プロレス史
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ジャパンプロレス誕生…日本マット激動の1984年
1983年12月27日、ニューヨークを本拠を置くWWFがNWAの総本山であるミズーリ州セントルイスにて興行を開始、これをきっかけに全米各テリトリーに侵攻を開始した。WWFの全米侵攻をアメリカの各プロモーターは近未来SF小説のタイトルになぞえて『1984』と呼んだ。
アメリカマットに起きていた『1984』はアメリカだけの出来事ではなく、日本マットにも起きようとしていた。1983年8月に新日本プロレスはアントニオ猪木の事業問題から事が起きた「クーデター事件」が発生、、クーデターは一時的に社長から失脚した猪木が社長に復権することで事が収まったかに見えたが、事件の余波は続いていた。
絶大なる人気を誇っていた初代タイガーマスクが引退しても、新日本は猪木率いる正規軍vs長州力率いる維新軍団の軍団抗争で人気は維持し続けたが、1984年3月に新日本プロレスを追われた新間寿氏が第1次UWFを旗揚げ、新間氏の誘いを受けて前田日明やラッシャー木村が追随したことで、昭和56年代から続いてきた新日本と全日本プロレスによる独占が崩れてしまう。しかしUWFの旗揚げは、これから起きようとする大激震のほんの余震に過ぎなかった。
1983年12月に新日本プロレスの営業部長で新間氏の片腕として辣腕を振るい、新日本の隆盛を支えてきた大塚直樹氏が『新日本プロレス興行』なる興行会社を設立した。大塚氏は猪木が自身の事業に新日本から得た利益を流用していることに懸念を抱き、クーデター事件ではクーデター派に属していたものの、クーデターが失敗に終わると、大塚氏は退社するが、猪木が「今後も協力して欲しい」と、76年6月にモハメド・アリ戦を行う際に伴い、テレビ朝日に経営権を奪われたときの対策として登記してあった「新日本プロレス興行」という会社を譲渡、大塚氏は資本金の問題もあって名称だけは譲り受け、出資者を募って新日本プロレス興行が創立されたが、その出資者の中には後にジャパンプロレスの会長となる竹田勝司氏、大塚氏と懇意にしクーデター事件ではクーデター派にいた永源遥がおり、永源はこの時点でもう『新日本プロレス興行』の一員となっていた。大塚氏と懇意だった長州も『新日本プロレス興行』内に自身の個人プロダクションである「リキ・プロダクション」を置き、管理・運営を『新日本プロレス興行』任せていたことから大塚氏とも近い関係だった。
しかし新日本本体と『新日本プロレス興行』は表向きは姉妹関係とされていたが、、設立パーティーには大塚氏をバックアップしていた猪木は姿を見せなかったことで、大塚氏は猪木への不信感を抱き、1984年2月3日の新日本興行主催興行の札幌大会で組まれた藤波vs長州が藤原喜明のテロによって試合は不成立にさせられた一件でも、猪木が藤原を使って興行を壊すことを仕組んだと勘ぐっていた。新日本本体も「新日本に弓を引いた人間がなぜビッグマッチの興行を手がけるんだ」という不満が出始めていたことで、猪木も「大塚が新日本の興行を全て手がけ収益を独占する気なのでは…」と疑り始めていたことから、新日本プロレス本体と新日本プロレス興行の信頼関係は最初から成り立っておらず、埋め難い溝が生じていた。
一方の長州は新日本正規軍vs維新軍団の抗争はいよいよクライマックスに差し掛かり、4・19蔵前で行われた5v5による勝ち抜き戦では、大将戦でやっと猪木との対戦が実現するも卍固めの前に敗れ、第2回IWGPの5・18広島では公式戦で再戦するもリキラリアット狙いを猪木が逆さ押さえ込みで3カウントを奪い2連敗を喫したことで、新日本における長州革命は完全に行き詰まってしまう。そして6・14蔵前で行われたホーガンvs猪木による第2回IWGP優勝戦では長州が乱入してホーガンにリキラリアットを浴びせて、猪木の優勝をアシストしたことで、長州はファンの怒りを一身に浴びた。長州はなぜ優勝戦決定戦をぶち壊したのか、今でも真相を明かしていない。わかるのは猪木の絶対エース体制は守られ、アメリカでトップスターとなっていたホーガンはプライドを傷つかずに帰国したことだった。乱入した夜、長州は酒を飲み大いに荒れたという。
第2回IWGPが終わると、『新日本プロレス興行』が全日本プロレスと業務提携を発表したことで新日本本体を震撼させる。新日本興行は8・26に田園コロシアムで興行を行うために会場を押さえていたのだが、新日本はキャンセルを通達したことで、新日本の嫌がらせと判断した大塚氏は猪木どころか新日本も信用できないと考えていた。そこで『ゴング』誌の竹内宏介氏を通じて全日本プロレスのジャイアント馬場と接触を求めてきた。全日本は営業力は弱かったこともあって、大塚氏のことを敵ながら営業力は高く評価しており、「味方につければ心強い存在になる」と考えていた。馬場は『新日本プロレス興行』で行うはずだった8・26田園コロシアム大会を全日本プロレスで開催することのなったが、新日本プロレスの看板を使っている興行会社が敵対団体である全日本プロレスの興行を請け負う、新日本本隊にとってもとんでみないことだった。
6・29後楽園から「サマーファイトシリーズ」が開幕するも、開幕直前で長州とは別に事件が起きていた。藤原喜明と高田伸彦が突然新日本を離脱して、UWFに移籍したのだ。藤原は2月の長州襲撃事件で維新軍団への鉄砲玉として売り出しており、高田は次代のスタートして将来を担うだけでなく、シリーズではダイナマイト・キッドの保持するWWFジュニアヘビー級王座に挑戦することも決まっていた。そういう状況の中で開幕戦では試合を外された長州がリングに呼び出されると、山本小鉄氏によって公開という形で処罰が発表され、新日本は①自分の試合でない試合にリングサイドの立ち入りを禁止、これに反した場合は新日本から永久追放 ②維新軍団の解散 ③罰金100万円と1週間の謹慎と厳罰処分を降す。長州は処分内容が記された書類を手にすると破り捨てた。新日本の狙いは猪木vsホーガン戦をぶち壊した責任を問うことではなく、親密な関係だった長州と大塚氏を切り離すことだった。長州は新間氏からUWFに誘われ、契約金も手渡されたが、これを聞きつけた大塚氏は新日本に通報し、テレビ朝日との専属契約という好条件を提示し、また長州も乗り気になれなかったことで引き抜きは未然に防がれていたが、長州を完全に信用していたわけではなかった。新日本は敷いたレールに長州を無理やり乗せ、大塚氏と切り離して取り込もうとしていた。
このあたりから長州の心は新日本から離れていく、おそらく大塚氏と同様で新日本に対しての不信感も募っていたと思う。7月5日の大阪大会では藤波がWWFインターヘビー王座をかけてエル・カネックと防衛戦を行うことが決定していたが「カネックとのタイトルマッチの後に、長州と試合がしたい。札幌でタイトルマッチが決まっているけど、それまで待てない。2人とも燃えているうちにやりたいんだ」とアピールして、カネックと長州相手にダブルヘッダーを行うも、カネックにはバックドロップで勝って防衛したものの、すぐ行われた長州とのノンタイトル戦では試合では疲れが見え始めた藤波に、長州がハサミを持ちして額を刺し、ミスター高橋レフェリーにも暴行を加えたため反則負け、20日のWWFインター王座をかけられた再戦では長州がサソリ固めを決めたところで、リングサイドに猪木が現れ長州を挑発、長州はサソリ固めを解いて猪木に気を取られてしまうと、藤波がバックドロップで3カウントを奪うという始末の悪い結果となり、長州も猪木の乱入は想定していたせいか「もう、藤波とはいいよ」と投げやりな態度を取る。
8・2蔵前では長州は猪木と対戦し、これまでとは一転として素晴らしい技と技の攻防を繰り広げ、猪木も長らく使用していなかったジャーマンスープレックスホールドまで披露、長州のサソリ固めもプッシュアップした猪木が体を曲げて長州の足を掴んで切り返すなど猪木なりの閃きも見せる。最後は長州のリキラリアットをかわした猪木がグラウンドコブラで丸め込み3カウントも、敗れた長州も満足した一戦だったが、長州の憂鬱は晴れたわけでなく、6~14日に行われたパキスタン遠征では政府の命令で敵対していた藤波とタッグを組まされる。政府の命令とは表向きで猪木の意向が働いたのは明白だった。
