プロレス多事争論
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プロレス多事争論2013 全日本プロレス分裂騒動② ホワイトナイトと中途半端な破壊者
7月に白石伸生オーナーが自ら社長を就任して白石体制が発足、新体制となった全日本プロレスが再スタートを切ったが会見上社長だった白石氏が「リング上の闘いにおいてはより激しい『ガチンコ格闘プロレス』が私は好きなものですからを言い出したことで」とガチンコプロレスをアピールするが、秋山は「白石さんはガチンコという言葉をあまりご存じないんだと思います」と皮肉まじりのコメントを出した、秋山はおそらくだがこの時点で白石オーナーが何を言おうが無視する構えを見せていたのではと思う。
秋山が全日本に留まった理由は内田氏から誘いを受けたがギャラは白石オーナーから支払われたこと、武藤敬司が旗揚げしても成功するかどうかもわからないことでのギャラの保障、諏訪魔と潮崎がライバル関係を築きつつあるということでその流れを壊したくない、白石オーナーとの話し合いで「王道復古」を掲げたのもあって全日本に留まる決心をしたが、発言がコロコロ変わる白石オーナーを信用しているわけではなく、白石オーナーの「ガチンコプロレス」発言も“女子高生が『ガチで~』と言っているレベル”と考えていた。
白石オーナーは早速“王道復古”をアピールすべく、武藤体制で追われる立場となった和田京平レフェリーを名誉レフェリー、分裂騒動には中立の立場を保っていた渕正信を取締役相談役として復帰させ、新体制となっての新シリーズでは川田利明を来場させるなど“王道復古”をアピール、新体制となった最初の後楽園(7月15日)では952人と全日本旗揚げ以来始めて1000人台を割り込んでしまったが実数での発表だった。実数発表は白石オーナーの発案とされていたが、提案したのは秋山で「団体がふたつに割れたんだから、普通はお客さんの数も半分になると考えるんだろうけど、俺は3分の1になると考えるべきだと思うんですよ。全日本も武藤さんのところ(WRESTLE-1)も3分の1ずつ。残りの3分1は今回の騒動で嫌気がさして来てくれなくなると。そのくらいの厳しさだと思っていて間違いないですよ。だからこそ、みんなが現実を知らなきゃいけない。今までが1000人だったとしたら300人で当たり前。そこからどうやって増やしていくのかが重要なんですよ。だから会社には実数発表にしてくれって注文をつけました」と分裂後の全日本の現状を踏まえての発案だった。
しかし白石オーナーはかねてからアカウントを設けていたツイッターで暴走を開始し始めた。Facebookは分裂前に閉鎖(現在復活も更新はしていない)していた、ツイッターはしばらくして放置となったが、白石オーナーは王道復古はあくまで建前でガチプロレスという自身の価値観を現場だけでなくファンにまで押し付ける姿勢は崩していなかったのだ。白石オーナーの暴走を懸念したのか、渕は白石オーナーのイメージアップを図るために白石オーナーと公開練習を行う。“ガチンコプロレス!! by 白石伸生”、背中には“プロレス最強伝説 2013年7月1日スタート”のTシャツを着込んだ白石オーナーが登場して渕だけでなく佐藤光留と公開スパーリングを行い、渕は数々の拷問関節技や受けた白石オーナーは、「プロレスの練習の方が総合の練習よりきつい」「肉体を酷使してるレスラーの苦労が報われるプロレス界にしないと、それが僕の革命。試合やってる選手に報いれるように経営努力します」と誓ったが、これに満足しなかったのかリングデビューを目論むようになる。白石オーナーはリングデビューを果たすために全日本のアドバイザーとして契約していた蝶野正洋を担ぎ出した、蝶野はアドバイザーとして全日本に携わっていたが分裂騒動に関しては武藤とは盟友関係であり、また白石オーナーとは旧知の間柄ということもあって双方につかず、契約した立場上全日本に留まっていたが中立を保ち肩書きだけのアドバイザーとなっていた。渕は白石オーナーのリングデビューには猛反対するが「この春の私の一言一言がプロレスファンの皆さんを傷つけてしまった。大いに反省しています。リング上で頭を下げても中々許してくれないでしょう。全日本が分裂したのもすべて私の責任であろうと思われてますから。それには少々異論があるんですが(笑)。ともかく私は身体を張ってプロレスファンの皆さんに贖罪をしたいんです。渕さんとの練習でも自分なりに身体を張りました。そして今度は蝶野さんとの試合。自分は身体がボロボロになっても構わない。自分なりの贖罪の方法はこれしかないと思ってます!」と押し切ってしまった。
それと同時に しばらくして大仁田厚からも「来る8月31日に開催される「横浜大花火」ノーロープ有刺鉄線メガトン電流爆破&史上初!人間爆弾デスマッチに於いて、貴殿に「人間爆弾」として電流爆破を体感する事を要求する!
