し、AWAはガニアとの防衛戦を指示、だが勝手に王者と認定されて試合も勝手に組まれたオコーナーが試合を拒否し不戦勝でガニアが新王者となり、AWAはNWAより権威が高いことを印象つけAWAは一時はNWAを凌駕する一大組織となった。
日本との関係はAWAが国際プロレスと提携を結んだのをきっかけとなって来日、ストロング小林やマイティ井上と防衛戦を行うも、ビジネスに関してはシビアで多額なブッキング料を国際プロレスからせしめたが、この時期にモンスター・ロシロフを名乗っていたアンドレ・ザ・ジャイアントをスカウトしアメリカで活躍するきっかけを作り、国際との提携解消後は全日本プロレス、AWA末期には新日本プロレスと関係を結んだ。
またコーチとしての顔もありリック・フレアーやリッキー・スティンボードなどを輩出、ガニアは自身がレスリング出身であることからレスリングが出来る選手を重用するも、パワーファイター系であるハルク・ホーガンやロード・ウォリアーズには良い評価は降さなかったが、これがAWA崩壊の一因となった
1983年にWWFが全米侵攻を開始、まずAWAが標的にされホーガンを始めとする選手やスタッフまでも大量に離脱されてしまいAWAは一気に凋落、1993年にガニアが自己破産したことでAWAは崩壊となった。
2006年にWWE殿堂に迎えられたが、それ以降は表舞台に立たなかった。そしてガニアの名前が出たのは2009年1月、認知症を患っていたガニアは養護施設内で男性を床に投げつけて殺したというというニュースだった、ガニアは認知症を患っているとして殺人罪には問われなかったが、認知症を患っていてもレスラーとしての本能はまだ生きていたということなのか・・・
ご冥福をお祈りします -
ダンプガイ 阿修羅原
阿修羅原さん(本名・原進)が28日午前5時15分肺炎で死去した、享年68歳
原さんのプロフィール(ウィキペディアより)
1977年11月29日、国際プロレスにスカウトされ入門[2]。覆面レスラーとして試験的にデビューした後、1978年6月29日の大阪府立体育館にて素顔で正式にデビューした。その時の対戦相手は寺西勇[2]。その後すぐに海外武者修行に出ており、修行先でのカナダ・カルガリー(スチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリング)ではファイティング・ハラ(Fighting Hara)を名乗り、2戦目に英連邦ジュニアヘビー級王座を獲得(スケジュールの関係で即返上)[3]、ビッグ・ダディ・リッターやブレット・ハートとも対戦した[1]。同年12月8日に帰国後、12月27日にラグビーファンである野坂昭如に阿修羅・原と命名される[2]。1979年の新春シリーズより本格参戦し、5月6日にミレ・ツルノからWWU世界ジュニアヘビー級王座を奪取。その後はダイナマイト・キッド、ローラーボール・マーク・ロコ、ジプシー・ジョー、剛竜馬らをチャレンジャーに王座を防衛。国際プロレス次代のエースとして期待され、アレックス・スミルノフ、オックス・ベーカー、ジョー・ルダック、モンゴリアン・ストンパーなどエース格のヘビー級外国人とも対戦した。1980年4月3日には新日本プロレスのリングに登場し、藤波辰巳のWWFジュニアヘビー級王座に挑戦するも敗退。
以後、ジュニア王座を返上して1981年1月からアメリカのミッドサウス地区(ビル・ワット主宰のMSWA)で再修行を行い、ヘビー級に転向した。この遠征中に雪崩式ブレーンバスター(スーパープレックス)の開発者とされるスーパー・デストロイヤーと対戦[4]、帰国第1戦となる4月18日、スティーブ・オルソノスキーを相手にこの技を初披露して勝利、以降も雪崩式ブレーンバスターをフィニッシュ技とするようになる。5月16日にはマイティ井上とのコンビでポール・エラリング&テリー・ラザンを破りIWA世界タッグ王座を獲得するが、同年9月に国際プロレスは解散。8月8日に根室で行われたジェリー・オーツ&テリー・ギッブスとの金網タッグ・デスマッチでの防衛戦が、国際プロレスにおける同王座の最後のタイトルマッチとなった。