パキスタンから帰国後の8月24日、全日本プロレス田園コロシアム大会2日前、新日本後楽園大会の会場で大塚氏は猪木本人から契約解除通知を手渡され、『新日本プロレス興行』は9月いっぱい予定されていた主催興行をもって新日本から撤退することになったが、田園コロシアム大会が終わった2日後の28日、大塚氏は新日本に対して絶縁を通告、そして猪木、坂口以外の選手の引き抜きを宣言、になって引き抜きに暗躍する。実は25日の筑波大会で維新軍団の小林邦昭から「新日本の興行を辞めるのですか?自分達は一蓮托生ですよ」と話すと、長州から電話がかかり「家に来て欲しい」と大塚氏は長州のマンションを訪れたが、長州のマンションには長州だけでなくアニマル浜口、谷津嘉章、小林邦昭、寺西勇の維新軍団の面々が揃っていた。そして大塚氏は「新日本のリングのほかに全日本プロレスのリングで新境地を開いてくれないか」「『新日本プロレス興行』を手伝って欲しい」とオファーをかけると、長州は「大塚さん、みんな一蓮托生ですよ。みんな不安なんですよ、シリーズが終わるまでに結論を出しましょう」と告げ、即移籍へは明言は避けたが、半ば決まったのも同然だった。長州ら維新軍団は予定通りに「ブラディファイトシリーズ」に参戦したが、シリーズ直前に中堅の木戸修までが新日本を離脱し、UWFへ移籍する事態も発生してしまう。新日本はカルガリーから平田淳嗣、ヒロ斎藤、高野俊二らを帰国させて穴埋めさせ、平田はストロングマシンに変身し、長州に代わる猪木の抗争相手となったことで、注目される存在になっていくが、この3人も後に新日本を離脱して大塚氏に合流することになる。長州は一歩引いて外国人選手を中心に対戦したが、副社長の坂口には「谷津と一緒にニューヨークに遠征してリフレッシュしたい」と申し入れる。新日本も当初シリーズに参戦する予定だったホーガンがWWFでのスケジュールを優先したため来日をキャンセルしてしまったことで、新日本とWWFの関係に亀裂が生じ始めていた。坂口も"ニューヨークに行ってしまえば大塚らも迂闊には手が出さないどころか、長州をWWFに参戦させることでWWFとの関係も修復出来る" と考え、日本に残る浜口、小林、寺西に対しても、"長州さえいなければ3人を取り込むことは簡単"と考えたのではないだろうか…坂口は了承するも、この時点でWWF行きはカモフラージュで、新日本から離脱することは全く気づいていなかった。
9・18愛知県江南大会で浜口、谷津と組んだ長州は猪木、藤波、木村健悟組と対戦して、長州が首固めで木村から勝利したことで、維新軍団vs正義軍の戦いにピリオドを打たれ、9・20大阪でも長州は谷津と組んでロジャー・スミス、トニー・セントクレー組と対戦して勝利を収め、バックステージでは坂口が長州がWWF遠征に出ることを発表、維新軍も正規軍の控室に入って打ち上げに参加、猪木と共に結束を誓い合った。ところが一夜明けた21日、キャピタル東急ホテルで維新軍団が会見を開き、会見を開く10分前に新日本に対して退社届を提出、『新日本プロレス興行』入りしたことを発表、会見には出席しなかったが顔を見せた馬場も「まさか今日会見をやるとは思わなかった。大塚さんのところはうちと提携しているんだし、うちとしてはいつ長州たちが上がってもいいように受け入れ体制を整えておくだけだよ。」と半ば全日本参戦を容認する発言をする。長州らの行動に完全に油断していた坂口は「5匹の狸に騙されたよ。」と吐き捨てていったが、新日本に激震はまだこれで終わらなかった。次は永源遥、栗栖正伸、保永昇男、仲野信市、新倉史裕、笹崎伸司の中堅、若手までも合流、栗栖、保永、仲野、新倉は大塚氏とも懇意にしていたことから口説き落とされた形で『新日本プロレス興行』に参加した。選手らの契約金は竹田氏が用意した。更に同じ維新軍のキラーカーンも大塚氏の誘いで合流、マサ斎藤も長州のたっての希望でタイガー服部と共に合流し、『新日本プロレス興行』にしたのは14名、新日本にとっても大打撃だった。
『新日本プロレス興行』は長州の『リキプロダクション』と合併して、新団体『ジャパンプロレス』を設立、竹田氏が会長、大塚氏が社長に就任する。猪木は長州らの離脱に対して「暮れには一足早い大掃除ができた」と強気のコメントを出したが、大塚氏は「猪木さんは今回のことで 大掃除ができたと言ってるそうですが…我々を含めて選手たちをゴミと思っていたのでしょうか。ウチに来た選手は“武士の情”で何ら猪木さんや青山(新日プロの通称、事務所が青山にあった)への不満を口にしないのに、あまりにも一方的ですね。この1年間で36人もの人間がなぜやめたのか、その事実をどう考えているんでしょう。まあ、ウチもリングを買ったし、ウチのリングに出てくれるなら(猪木さんの)参加も考えましょう。とにかく新日プロが変わらなければ、今後も選手がどんどん辞めていくと思いますよ。」反論、「一方的な契約解除は営業妨害」として新日プロに対し、4億円の損害賠償を求め訴訟を起こしつつ更なる離脱者が出ることを予告。11月には新日本の常連外国人選手だったダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスも離脱し、『ジャパンプロレス』を通じて全日本に参戦、また翌年にはスーパー・ストロング・マシン、ヒロ斎藤、高野俊二も離脱するなど、大塚氏の予告通りにジャパンプロレス設立後も新日本から離脱者が続出していった…
日本マットで起きた「1984」は昭和50年代に君臨していた新日本プロレスという組織の統率力が低下したことを受けての大分裂劇だった。全日本も新日本の組織内の乱れを突いて攻勢をかけ、新日本を休業寸前にまで追い詰めたが、。新日本は主力が猪木、坂口、藤波、木村、星野、コブラだけになったものの、若手だった山田恵一、橋本真也、蝶野正洋、武藤敬司らを一気に底上げさせたことで崖っぷちで踏みとどまり、90年代の全盛期に向けて布石を打っていく。また全日本も長州らが参戦することで天龍源一郎を始めとする選手たちの意識が変わり始め、後に天龍革命へとつながっていった。
1984年は日米マット界にとっても激動の年でもあったが、アメリカマットに起きた『1984』はこれまでのアメリカマットの秩序を破壊し、WWEによって新しい秩序を産み出そうとしていたものだったが、日本の『1984』は新しいうねりが出来たとしても、ジャイアント馬場、アントニオ猪木という二人の首領の時代は続き、二人の首領は新しい力をコントロールすることで時代を維持し続け、これまでの秩序を破壊するまでには至らなかった。マット界に新しい秩序をもたらしたのは馬場が死去し、猪木が新日本プロレスをユークスに売却してからのことである。
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ラッシャー木村の「こんばんわ」事件…失笑から猪木vs国際軍団の抗争が始まった!
1981年9月23日、新日本プロレス田園コロシアム大会でメインイベントとしてアントニオ猪木がタイガー戸口とシングルマッチを行ったが、試合前に2人の男たちがリングに上がって入場する猪木を待ち構えていた。2人の名は元国際プロレスのラッシャー木村、アニマル浜口、木村は10・8蔵前国技館で猪木との対戦が決定しており、保坂正紀アナからインタビューを受けたが、木村の第一声が「こんばんわ」だった。木村の第1声に館内は失笑が起き、保阪正紀アナからコメントを求められた猪木も失笑が起きたことを嫌ったのか、何もコメントをすることはなかったが、この失笑から猪木vsはぐれ国際軍団の抗争が始まった。新日本プロレスvsはぐれ国際軍団の抗争を仕掛けたのは、当時新日本プロレスの営業本部長で"過激なる仕掛け人"として猪木の側近として活躍した新間寿氏だった。木村ら属していた国際プロレスは吉原功氏が1967年に旗揚げ、ヨーロッパ路線を開拓して外国人エースとしてビル・ロビンソンを据え、金網デスマッチなど斬新なアイデアを駆使してて独自性を打ち出していたが、日本人エースの不在や営業力不足もあって、経営状態は常に火の車、TV中継をしていたTBSからの放映権料だけが団体にとって命綱だった。
また ラッシャー木村は相撲出身だったが、プロレスラー志望だっため、相撲から廃業後は日本プロレスに入門してデビューを果たすが、豊登の付き人をしていた関係から東京プロレスに参加、ここから猪木や新間寿氏、寺西勇と関係が出来るも、東京プロレスが崩壊すると、猪木は一部選手を連れて日プロにUターンすることが出来たが、木村は豊登に近いこともあり、デビューしたばかりで日プロを飛び出したとして除名処分を受け、日本プロレスに戻れなくなった木村は一時は廃業を考えるも、吉原社長の誘いを受けて国際に移籍、アメリカに渡ったロビンソンに代わりエースとなっていたストロング小林に次ぐトップ選手として台頭し始め、1970年8月に金網デスマッチを行うことで"金網デスマッチの鬼"と異名を取るようになっていた。ところがTBSがTV中継を打ち切り、エースだった小林は新日本に引き抜かれてしまうと、ただでさえでも営業基盤の弱い国際は窮地に立たされてしまう。吉原社長は提携を結んでいた全日本プロレスに協力を頼んでジャイアント馬場を始めとする全日本勢が助っ人参戦し、東京12チャンネルがTV中継を開始するなど急場を凌いだが、新日本に移った小林が猪木に、小林に代わって国際のエースとなっていた木村も馬場と対戦して敗れてしまったことで、国際は団体としてのイメージを大きく低下させてしまい、新日本や全日本と比べマイナー扱いされ、選手達もファンから評価されないことで苛立ちを抱え、特に新日本に対しては選手を引き抜くやり方に選手達は猛反発していた。