貴殿がこれまで「線香花火」「ロートル」と揶揄してきた事に対する贖罪の気持ちがあるのならば、断る理由はどこにもない筈だ。」が声明文を発表。白石オーナーも全日本の公式HPで拒否の姿勢を示していたが、自分はその拒否を鵜呑みにすることが出来なかった。8月27日大田区総合体育館のビッグマッチで休憩中のエキシビジョンマッチとして衝撃吸収の特殊スーツを着用した白石オーナーのリングデビューが実現した、GAORAで視聴したが自分からしてみれば“茶番”であり贖罪ではなく白石オーナー自身の自己満足に過ぎなかった。休憩前に大森隆男戦を終えた秋山は「観に行った方がいいじゃないですか? 本日のメインイベントですよ。まあ、ここで蝶野&ジョーがどういう風にするのかしらないけど、お遊戯みたいなものが始まるんで」と皮肉っていた。リングデビューを終えた白石オーナーは社長辞任を表明して後方支援にまわることを発表した、後日週刊プロレスのインタビューで辞任理由を「学生なもので夏休みが終わるから」としていたが、会見の席上で青木篤志が「じゃあ、俺を舐めないでくださいよ。こうやって喋れるだったら、タイトルマッチ終わった後、もう一発やってもいい。覚えておいてくださいよ」と詰め寄ったっところを見ると選手たちからの猛反発が理由だったことが明らだった。
31日の「横浜大花火」では拒否の姿勢から一転し人間爆弾として白石オーナーが登場、おおニタvs曙の化身であるKILLER“ANY”WHEREによる電流爆破マッチに、突然白石氏がリングに上がっておおニタに襲い掛かり、一緒に電流爆破に被弾、最後はおおニタが白石氏をカバーして3カウントとなったが、解説の高山善廣からは「なぜ白石のおっさんが上がったの、なんであのおっさんをカバーして終わりなの?」など批判の声が飛び交った。
9月井上博多氏が後任の社長に就任するが、後方支援をしていたのは井上社長で前面に出るのは白石オーナー、「鎖国」「ガチプロレス」「把瑠都獲得」をアピールし後方にまわる気はない姿勢を示すどころか、ブログを開設し再び暴走することを予告する。白石オーナーがやっていることがどこが王道なのか?また白石オーナーの中で自身が掲げた王道復古が邪魔になってきていると思わざる得ず。自分も白石オーナーに好き勝手させている全日本に腹を立てていた。
そこである日、秋山がFBで「単なる原点回帰では全日本プロレスの未来はない。王道という言葉に縛られなくていい。」と発言したことで、自分は眼から鱗が落ちる思いがした。秋山は王道に縛られていては新しい試みは出来ないと考えていたのだ、また馬場さんの未亡人である元子さんからも三冠統一ヘビー級王座の返還を要求され、全日本も新ベルトを製作することで返還に応じることになったが、事実上馬場さんと全日本との関係も切れ、全日本も馬場さんの王道にとらわれる必要はなくなった。
10月から予告通りに白石オーナーがブログで暴走を開始、内容も相変わらず「ガチンコプロレス」「鎖国」「総合格闘技進出」の文字が出ていた。9月27日に公約通りに分裂騒動のお詫びをかねての無料興行を開催されたが、贖罪とお詫びはいったい何だったんだと思ってしまった、結局軽く考えていたということだと思うし無料興行もお詫びの意味ではなく見えっ張りの自己満足に過ぎないと感じた。
白石オーナーの暴走再開を受けて現場側はオーナーの現場からの締め出しをオーナー本人に通告する、現場は白石オーナーの唱える「鎖国」とは真逆の「開国」を打ち出してZERO1とDDTと交流を開始した。「鎖国」を押し付ける白石オーナーがどうしても弊害になる、またブログの悪影響を考えて締め出しを考えたが、締め出しに腹を立てたのか白石オーナーはブログで暴走を続け、以降現場とオーナーは平行線となった。
10月27日に両国大会の開催を決まるも白石オーナーは満足な後方支援どころか、自身のブログこそ最大の後方支援であり宣伝材料と考えたのか暴走し続け、挙句の果てには全国の全日本ファンに集結を呼びかける始末、これがどこが後方支援なんだと怒りたくなった。両国大会は曙が諏訪魔を破り新三冠王者、ドリー・ファンク・ジュニアが新PWF会長、潮崎の新ユニットと新しいものづくめの大会だったが観客動員は大惨敗、後方支援さえしっかりしていればもっと入ったのではと思った・・・
11月に新シリーズが開幕しバーニングを離脱した潮崎、鼓太郎、青木が新ユニットXceedを結成、KENSOも加わったはずが開幕戦で潮崎を裏切りヒールユニットのKD軍を結成するなど新展開となった。秋山が「王道という言葉に縛られなくていい。」と発言したことでようやくリングに集中できる環境が整ったかと思いきや、白石オーナーがブログでヒールを否定し、ヒールに転向したという理由でKENSOに解雇通告をしたが、以降は白石オーナーのブログは放置となった。
自分は12月8日に全日本プロレス大阪大会を観戦、全日本の試合を観戦するのは14ヶ月ぶりだった。実は分裂騒動時から観戦しようと思っていたのだが仕事や自身の都合で観戦の機会に恵まれなかった、やっと12月に観戦に機会を得たが、自分は全日本プロレスを見るのはこれが最後なのかもしれないと決めての観戦だった。最強タッグの最終戦だったが超満員札止めの大盛況、全日本は分裂時の長いトンネルからやっと脱しつつあると感じさせた。2回に渡って長文となったが2013年の全日本プロレスを振り返った。最後に白石伸生とは何だったのかというと、経営に苦しんでいた武藤からしてみれば“ホワイトナイト”であったが、自分らからしてみれば“中途半端な破壊者”だったのではと思う。白石伸生という人物によって全日本プロレスの看板を守れたのも事実であるが、その“ホワイトナイト”にもいろいろあるということ、自身でも意味がわかっていないのにも関わらず“ガチプロレス”という価値観を選手やファンに押し付け、そのために武藤を追い出すことを画策し、理解していないのにも関わらずジャイアント馬場さんの王道を担ぎ出した、白石オーナーは全日本プロレスだけでなくプロレス村そのものを破壊し自身による革命を打ちたてようとしていたが、自分は破壊するだけ破壊しといて、あとは放置したままで逃げていたのではと思う。そういった意味では“ホワイトナイト”を招いてしまった武藤にも分裂騒動の責任の一旦はあるのではないだろうか・・・
現在の全日本はやっとトンネルを脱しつつあるが、いつ暴走するかわからない白石オーナーという不安材料を抱えたまま年を越す、今は平行線という均衡を保っているが、その均衡が破られるとき、全日本プロレスはどうなるかわからない・・PR -
プロレス多事争論2013 全日本プロレス分裂騒動・・・ガチンコプロレスと武藤体制10年目の崩壊
2012年10月で全日本プロレスは創立40周年、また武藤敬司体制となって10周年を迎えた。創始者である馬場さんは「プロレス界は10年に1度、大きな事件が起きるものだよ」 とジンクスを遺したが、馬場さんのジンクスがあたったかのように10年目となって大きな事件が起きてしまった。
