忍者ブログ

伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

ダンプガイ 阿修羅原

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

ダンプガイ 阿修羅原

 阿修羅原さん(本名・原進)が28日午前5時15分肺炎で死去した、享年68歳
阿修羅原 阿修羅原


 原さんのプロフィール(ウィキペディアより)


1977年11月29日、国際プロレスにスカウトされ入門[2]。覆面レスラーとして試験的にデビューした後、1978年6月29日の大阪府立体育館にて素顔で正式にデビューした。その時の対戦相手は寺西勇[2]。その後すぐに海外武者修行に出ており、修行先でのカナダ・カルガリー(スチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリング)ではファイティング・ハラ(Fighting Hara)を名乗り、2戦目に英連邦ジュニアヘビー級王座を獲得(スケジュールの関係で即返上)[3]、ビッグ・ダディ・リッターやブレット・ハートとも対戦した[1]。同年12月8日に帰国後、12月27日にラグビーファンである野坂昭如に阿修羅・原と命名される[2]。

1979年の新春シリーズより本格参戦し、5月6日にミレ・ツルノからWWU世界ジュニアヘビー級王座を奪取。その後はダイナマイト・キッド、ローラーボール・マーク・ロコ、ジプシー・ジョー、剛竜馬らをチャレンジャーに王座を防衛。国際プロレス次代のエースとして期待され、アレックス・スミルノフ、オックス・ベーカー、ジョー・ルダック、モンゴリアン・ストンパーなどエース格のヘビー級外国人とも対戦した。1980年4月3日には新日本プロレスのリングに登場し、藤波辰巳のWWFジュニアヘビー級王座に挑戦するも敗退。

以後、ジュニア王座を返上して1981年1月からアメリカのミッドサウス地区(ビル・ワット主宰のMSWA)で再修行を行い、ヘビー級に転向した。この遠征中に雪崩式ブレーンバスター(スーパープレックス)の開発者とされるスーパー・デストロイヤーと対戦[4]、帰国第1戦となる4月18日、スティーブ・オルソノスキーを相手にこの技を初披露して勝利、以降も雪崩式ブレーンバスターをフィニッシュ技とするようになる。5月16日にはマイティ井上とのコンビでポール・エラリング&テリー・ラザンを破りIWA世界タッグ王座を獲得するが、同年9月に国際プロレスは解散。8月8日に根室で行われたジェリー・オーツ&テリー・ギッブスとの金網タッグ・デスマッチでの防衛戦が、国際プロレスにおける同王座の最後のタイトルマッチとなった。


国際プロレス解散後は、マイティ井上らと共に全日本プロレスに移籍。これをきっかけに天龍源一郎との縁が出来る。当初はフリーとしての参戦だったが、全日本参戦直後に実現した天龍とのシングル戦(1981年10月2日)における原のファイトに感心したジャイアント馬場が所属選手になるように勧めたため、晴れて全日本と所属契約を結んだと言われている。その後天龍と原は1984年4月にもシングルで2度対決し、いずれの試合も好勝負としてファン・マスコミの間で名高い。また、1981年と1982年には天龍&原のコンビで世界最強タッグ決定リーグ戦に出場している(まだ龍原砲とは呼ばれていなかった)。他にも井上や石川隆士と共にアジアタッグ王座を獲得するなど活躍した。1984年秋ごろに諸事情で全日本を一旦離れたが、1985年にフリー選手として全日本に復帰。この時期はラッシャー木村の国際血盟軍(木村、鶴見五郎、剛竜馬、アポロ菅原、高杉正彦による旧国際プロレス選手のユニット)とともに闘うことが多かった。

当時のニックネームは“野生のダンプガイ”。1985年に全日本に復帰後のニックネームは“ヒットマン”。

1987年より天龍源一郎と共に「天龍同盟」を結成。天龍とのタッグ「龍原砲」は全日本で一時代を築き、長州力らジャパンプロレス勢が離脱した後の全日本を支えた。1987年9月にはPWF世界タッグ王座を龍原砲で獲得している。その後1988年11月に栃木県足利市で行われた「'88世界最強タッグ決定リーグ戦」開幕当日に、控室や事務所、さらには当時「世界最強タッグ決定リーグ戦」の記者会見場であったホテルパシフィック東京まで借金取りが来るほど金銭にルーズであることを理由に全日本を解雇となり(天龍の代役パートナーは川田利明)、札幌で隠遁生活を余儀なくされる。


約2年間の隠遁生活を経て、盟友・天龍の願いを受け1991年に天龍が所属していたSWSにて復帰。SWS崩壊後は天龍らとWARへ移籍。対抗戦の相手である新日本プロレスのリングでは、長州力や藤波辰爾とも対戦した。さらに、反WAR軍を結成し、スーパー・ストロング・マシーンとタッグを組むが、1994年に引退。引退試合では天龍の厳しい攻撃を真正面から受け続けた。試合後、天龍は会場にいた原の家族へ向けてマイクを握り、「長らくお借りいたしました。今日、原をお返しします」と語りかけ、はなむけとした。