だが国際の吉原社長は提携する団体を全日本から敵対していた新日本に乗り換えることを決意する。全日本が旗揚げした頃から国際は協力関係を結んでいたが、最終的に美味しいところだけはしっかり持っていく全日本に対して不満を抱いていた。国際は次代のスターとして売り出すはずの剛竜馬も新日本に引き抜かれ、国際は東京地裁に剛の新日本への出場停止を申し立てていたが、裁判所は両団体同士で話し合いを求めため却下も、皮肉にも剛の引き抜きをきっかけに新間氏と吉原社長は度々会うようになっていたのだ。
新間氏と吉原社長は知らない仲ではなく、日本プロレス時代からの仲で、新間氏がフロントとして携わっていた東京プロレス崩壊後は、国際に移籍していた豊登を頼ってフロントとして国際入りを希望していたものの、吉原社長から「営業は必要ない」と断れていた。その後新間氏は猪木と組んで辣腕を振るって新日本を隆盛に導いたことで、吉原社長も敵ながら認めざる得ず、国際入りさせなかったことを後悔していた。話し合いの席で吉原社長は新間氏に『国際の社長にならないか』と持ちかけてきた。吉原社長の狙いは新日本の傘下団体になることで、吉原社長は会長職に下がり、新間氏は新日本のフロント兼任で国際の社長になってもらい、様々な面でテコ入れをしてもらおうというものだった。新間氏も吉原社長の後押しを受けて、国際を意のままに動かし、全面対抗戦に持ち込め面白いものが生まれ、また『ワールドプロレスリング』の中継で国際の選手が放送されれば観客動員にも繋がると考えて乗り気になる。早速新間氏は社長の猪木に相談するが「オマエが国際の社長になって、何が面白いんだ!オレの下にいる人間が国際なんかに行って、五分に話が出来るかよ!」と却下されてしまう。猪木は元々対抗戦を嫌っているだけでなく、東京プロレス時代に国際に参戦した際に吉原社長とギャラの支払いを巡って揉めた一件から吉原社長だけなく国際も毛嫌いしており、またマイナーな国際を新日本と対等に扱って対抗戦に持ち込むことにはどうしても猪木は納得出来なかったのだ。結局国際と新日本は提携を結ぶだけに留まり、新日本から国際に選手が派遣されるも、全日本との関係を継続を望んだ選手達にとっては新日本との提携は納得し難い話だった。また猪木の意向が反映されてか、新日本から派遣されたのはピークの過ぎた中堅選手ばかりも、その中堅選手に国際勢が苦戦を強いられ、また国際が次代のエースとして売り出そうとしていた阿修羅・原もWWFジュニア王者の藤波辰己に挑み完敗を喫したことで、国際のイメージはますます低下し、観客動員も低迷、選手達へ支払うギャラも遅配が出始めていた。
その後も悪戦苦闘を強いられていた国際だったが、1981年3月に東京12チャンネルでの中継がTV中継が打ち切られ、唯一の資金源を失った国際は自主興行を開催する力も次第に失い、8月9日の北海道羅臼町大会で興行活動を停止、吉原社長は選手達の再入団先を探すために新日本、全日本の両団体と交渉するも、馬場は吉原社長に裏切られたことあって拒まれるが、猪木は木村、浜口、寺西の3人だけなら国際の名前を自由に使えることを条件にして使ってもいいと申し入れた。猪木が3人を指名した理由は全日本から引き抜いたアブドーラ・ザ・ブッチャーが自分と手が合わず、使い物にならないと判断していたのもあり、対抗戦で新日本に反発する選手が多い中で、吉原社長の命令に黙って従っていた木村、浜口、寺西の3選手は信頼できると判断していたからで、猪木は国際の看板を使って3人のヒールに仕立てることを考えていた。
新間氏は浜口と秘かに会い木村と寺西を説得して欲しいと依頼、浜口も吉原社長の恩義に報いるために木村と寺西を説得し3人は新日本と契約を結んだ。8月27日に新間氏と吉原社長が会見を開き、10月5日の大阪、10月8日の蔵前、11月末の福岡と両団体の全面対抗戦を行うことを発表するが、ここで全日本が対抗戦を潰すために国際の選手らに吉原社長を通さずに独自にオファーをかけ一本釣りを画策、木村に次ぐNo.2でありアンチ新日本の急先鋒だったマイティ井上は吉原社長に義理は果たしたとして「ゴング」の編集長の竹内宏介氏の仲介で中堅の米村天心、若手の冬木弘道、アポロ菅原も引き取ってくれるならという条件で全日本へ移籍を決めてしまう。木村も全日本からオファーを受けていたことも明らかになったが、木村は新日本を選んだ。理由は吉原社長に従っただけでなく、東京プロレス時代から恩義がある新間氏との関係を優先し、ギャラや契約金も含めた待遇面で新日本の方が条件が良く、苦労をかけてきた家族を楽をさせてあげたいという考えのあっての選択だった。吉原社長は国際の名前を使う使用料として新間氏から5000万を受け取り負債の返済にあてるはずだったが、吉原社長を嫌う猪木の意向で3分の1にカットされ落胆していた。そのことを知ったのか木村は契約金の全てを吉原社長に渡した。木村が新日本を選択したもう一つの理由は自分を拾ってくれた吉原社長の恩義に報いるためにどうすべきか考えた末の決断だったのかもしれない。
対抗戦プランは猪木の猛反対もあって10・8の蔵前大会しか実現できず、予定していたカードも猪木vs木村、藤波辰己vs阿修羅原、タイガーマスクvsマッハ隼人、長州力vs浜口、星野勘太郎&剛vs寺西&鶴見と発表されたが、土壇場になって原が国際中継で解説を務めていた門馬忠雄氏の仲介で馬場に口説き落とされて、全日本への移籍を決め、マッハも鶴見も海外へ行くことを決めていたことから対抗戦には不参加となってしまう。新日本は対抗戦を盛り上げるために、国際軍団に小林を入れようとしていたが、小林は腰痛を悪化させて欠場しており、もう試合が出来ない状態だったため、3人だけで新日本との対抗戦に臨まなく得ない状況になってしまっていた。
対抗戦のカードも猪木vs木村は予定通りも、浜口vs剛、藤波vs寺西と変更となってしまう。藤波vs寺西はジャーマンスープレックスホールドで藤波が勝利も、浜口は剛から勝利を収め、1勝1敗のタイスコアとなる。そして猪木vs木村の大将戦は、猪木が速攻勝負を狙ったか開始早々から延髄斬りを放って先制も、打たれ強い木村も頭突きの連打で反撃、場外戦で猪木を流血に追い込む、猪木はショルダーアームブリーカーから腕ひしぎ逆十字を決めるも、木村はロープに逃れる。だがエキサイトした猪木はブレークに応じなかったため反則負けとなり、対抗戦は2勝1敗で国際が勝利も、ここから猪木vs木村による遺恨が始まった。11月5日に猪木vs木村の再戦がランバージャックマッチで行われ、逆に鉄柱攻撃で木村を流血に追いこんだ猪木がショルダーアームブリーカーから腕十字で捕らえるも、木村がギブアップしなかったため、セコンドがタオルを投入して猪木がTKO勝ちも、木村はギブアップしてないとしてタオルを投げた浜口、寺西、小林に代わり国際軍団入りしていた剛に怒りをぶつけ、猪木に再戦を要求、ファンは敗れてもなお食い下がる国際軍団を次第にヒールとして扱うようになる。翌年の1982年2月9日に第3Rが行われ、場外戦で両者がリングに戻ろうとしたところで、セコンドの浜口が猪木を場外へ引きずり降ろして猪木のリングアウト負けとなったことで、国際軍団がヒールとして見られることが決定的となった。国際軍団はブッチャーとも共闘してヒールユニットとして存在意義を示し始め、試合に度々乱入していは猪木を襲撃するなどファンの憎悪を一身に受けることになり、猪木も外国人より国際との抗争に軸を置きはじめた。この頃の猪木は実力的にもピークが過ぎつつあり、体調も崩し始めていたことから、猪木だけでなく新日本的にも木村は猪木の強さを見せられる絶好の相手だった。木村も新日本から国際より莫大なギャラを得ることで、長年にかけて苦労をかけてきた家族に楽をさせることが出来たが、自宅には生卵を投げられ、飼い犬も嫌がらせを受けて円形脱毛症になるなど代償も大きかった。
9月21日の大阪府立体育会館で木村は猪木と敗者髪切りマッチで対戦、試合中にセコンドの浜口が猪木の髪をハサミで刈る暴挙に出ると、猪木が怒り木村にナックルをあひせてイスで殴打、この日は小林も木村のセコンドに着いていたがイスで殴打されてしまう。猪木はリングに戻った木村に延髄斬りを浴びせ勝利も、木村は髪を切らずに逃亡、館内は暴動寸前となり、猪木はこの場を収めようとしたのか国際軍団に対して永久追放を宣言、新間氏も木村に代わって髪を切ることでその場を収めたが、10・8後楽園大会で永久追放に納得いかない国際軍団がTV中継開始と共に乱入し猪木との対戦を要求、猪木は国際軍団と1vs3によるハンディ戦で対戦することをアピールする。1vs3は国際軍団にとっては屈辱的だったが、猪木にしてみれば体調不安説を一掃するために組んだ試合でもあった。11月4日と1983年2月7日に2度行われたハンディキャップ戦は2人は破るものの、最後の一人で疲れが見え始め、敗れてしまい猪木の復活を示すことは出来なかったが、この頃から正規軍に叛旗を翻した長州力が台頭し始めたことで、猪木vs国際軍団の抗争もピークが過ぎようとしていた。