2月25日、全日本プロレスが昨年11月から白石伸生氏が社長を務めるスピードパートナーズの傘下に入っていたことを明らかになった。武藤は馬場元子さんから経営権を譲られオーナーとなったが団体運営は悪戦苦闘、度々経営危機の噂が出ていた。今年に入ってからNOAHを退団した秋山準、潮崎豪らバーニング勢や蝶野正洋がアドバイザーとして全日本に携わるなど、今年は大きく勝負に出ているなと思わせたが背景にはオーナーと白石オーナーのバックアップがあったからだった。
白石氏は武藤敬司や社長だった内田雅之氏、日本テレビに保有した全日本プロレスの株を全て買い取り武藤や内田氏の役職はそのままにして、昨年11月に新会社「全日本プロレス・システムス」を設立、白石氏は「全日本がまい進するべく、それなりの投資をしていきます」と後方支援を約束した、なぜ武藤は白石氏をオーナーとして招いたのか、武藤は会見でも「全日本に移籍して10年。11年目に向かってるんですけど、知っての通り、10年間突っ走ってきたけど、ここ2、3年、ヒザの具合も悪かったり体調が悪かったり、本戦から離れることが多くて、同時にどちらかというと株式会社というよりは武藤商店のような形で突っ走って、それだけ俺の比重が大きかったのか、俺が本戦から外れて業績が落ちた」と自分が現役を引退しても武藤全日本が継続できるのかを模索していた、白石オーナーは武藤が新日本時代からのタニマチで武藤が全日本に電撃移籍した際も一枚噛んでいた人物だった。
スピードパートナーズはどういう会社なのかというと(白石オーナー)「企業再生支援会社です。民事再生法、自己破産手続きに入る予定の会社、入った会社に、入札が多いですけど、何らかのスポンサーシップを裁判所なり弁護士に紹介していただき、事業を買収してまっさらな形で新会社で再出発すると。人物、金を新たに出資して企業再生する会社です。」企業再生といえば映画やドラマにもなった『ハゲタカ』のイメージが強く、悪い部分をそぎ落として良い部分を残して高く売るものだったが、武藤が「50年、60年残すためにもよかったと思う。俺が動かなくなった時点で会社も倒れたらどうしようもない。10年やり切った充実感はあるよ」と発展的な買収であることを強調、白石氏も『プロレス 暗黒街 (別冊宝島)』で報じられた計画倒産説を否定、最初は自分も全日本が再生するのであればSPの参入は大歓迎だったが、その期待は大きく裏切られることになる。
翌日東京スポーツ誌上で白石氏が「人間の限界値を超えるのがレスラー」「総合格闘技もできて当然。(所属選手の参戦も)考えている。格闘技団体を丸ごと買うかも」と総合格闘技進出を発言したことで選手らが猛反発する、白石オーナーの発言は収まることを知らず新日本プロレスから中邑真輔や永田裕志を獲得、「新日本プロレスは演劇プロレス」「オカダ・カズチカは演劇プロレスの典型」発言したことで、新日本プロレス側も木谷高明会長を始め態度を硬化させてしまう。白石氏は6月の挨拶で新日本側に謝罪するとしたが、現時点では謝罪したか不明のまま、白石氏がFacebookを開いたと聞きつけて早速友達申請したが、FBの内容を見た瞬間「ガチンコプロレス」発言の連続、プロレスLOVEを感じない武藤とは真逆な人間が全日本のオーナーになったと思わざる得なかった。
白石オーナーの考えるガチンコプロレスとは何だったのか?「事前に勝ち負けを決めずに、選手同士の戦いに一任し、プロレスルールで、体力の限界点まで相手の技を受け、こちらも技を仕掛け、プロレスに真面目に取り組む事」、だが白石オーナーの考えるガチンコプロレス論はプロレスの範囲内に過ぎない、秋山準が「白石オーナーの“ガチ”は女子高生が“ガチで~”と言っているのと同じレベル」と発言したとおり、ガチンコの意味がわかっていないまま軽く使われているに過ぎなかった。
また全日本プロレスは武藤体制ながらも創始者であるジャイアント馬場さんの存在が色濃く残っている、総合格闘技に関しては「プロレスは殴ったり、蹴ったり、極めたり、飛んだり、全てが詰まっている、奥深いもの」「格闘技ブームはメディアに乗った流行に過ぎない」と一蹴し、武藤も当時アントニオ猪木が推進する格闘技路線を嫌って新日本を退団して「プロレスLOVE」を掲げて全日本プロレスに移籍した。だが白石オーナーは「馬場さんのお言葉、プロレスは、シュートを超える。しかし、その言葉の裏には、真剣勝負がしたいのに、負けなければならない、明日から(チャンカン開幕戦)から、その歴史が変わる。シュート(真剣勝負)が、プロレスを超える!」と馬場さんを全面否定した、自分が白石オーナーに反発を抱いたのはこの発言からだった。
FBで暴走をきっかけに「ガチプロレス」という価値観を押し付けよう白石オーナーと武藤が対立、白石オーナーはFBで「自分と武藤選手の対立点は、マッチメイクでした。ファンが望むカードを幅広く聞き、営業部門や、企画部門も交えて、レスラー全員の声を聞いて集団合議制で決めるのか、過去の旧全日本が行ってきた武藤選手を中心とする数名の選手で決めるやり方を、新会社でも続けるのか、の衝突でした。。。」とファンやレスラー達の意見を無視するということで武藤を批判し始めた。白石オーナーは現場介入を試みようとしたが、現場は武藤にとって自分の影響力が最も大きい場でもあり選手たちも武藤が育てた選手が主でフリーで参戦している選手たちも武藤に絶大な信頼を寄せていることから“聖域”みたいなもの、白石オーナーも簡単に土足で踏み込めなかった。
ところが3月21日の両国大会の全試合終了後に観客が帰りだしたところで前日にFBで乱入を予告していた白石オーナーが登場し挨拶すると、白石オーナーからリストラを言い渡されていた一喝するKENSOに対して張り手を浴びせる暴挙に出る、レスラーを侮辱する行為に佐藤光留が怒り白石オーナーに襲い掛かったが、白石オーナーは逃げてしまった・・・この事件はプロレスマスコミも大きく扱ったが、この時点では誰もKENSOと白石オーナーとの出来レースだったことに気づいていなかった。
3月の両国大会から白石オーナーのFBでの暴走は止まることなく、KENSOに対して強制引退をチラつかせるも更新を続けながら、4月のチャンピオンカーニバルを迎えたが、今度は白石オーナーが真田聖也vs大森隆男の試合内容を巡って真田を詰りメインを待たずにして途中退席する騒動を起こす、その最中でもKENSOへの批判を続けていたが、最終戦前後から一転してKENSOを擁護し始め武藤批判を展開し始めた、白石氏はチャンピオンカーニバル最終戦、FBで「控え室で、私と武藤会長がやり合っている時に、武藤会長が言った。『白石さんのやり方だったら、誰も試合する気にはならないよ!なぁ、みんな!』選手の大半は、「はい。。」と答えていたが1人だけ、「オーナーのやり方でも、俺はやります!」と言ったレスラーがいた。意外な事に、KENSOだった!!俺を嫌っているはずなのに、今までの全日本のやり方では、ダメだと思ったのだろう。。。選手全員を敵に回して、会社の現状を憂いての1人決起だった!少し、感動した。 」と更新、武藤はこの時点でKENSOが裏切っていたことと、白石オーナーが両国大会から自身の失脚を画策していたことを察したのではないのではと思う。この時期から否定していた馬場さんの王道復古を掲げ始め、川田利明の復帰と和田京平レフェリーの全日本復帰を公約に掲げた、だが白石オーナーの王道復古も武藤を全日本から追いやるための手段として利用されたに過ぎなかった。