引退後は郷里の森山町に帰り、町の教育委員会に依頼されて森山町立スポーツ交流館で町民の健康づくりのスポーツコーチを務めた。その後、母校の長崎県立諫早農業高校でラグビー部コーチとなり長崎北高校や長崎北陽台高校の壁に阻まれて凋落傾向にあったラグビー部の建て直しに当たったほか、その他の学校でも筋トレの方法などを教えた。諫早農高は2002年度の全国大会に出場した(ただし大会期間中に風邪が蔓延しベストメンバーが組めずに初戦で敗退している)。しかし間もなくその職も離れ、2004年に母が亡くなり脳梗塞で体が不自由となった父の介護をしながら暮らしていたがその父も他界し、現在では自分の体のリハビリをしながら暮らしているという。


 原さんは両親の介護を終えた後消息が聞かれなくなり、Gスピリッツの「ダイナマイト・キッド特集」ではキッドと対戦経験があるとして原さん本人へのインタビューが企画されていたが本人の体調不良というで実現せず、今週発売の週刊プロレスでやっと原さんの近況が報じられた矢先だった・・・・


 原さんの存在を知ったのは昭和56年、自分がプロレスファンを始めてからで、もうその時には国際プロレスは崩壊し全日本に移籍したばかり、その年の最強タッグで天龍源一郎と組んでエントリーし、翌年の最強タッグでは反則裁定ながらもスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディの超獣コンビから大金星を挙げた。


 ハンセンの全日本移籍第1戦の相手を務めたのも原さんでウエスタン・ラリアットで豪快に吹き飛ばされるも、これが自身のフィニッシュになるヒットマン・ラリアットへと繋がっていった。

 
 しかし天龍とのコンビは長く続かなった、当時の全日本がジャイアント馬場さんを一歩引かせ、ジャンボ鶴田と天龍中心の路線となっていくと、原さんは中堅扱いとなっていきマイティ井上や石川敬士とのタッグでアジアタッグ王座戦線でお茶を濁すようになり、地元長崎大会のプロモートを巡ってトラブルとなり原さんは失踪、保持していたアジアタッグも剥奪されてしまった。


 昭和60年から全日本プロレスは長州力らジャパンプロレス勢が参戦するようになってから、日本人vs外国人から日本人対決路線中心となり、石川とシングルで対戦する長州を襲撃する形で全日本に復帰したが天龍とのタッグは再結成せず、ラッシャー木村ら国際血盟軍やスーパー・ストロング・マシンらのカルガリー・ハリケーンズの助っ人として天龍と敵対関係になるも、実際のところは天龍のとりなしがあって全日本に復帰となった。

 
 長州らが新日本へUターンすると、全日本に危機感を抱いていた天龍が天龍革命を提唱、原とのタッグを再結成しチーム名は「龍源砲」となったが、この頃が原さんの一番のピークだった。
 鶴田やザ・グレート・カブキとガンガン渡り合い、輪島大士や三沢タイガーら若手勢を徹底的にかわいがり、ハンセンをも大流血や失神させたりなど、全日本全体が熱い戦いで活性化されていった。
 特に印象的な試合とすればTVマッチでの三沢タイガー、高野俊二戦で会場は後楽園ホールだったと思う、原が突然マイクを持ち高野に対して「しょっぱい試合をしているんじゃねえよ!」と挑発すると高野は激昂、怒った高野が龍源砲にガンガン向かっていけば、龍源砲は徹底的にかわいがって観客が盛り上がる、試合はヒットマンラリアットで原が高野を下したが、自分の中では龍原砲の試合としてはベストバウトだった。
 しかし龍源砲の時代も原がまた金銭トラブルで失踪という形で突然終焉となり、天龍はしばらくして全日本を離れSWSへと移籍、SWSではパートナーがいなかったということもあって天龍は失踪中の原をマスコミを通じて探し出しリング復帰させ龍源砲が復活、原も奮起したがややピークが過ぎたような感じでタッグの中心になることは出来なかった。

 
 WAR旗揚げにも参加し新日本プロレスとの対抗戦では国際プロレスのジュニア時代から因縁のある藤波辰爾との再戦も実現するも。1994年に引退。その後故郷長崎に帰って崎県立諫早農業高校でラグビー部コーチとなった・・・


 現在G+で放送されている「プロレスクラシック」では龍源砲の試合が特集されているが、今思えば阿修羅原というレスラーがいなかったら、現在の天龍はなかったのではと思う、主役にはならず敢えて天龍の脇に徹した阿修羅原さん、龍源砲の試合は面白かった!


ご冥福をお祈りします。
 

PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。