3月に長州と意気投合した浜口が国際軍団を離脱、国際軍団は木村と寺西だけとなり、国際軍団を影ながらプッシュしていた新間氏もクーデター事件で失脚したことで、国際軍団の扱いも次第に悪くなっていく、木村も国際時代から抱えていた腰痛が悪化、最悪のコンディションの中で髪切り事件のちょうど1年後の1983年9月21日の大阪府立体育会館で猪木と対戦するが、猪木のナックルの前に血だるまにされた木村は延髄斬りの前に無残なKO負けを喫し、猪木vs国際軍団の抗争に終止符が打たれ、木村は腰痛の治療のため欠場、一人だけとなった寺西は長州率いる維新軍団に組み込まれてしまい、国際軍団は事実上の解散となった。
1984年1月に木村は一匹狼として復帰も、新日本vs維新軍団の抗争が主軸となったことで割って入ることは出来ず、新間氏の誘いを受けて旧UWFへ移籍、だが旧UWFでも新間氏は失脚、居場所を失った木村は国際時代から懇意にしていたプロレス解説者の菊池孝の仲介で全日本へ移籍、最初は国際血盟軍としてヒールとされていたが、マイクパフォーマンスが受けてファンから支持を得るようになり、馬場と義兄弟タッグを結成、バラエティー路線で観客を大いに沸かせた。2000年に木村に好意を持っていた三沢光晴の誘いを受けてNOAHに移籍も、古傷の腰痛の影響で歩くのにもままならない状況となり、それでも専用のギブスを巻いて試合をこなしていたが、2003年3月の武道館大会を最後に欠場、2004年7月10日の東京ドーム大会で引退が発表されたが、木村はレスラーとしてのプライドからかファンの前に出ることを拒み、ビデオレターによる発表だけに留まり、三沢の葬儀には出席していたが、この頃には脳出血を患っており、公の場に出るのはこれが最後となり、2010年10月4日に死去、死去の半年前からいつ亡くなってもおかしくない状況だったという。
木村は私生活では馬場の悪口は言わなかったが、猪木に関しては東京プロレス時代の経緯もあり、この頃から猪木が選手のギャラまでも事業につぎ込んでいた評判も聞いていたことあって、猪木のことはあまり良くは思っていなかったことを家族にだけ明かしていたが、木村がUWFへ移籍する際に猪木が木村を引きとめていた。敵対はしていたが猪木は内心仕事が出来る木村を高く評価しており、正規軍に入れることも視野に入れていたという。だが木村はUWFは誘ってくれた新間氏の義理を優先して新日本から離れた。木村とは日プロ時代から同期で東京プロレスも経験したマサ斎藤はレスラーとしても尊敬し、猪木も信頼したことで敵対しながらも盟友関係を築いていたが、木村の場合はレスラーとしてだけでなく、猪木の人間性も見てしまったことで尊敬するまでには至らず、敵対しながらも盟友関係を築けなかった。吉原社長への恩義がなければ、馬場の誘いに乗って、もっと早い段階で全日本に移籍していたのかもしれない。
<参考資料 GスピリッツVol.39、46 新日本プロレスワールド、こんばんわ事件、猪木vs木村、猪木vs国際軍団の1vs3は新日本プロレスワールドにて視聴できます。>
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大日本プロレスのリングで行われた最初で最後のMMAマッチ、ケンドー・ナガサキ・47歳の挑戦
1995年9月13日、大日本プロレス愛知・露橋スポーツセンター大会でケンドー・ナガサキがジェラルド・ゴルドーの実兄でありUSA大山空手に所属するニコ・ゴルドーとバーリ・トゥード(MMA)マッチで対戦した。ナガサキは日本プロレス出身で、日本プロレス崩壊後は全日本プロレスに移籍、そしてアメリカへ渡って定着し、坂口征二の誘いで新日本へ移籍した。そしてSWSの旗揚げに参画しエージェントして天龍源一郎をスカウトするも、SWS分裂後は、新団体NOWを旗揚げするが、順調な経営とは行かず、1994年10月に経営不振で解散、ナガサキは引退を考えたが、当時WARで営業をしていたグレート小鹿に誘われ、大日本プロレスの設立に参加、大日本は1995年3月16日、横浜文化体育館で旗揚げし、旗揚げ時は有刺鉄線を主にしたデスマッチ路線を強いていた。
この頃から社長だった小鹿が当時週刊プロレスの編集長だった山本隆司氏と接触しており、金を渡しつつも、大日本の存在をどうアピールするかアドバイスを求めていた。そこで山本氏が送ったアドバイスはナガサキに総合格闘技バーリ・トゥードに挑戦させることだった。1993年にホイス・グレイシーがUFCでパンクラスに参戦していたウェイン・シャムロックを破ってから、ホイスの存在がクローズアップされた同時に、バーリ・トゥードがプロレスファンどころか格闘技ファンからも認知され始め、正道会館の石井和義氏が「K-1 GRAND PRIX '93」を成功させたことで、格闘技ブームが起きようとしていた。4月20日、日本武道館で行われたヒクソン・グレイシーも参戦した「バーリ・トゥード・ジャパン」を小鹿と共に視察すると、突然小鹿が打倒・ヒクソンを掲げてバーリ・トゥード路線に挑戦を表明、ヒクソンは昨年の1994年12月に道場破りに来たUWFインターナショナルの安生洋二をチョークスリーパーで絞め落としており、『400戦無敗』ということでクローズアップされようとしていた。ナガサキは日本プロレス時代からセメントマッチに強いとされ、坂口征二と共に新日本プロレスへ移籍しようとしてた大城勤の顔面をボコボコにするまで殴って制裁を加え、また海外でもケンカで数々の武勇伝を誇っていた。週刊プロレスは「セメントマッチならナガサキが最強」と大体的にPRするが、当のナガサキ本人は乗り気でなかった。
ナガサキvsニコ・ゴルドー戦は自分も観戦していた、理由は当時バーリ・トゥードが注目されていたこともあって、バーリ・トゥードとは何なのかというものを生で見たかったからだった。会場には「バーリ・トゥード・ジャパン」を仕切っていた修斗の佐山聡、ニコのセコンドとしてジェラルド・ゴルドーが来場、自分もかつて憧れていた初代タイガーマスクこと佐山が目の前にいることから、サインを求め、本人も気軽に応じてくれた。メインのナガサキvsニコ戦になると、リングは金網に囲まれ、ナガサキのセコンドには小鹿だけでなく、SPWFから大日本に参戦していた谷津嘉章が着いた、試合はニコのパンチは受けたものの、受けきる自信があったナガサキは組み付いて裏アキレス腱固めで勝利を収めたが、ナガサキのケンカ強さは見せることがなく、インパクトに欠けたものになり、生で見ていた自分も「これで大丈夫なの?」「ケンカと格闘技は違うものでは」と疑問に思わざる得なかった。
ナガサキは後年「アメリカで金網デスマッチやってるから、あの中に入るのは別に抵抗なかったし関節極めりゃあいいと思ってたからさ。KOされちゃったやつは、ただボーっとしてるところにバーンとやられて、それで終わり。掴めば勝てると思ってたんだよ。いけると思ってたから、パンチをガードしなかったんだよね。それに、そういう練習はしてなかったんだから。あの時47歳だっけ?まだ30代半ばだったら、いけたと思うけどね」と振り返っていたが、ナガサキがプロレスの習性である打撃を正面で受ける癖が染み付いていただけでなく、47歳だった年齢を考えるとMMAに挑戦するには齢を取りすぎていたのかもしれない。
ナガサキはその後、元ボクシングWBA世界フライ級王者だった花形進氏からパンチを指導してもらい、26日に駒沢オリンピック公園体育館で行われた「バーリ・トゥード・バーセプション」に出場、UFCに参戦経験のある元ボクサーのジーン・フレジャーと対戦し、いきなりナガサキがグラウンドを狙って捕らえにいったところで、フレジャーの右ストレートを喰らってダウンしてしまい。再び立ち上がって突っ込んだところで再び右ストレートを浴びてKO負けとなり、失神したナガサキは病院送りにされ、小鹿も「目の前が真っ白になった。力道山先生が亡くなった時以来の衝撃だ」と大きく落胆した。自分も正直言ってこの結果を受けたときは、対戦前から嫌な予感はしていた。
このままでは終われないと感じたナガサキは当時若手だった山川竜司を伴い10月にブラジルへ渡り、アカデミア・ブドーカンという道場でバーリ・トゥードの戦い方を学び、12月29日に決定していた次戦に備えようとしていた。そして同地では山川もバーリ・トゥードに挑戦、ナガサキも会場でヒクソンとも対面した。しかし日本に戻ると12月に予定していた次戦は小鹿の方針で中止となり、これで大日本のバーリ・トゥード路線は撤退することで幕を閉じた。大日本は再びデスマッチ路線へと戻り、97年1月4日新日本プロレスとの対抗戦から他団体との交流が活発となったが、新しい選手が成長すると共にナガサキは大日本で浮いた存在となって退団、フリーとなって様々な団体に参戦も、不整脈で心臓の手術を受け、ナガサキは静かに引退した。
<参考資料 GスピリッツVol.15 ケンドー・ナガサキ自伝より>
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新日本プロレスvsUWFインターナショナルはこうして実現した!