国際プロレス解散後は、マイティ井上らと共に全日本プロレスに移籍。これをきっかけに天龍源一郎との縁が出来る。当初はフリーとしての参戦だったが、全日本参戦直後に実現した天龍とのシングル戦(1981年10月2日)における原のファイトに感心したジャイアント馬場が所属選手になるように勧めたため、晴れて全日本と所属契約を結んだと言われている。その後天龍と原は1984年4月にもシングルで2度対決し、いずれの試合も好勝負としてファン・マスコミの間で名高い。また、1981年と1982年には天龍&原のコンビで世界最強タッグ決定リーグ戦に出場している(まだ龍原砲とは呼ばれていなかった)。他にも井上や石川隆士と共にアジアタッグ王座を獲得するなど活躍した。1984年秋ごろに諸事情で全日本を一旦離れたが、1985年にフリー選手として全日本に復帰。この時期はラッシャー木村の国際血盟軍(木村、鶴見五郎、剛竜馬、アポロ菅原、高杉正彦による旧国際プロレス選手のユニット)とともに闘うことが多かった。当時のニックネームは“野生のダンプガイ”。1985年に全日本に復帰後のニックネームは“ヒットマン”。
1987年より天龍源一郎と共に「天龍同盟」を結成。天龍とのタッグ「龍原砲」は全日本で一時代を築き、長州力らジャパンプロレス勢が離脱した後の全日本を支えた。1987年9月にはPWF世界タッグ王座を龍原砲で獲得している。その後1988年11月に栃木県足利市で行われた「'88世界最強タッグ決定リーグ戦」開幕当日に、控室や事務所、さらには当時「世界最強タッグ決定リーグ戦」の記者会見場であったホテルパシフィック東京まで借金取りが来るほど金銭にルーズであることを理由に全日本を解雇となり(天龍の代役パートナーは川田利明)、札幌で隠遁生活を余儀なくされる。
約2年間の隠遁生活を経て、盟友・天龍の願いを受け1991年に天龍が所属していたSWSにて復帰。SWS崩壊後は天龍らとWARへ移籍。対抗戦の相手である新日本プロレスのリングでは、長州力や藤波辰爾とも対戦した。さらに、反WAR軍を結成し、スーパー・ストロング・マシーンとタッグを組むが、1994年に引退。引退試合では天龍の厳しい攻撃を真正面から受け続けた。試合後、天龍は会場にいた原の家族へ向けてマイクを握り、「長らくお借りいたしました。今日、原をお返しします」と語りかけ、はなむけとした。
引退後は郷里の森山町に帰り、町の教育委員会に依頼されて森山町立スポーツ交流館で町民の健康づくりのスポーツコーチを務めた。その後、母校の長崎県立諫早農業高校でラグビー部コーチとなり長崎北高校や長崎北陽台高校の壁に阻まれて凋落傾向にあったラグビー部の建て直しに当たったほか、その他の学校でも筋トレの方法などを教えた。諫早農高は2002年度の全国大会に出場した(ただし大会期間中に風邪が蔓延しベストメンバーが組めずに初戦で敗退している)。しかし間もなくその職も離れ、2004年に母が亡くなり脳梗塞で体が不自由となった父の介護をしながら暮らしていたがその父も他界し、現在では自分の体のリハビリをしながら暮らしているという。
原さんは両親の介護を終えた後消息が聞かれなくなり、Gスピリッツの「ダイナマイト・キッド特集」ではキッドと対戦経験があるとして原さん本人へのインタビューが企画されていたが本人の体調不良というで実現せず、今週発売の週刊プロレスでやっと原さんの近況が報じられた矢先だった・・・・
原さんの存在を知ったのは昭和56年、自分がプロレスファンを始めてからで、もうその時には国際プロレスは崩壊し全日本に移籍したばかり、その年の最強タッグで天龍源一郎と組んでエントリーし、翌年の最強タッグでは反則裁定ながらもスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディの超獣コンビから大金星を挙げた。
ハンセンの全日本移籍第1戦の相手を務めたのも原さんでウエスタン・ラリアットで豪快に吹き飛ばされるも、これが自身のフィニッシュになるヒットマン・ラリアットへと繋がっていった。
しかし天龍とのコンビは長く続かなった、当時の全日本がジャイアント馬場さんを一歩引かせ、ジャンボ鶴田と天龍中心の路線となっていくと、原さんは中堅扱いとなっていきマイティ井上や石川敬士とのタッグでアジアタッグ王座戦線でお茶を濁すようになり、地元長崎大会のプロモートを巡ってトラブルとなり原さんは失踪、保持していたアジアタッグも剥奪されてしまった。