5月から白石オーナーはFBで現場へ介入を予告、最初のうちは武藤や内田氏が白石オーナーの現場介入を阻止していたが、武藤と内田氏が真田と共にカナダへ出発した隙を伺って逆クーデターを決行し現場介入、自身が社長就任することを宣言する、武藤がなぜこの時期に日本を離れたのかが謎だったが、武藤自身も6月に週刊プロレスのインタビューに答えていた時点で分裂へ舵を切っていた、いや4月のチャンカン最終戦の時点で武藤は分裂へ舵を切っていたのかもしれない。
5月末で武藤が全日本との選手契約を打ち切って離脱し分裂が確定的となった。6月からは一気に選手たちの動きが慌しくなった、白石オーナーは違約金のことをも武藤を牽制し「武藤に追随するのは4~5名」とタカをくくっていたが。カズ・ハヤシ、近藤修司、船木誠勝を始めとした武藤チルドレン世代だけでなくレフェリーやリングアナ、武藤派のフロントのほとんどが武藤に追随するために離脱を表明。全日本には白石オーナーが最初に唱えた“王道復古”のために諏訪魔、大森隆男、征矢学、秋山準らバーニングが残留したが若手がごっそり抜けてしまった。6月30日両国大会は武藤も白石オーナーも現れないまま行われ、大会を最後に全日本は分裂した。離脱した選手には結局違約金は現時点では発生せず、白石オーナーが言っているだけだったのか、それとも結果的に武藤を追い出したことで充分だったのかは定かではない。
白石オーナーは自分は「アングルとか嫌いだ」と自らの存在こそがガチだとFBでアピールしたが、武藤不在中に現場に介入し武藤や内田氏を追いやるために馬場さんの存在を利用して影でコソコソと裏で画策していた時点で、白石オーナーはガチではなかった、しかし白石オーナーは今でも自分自身はガチだとアピールし続けている。
残った選手たちは白石オーナーが最初に唱えた「王道復古」を掲げて全日本を再出発させるが、白石オーナーの暴走は止まることはなかった・・・・(続く)
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プロレス多事争論2013 藤田和之vs暴走王・・・・不信感だけが渦巻いていたリング
2012年12月31日両国国技館でIGF「INOKI BOM-BA-YE2012」が開催され、メインカードとして藤田和之vs暴走王(小川直也)が組まれた、自分は当日「年越しプロレス2012」の観戦で後楽園ホールに訪れていたが、大会を観戦しつつ藤田vs暴走王の結果を気になっていた、そして結果が入るも藤田がTKO勝利ながらも不完全燃焼試合とされていることから、何があったのかと思った。
試合を新幹線の中でYouTubeや帰宅してからBSフジで放送されていたものを録画してあったので視聴、数人配置されたレフェリー、不意打ち的な攻撃をする暴走王、試合中に「会長を呼べ」と猪木を呼び出す藤田、試合後に猪木にキレる藤田、観客にキレる猪木・・・、そして最近になって藤田vs暴走王戦を振り返る意味で改めて視聴したが、リング上は「不信感」が渦巻いていていた。
実現までの経過を改めて振り返る、2012年10月16日に藤田に呼び出される形で暴走王がIGFの会場に出現、藤田が暴走王をコキ降ろす形で挑発したため藤田vs暴走王が実現へ一気に動き出した。
藤田vs暴走王がなぜ実現に動いたのか、2011年の大晦日はIGFと共催という形でDREAM(リアルエンターテイメント)が大晦日興行を開催したが、2012年に親会社的存在だったFEGが破産、煽りを受けてDREAMを仕切っていたリアル・エンターテイメントも閉鎖となりこの時点では誰もが格闘技の大晦日興行が消滅状態と考えていた。そこで東スポがIGFが単独で大晦日興行に動いていることを報じ、7月にジェロム・レ・バンナを破りIGF王者となった際に藤田が対戦相手の一人として暴走王の名前の名前が浮上した。
しかし猪木はマスコミに向けて「世界的なカードじゃない」」「ぶっちゃけた話をすれば(大晦日)勝負には小川は出てこない、みんな方針が変わったことに気づいていない」という理由でカードそのものを白紙にすることを示唆する、理由は猪木が世界に向けて発信する大会にしたいのと、暴走王に対する不信感、猪木は暴走王に対しては「偏屈」「ごねる」「大会直前になってギャラのことを持ち出してくる」などいい感情を持っておらず、暴走王も表向きは猪木をリスペクトはしているが煙たい存在としても扱うようになっていたことから師弟関係も破綻同然だった。また藤田vs暴走王が実現したとしても暴走王の態度次第では不穏試合になるのではという考えもあった。猪木は藤田vs暴走王戦の流れを潰すべく藤田vsバティスタ戦実現へ動くが、マスコミが藤田vs暴走王戦を煽り、藤田がやる気と暴走王の“一応”のやる気を見せたことで、さすがの猪木も流れを止めることが出来ず、周囲に押し切られる形で猪木も藤田vs暴走王戦にGOサインを出した。
なぜ不穏試合となったのか?藤田と暴走王の間に信頼関係が成り立っていなかったからだった、プロレスは「受けた分だけ、やり返さなければならない、それがプロレスに対する礼儀であり、レスラーに対する礼儀である」礼をもって礼で返すことで信頼関係を築く、それがプロレスでの最大のマナーである。藤田は暴走王を潰そうとしていたのか?藤田は暴走王のことをコキ卸しても、KAMINOGEのインタビューでは「アイツ(暴走王)のあの狂気を引き出せるのはオレしかいない」とコメントしていた通り、1・4事変の暴走王を引き出した上で勝つことを考えていたことから最低限のリスペクトは持っていた。暴走王はどうだったか?暴走王は自分の商品価値を落とされることを非常に嫌っている。猪木からも毛嫌いされ、またIGFを最初に辞めた経緯を考えると“猪木やIGFは藤田を使ってオレを潰し自分の商品価値を落とそうとしているのでは”と勘繰ったのではないだろうか?藤田は昨年10月16日では顔面フックで澤田敦士をKOしたが、藤田vs暴走戦が決定してからは週刊プロレスのインタビューで「パンチはプロレスでは反則だろう」と訴えていたことから“藤田がセメントを仕掛けて潰すのでは”と勘繰りゴネ始めていたのではと思う。
試合当日に藤田は「しっかりプロレスをやるように努力しますけど、もし向こうが変な仕掛けをしてきたら、俺はいきますよ」とIGFサイドに伝えていた、おそらくだが暴走王は試合当日になっても“藤田がセメントを仕掛けるのでは”と勘繰り続けたままでゴネ続け藤田にも伝わった。藤田にしてみればIGFではなく暴走王に“オレを信用しろ”と伝えたかったのではないだろうか?しかし藤田のメッセージは暴走王には伝わらなかったのか、それでも信用しなかったのか?藤田のメッセージをIGF側が異常に反応してしまい、試合開始直前となってサブレフェリーを5~6人配置したのだ、IGFにしてみれば万が一有事に備えてと考えていたのだろうが、それだけ二人の試合がどうなるか、また“どちらかが仕掛けるのでは”と勘繰っていたのではないだろうか?