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2018年9月2日1995年8月12日、新日本プロレスの「G1 CLIMAX」は両国三連戦に突入しようとしていた。この年のG1はWCWからリック・フレアーが参戦するなど大きな話題を呼んでいたが、舞台裏ではUWFインターナショナルが新日本プロレスに対してフリーで参戦していた山崎一夫の出場停止を勧告する通知書を送り、マスコミに向けてFAXで公開した。
山崎一夫はUWFインターナショナルではNo.2の存在だったが、Uインターのマッチメークをしている宮戸優光はUインター旗揚げの際に、前田日明側に着くと思われていた山崎が最後になってUインターに合流したことで山崎を嫌っており、山崎とは新日本時代から同期だった高田延彦の顔を立ててNo2として扱ってはいたが、実質上は咬ませ犬として扱い、マッチメーク上でも冷遇していた。その山崎がUインターを離脱し、当時険悪な関係だった新日本にフリーとして参戦を表明し、7月25日の平成維震軍興行の横浜文化体育館大会に参戦、また8月12~15日のG1三連戦でも特別参戦することが決定していた。山崎がUインターを離脱した理由は、宮戸が山崎を嫌っているように、高田は立てても自分を立てようとせず、後輩ながら指示してくる宮戸を山崎も嫌っていた。その山崎の状況を知った新日本が声をかけ一本釣りをしたのだ。
G1最終戦が行われた15日、安生と鈴木健のUインター両取締役が会見を開き、「山崎の契約は平成8年(1996年)5月30日まで残っている。新日本プロレスともあろう団体がウチの山崎一夫に頼らなければ、お客さんが呼べないのか」と非難すると、新日本の現場監督である長州力は「山崎と高田のところ問題で、お門違いだぞ。なぜ敢えて最終戦の今日、会見をやるんだ。俺に言わせれば三馬鹿(安生、鈴木、宮戸)がギャーギャー言っているだけ、これ以上言っちゃうと罵り合いになっちゃうから、俺はコメントにならないってことです」と呆れ気味に語れば、永島勝司企画営業部長も「冗談じゃないよ、話し合いにならない」と怒りを露わにしていたが、長州が三馬鹿と称していた一人である宮戸はこの時点で何故か表に出てこなかった。
マスコミも「新日本とUインターが、また揉めている」としか考えていなかったが、実は山崎の移籍の一件で永島氏は取締役だった倍賞鉄夫氏と共に鈴木健氏と極秘裏に会い、話し合いの上で両団体の若手同士の対抗戦が持ち上がり、その延長線上で全面対抗戦に発展していったのだ。新日本も4月28、29日に北朝鮮で開催された『国際平和のための平壌スポーツ国際文化祭典』で北朝鮮側は二億五千万をギャラとして新日本に支払うとしていたが、実際その約束はされておらず、全て猪木と永島氏が北朝鮮で『平和の祭典』をやりたいがために、新日本から金を引き出すための嘘で、経費は全て新日本持ちだったため、新日本は二億円の負債を抱える羽目になり、北朝鮮大会を推進し、また猪木から全責任を押し付けられた永島氏は追い詰められた状況に立たされていた。
一方のUインターは各団体のエースに招待状を送ったことで話題を呼んだ『1億円トーナメント』が結局不発に終わったことで観客が激減し始め、起死回生のためにヒクソン・グレイシーに挑戦を表明するも、安生洋二がヒクソン・グレイシーの道場破りを敢行して敗れ、大失敗に終わった"ヒクソンショック"の影響で"最強"を掲げたUインターのイメージを大きく低下させてしまい、客離れに歯止めがきかず、宮戸の方針で特定のスポンサーがなかったこともあって運転資金も乏しくなっていた。社長として団体経営に疲れた高田は突如引退宣言をして参議員議員選挙に出馬するも落選、また経営に理解のない宮戸が経理を担当している鈴木健氏が不正をしていると一方的に追求するなど、Uインターは内部崩壊でバラバラの状況になっていた。
これまで険悪とされた新日本とUインターが突如雪解けしたのは、双方の利害が一致したからで、互いにプラスになる話になるはずと考えていたからだった。だが永島氏はUインター側と接触には長州は出さず、安生もこの頃には事務所すら顔すら出さなくなっていた宮戸に何も言わなかった。理由は長州と宮戸が交渉の場に出てくると感情的になって揉めて対抗戦は潰れることを懸念したからで、特に長州は「業界の秩序を乱すヤツ」として宮戸を嫌っており、宮戸もプロレスの本質を潰そうとする長州を嫌っていた。おそらく鈴木健氏や安生も同じ考えだったはず、山崎の出場停止を求める勧告も双方が考えていたシナリオで、長州はまだこの時点で宮戸がUインターにまだ関わっているのか確認できていなかった。G1が終わって三日後の18日、長州の署名入りの返答声明ががマスコミだけでなく、Uインター側にFAXで送付され、「速やかな解決を望むならば、代表取締役である高田延彦氏が我々の前面に出て意見を言うべきだろう」と高田に対して返答を求めることを要求してきた。Uインターは高田の社長はあくまで名目上に過ぎず、渉外などフロントなどは、宮戸や鈴木健氏が前面に立って取り仕切ってきた。長州は宮戸や鈴木健氏でなく高田に対して社長としての返答を求めてきたのだ。
そして24日、長州は新日本の事務所で会見を開いたが、同時刻にUインターも高田が会見を開いていた。長州はマスコミに向けてUインター側に暴言を吐いたことを謝罪、取材に来ていた東京スポーツにUインターに対して「テーブルに着きたい」と話し合いの用意があることを告げて欲しいと依頼、Uインターを取材していた東スポ記者を通じて長州の意向が伝わると、長州と高田による電話会談が実現、会談を終えると長州はフロントに「ドームを押さえてくれ!」と指示、そして10月9日、東京ドームで新日本プロレスvsUWFインターによる全面対抗戦が急転直下で実現することになり、マスコミの前で「全部、個人戦(シングル)だぞ。向こうの選手、全部出す。ウチも出すから、相手がどうのこうので試合が出来る、出来ないは言わせないぞ。Uは(10・9)東京ドームで消す」と断言した。
長州が交渉の前面に突然出たのは、宮戸はUインターから外されていることを確認した上のことで、いずれUインターを潰す機会を伺っていた長州も宮戸がいないなら話し合いをしやすいと考えて、ここで前面に出てきたのだ。後は長州と高田の直接会談次第だったが、実はUインターも安生が新日本プロレスとの対抗戦を薦めていることを察知した宮戸は「対抗戦はUインターにとって命取りになる」と考え、対抗戦を潰すために安生に辞めるように進言するが、安生は「団体を生かすためだ」として聞く耳を持たず、それでも諦めない宮戸は田村潔司や高山善廣など若手選手達を集め、新日本との対抗戦には出ず、高田や安生、鈴木健氏を見捨て、田村を中心とした新団体を旗揚げしようと持ちかけた。宮戸にとってUインターや高田延彦は自身がプロデュースしてきた最高傑作であり、宮戸も高田を自身が尊敬するアントニオ猪木のような大スターにプロデュースしたという自負があったが、そのUインターや高田が自身の考えと違う方向に走り出したことに我慢できなかった宮戸はクーデターを企て、自身の言うことを聞かなくなった安生や鈴木健、そして高田までも切り捨てようとしたのだ。しかし宮戸の話に誰も乗ろうともしないどころか、クーデター計画が高田に知ることになって怒りを買ってしまい、宮戸は居場所を失ったかのようにUインターを去っていった。
宮戸が排除されたことで新日本vsUインターの全面対抗戦に向けて大きく前進。10・9が実現したが、結果はご存知の方が多いことから敢えてもう触れない。だが2日後の10月11日に開催されたUインター大阪大会を生観戦していた一人の意見とすれば、6月の高田の引退発言の時点で宮戸が作り上げたUインターは時点で完全に崩壊寸前で、新日本との対抗戦で止めを刺された。「宮戸が対抗戦を仕切っていたら違った結果になっていた」という声もあるが、宮戸はグレイシー道場破りの失敗から、求心力の低下しいたには明らかであり、仮に指揮をしていても宮戸の考える通りには動かず、裏切る結果になっていたと思う。宮戸は「Uインターは自分が作った団体」としているが、これまで宮戸はUインターのために敢えて嫌われ役となっていたが、発言力が増大していくにつれて、高田を始めとする選手達は心を離れ、いつの間にか孤立していたが宮戸はそれに気づいていなかった。高田も「Uインターは宮戸だけの団体ではない」と内心面白くないものを感じており疎んじていたのではないだろうか、長州との会談や対抗戦にGOサインを出したのは、高田が"Uインターは宮戸の団体ではない、自分の団体だ!"と示すためだったのではないだろうか…
宮戸は対抗戦を「Uインターを潰すために、プロレスにあるべき強さそのものまで斬り捨ててしまった、でも切りすぎですよ、Uインターという団体だけでなくプロレスの本質、その根っこまでぶった切ってしまった」と語っていたが、翌年にUインターは崩壊したが、次なる荒波としてK-1、PRIDEなど格闘技の波が押し寄せようとしていたことを考えると、長州は格闘技からプロレスを守るためにUインターを潰したのか、また宮戸も格闘技からプロレスを守るためにUインターを防波堤としたかったのか…
(参考資料=日本プロレス事件史Vol.11、田崎健太著「真説・長州力」 「証言 UWF最終章」) -
夏休み最後の日にテリー・ファンクが涙の引退…なぜカンバックが支持されなかったのか?