昭和60年から全日本プロレスは長州力らジャパンプロレス勢が参戦するようになってから、日本人vs外国人から日本人対決路線中心となり、石川とシングルで対戦する長州を襲撃する形で全日本に復帰したが天龍とのタッグは再結成せず、ラッシャー木村ら国際血盟軍やスーパー・ストロング・マシンらのカルガリー・ハリケーンズの助っ人として天龍と敵対関係になるも、実際のところは天龍のとりなしがあって全日本に復帰となった。
長州らが新日本へUターンすると、全日本に危機感を抱いていた天龍が天龍革命を提唱、原とのタッグを再結成しチーム名は「龍源砲」となったが、この頃が原さんの一番のピークだった。
鶴田やザ・グレート・カブキとガンガン渡り合い、輪島大士や三沢タイガーら若手勢を徹底的にかわいがり、ハンセンをも大流血や失神させたりなど、全日本全体が熱い戦いで活性化されていった。
特に印象的な試合とすればTVマッチでの三沢タイガー、高野俊二戦で会場は後楽園ホールだったと思う、原が突然マイクを持ち高野に対して「しょっぱい試合をしているんじゃねえよ!」と挑発すると高野は激昂、怒った高野が龍源砲にガンガン向かっていけば、龍源砲は徹底的にかわいがって観客が盛り上がる、試合はヒットマンラリアットで原が高野を下したが、自分の中では龍原砲の試合としてはベストバウトだった。
しかし龍源砲の時代も原がまた金銭トラブルで失踪という形で突然終焉となり、天龍はしばらくして全日本を離れSWSへと移籍、SWSではパートナーがいなかったということもあって天龍は失踪中の原をマスコミを通じて探し出しリング復帰させ龍源砲が復活、原も奮起したがややピークが過ぎたような感じでタッグの中心になることは出来なかった。
WAR旗揚げにも参加し新日本プロレスとの対抗戦では国際プロレスのジュニア時代から因縁のある藤波辰爾との再戦も実現するも。1994年に引退。その後故郷長崎に帰って崎県立諫早農業高校でラグビー部コーチとなった・・・
現在G+で放送されている「プロレスクラシック」では龍源砲の試合が特集されているが、今思えば阿修羅原というレスラーがいなかったら、現在の天龍はなかったのではと思う、主役にはならず敢えて天龍の脇に徹した阿修羅原さん、龍源砲の試合は面白かった!
ご冥福をお祈りします。
この度の訃報に大変驚いております。天龍は誠に勝手ではありますが一切のコメントを差し控えさせていただきます。生前のご活躍に改めて心よりご冥福をお祈り申し上げます。 天龍プロジェクト代表嶋田紋奈
— 天龍project《4/30新木場》 (@tenryuproject) 2015, 4月 28 -
ペロ・アグアヨの息子、エル・イホ・デル・ペロ・アグアーヨが試合中の事故で急死・・・
ペロ・アグアヨの息子であるエル・イホ・デル・ペロ・アグアーヨ(アグアヨJr)が、20日のメキシコ・ティファナで行われたタッグマッチの最中にWWEを退団したばかりのレイ・ミステリオのドロップキックを浴びた際に動けなくなり、21日に頚椎捻挫で死去した、享年35歳。
試合の模様はYuoTubeにて公開されたが、まずコーナーのミステリオに串刺し攻撃を狙ったアグアヨだったがミステリオが両脚でのキックで迎撃し、側転するアグアヨをミステリオがヘッドシザースホイップで場外に出し、アグアヨがすぐリングに戻りロープにもたれたところでミステリオがドロップキックで強襲するが、アグアヨはロープにもたれたまま動けなくなる。
しかし周囲はアグアヨの異変に気づかなかったのか試合は続き、ミステリオは619を浴びせていたが、この時点でミステリオも異変に気づく、ミステリオは試合を成立させるためにエクストリームタイガーをフロッグスプラッシュで降すもアグアヨJrは動けないままだった。
【閲覧注意】
アグアヨJrは日本では馴染みがないかもしれないが、親であるアグアヨが新日本、第1次UWF、全日本に来日しグラン浜田や初代タイガーマスクなどと対戦していることから馴染み深く、アグアヨJrが来日したのは2000年に新日本プロレスで開催された「アグアヨ引退ツアー」の1度だけだった。