そして試合となったがゴング直前で暴走王が不意打ちでを仕掛けてくる、普通のプロレスの流れだとそのままゴングが鳴るがレフェリーが総出で入り双方を宥め仕切り直しで試合開始のゴングが鳴るも、暴走王が攻めても藤田が攻めようとすると何故かレフェリー数人が割って入り分けようとする、レフェリー達は暴走王の不意打ちで藤田が怒っていると考えていたが、藤田にしてみれば“オレは信用されていないのか!”だったのではと思う、藤田はリングサイドにいない猪木を呼び出す、なぜ猪木はリングサイドにいなかったのか?猪木は自身が乗り気でない試合はわざわざリングサイドまで見に来ない、現に新日本にNOAHの三沢光晴や小橋建太が参戦したときは猪木はNOAH勢の試合を見ようとせずリングサイドから離れている、最後は藤田が暴走王を抱えて前へ落としバウンドの連打で試合はストップで藤田の勝利、試合後には藤田が猪木と暴走王がグルになっていると思ったのか「てめえら二人(猪木と小川?)でやってろ」捨て台詞を吐くと、猪木は不穏試合になった責任を取る意味で「1・2・3ダーで締めくくるがブチ切れたまま、藤田は暴走王をかつての暴走王に呼び覚まそうとしていたが、暴走王は藤田が潰すのではと勘繰り、猪木は最初から試合には乗り気ではなく・・・結局リングの中は不信感が渦巻いただけだった。
その後2月の大会で澤田を降した暴走王を第1試合に出場した藤田が襲い掛かりパンチでKO、藤田にしてみれば再戦の意思を確かめる意味で藤田を襲撃したと思うが、暴走王は再戦はアピールしても藤田を避け続け、今年の大晦日は藤田が石井慧、暴走王がアーツ戦を選択したがアーツの参戦がなくなったことで相手は未定となった。IGFも猪木が参議議員選挙に出馬し当選、議員に復帰したことで中心からは一歩引き、藤田と暴走王の二枚看板を中心に据えたいという意図もあってか、二人の潰しあいを避けて再戦にGOサインを出さなかったのか?
藤田と暴走王は相変わらずたがいに不信感を抱いたままの関係は続き、大晦日をまもなく迎える・・・・ -
プロレス多事争論2012 今年のラストメッセージ「方針転換」
今年もあと6時間になりました、このブログを書き上げている頃には自分は東京都内にいると思います。実はIGFでは・・・なく「年越しプロレス2012」を観戦するために上京しました。(ひょっとしてアイスリボン後楽園大会にも訪れているかも?)、なぜ「年越しプロレス」なのかというと明日更新するブログで明らかにする予定ですが、上京するのは2004年NOAH東京ドーム大会以来で約8年ぶりになります。観戦記に関しては元日に伊賀に戻るため明後日のブログで更新予定なのでお楽しみに
本題に入ります、今年の最後のテーマは「方針転換」、なぜこのテーマを取り上げたのかというと、今年の最大の出来事はブシロードによる新日本プロレスの買収劇、ユークス体制の新日本プロレスは純プロレスとアントニオ猪木という象徴を廃することを基本方針としてきたが、ブシロード体制になったことで方針が変わりPRIDEの象徴と言われた桜庭和志、柴田勝頼が参戦することによって純プロレスの中に格闘技という色が混ざってきた。菅林直樹社長は暗黒時代の新日本プロレスに逆戻りするのではと懸念してきたが、結果的に受け入れられてしまった。1月4日の東京ドームで行われる中邑真輔vs桜庭和志戦では菅林社長の「格闘技もどきの中途半端なプロレスをやるつもりはありません」を受けて木谷高明会長が、「格闘技もどきのプロレスをやっていたのは自分たちの方。桜庭さんは全然関係ないし、ずっと引っ掛かるものがあった」と桜庭のセコンドについて受けて立つ菅林発言を受けて立つ姿勢を見せた。これまでの新日本を守りたい姿勢を見せる菅林社長、格闘技を混ぜることで変革を求める木谷会長、この二人の行方次第では新日本の今後を大きく左右されていくと思う。
また今まで新日本からタブー視扱いされていたアントニオ猪木への接近も新日本の方針転換の現れでもある、2009年9月にIWGPヘビー級王者となっていた中邑真輔が猪木への挑戦発言したことにより今までタブーとされてきた猪木と新日本が急接近するのではと思われていたが、ユークス体制の新日本が猪木を望まなかったことと、IGF側も猪木を表に出さずに団体側で対応したことでウヤムヤに終わらせ、結局猪木が中邑発言に対応したのはウヤムヤになりかけてから、事後報告という形にされたことで猪木自身は納得していなかったという。
IGFも今年から猪木が社長に復権し、ここにきて新日本と接近し始めた。猪木個人としての接近なのか、IGFとしての接近なのかはわからないが、猪木が実権を再び握ったことでIGFも方針を転換させてきたのかもしれない。
しかし方針を転換することで当然ながら反発が起きる、今年暴露本や内部スキャンダル、選手の大量離脱で揺れたNOAHがそれを象徴していた、退団した潮崎豪は「NOAHにいたら、他のやりたいことにNOAHから規制がかかる、外へ行ってやりたいことをしてみたい」と発言したが、NOAHの旗揚げの方針は“自由と信念”、しかし創業者であり先代社長である三沢光晴が急逝し体制が変わったことで方針を変化した、いやNOAHが下り坂になった時点で三沢自身が方針の転換させることを余儀なくされたのではないだろうか。
今のNOAHは潮崎の言葉を借りれば三沢の方針を受け継がずに180°変えてしまい、三沢の方針だった“自由と信念”に制約がかかったことで反発が起きた。秋山を含めた離脱組の“三沢だったら”というのが本音だったと思う、しかし現在のNOAHは社長・田上明と副社長・丸藤正道のNOAH、彼らにもやり方があり“自由と信念”のあり方も変わり、三沢のやり方を全て受け継ぐわけにはいかない。自分の考えでもあるが今まで出版された暴露本もNOAHの方針転換に対する反発の現われなのではと思う。
しかし三沢光晴も全日本プロレスの社長就任時には馬場さんのやり方を全て受け継がずに自分のやり方を推し進めようとしたが、全日本という看板に拒絶されてしまいNOAHを旗揚げした、それを考えると上に立つ人間が変わると団体の方針も変わってくる、受け継ぐものもあれば受け継がないものもある、またそれも人間の考えでもあり自然の流れなのではと思う。