1983年8月31日、全日本プロレス・蔵前国技館大会でテリー・ファンクが兄であるドリー・ファンク・ジュニアと組んでスタン・ハンセン、テリー・ゴーディを相手に引退試合を行った。1980年10月、「ジャイアントシリーズ」に参戦するためにテリーが来日するも「私は3年後の1983年6月30日の誕生日に引退をする」と引退を発表、テリーの突然の引退発表に会見場は騒然となった。テリーは全日本プロレスの旗揚げから全日本の常連外国人として定着、アブドーラ・ザ・ブッチャーとの抗争で女性ファンのハートを掴み人気選手の一人となっていたが、「第8回チャンピオンカーニバル」参戦後にかねてから痛めていた膝を手術していた。テリーの発表は全日本プロレスどころかジャイアント馬場にも事前に知らされていなかった。テリーの引退は全日本にとって大打撃だったが、全日本は次第にテリーの引退をビジネスにしようと考えていく。
テリーの引退が迫った1983年、全日本プロレスは同時期に開催されていた新日本プロレスの「第1回IWGP」への対策として、春の本場所である「チャンピオンカーニバル」を休止し、豪華外国人を招いての通常シリーズ「グラウンドチャンピオンカーニバル」を3シリーズに向けて開催、そして7~8月に「テリー・ファンクさよならシリーズ」を開催するために、6月30日に引退するテリーの引退をスライドさせた。ちょうど新日本プロレスはアントニオ猪木がハルク・ホーガンのアックスボンバーを喰らってKOされ欠場していたことから、テリーを使って猪木不在の新日本に攻勢をかけた形となった。
テリーの引退は夏休み最後の日である8月31日の蔵前国技館に決まり、日本テレビも「土曜トップスペシャル」のスペシャル枠で録画ながらも7時半からの9時まで放送されることが決定した。当時の『全日本プロレス中継』は土曜夕方の5時半から6時半に放送されていたが、これは土曜8時時代は読売ジャイアンツの野球中継が入った時には深夜枠に移動されることもあって視聴率的に不安定だったこともあり、時間枠に左右されないために敢えて夕方5:30の枠に移行、夕方で録画放送ながらも安定した視聴率を稼いでいた。だがゴールデンタイムへの復帰は諦めておらず、今回はゴールデンタイム復帰への布石としてテリーの引退をゴールデンタイムでの特番で放送することになった。
テリーの引退の相手は因縁のハンセンとなったが、パートナーには初来日のゴーディが抜擢された。ゴーディはテキサス州ダラスでマイケル・ヘイズとフリーパーズを結成し、エリック兄弟相手に抗争を繰り広げることでトップを取っていた選手で、馬場も1982年にアメリカ遠征をした際にジョージア州アトランタでPWFヘビー級王座をかけてゴーディと対戦していた。そのゴーディを強く推したのは、この時全日本のブッカーに就任していた佐藤昭雄であり、初来日したゴーディは初戦でハンセンと組んで、ジャンボ鶴田&天龍源一郎の鶴龍コンビと対戦し、ゴーディは天龍に当時はまだ珍しかったパワーボムを披露して3カウントを奪い、ファンに大きなインパクトを与えたが、ファンだけでなく天龍にも大きなインパクトを与え、後に天龍自身もパワーボムを会得してフィニッシュに使うようになる。
8月31日の蔵前国技館、13600人の観衆が集まる中テリーの引退試合が行われ、試合前に当時の全日本プロレスの社長だった松根光雄氏から感謝状が渡され、馬場も握手で激励した。
試合はドリーがハンセン組に捕まり、たまりかねたテリーがカットに入る。やっとドリーから交代を受けたテリーはハンセンにナックルを連打を浴びせて流血に追い込むも、ハンセンもテリーの額に噛み付き、テリーも流血する。ハンセンは失速したテリーの古傷である右膝をゴーディと共に攻め、ゴーディもテリー相手に掟破りのスピニングトーホールドを敢行、館内の女性ファンから悲鳴が起こる。
ハンセンに頭突きを浴びせたテリーはドリーに交代。ドリーはドロップキックの連打やバックドロップで試合を盛り返していく、ドリーはハンセンを場外へ引きつけている間にテリーはコーナーからの回転エビ固めでゴーディを丸め込んで3カウントを奪い、ラリアットを見せる間もなく敗れたハンセンはテリーに襲い掛かるだけでなく、若手らに八つ当たりウエスタンラリアットを浴びせ退場していった。
試合後にテリーはマイクを持ち「アイラブユー!フォエーバー!ジャパン・ナンバーワン!フォーエーバー!サヨナラ!グッパイ!アイラブユー!」と涙ながらに叫び、館内の女性ファンたちは号泣し、「スピニングトーホールド」が鳴り響く中、テリーはリングを去っていった。
テリーの引退試合を放送した全日本プロレスの特番は視聴率14.3%記録、裏番組にフジテレビの「おれたちひょうきん族」テレビ朝日は「暴れん坊将軍Ⅱ」、TBSが「8時だよ全員集合!」が放送されている激戦区の中で数字を稼ぎ、これを契機に全日本プロレス中継はゴールデンタイム復帰に向けて布石を打っていく。中継中に実況の倉持隆夫氏や解説の山田隆などは「テリー・カンバック待望論」を出していたが、この時点でマスコミや全日本、またファンもテリーの引退を信じて疑っていなかった。全日本プロレスもテリーの引退、また同日に鶴田がブルーザー・ブロディを破りインターナショナルヘビー級王座を脱したのを契機に、鶴田、天龍、ハンセン、ブロディを中心とする路線をスタートさせようとしていたため、テリーを復帰させるつもりはなかったが、テリーはこのまま引退しようとしなかった。83年の世界最強タッグにはドリーは馬場と組んでエントリーし、テリーはそのマネージャーとして来日したが、ハンセン&ブロディとの公式戦で超獣コンビに圧倒されるドリーにたまりかねて、テリーは手を出してしまい、カンバックへ向けて伏線を張る。そして84年8月26日の田園コロシアム大会で特別試合として同カードが組まれ、ハンセンの挑発に乗ったテリーは遂にハンセンに襲い掛かってカンバックを宣言、84年の最強タッグにドリーと組んでファンクスとしてエントリーするも、全日本は既に鶴田&天龍時代へと突入、また全日本に参戦目前だった長州力の存在もあり、ファンから支持されなかった。いや今思えばテリーの引退はファンにしてみれば「あの涙の引退は何だったんだ!」であり、テリーのカンバックは裏切りと捕らえられてしまったのだ。
だがテリーの引退~カンバックを契機に、日本でも引退~カンバックという前例が出来上がったのも事実だった。テリーも今年で74歳を迎えたが、体調が許す限りはリングに上がり続ける、結局レスラーである気質が抜け切れない限り、テリーに引退という言葉はないのかもしれない。
(参考資料 日本プロレス事件史Vol.15『引退の余波』) -
"些細”なことから始まった新日本プロレスvs誠心会館の抗争…齋藤彰俊のプロレスラー人生はここから始まった!
これは、ほんの"些細"なことから始まった。1991年12月8日、誠心会館自主興行が開催されていた後楽園ホール大会の控室、当時新日本プロレスにレギュラー参戦していた青柳政司と、新日本プロレスの小林邦昭がタッグを組むことになっていた。そこで青柳の付き人が控室のドアを"バーン"と強めに閉めてしまった。小林は「オイ、もっとていねいに閉めろ」と注意した。だが小林が何言ったのか聞き取れなかった付き人は「は?なんですか?」と返答すると、小林は口答えしたと判断したのか、その付き人を殴り、付き人は口の中を切って13針を縫ってしまった。小林の行為を知った誠心会館の齋藤彰俊はプロレスとは何の関係のない"素人"を殴った小林に激怒、青柳に「弟子が殴られて黙っているんですか!」と抗議するが、青柳は新日本の契約選手だったこともあって「我慢してくれ」となだめるも、彰俊だけでなく、他の道場生もこれで納得するわけがなかった。
齋藤彰俊は格闘家になろうとして誠心会館に入門、長州力のファンだったもあってプロレスラー志望でもあった。1990年12月に剛竜馬のパイオニア戦志でプロレスデビューを果たし、その後W☆INGの旗揚げに参加するも分裂騒動に巻き込まれてしまい、分裂した一派はWMAという団体を準備し、彰俊もWMA側についたが、WMAは旗揚げすることもなく崩壊、彰俊自身も上がるリングを失って宙ぶらりんの状態になっていた。
16日の大阪府立体育会館で事件が起きた。小林が会場入りしようとすると、誠心会館の門下生が小林を襲撃し袋叩きにしたのだ。門下生の行動に青柳も困惑していたが、実は彰俊は仲介者を通じて現場監督の長州力と会い、小林の行為に関して抗議するため直談判していた。長州は小林の事件に関してはおそらく渉外を務めていた永島勝司氏から報告は受けていたはず、長州は"これは面白いものが生まれるかもしれない”と感じたのか、彰俊らに「ケンカしたければやれよ」と返答した。つまり誠心会館の襲撃は長州の承諾を得た上での行動で、おそらくだが長州も小林や青柳には敢えて彰俊らが襲撃をかけてくることを言わなかったのかもしれない。
誠心会館勢から襲撃を受けた小林は病院に搬送され口腔挫傷、頭部外傷、外傷性頭部症候群の重傷を負い大阪大会を急遽欠場、20日に新日本事務所で小林は首にコルセットを巻いた状態で会見を開き、道場生を殴ったことに関して謝罪はするが、闇討ちを仕掛けてきた誠心会館勢を非難し受けて立つ姿勢を見せる。青柳はこの事態を抑えるために23日に開催された誠心会館自主興行後楽園大会で、館長として彰俊を始めとす弟子たちをリングに入れ、弟子たち叩きのめして制裁、「オマエたち、目を覚ませ!」と新日本との全面戦争を辞めるように訴えるが、彰俊らも「館長こそ目を覚ましてください!新日本と決着をつけなければ、誠心会館は潰れます!」と譲らない。青柳は涙を流しながら「もう、わかった!俺を敵にまわしていいのなら新日本とやれ!」と弟子たちの覚悟に折れ、新日本との抗争を許し、92年1月4日の東京ドーム大会の第2試合後に彰俊を始めとする誠心会館勢が堂々と登場、挑戦状を読み上げることで新日本vs誠心会館の抗争に火蓋が切られた。
新日本は誠心会館への刺客として小林、越中詩郎、小原道由を差し向けた、小林は事件の当事者でもあるが、越中は高田延彦のキックを真正面から受けたことで受けの強さがあり、小原はケンカ強さを買っての起用で、特に小林と越中はジュニアの主役を獣神サンダー・ライガーに明け渡し、ヘビー級へ転向してから中堅として燻っていたことから、長州は小林だけでなく越中に、もう一度陽の目を与えたいと考えていたのかもしれない。