メキシコではCMLLで活躍していたが、2008年に新団体ペロス・デル・マールを旗揚げしCMLLだけでなくAAAにも参戦していたという。
35歳という若さでの死、また引退した親アグアヨより先立つとは、残念としかいいようがない。
ご冥福をお祈りしますEl CMLL se una a la pena que embarga a la comunidad luchistica por el sensible fallecimiento del Hijo del Perro Aguayo
— CMLL Lucha Libre (@CMLL_OFICIAL) 2015, 3月 21ペロ•アグアヨJr.の死がショックでならない。ずっと昔に1度だけミステル•アギラに紹介されて片言スペイン語で雑談したのを思い出した。まさか最後の試合になると本人も思わなかったろうに•••試合に関わった全ての方にとって辛く苦しい出来事。動揺していて今は御冥福をお祈りしますと言えない
— ミス・モンゴル上林愛貴ラ・マルクリアーダ (@MALCRIAKYMON) 2015, 3月 21 -
“赤鬼”ウイリアム・ルスカさん死去
アントニオ猪木と異種格闘技戦で対戦した柔道家ウイリアム・ルスカさんが死去した、享年74歳。
ルスカさんは1974年ミュンヘン・オリンピックで金メダルを獲得後、1976年に猪木と異種格闘技戦で対戦、猪木のバックドロップの前に破れ、その後レスラーに転向するも、同じ時期にプロレス入りしたアレン・コージことバットニュース・アレンと比べ適応力がなく、定着できなかった。
ルスカさんは1994年に再び猪木のファイナル・カウント・ダウンの相手として来日、ルスカさんは裸絞めで猪木を絞め落とすも、蘇生した猪木がチョークスリーパーを決め敗れ、同年には平成維震軍の旗揚げ興行に参戦し後藤達俊と対戦し裸絞めで勝利を収めたのが日本での最後の試合だった。
帰国後は脳梗塞に倒れ、車椅子生活を余儀なくされるなどしたが、柔道の会場には元気な姿を見せていたという。
ご冥福をお祈りします。
(なおウイリアム・ルスカさんの試合は新日本プロレスワールドにて視聴できます) -
リングスで活躍した格闘家ハンス・ナイマン死去
リングス・オランダの一員としてリングスに上がっていたハンス・ナイマンさんが死去した。享年55歳、5日ベーフェルウェイクにある自身のジムの前で自家用車に乗っていたところで銃殺されたという。
初来日はリングスで最初はムラが多く勝ったり負けたりの状態が続いたが、ナイマンキックを武器にすると次第に頭角を現し、当時リングス・オランダのリーダー格だったディック・フライを凌ぐようになっていた。
しかしリングスジャパンが活動停止後はPRIDEに移り藤田和之と対戦して敗れ、それ以降は来日が途絶えていたが昨年3月にU-SPRITS againに来日して鈴木みのると対戦し敗れはしたものの健在ぶりをアピールしていた。
ご冥福をお祈りします。 -
NWA会長だったボブ・ガイゲルさんが死去
NWAの元会長だったボブ・ガイゲルさんが30日に死去した、享年90歳。
自分がプロレスファンを始めた頃にはNWA会長に就任し全日本プロレスで開催されるNWA世界ヘビー級選手権に立会人として来日し選手権試合宣言を読み上げていたが、1950年代から1970年代にかけてプロレスラーとして活動しており、現役として全日本にも参戦していた。
ガイゲルさんは1963年からカンザス州のプロモーターとなり、主力であるハーリー・レイスがNWA王者になったことでNWA内でも発言力を強めNWA会長にまで就任、ジャイアント馬場さんの全日本プロレスとはパートナーシップを強め、NWA王者のレイスを全日本にブッキングする代わりに全日本からは佐藤昭雄、高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)などが派遣された。
しかしビンス・マクマホンのWWF(WWE)が全米侵攻を開始するとNWAも組織力が低下し、ガイケルさんはNWA会長に再任されたがリック・フレアーを要するジム・クロケット・ジュニアがNWA内で権限を強めたため、ガイゲルさんはNWAを離脱してWWAを設立、WWA王者には武者修行中の蝶野正洋などが王者となったが、WWFやクロケットJr要するWCWに太刀打ちすることが出来ずWWAは崩壊、ガイゲルさんもマット界から引退、近年はアルハイマー病を患い闘病生活を強いられていた。