方針の転換は団体だけでなく人々の方向性も決めてしまうが、また新しい風景が見えてくるものである、新しい風景にプロレス携わる人だけでなくファンもどう対応していくのか、これからも見定めていきたいと思います。
最後に個人ごとになりますが、改めて前ブログである「Professional Wrestling a Planet」が閉鎖になり、新しく「伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」をスタートさせたりで大変な年でした、更新したブログの内容で指摘を受けたり(カクトウログさん、ブラックアイさん申し訳ないです)で至らぬ点もありました。
そして月間MVPのほうもいつもは定期的に3日の0時に投票受付を開始していたものが仕事の事情で変更になったりで投票されている方々には本当に申し訳ありませんでした。
来年は自分も含めてですが、なるべく良い年を迎えたいなと思ってます。
そして年明けのブログ更新は1月2日を予定しています。1月4日の午前0時からは「12月の月間MVP、ベストバウト、ベストシリーズ&興行」の投票開始をいたします、またこれが終わったら「伊賀プロレス大賞」のメインである2012年度のMVP、ベストバウト、ベストシリーズ&興行の投票受付も予定していますので、またよろしくお願いいたします。
これから年越しプロレス2012を楽しんできます、みなさんよいお年を・・ -
プロレス多事争論2012「新日本プロレスが得た“力”」
1月31日、新日本プロレスがTVゲーム製作会社であるユークスから株式会社ブシロードグループパブリッシングへと経営が譲渡された。
自分がこの一報を聴いたのは観戦のため訪れていたNOAHの津大会の会場、ツイッターで一報を聴いたときは、あまりにも唐突過ぎて言葉が出なかった。ブシロード自体もカードゲームやプロレス・格闘技のスポンサー、長島☆自演乙雄一郎ぐらいしか認知しておらず、わけがわからないというのが感想だった。確かに1月に入ってからは“新日本プロレスが危ないのでは”というウワサも耳にしていた、しかしネタ元がIGFのサイモン・ケリー氏であったことから、新日本バッシングの一環かと思い軽視していた。
改めてブシロードとはどういう会社なのかを調べるとカードゲームやゲームソフトだけでなくアニメ製作にも大きく携わっており、ZERO1やK-1、DREAMなどの冠スポンサーを務めた一大企業、新日本プロレスは一大企業の傘下に収まったのだ。
企業といえば真っ先に思い出したのはSWS、SWSもメガネスーパーという企業が参入して設立された団体で企業参画の先駆けだった、だがSWSは全日本のトップだった天龍源一郎をヘッドハンティングしたのがきっかけとなってターザン山本体制の週刊プロレスからバッシングを浴び、また選手の待遇の改善を前面に押し出したことで、全日本だけでなく新日本の一部の選手やフリーの選手が集まって寄せ集め的な団体となってしまった、週プロのバッシングと内部の統率の乱れで団体は2年で分裂、メガネスーパーもプロレス事業から撤退してしまった。ブシロードとメガネスーパーの違うところは団体をゼロからスタートさせたのではなく団体そのものを傘下に収めたことだ。
新日本のやり方に変わったのかというと現場で変わったことはオカダ・カズチカの台頭や桜庭和志、柴田勝頼の参戦。オカダも凱旋帰国時には評価されなかったのだが棚橋弘至を破り最年少でIWGP王者になったことで一気にスターダムにのし上がった、またかつて“PRIDEの象徴”とされた桜庭、そして柴田の古巣新日本への参戦、オカダの台頭も含めて唐突な出来事が多かったが、かつての新日本もスキャンダリズムを生かして盛り上げてきたことを考えると、新日本にあったスキャンダリズムが甦りつつありのかもしれない。
またこれまでの新日本に企画力、宣伝力がアップされたのも大きいと思う、カードゲーム、プロレス祭り、CM、列車を使ったキャンペーン・・・ハッキリ言ってこれまでのプロレス界にない宣伝のあり方だった、それを考えると新日本はとんでもない力を手に入れてしまったのではと錯覚するぐらいだった。
新日本プロレスの課題はブシロードという巨大な力をどう向かい合い、生かすか・・・あまりにも力に依存しすぎるのも怖いような気がする・・・ -
プロレス多事争論2012「プロレス界を騒がせた冤罪事件」
5月24日の夜だったと思う、プロレスラーが大麻所持で逮捕されたという一報を聴き、誰が逮捕されたんだと調べてみたら逮捕されたのはNOSAWA論外で同棲している紫雷イオと一緒に逮捕されたというのだ、このとき真っ先に頭をよぎったのは“ドタキャン”、NOSAWAは5月27日に開幕する新日本プロレスの「BEST OF THE SUPER Jr」にブラックタイガーとして参戦することが決定していた、NOSAWAは前年の2月、新日本仙台大会の前日に酒に酔った際にタクシー運転手とのトラブルを起こし、無免許でタクシーを運転したということで窃盗の現行犯で逮捕され、すぐ釈放されたものの、仙台大会は結果的にドタキャンしてしまい新日本からも締め出され、本人も活動自粛を余儀なくされてしまった。
このときもファンやマスコミは「NOSAWAは業界から追放すべきなのでは」という声が出たが、自分は擁護するわけではなかったが、自身の始末は自身でつけるべきと考えて、その声には否定的な立場を取っていた。
NOSAWAはしばらくして鈴木みのるのとりなしで復帰、このときも鈴木だけでなく高山善廣、高木三四郎の後押しを受けての復帰だったということで、このときは“みんなの顔を潰してはいけない”と思っていたが、今度は大麻所持で逮捕を聞いたときは、"また新日本をドタキャンしたのか”と“みんなの顔を潰したのか”という思いでいっぱいだった。
これは個人ごとになってしまうが、突然前ブログである「Professional Wrestling a Planet」は強制的に閉鎖となった。理由はこちらに書いてあるとおり「お詫び」http://iga23.iga-log.com/Entry/1/
今思えばNOSAWAや紫雷イオ自身も容疑を否定していながらも黒と決めてかかる書き方をしてしまったのかもしれない、NOSAWA選手や紫雷イオ選手には申し訳なかったと思う。自分はすぐ「伊賀プロレス通信24時 日常茶飯事(ちゃはんじ)」をスタートさせた、事件も触れないどころか真相が何か知りたいため最後まで見定めることにした。
