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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

AWAの帝王バーン・ガニア

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AWAの帝王バーン・ガニア


 
  AWA世界ヘビー級王者で同団体のオーナーだったバーン・ガニアさんが死去したことをWWE.COMが報じた、享年89歳。

 

WWE.COMより
WWEはバーン・ガニアの訃報に接し、悲しみにたえません。
89歳で生涯を閉じたガニア氏は、スポーツ・エンターテインメントの世界で高い人気を博したパフォーマーであり、プロモーターでした。

ミネソタ州ロビンズデールで育ち、高校時代では野球とフットボール、レスリングの選手として活躍した彼は、とりわけレスリング才能を発揮しました。
ミネソタ州立大学に進学後もフットボールとレスリングで活躍。第二次大戦末期には1年間、海兵隊に従事しましたが、その後復学しました。
 学生時代には4度のビッグ・テン・レスリング・チャンピオンシップ優勝、2度のNCAAレスリング・チャンピオンシップ優勝の記録を残し、1949年のAAUレスリング・チャンピオンシップでも優勝、1948年では米国五輪代表にも選ばれています。

1950年にプロ・デビューを果たすと複数回の地区王者を経験した後、1960年には発足間もなかったアメリカン・レスリング・アソシエーション(AWA)へ入団、同年8月にはAWA世界ヘビー級王座獲得を果たしました。

1960年代から1970年代にかけては、レスラー兼プロモーターとして活動し10度のAWA世界ヘビー級王座を獲得。やがてAWAのオーナーに就任し、1981年に引退するまではオーナー権現役レスラーとして活躍しました。

ガニア氏が運営したAWAは、ハルク・ホーガン、ジェシー・ベンチュラ、ボビー・ヒーナン、パット・パターソン、ホーク&アニマル、ショーン・マイケルズ&マーティ・ジャネッティ、カート・ヘニング、スコット・ホール、ジーン・オカーランド、シェリー・マーテル、ジェリー・ローラー、ラリー・ズビスコ、サージェント・スローターなど、後にWWEの第一線で活躍したスーパースター達を輩出しました。
また、リック・フレアー、ケン・パテラ、ボブ・バックランド、アイアン・シーク、リッキー・スティムボートらもガニア氏からの教えを受けています。

その業界への功績は大きく、2006年4月1日にはWWE殿堂入りも果たしています。
WWEは、ガニア氏の友人とご家族の皆さんに心より哀悼の意を現します。


 自分はガニアという存在を知った頃には既に引退しており、昭和56年1月にジャイアント馬場さんの3000試合連続出場記念試合としてAWA、PWFのダブル選手権試合が後楽園ホールで行われ、その年のプロレス大賞ベストバウトに選ばれていたが、ガニアは王者のまま引退しニック・ボックウインクルに明け渡した、だから自分にとってAWA王者はニックの方が印象が強い。


 ガニアの足跡を紐解くと1948年にレスリングでロンドンオリンピックに代表に選ばれ、フットボール選手としても活躍した後でプロレスへ転向、NWA世界ジュニアヘビー級王者にもなったが、NWAに反発してミネアポリスを本拠地としたAWAを創設した。しかし初代王者にはガニアではなく当時のNWA世界ヘビー級王者だったパット・オコーナーを認定し、AWAはガニアとの防衛戦を指示、だが勝手に王者と認定されて試合も勝手に組まれたオコーナーが試合を拒否し不戦勝でガニアが新王者となり、AWAはNWAより権威が高いことを印象つけAWAは一時はNWAを凌駕する一大組織となった。


 日本との関係はAWAが国際プロレスと提携を結んだのをきっかけとなって来日、ストロング小林やマイティ井上と防衛戦を行うも、ビジネスに関してはシビアで多額なブッキング料を国際プロレスからせしめたが、この時期にモンスター・ロシロフを名乗っていたアンドレ・ザ・ジャイアントをスカウトしアメリカで活躍するきっかけを作り、国際との提携解消後は全日本プロレス、AWA末期には新日本プロレスと関係を結んだ。


 またコーチとしての顔もありリック・フレアーやリッキー・スティンボードなどを輩出、ガニアは自身がレスリング出身であることからレスリングが出来る選手を重用するも、パワーファイター系であるハルク・ホーガンやロード・ウォリアーズには良い評価は降さなかったが、これがAWA崩壊の一因となった


 1983年にWWFが全米侵攻を開始、まずAWAが標的にされホーガンを始めとする選手やスタッフまでも大量に離脱されてしまいAWAは一気に凋落、1993年にガニアが自己破産したことでAWAは崩壊となった。


 2006年にWWE殿堂に迎えられたが、それ以降は表舞台に立たなかった。そしてガニアの名前が出たのは2009年1月、認知症を患っていたガニアは養護施設内で男性を床に投げつけて殺したというというニュースだった、ガニアは認知症を患っているとして殺人罪には問われなかったが、認知症を患っていてもレスラーとしての本能はまだ生きていたということなのか・・・


ご冥福をお祈りします

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