ご冥福をお祈りします。 -
スーパー宇宙パワーこと木村浩一郎さん死去
格闘家としてリングスにも上がり、スーパー宇宙パワーとして初期のDDTを支えた木村浩一郎さんが死去したことがWRESTLE-1のTAJIRIがツイッターで発表した、享年44歳。おそらくだが最後に公の場に出たのは『Dropkick』チャンネルでのインタビューだったと思う。
木村さんは既にFMWでデビューしていたが、自分が始めて試合を見たのはリングスからだったが所属でなかったことから定着することなく、当時またインディーバブルの時代であったことから新格闘技プロレスから転々、そして旗揚げしてまもないDDTに登場し素顔だけでなくスーパー宇宙パワーとしても活躍してKO-D王座を奪取、格闘家としてもヒクソン・グレイシーとも対戦した。
DDTを離れると女子格闘技にも携わるもレスラーとしてあWJやハッスルワールドなど転々・・・インディーを中心として活動したが、団体というテリトリーを渡り歩いたことを考えると、格闘家よりもプロレスラーだったというイメージが強い。早すぎる死は残念としかいいようがない、ご冥福をお祈りします。昨日、木村浩一郎さんが亡くなられたと、いま連絡をいただきました。 WNCにも2度参戦してくれました。 ご冥福をお祈りいたします。 木村さん、ありがとうございました。
— TAJIRI (@TajiriBuzzsaw) 2014, 10月 28木村浩一郎さん ご冥福をお祈り申し上げます。
— Yoshihiro Takayama (@Takayamado) 2014, 10月 28DDT創成メンバーの木村浩一郎さんがお亡くなりになられたと連絡がありました。旗揚げ当初、選手、関係者、お客さんに舐められない様にと本当のプロの厳しさを叩き込んでくれたのが木村さんでした。それがあったから今でもプロとして続けていく事ができたんだと思います。ご冥福をお祈りいたします。
— 高木三四郎 (@t346fire) 2014, 10月 28参ったなぁ、自分より若い方の訃報というのはショックであります。最後にお会いしたのは6月の北都プロレスの会場か。ここ数年、会うたびに痩せていたが、どこか悪かったのだろうか?木村浩一郎さんのご冥福をお祈り申し上げます。
— 須山浩継 (@suyamahakusyak) 2014, 10月 28木村浩一郎さんが亡くなったと連絡があった。急過ぎる。またどこかで会えると思っていたのに。若手の頃西日本プロレスでご一緒させて頂き、その後も可愛がって頂きました。御冥福をお祈り致します。
— 菊タロー (@kikutarochan) 2014, 10月 28 -
“人間風車” ビル・ロビンソン死去
“人間風車”の異名を取り、現役レスラーとして国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスで活躍し、引退してからはスネークピットで後進の指導にあたっていたビル・ロビンソンさんが死去した、享年75歳。ロビンソンさんは10年間日本に滞在後アメリカへ帰国していた。
自分がロビンソンの試合を初めて見たのは全日本プロレス中継で天龍源一郎と組みジャイアント馬場、ジャンボ鶴田組の保持していたインタータッグ選手権に挑戦した試合、ロビンソンのアドバイスで天龍はアントニオ猪木の必殺技だった延髄斬りや卍固めを繰り出し、試合には敗れたものの天龍の出世試合となった。だがこの頃のロビンソンは既にピークを過ぎており、翌年の第10回チャンピオンカーニバルにもエントリーしたが、ブルーザー・ブロディの台頭で一歩引いた存在になっていた。