話は戻るが事件をきっかけに再びファンやマスコミからNOSAWAは業界から追放すべきなのではという声が再燃しだした、確かにNOSAWAはトラブルメーカーかもしれないが、このときも自分は紫雷イオに関しては所属であるスターダム、NOSAWAに関しては自身の始末は自身につけさせるべきという考えだったが、NOSAWAをよく知る選手達は揃って“白”というか“信じたい”という声が多く、外から見る側はトラブルメーカーぶりが先行してしまったのか“黒”と決めてかかる声が多かった。
自分は最初は“黒”と思っていたが、時間が経過すると誰がこの話をリークしたのという疑問も出て、NOSAWAが容疑を認めていないのもあったのか、時間が経過しないと真相が見えない、白黒はっきりさせるのは早計だという考えになっていた。
しばらくしてNOSAWA、イオの二人は処分保留のまま釈放、釈放といっても容疑は灰色のまま、この一件で原因となってNOSAWAとイオの関係も終止符を打ったという、また二人もレスラーとしても信用を大きく失ってしまった、真相が見えないまま時が過ぎるかに見えたが、7月10日にかつてみちのくプロレスで義経として活躍し全日本、NOAH、ZERO1、ハッスルにも参戦経験のあるSUGIこと杉卓也が帰国して会見を開き、「私とAAA日本代表の林(雅弘)さんという方とで、共謀して起こした事件であります。いち個人的に思うところもあり、NOSAWAさんに迷惑をかけてやろうと林さんに相談したところ、どうすればいいのか指南を受けました」 「林さんから絵の中に大麻を入れて持たせれば、どこかで捕まるだろうと助言をいただきました」とNOSAWAをハメたことを告白、SUGIはNOSAWAから悪戯を受けたことで今までの仕返しをしてやろうと目論んでいた。しかしNOSAWA一人ハメればよかったはずが、紫雷イオまで巻き込むことは想定はしていなかったという。
これを聴いた瞬間呆れたというか“大騒動になって謝罪会見をやるぐらいだったら最初からやるな”と思ってしまった。これで全ての真相が明らかになったのかというと、林代表が自身が関わったことは全面否定するコメントを出すなど、NOSAWAとイオの潔白は証明されたものの、SUGIと林代表が揉めてしまったことで真相は見えなくなってしまった。
そして現在、SUGIもレスラー活動は自粛で表舞台から消え、林代表も沈黙してしまったことで真相は藪の中となり後味の悪さが残ったが、救いなのは潔白が証明されたNOSAWAがレスラー活動を再開させたことだと思う、古巣である全日本プロレスからもオファーがかかり、紫雷イオもスターダム側の励みもあって復帰、NOSAWAも潔白と証明されても嫌気がさしてレスラー廃業も考えていたという、好きだったものにイヤな想いをさせられたことでのことだったろうが、結局プロレスが好きだからこそ続けられる、それが全てではないだろうか・・・ -
プロレス多事争論2012 「逆風が吹いた箱舟」
今年のNOAHは一言で言えば「逆風」、そのきっかけは1月の大阪ボディーメーカーコロシアム大会での秋山準の怒り、斎藤彰俊と組んでジャイアント・バーナード、カール・アンダーソン組からGHCタッグ王座を奪還したものの、試合後に秋山が「何でこんなにノアのためにやってる人間がフリーに切られて、なんでこのタイトルマッチに出てんだよ! (机を激しく叩きながら)いい加減にしろ! ちゃんとやれよ!! ちゃんとやれよ、全部! 普通にやれよ!! なんだよ!! 選手の気持ち考えろ!!!」」とフロントと現場側が上手くいっていないことに対して怒りを爆発させた、秋山にしてみれば社長の田上明、GMだった仲田龍氏や現場責任者である丸藤正道に対して、もっと話し合ってしっかりして欲しいという激のつもりだった、しかし同じ時期に宝島社から暴露本が出版され、三沢光晴未亡人と所属していた泉田純祐が多額のタニマチだった人物から多額の金額を騙し取られたことと仲田氏と永源氏が暴力団関係者と接触していたことを報じ、仲田氏や永源氏が全責任を負い平社員降格ということ形で失脚した。
今思えば仲田氏の失脚は暴露本だけが理由だったのだろうか、秋山の怒りのあとでしてか丸藤も自分に相談もなく彰俊らのフリー契約を勝手に決めてしまった仲田氏に対して不信感を露にしていた、仲田氏はGスピリッツ誌「特集90年代の全日本プロレス」で「判断を間違ったと思うのは丸藤選手をブッカーにしたということだね、やっぱりお客さんはかっこいい丸藤選手を観たいわけだよね、でも彼は、そういう立場であるわけだから一歩退くじゃない、彼の想いとか性格があって、わからなくてもいいのにわかっちゃうんだよね、そういう立場を。今が一番いい時で、そのいい時にカッコいいところを見せてもらわなきゃいけないから、選手の方にウエートを置いたほうがいいのかなって気がする、ウチは。天才だもんね、三沢社長と同じ匂いがするもんね」と答えていた、それを考えると仲田氏は“丸藤に出来るだけレスラーに専念して欲しい”“余計な負担をかけさせたくない”という考えがあって配慮したつもりだったのではないだろうか、しかし丸藤にしてみれば自分抜きで勝手に決められたことで面白くなかったのではないだろうか、だが仲田氏は全日本プロレス時代にはジャイアント馬場さんの側近であり故・三沢光晴の側近で業界の大先輩、丸藤にしても今までは意見しづらい部分もあったはず、仲田氏の失脚は周囲から疎んじられた結果であり、ある意味潮時だったのかもしれない。
仲田氏の失脚を契機にNOAHは路線を大きく転換させた、関係が途絶していたZERO1との交流を再開、TAJIRIのWNCとも交流するなど丸藤色を強め、内部の戦いも秋山が旗揚げ時に提唱していたユニット制に移行するなどしてどん底から這い上がろうと模索し始めた。
仲田氏の失脚は何だったのかというと、自分の考えでもあるが暴露本の影響があろうがなかろうが、選手らから疎まれていた時点で潮時だったのではと思う、いや三沢の死去後の新体制となった時点で仲田氏は潮時だった、だが新体制から必要とされてしまったことでGMとして留まったが、結果的には批判の的にされ晩節を汚すことになってしまった。