第1Rは1月30日の大田区体育館大会のメイン終了後の番外戦で行われ、小林が彰俊を迎え撃ったが、彰俊が正拳突きや膝蹴りのラッシュを小林に浴びせて流血に追い込めば、小林もアキレス腱固め、腕十字、マウントを奪って膝をグリグリ押し付けるなどして反撃、そしてリング下ではセコンド同士が乱闘を初め、小林のセコンドに着いていた蝶野正洋が誠心会館側のセコンドである田尻茂一にケンカキックを浴びせ流血、同じく新日本側の金本浩二も誠心会館側の襲い掛かり、相手を骨折させる。試合は小林の流血がひどいためレフェリーストップで彰俊が勝利を収めたが、セコンド同士の乱闘で誠心会館側は負傷者が続出したことで「油断したら死ぬぞ」と誠心会館側はプレッシャーをかけられる。長州は新日本vs誠心会館の継続を宣言、新日本側は小林が負傷したため、次なる刺客として小原を差し向ける。
第2Rの小原vs彰俊は2月8日の札幌で行われたが、大ブーイングの中入場した彰俊は小原のセコンドに着いた小林に「小林、どうした!」とマイクでアピールも、後入場の小原がリングインするなり、彰俊に襲い掛かりコーナーに押し込んで掌打、頭突きを浴びせるも、彰俊は正拳、膝蹴りで応戦、小原も柔道の引き出しを出して腕十字やパワースラム、アキレス腱固め、胴絞めスリーパーで反撃、サイドポジションから肘を落とすが、彰俊はハイキック、回し蹴りで反撃すると、再びセコンド同士が乱闘を始め、二人も巻き込まれると小原は誠心会館勢に襲撃を受けて流血、小原も構わず彰俊の上に乗って頭突きの連打を浴びせるが、彰俊は容赦なく流血した小原の額に正拳を浴びせ、回し蹴りが炸裂すると、小原はダウン、そのままKO負けとなって担架送りになり、試合後もセコンド同士が乱闘となってしまう。第3Rは2月10日の名古屋レインボーホールで行われ、今回はトルネード形式のタッグマッチということで小林は越中、彰俊は田尻をパートナーに起用も、この日がプロレスデビューだった田尻を小林と越中が狙い打ちにされ、越中が腕十字、バックドロップからスリーパーで田尻を絞め落としTKOで新日本が一矢報い、試合後も小林と越中が彰俊に襲い掛かったため、遂に抗争では新日本側に立っていた青柳が彰俊に加勢、弟子たちに合流して新日本vs誠心会館の抗争はますます激化していく。
第4Rは2月12日大阪府立臨海スポーツセンターで越中が彰俊を迎え撃ったが、打たれ強さで定評のある越中を回し蹴りからの膝蹴りでKO勝利する。第5Rの3月9日の京都大会では小林と越中が組んで青柳、彰俊の師弟コンビと対戦したが、小林の顔面蹴りが彰俊の目に入り、レフェリーがダメージが大きいとして彰俊のTKO負けを宣告、だが誠心会館勢が納得しないため、来原圭吾を代役にして延長戦が行われたが、この日がプロレスデビューだった来原を小林が攻め立て胴絞めスリーパーで絞め落とし、新日本が勝利を収める。
そして誠心会館は看板をかけて1vs1による完全決着戦を要求、4月30日の両国国技館で小林vs彰俊、5月1日の千葉ポートアリーナ大会で越中vs青柳が行われたが、小林vs彰俊は両者流血戦の末、小林がチキンウイングアームロックで彰俊からギブアップを奪って、誠心会館の魂である看板を奪取、5・1千葉では青柳も看板奪還に向けて攻め立てたが、越中の急角度のバックドロップからドラゴンスープレックスでKO負けを喫し看板奪還はならずも、長州は控室で彰俊に「オマエ、素晴らしい格闘家だな、お前達にこっちが教えられることが多かった」と看板を返却、長州も彰俊を見て"素晴らしい素材だ”と高く評価しており、新日本に殺気ある戦いを呼び戻してくれたことでの感謝の意を込めての返却であり、彰俊も自身がファンだった長州自ら認めてくれたことで感動して涙を流して返却に応じ、これで新日本vs誠心会館の抗争は幕が閉じたかと思われた。
この決着の仕方に青柳が納得いかず彰俊に「看板を返して来い!」と激怒、青柳はあくまで勝って看板を奪還することにこだわり再戦を要求、彰俊も仕方なく看板を新日本に返却する。だが新日本も決着がついているとして再戦を拒み、青柳も長州の側近だった馳浩を通じて再戦を頼んだが応じることはなかった。そこで誠心会館は6月9日の名古屋国際会議場大会で越中と小林に対して再戦をして欲しいとメッセージを送った。新日本としてはこの再戦は猛反対だったが、越中と小林が独断で名古屋に乗り込み、小林vs青柳が行われ、試合は両者レフェリーストップとなるも、小林は看板を返却、青柳も涙を流して応じて、これで決着かと思われていた。ところが新日本の選手会が小林だけでなく選手会長である越中が独断で行動したことを蝶野が糾弾したことで、越中が選手会長を辞任して選手会を脱退、小林も同調するが、元々蝶野と越中は折り合いが悪かったことも越中が選手会を脱退した原因の一つだった。ベテランの木村健悟も選手会と越中の仲介役になろうとしたが、新しく選手会長に就任した蝶野から越中側と見られてしまい、怒った木村も選手会を脱退して越中に合流、そこで青柳や彰俊が加わり、新ユニット『反選手会同盟』を結成、反体制として新日本本隊と抗争を繰り広げた。
後年青柳は「齋藤のプロレスの原点は新日本との対抗戦ですよ」と答えていたとおり、彰俊はこの新日本vs誠心会館の抗争をきっかけにプロレスのメジャーシーンに乗った。ほんの些細なことからだったが、些細なことがきっかけにプロレスラーとしてデビューすることが出来た。新日本との抗争がなかったら現在の彰俊はなかったのかもしれない。
その後『反選手会同盟』は勢力を拡大して『平成維震軍』となるも、蝶野が同じ反体制にまわって『狼群団』『nWoジャパン』を率いたことで新日本に一大ムーブメントを起こしたことで、『平成維震軍』の存在は影が薄くなり、彰俊は解散目前の1998年に新日本との契約を更新せず退団、名古屋に戻ってスナックを経営するも、彰俊の素質を惜しんだ青柳が旗揚げしたばかりのNOAHに参戦するために彰俊を誘い二人は参戦、そこで秋山準と出会いパートナーに抜擢され、GHCタッグ王座を奪取、そのままNOAHの所属となり、2004年10月24日には大阪府立体育会館大会で小橋建太の保持するGHCヘビー級王座に挑戦、王座奪取はならなかったが、シングルプレーヤーとしてもトップの一角に食い込んだ。三沢光晴の不慮の事故も経験するも、現在は丸藤正道とのタッグでGHCタッグ王座を奪取、現在でもベテランとしてNOAHのリングに上がり続けいる。
(参考資料 日本プロレス事件史Vol.11 新日本プロレスワールド 2・8の札幌の彰俊vs小原、3・9京都の越中&小林vs青柳&彰俊、4・30両国の小林vs彰俊は新日本プロレスワールドで視聴できます)
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小橋健太が初めて三冠ヘビー級王座を奪取した夏…そして新しい必殺技、剛腕ラリアットはこうして誕生した!
1996年9月5日、全日本プロレス日本武道館大会で三冠統一ヘビー級王者となっていた小橋健太がスタン・ハンセン相手に初防衛戦を行った。「96チャンピオンカーニバル」では6位に終わった小橋は上位に食い込めないどころか、同期である田上明にチャンカン優勝を先越され、内容は残せても結果に繋がらないスランプの状態が続き、四天王の中ではまだ三冠王座を戴冠していなかったことがあって小橋は焦りを募らせていた。その矢先に5・23、24の札幌二連戦のカードが発表されたが決定を見た小橋は愕然としてしまう。23日は世界タッグ王者である川田利明&田上明への挑戦に三沢光晴のパートナーにデビューして3年目の秋山が抜擢され、24日にはチャンカンではベスト4にも残れなかったのにも関わらず川田との三冠王座挑戦者決定戦が組まれていたからだった。
三沢は小橋とのタッグに関しては前年度の最強タッグから解消を示唆していたのに対し、小橋は三沢とのタッグは継続を望み、挑戦者決定戦に関しても自分より上位に入っているハンセンが入るべきなのではと考えていた。しかしカードを決めるジャイアント馬場も"そろそろ小橋は一本立ちさせるべきだ"と考えており、三沢も小橋とのタッグを解消しようとしていたのも"小橋が悩んでいるのも、甘えがあるからのでは"と考え、挑戦者決定戦も上位には食い込めなかったがリーグ戦ではスタン・ハンセンやスティーブ・ウイリアムスに勝っている実績を考えた上での起用だった。だが自分の知らないところでカードを決められたことで、小橋はますます悩んでしまい。札幌2連戦前日には小橋は「今後自分は誰と組んでやっていけばいいんですか」と馬場に直談判するも、馬場は「まあ待て」としか答えてくれなかったのもあって"突き放された"と思い込んでしまった。馬場にしても"もう自分の考えで動くべきだ"と考えて、敢えて小橋を突き放したのだろうが逆効果となってしまい、小橋は酒を溺れるように飲み荒れ、その気持ちが試合に出てしまったのか24日の川田戦は敗れ、三冠王座戦線から大きく後退、また田上も三沢を破り三冠王座を奪取したことで、田上と小橋との差はますます開いてしまったかに見えた。
田上は6・7日本武道館大会で川田を破り王座を防衛したが、「サマーアクションシリーズ」では小橋の三冠挑戦が決定する。これも事前に小橋へ相談もなく全日本側が一方的に決めたカードだったが、次期挑戦者がハンセンやウイリアムスでは武道館のメインは難しいと考えただけでなく、悩める小橋に荒療治が必要と考えた上で組んだのだろうが、挑戦者決定戦でも川田に敗れていた小橋は自分は挑戦者に相応しくないと考えていたことから、この決定にも乗り気ではなく、また「会社は俺を"咬ませ犬"にしたいのか」「三冠ベルトの価値はそんなに安いものなのか」「会社にとって、俺の価値はそんなものなのか」と疑念さえ抱くようになった、その最中に7・11博多で小橋は秋山とシングルで対戦、試合は30分フルタイムドローとなるが、秋山から「僕の中では、『小橋さんなら』というものがありますから、どんな状況であっても、小橋さんなら三冠に挑戦する資格が十分にあると思う。そこできっちり勝利してベルトを巻いて欲しい」とエールを貰い、小橋自身も「負けたらここでの居場所はない」と腹を括って、7・24武道館で田上に挑戦、田上のダイナミックキックを顔面に受けて左目を負傷しながらも、田上の後頭部めがけてダイビングギロチンドロップを投下して3カウントを奪い念願の三冠王座を奪取も、実はダイビングギロチンを放った際に臀部を強打、そのショックで小橋の意識も飛んでしまい。王座奪取をコールされても何が起きたのか、まったく把握していなかったという。