ロビンソンといえばアントニオ猪木との名勝負、猪木は敢えてロビンソンの懐に飛び込んでキャッチスタイルでの試合に挑み1-1の時間切れ引き分けという名勝負を展開した。しかし新日本の参戦は1度きりで、その後は全日本プロレスを主戦場にしてジャイアント馬場さんと対戦、馬場さんはロビンソンのスタイルに付き合わずプロレスで勝負したことでロビンソンは冷静さが鈍り敗戦、しかし勝った馬場さんよりロビンソンのスタイルで対戦した猪木の方が評価された。ロビンソン自身は評価しなかったがジャンボ鶴田との灼熱の死闘も名勝負、7月の蒸し暑い季節、また館内は超満員での熱気、TV中継用の照明で館内は蒸し風呂状態で鶴田と60分フルタイムドローだけでなく5分間の延長戦、裁いたジョー樋口レフェリーによると控室に戻った両者はグッタリだったという。またキラートーア・カマタを破りPWFヘビー級王者になったがワンハンド・バックブリーカーの多用で膝を痛め、初防衛戦の相手であるアブドーラ・ザ・ブッチャーに突け込まれて敗れ短期政権に終わってしまった。
ロビンソンは引退後はラスベガスでガードマンを務めていたが宮戸優光氏の招きでスネークピットの顧問として来日し10年間日本に滞在した、滞在の際には「タモリ倶楽部」に出演し日本文化に溶け込もうとしているシーンを放送した。
最後にカール・ゴッチとの関係、Gスピリッツでの鶴見五郎の証言を聞く限りでは互いにレスリング論をぶつけ合っていたというから、兄弟のような関係なれど頑固者同士じゃないかなと思う、天国に行ってもゴッチとレスリング論をぶつけあっているのかもしれない。
人間風車、ビル・ロビンソンよ永遠なれ!
ご冥福をお祈りします俺様に手取り足取りプロ・レスリングを指導して下さったビル・ロビンソン氏が亡くなられたそうです。 最後は息子や孫の側に暮し、アメリカの若きMMAファイター達にキャッチ・レスリングを教えられて幸せだったと思います。 故人の御冥福をお祈り申し上げます。
— Yoshihiro Takayama (@Takayamado) 2014, 3月 4ビル・ロビンソンさん…昔スネークピットジャパンの練習をみせてもらった時に「ゴッチサンと同じ練習ですね」と言ったら「当たり前だ。2人とも同じ先生の生徒だからな」と笑ってた。「現役時代にスズキと試合してみたかったよ」と言われた事はとても大切な宝物になっている。ご冥福をお祈りします。
— 鈴木みのる (@suzuki_D_minoru) 2014, 3月 4ビル・ロビンソン氏死去。プロレスラーとしての実力・たたずまい・華そして後進を育成する意欲と努力。自国だけでなく日本プロレス界の発展に無くてはならない人でした。心より御冥福を御祈り致します。 写真は大江慎さん・中西百恵さん結婚披露宴にて pic.twitter.com/AbLArkRWw1
— 山本雅俊 (@yamamosiki) 2014, 3月 4ビル・ロビンソンさんの訃報を今朝知りました。私がL-1出場が決まった時に、コーチして頂きました。とてもショックで悲しいです(T . T)謹んでご冥福をお祈り申し上げます 合掌
— 風間 ルミ (@RumiKazama) 2014, 3月 4 -
ワールドプロレスリングの立役者の一人 永里高平氏が死去
(長州力 オフィシャルブログより)追悼
こんにちは。長州です。
みなさんお元気ですか?去る9月16日に元テレビ朝日の永里高平さんがお亡くなりになりました。
レスリング出身の永里さんは当時大学生だった自分をこの業界に引っ張ってくれた大恩人の方です。
また、この業界にとっても多大なる貢献をされた本当に立派な方でした。
お亡くなりになったことをテレビ朝日の人から聞いたときは既にご家族で葬儀も執り行われた後でした。
最後にお礼を言うことができなかったことが悔やまれます。10月26日は永里さんの四十九日法要となるそうです。
自分はどうしても仕事で伺うことができないので、落ち着いたらお墓参りをさせていただき、これまでのお礼
を天国の永里さんに伝えたいと思います。さようなら、永里さん。
長州力
NET(現テレビ朝日)の運動部長を務め、新日本プロレスの専務も務めていた永里高平氏が9月16日に死去していたことが長州力のブログにて明らかになった。享年85歳
永里氏が最後に公の姿に登場したのはGスピリッツ誌Vol.23「金曜8時の新日本プロレス特集」でのインタビュー、昭和46年NETで「ワールドプロレスリング」が放送開始、永里氏は製作に携わり日本プロレスでエースだったジャイアント馬場さんを嫌っていたのもあってアントニオ猪木をプッシュ、猪木が新日本プロレスを旗揚げし坂口征二が合流してからも猪木を強力にプッシュしてきた。