仲田氏が失脚してNOAHがよくなるのかというと、簡単によくなるものではない。現在のNOAHは三沢体制からきているツケが圧し掛かっている状態、時間をかけるしかないといったところだ。選手らの足並みが揃っていないのかというと秋山や丸藤、KENTAのインタビューを見る限りでは考え方の違う人間が集まっているのだから、足並みを揃えるというのは難しいのは当たり前でもある、しかしNOAHを良くしよう、這い上がろうという考えは、みんな同じでありだから残っている、それが全てではないだろうか・・・・
逆風の2012年はまもなく終わるが、2013年の箱舟はどう向かっていくのか・・・ -
プロレス多事争論「個人商店」
カクトウログで海外メディア「レスリング・オブザーバー」が全日本プロレス会長・武藤敬司が新日本プロレスの親会社であるブシロードに全日本プロレス買収を働きかけていることを報じた。
(カクトウログ、OMASUKI FIGHTより)
「全日本の3月20日大会では、実現可能な最高のビッグマッチが投入された。三冠王者秋山準に、武藤敬司が挑戦したのだ。それでも観衆は5500人にとどまった。全日本では、どうすれば大会から利益が上がるのか、アイデアが枯渇してしまった。武藤はすでに、新日本の親会社ブシロードに全日本の買収を働きかけている。RawとSmackdownのように、あるいはUFCとStrikeforceのように、全日本ブランドはそのまま維持したい考えだ。また武藤は、合同興業についても働きかけ、メインイベントの座をIWGPのタイトルマッチに譲った。現在の全日本には、大きな大会を開催する資金もスタッフもないものとみられている」
実現すれば武藤は会長職を辞さなければならないが全日本は残る、最善の策といったところだ。
ただそれと同時に個人商店としてのプロレス団体の時代は終わりを告げるということにもなる。ウルトラマンの円谷プロダクションですら現在はフィールズの傘下、時代なのかもしれない。
元々新日本はアントニオ猪木(新日本はオーナー会社が代替わりしてきた)、全日本はジャイアント馬場の個人商店だった、平成元年にメガネスーパーが参入してSWSを旗揚げしたが、団体そのものではなく選手を買収するという形でかき集め、また個人商店というシステムを守らんとしてマスコミがバッシングしたのもあって2年あまりで崩壊、個人商店としてのプロレスというシステムは守られた。SWSのオーナーだった田中八郎氏が後年「選手ではなく経営者を雇えばよかった」と述べていたとおり、やり方次第ではSWSも認められていたのではと思う。
ブシロードが全日本を取り込むとなれば、プロレス界に大きな影響力を持ち、IGFのアントニオ猪木を凌ぐ可能性も否定できない、その猪木ですら中国大会の成功などで勢いに乗っている風には見えるが、最近はIGFが猪木抜きでやれるかどうか将来について猪木自身がいろいろ模索している。
ブシロードが影響力を持つプロレス界はどう変わっていくのか、自分らが見定めていきたいと思う。 -
プロレス多事争論「三沢光晴」
三沢光晴が死去して4年が経とうとしている、三沢が遺していったNOAHは暴露本という逆風に晒されながらも生き残っている、最近になって三沢がなぜNOAHを旗揚げしたのかを考えてみたくなった。
三沢がNOAHを旗揚げする要因になったのは全日本プロレス時代の“三沢革命”であることには間違いない、しかし、もう一つの理由があるとすればジャイアント馬場さんへの反発だったのかもしれない。四天王プロレス時代の全日本は武道館を常に満員にし、東京ドームへも進出したが、選手らの待遇などは変わらないまま、それに一石を投じたのは三沢だった、選手らの待遇改善、不明瞭な経理を廃しガラス張りの経営・・・しかし選手らは大きな存在である馬場さんに意見を言うことが出来ない、そこで選手やスタッフから“頼りになる兄貴分”とされてきた三沢が物申したが、理想だけでは経営はやっていけないことを身に染みるほどわかっている馬場さんは快い返事は出さなかった、三沢の中では馬場さんは親のような存在でもあり、レスラーとしても尊敬していたと思う、しかし快い返事をもらえなかった時点で三沢はレスラー・馬場さんを尊敬しても、経営者としての馬場さんは尊敬しなくなり、頼ってくる仲間たちの言うことを聴くようになった。
馬場さんが死去し、三沢が全日本を継いだものの、馬場さんの未亡人でありオーナーの元子さんと対立し離脱、NOAHを設立し三沢を頼ってきた仲間が集まってきた、三沢にしてみれば自分の下に集まってきたレスラーやスタッフは仲間だったのかもしれない、三沢は社長に就任したが“兄貴分”が抜け切れない社長だったと思う、三沢は自身の理想を貫くためレスラー達の待遇改善、ガラス張りの経理などを目指してきた反面、親族を経営者に迎えない、外部(マスコミ)ブレーンの排除などは三沢の理想だけでなく馬場さんへの反発の意味もあったと思う。
しかしいつまでも“兄貴分”ではいられなかった、NOAHが苦しくなると頼ってきた仲間たちが足かせとなり、三沢はNOAHを守るために仲間たちをリストラした、この時点で三沢が“頼りになる兄貴分”から“経営者”になったと思う、このときほど馬場さんが言わんとしていた現実というものを思い知らされたのではないだろうか・・・
死去するまでの三沢は理想と追い求める三沢と現実を知った三沢との戦いだったと思う、例の事業話に乗ってしまったのも、三沢自身が現実というものから逃れたかったということだったのかもしれない。
2009年5月京都KBSホール大会、自分が最後に生で三沢を見た大会だったが、会場入りする三沢にファンが集まっていったが、いつもファンサービスには応じる三沢がしんどそうな顔を浮かべてファンを寄せ付けず会場へと入っていった姿、今でも自分は疲れていた三沢の姿を忘れることが出来ない。その1ヶ月後の6月13日・・・死が迫っていた三沢はこのとき何を思ったのだろうか・・・現在・・・三沢の側近だった仲田龍、永源遥両氏が詐欺師の一件で処分され役職から解かれてしまった。これを聴いたときは両氏だけの責任じゃないだろう、社長だった三沢にも責任があるのではと思った、しかし三沢はこの世にいない、周囲から頼りにされていた兄貴分だった三沢、最後で側近に迷惑をかけることになってしまったが、本当は三沢自身が誰かに甘えたかったということだったのかなと思う、4年目の6月13日、午後10時10分、忘れられない日がまた来る。