永里氏は猪木vsモハメド・アリ戦で負債を抱えた新日本の再建するために出向ということで役員に就任、長州力や前田日明らが大量離脱した影響で興行が落ち込み、南青山にあった事務所の家賃も払えなくなった際にもテレビ朝日内に新日本の新事務所を設立、国際プロレスの元社長だった吉原功氏を顧問に招きいれるなど、新日本プロレスに大きく携わってきた。
永里氏も表舞台に出なかったが「ワールドプロレスリング」の立役者の一人であり、昭和の黄金時代があったからこそ新日本や「ワールドプロレスリング」の今日があった。
ご冥福をお祈りします -
全日本女子、大日本プロレスの名物リングアナ、今井良晴さん死去
全日本女子、近年は大日本のリングアナウンサーとして活躍していた今井良晴リングアナウンサーが29日午後6時、死去した。享年53歳。
今井さんは1959年10月16日、東京都目黒区出身。全日本女子プロレスに入社後、1991年4月21日、後楽園ホールの高橋美華&神谷美織VS長谷川咲恵&山元真由美戦でリングアナウンサーとしてデビュー。それ以来、名調子で数々の試合を盛り上げた。
倒産後の全女にも残り、次々と選手が離脱していくなか、同団体が解散する05年4月まで身を捧げ続けた。その後、株式会社マルプロの代表取締役社長となり、格闘技の世界に足を踏み入れたが、11年夏には大日本・登坂栄児社長からの要請を受け、同年8・20後楽園大会より同団体で本格的なコールを開始。やがて地方巡業にも帯同するようになり、スタッフとしても活躍。
昨年、がんに侵されてからも“現場”にこだわり続け、治療を続けながら、今年の大日本6・30後楽園大会までリングアナウンサーに従事していた。なお、葬儀告別式はご家族の強い希望により、密葬となる。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
全日本女子や大日本プロレスでリングアナを務めていた今井良晴さんが死去した。今井リングアナは入院していることをツイッターで明かし、近況をツイッターで更新し続けていた、6月30日の後楽園大会では激ヤセぶりが気になっていたが、ガンを患っているとは思っても見なかった。
自分は今井リングアナとは一度だけ会話させていただいたことがある、それは昨年4月の大日本プロレス四日市大会で、そのときはプロレスの話ではなく、今井リングアナが出演していた『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで』の『山崎邦正(現・月亭方正)vsモリマン』の裏話で「彼(月亭方正)は子供がいじめられるからモリマンとはもうやらない」と話してくれたことを今でも憶えている。
写真もそのとき撮影したものだが、明るくファンサービスにも気軽に応じてくれる人でした。
ご冥福をお祈りします
竹田誠志 (Facebookより)
今井リングアナがお亡くなりになられました。
先日の自分のタイトルマッチの日にもリングアナとしてリングに上がられてました。あの日が最後になるとは思ってもいませんでした。今井さんに会うといつも「竹田選手の入場曲が1番カッコいいですよ!」といつも言って下さいました。本当に残念でなりません。
今井さんのコール大好きでした。
本当にお疲れ様でした、ゆっくり休んで下さい。
ご冥福をお祈り致します。
今井さん、生前はいろいろとお世話になりました。ご冥福をお祈り致します。
— 甲田哲也 (@koda307) July 29, 2013週プロモバイルで報じられました。今井良晴リングアナウンサーが本日永眠されました。全女時代から「人生は楽しむもの」というポジティヴな姿勢から学ばせて頂きました。チェックマンファミリー同士として毎年末の楽しい時間を共有させて頂きました。今年20年目を迎えるイベントに必ず出るからと…
— 鈴木健.txt (@yaroutxt) July 29, 2013ドクター水上さんらレギュラー陣とバカ話をする時、志生野温夫さんと全女時代の話をする時、今井さんが一番幸せそうに見えました。見舞いでも昔のバカ話とプロレスの話に終始。どんな薬よりも体にいいと笑っていました。最後まで私たちにはシンドそうな姿は見せなかった…今井さん、お疲れ様でした
— 鈴木健.txt (@yaroutxt) July 29, 2013スターダム両国大会でコールを生で聞いて鳥肌が立ちました。御冥福をお祈りします… RT @shupromobile: 【訃報】全女、大日本で活躍…今井良晴リングアナウンサーが逝去 http://t.co/4mGLX9z8B0
— 佐瀬順一(SECOND WORKS) (@2works) July 29, 2013いつ退院するのか皆で話していた矢先の訃報でした。今井さん本当にお疲れ様です、一緒にお仕事できて光栄でした。 RT @shupromobile: 【訃報】全女、大日本で活躍…今井良晴リングアナウンサーが逝去 http://t.co/sCoHWNXMcD
— バーブ佐々木 (@barbsasaki) July 29, 2013全女時代から育ててもらったリングアナウンサーの今井良晴さんが本日、闘病の末お亡くなりになりました。先々週と、先日土曜日にも会いに行けていました。気合いだよ!って言ったら喋れないのに拳を突き上げてくれた、どこまでも気合いの方でした。今はまだ信じたくないです。ご冥福を祈るばかりです。
— プロレスラー高橋奈苗 (@nanaracka) July 29, 2013今井さんは、会長のことが大好きでした。RT @kanataku: 松永高司・元全日本女子プロレス興業会長も7月に逝った。11日だっけ。今井良晴・元リングアナウンサーも、なぜか7月。全女。行儀がいいのが、悲しいよ……。
— プロレスラー高橋奈苗 (@nanaracka) July 29, 2013今井さんがだーーーい好きだったプロレスを、私は頑張ろう。 そして、大事なものを守ろう!! 見ていてもらわないと。
— プロレスラー高橋奈苗 (@nanaracka) July 29, 2013因島にいると、今井さんの件で落ち込んでるなんて、周りは判らんだろうが、先輩から何本か電話をいただいた。いくつかの業界を知ってるが、やっぱりプロレスの人達はあったかいなぁ…、だから抜けちゃ駄目なんですよ、誰一人と!(:_;)
— 篠塚誠一郎 (@08452shino3) July 29, 2013ブログ更新。 http://t.co/RbTD6VHGaZ 今井良晴さんのご臨終に立ち会ってきた話を書きました。
— 須山浩継 (@suyamahakusyak) July 29, 2013全日本女子プロレスのリングアナウンサーだった今井良晴さんが逝去されました。スターダム両国大会でお会いした時にはお元気そうだったのに。残念です。ご冥福をお祈りいたします。
— 高木三四郎 (@t346fire) July 29, 2013元全日本女子プロレス、今井リングアナが永眠されました。あの人が居なければ全日本女子と長く対抗戦はしていませんでした!慎んでご冥福をお祈りします……合掌
— 風間 ルミ (@RumiKazama) July 29, 2013@yaroutxt こういうことを書いてよいものか迷ったのですが、ご遺族の強い意向で葬儀が密葬で行われるとなれば、今井さんにお別れをできない人もたくさんいる。あの場に偶然でも立ち会うことになった者の義務として書きました。
— 須山浩継 (@suyamahakusyak) July 29, 2013生きますよ、生きますとも。 みんなに忘れられて、奥さん以外は泣いてくれる人がいなくなるまで生きますとも!
— 須山浩継 (@suyamahakusyak) July 29, 2013
今井さんへ。次の17日の後楽園ホール大会、リングコールよろしくお願いいたします。 pic.twitter.com/WgC7Cot3BU
— 脇澤美穂 (@wakizawa) July 29, 2013全日本女子プロレスのリングアナだった今井良晴さんが旅立たれました。 デビュー前、若手の自分に対しても低姿勢で接してくださった今井さん。 人柄の良さ忘れません。 御冥福をお祈りします。
— TAKAみちのく (@takam777) July 29, 2013