小橋は全日本時代からムーンサルトプレスを使っていたが、自爆や剣山で迎撃されると自身のへのリスクが高いため、チャンピオンカーニバルからダイビングギロチンドロップをフィニッシュに使うようになっていた。田上との三冠戦でダイビングギロチンも、自身の対するリスクが高くて使い物にならないと判断した小橋は、新しい必殺技を模索しなければならなくなったが、そこで考えたのがラリアットだったのだ。
小橋は7・5大阪での6人タッグマッチでラリアットでパトリオットから3カウントを奪い勝利を収めていたのだが、まだこの時点では繋ぎ技としか考えていなかった。9・5武道館では初防衛戦の相手にハンセンが決定したが、"小橋にまだ三冠王座は早い"という声もあって、メインは三沢&秋山組vsウイリアムス&ジョニー・エースの世界タッグ選手権となり、小橋vsハンセンの三冠戦はセミで扱われた。この決定を受けた小橋はメインを上回るには内容だけでなくインパクトも与えなければならないと考えていた。そんなある日、小橋がラリアットをフィニッシュに使いたいと考えていることが伝わったのか、外国人係だったジョー樋口を通じて小橋はハンセンから秘かに控室に呼び出されていた。小橋は一番懸念していたのは自身の必殺技であるウエスタンラリアットに誇りを持っているハンセンからのNGで、ハンセンも長州力と対戦してリキラリアットを喰らってもフォール負けを許さなかったことで、自身の必殺技にプライドを持っていた。そこでハンセンから出た言葉は「ラリアットはコバシが使うなら構わない、でも乱発はしないでくれ。乱発するなら本当のラリアットではない、使うなら一発で決めろ!」と了承どころかアドバイスを受けた。ハンセンからOKを貰ったことで、小橋も自身がラリアットを何度を喰らった経験を生かしてアレンジを加え、剛腕ラリアットを作り上げた。そして9・5武道館ではハンセンが小橋の保持する三冠王座に挑戦、左腕のサポーターを外したハンセンがウエスタンラリアットを狙うが、かわした小橋はバックドロップから剛腕ラリアットを炸裂させ、1発目はカウント2でキックアウトされたものの、ハンセンのビックブーツを喰らった後で、すぐさま2発目の剛腕ラリアットが炸裂して3カウントを奪い王座を防衛、この試合でラリアットの名手であるハンセンからラリアットでフォールを奪ったという大きなインパクトもあって、小橋の剛腕ラリアットがフィニッシュとして定着した。
ハンセンはこの試合を最後に三冠王座戦線から撤退し、2度と挑戦することもなかった。皮肉にも小橋のラリアットがハンセンに引導を渡す結果となってしまったが、今思えばハンセンもピークを過ぎてしまっていたことから、小橋にラリアットを託したのは"自分のラリアットを引き継ぐのは小橋しかいない”と考えていたからのではないだろうか、それ以降は小橋もラリアットをムーンサルトプレスに次ぐ自身の代名詞的技となり、バーニングハンマーが誕生するまでは、小橋はラリアットをフィニッシュとして使い続けた。小橋も引退し、ハンセンのラリアットは新日本プロレスの小島聡に伝承されたが、小島も「乱発するなら本当のラリアットではない、使うなら一発で決めろ!」という考えはしっかり受け継いでいるはず、「ラリアットを使うなら一発で決めろ!」という考えが残っている限りは一撃必殺のラリアット伝説は永遠に受け継がれていく。
(参考資料=小橋建太、熱狂の四天王プロレス) -
アントニオ猪木vsマサ斎藤 巌流島の決闘② 命がけの2人が見せた究極のプロレス芸術
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2018年8月2日アントニオ猪木とマサ斎藤が巌流島で対戦する。マスコミも大体的に報道するも、本当に実現するのかプロレスファンだけでなくマスコミも半信半疑で、誰もが猪木の冗談かその場限りのビックマウスかと思われていた。だが"猪木降ろし"に動いていたはずのテレビ朝日が一転して猪木の提唱する巌流島の戦いを推進する。「ワールドプロレスリング」が秋から火曜8時から月曜8時への移行するのあたって、移行第一弾として長州力のテレビ復帰を特番で放送することが決定していたが裏番組は「ザ・トップテン」「水戸黄門」など強力な番組もあったため、長州のテレビ復帰戦では心もとないと考えたテレ朝側が猪木の巌流島決戦を視聴率を稼げる美味しい素材と考えていたのだが、結局新日本やテレ朝も猪木が邪魔だとしても、最終的に頼るべき存在は猪木しかいなかったのだ。
巌流島決戦は10月4日に決定、ワールドプロレスリングの特番も5日に決定していたことから、前日の開催となった。巌流島は現在船島と名づけられ、人すら住んでいない単なる無人島と化していた。猪木は「オレはこの試合をプロレス最大の試合にしたい、そして最大のメモリアルにしたい。そうなるのは間違いない。オレにとりゃ果し合い、誰にも邪魔されたくない、観客もマスコミもシャットアウトしたい、そしてノーリングだ。野原の決闘だ!賞金20万ドルだ!」と意気込んでいたが、「誰にも邪魔されたくない」「ノーマスコミ」はテレビ朝日の思惑には振り回されたくないという意味も込められていたと思う。だが猪木の要求は全て通ったわけでなく、副社長の坂口は観客のシャットアウトは認めたが、賞金マッチやマスコミのシャットアウトは難色を示した
そして後日、ルールと試合要項が決定しマスコミに発表された。
①決闘場所=山口県下関市船島(巌流島)
②試合時間は10月4日、日の出とともに、お互いに臨戦態勢に入った時点で試合開始とされ、時間無制限
③リングは使用するが横50m、縦100mの草地ならどこでも闘っていい
④反則自由のデスマッチ
⑤KOかギブアップ。あるいは立会い人が危険と判断した時に、TKOとする。
⑥もしもリング外でKOされたら、負けた者はリングに上げられて、恥を晒す。勝ったものは勝ち名乗り
⑦台風でも結構。
⑧見届け人は山本小鉄、坂口征二
⑨マスコミは各社1名、カメラマン2名試合形式は現在でいうエニウェアマッチやハードコアデスマッチ近い部分もあることから、そういった意味ではこの巌流島決戦がハードコアルールの原点なのかもしれない。立会い人を務める山本氏が「急所を狙おうが、目を突こうが、マイッタ(ギブアップ)するまで闘う。砂利を拾って投げようが構わない、古代パンクラチオンと同じ」と説明したように、猪木も坂口や山本氏も、このルールで試合をするのは最初で最後なだけに、場合によっては一線を越えかねないと考えていたのではないだろうか…。またノーマスコミだけは最終的に人数を限定することで猪木も妥協、東京スポーツも決戦まで連日に渡って巌流島決戦の記事を掲載したが、この時点で世代闘争より巌流島決戦の方が話題性で上回っていた。ニューリーダーたちは巌流島決戦に不快感を示し、特に自身が考えた巌流島決戦を猪木にパクられた藤波は巌流島決戦に対して「同日に伊豆大島で長州と闘う」とブチ撒けて反発の意志を見せたものの、藤波が普段慎重居士のイメージが強かったこともあって、猪木と比べてインパクトに欠けてしまい、マスコミもあまり相手にしなかったが、ニューリーダーたちも巌流島を意識せざる得ないというのが本音だった。
10月4日の7時ににマスコミや関係者も巌流島に上陸、日の出は6時11分だったが肝心の猪木と斎藤はまだ上陸していなかった。前日に野営でもしたら両者共体調不良になるという配慮でホテルで待機していたものの、二人はなかなか上陸せず時間だけが過ぎていった。実は猪木は39度の高熱となって点滴を受けるだけでなく、氷風呂に入って身体を冷やすなどして高熱を下げ、じっくり身体を休めていたという。新日本が前日に野営させず、ホテルで待機させたことが結果的に良かったのかもしれない。そして軽い食事を取った猪木は用意された筆と半紙で遺書を書くも、実は後になってあることに決着をつけており身辺も整理して、巌流島の決戦に望んでいたのだが、その"あること"とは後で知ることになる。付き人だった船木優治と大矢剛功、秘書の坂口泰司を従えて大きなタオルを目出し帽のように頭からかぶって、斎藤より先に巌流島に上陸し用意されたテントの中に入って待機、1時間半後に遅れること斎藤も巌流島に上陸して用意されたテントの中に入ったが、既に試合開始とされた夜明けは過ぎて、時間は午後4時となっていた。
山本立会人から試合開始は4時半とされ、時間となって試合開始となるも、両者はテントから出ず、先に斎藤がテントから出てリングで待ち構えたが、猪木が現れないため一旦テントへと引き揚げ、しばらくして斎藤がテントから出ると「猪木!」と叫んでリングに上がり、やっとテントから猪木が登場するも、なかなかリングに上がらないため、斎藤も「どうした!」と叫ぶが、猪木は斎藤を焦らすようになかなかリングに上がらないどころか、またテントへと引き揚げる。斎藤が焦れたかを見計らって猪木は再び現れると斎藤も現れ、やっと戦闘を開始、そしてマスコミが用意したヘリが一台飛び始め、空から空撮を始める。二人はリングを離れて草地へと移動し、猪木が長時間にわたってヘッドロックで絞めあげれば、斎藤はスリーパーから首四の字で捕らえる。そしてリングに戻ると猪木がバックドロップで投げる。
夕方の6時となって日没となったため、リングの周りの4隅に設置されていたかがり火が点火されると、再び二人は草地へと移動、互いにヘッドロックで絞めあげるが、斎藤がヘッドロックで捕らえたところで、猪木がかがり火に斎藤を叩きつけ、かがり火が倒れて火の粉が飛び交う。当時はまだデスマッチが認知されていなかったこともあって、自分もこのシーンは衝撃を受けた。そして猪木は斎藤に頭突きを連発して流血させると、リングに上がってナックルを打ち込み、草地へ降りても猪木はナックルの猛打を浴びせるが、斎藤は苦し紛れに薪を取って猪木を殴打、リングの鉄柱に猪木を叩きつけて、頭突きを打ち込んでいくも、猪木は薪を取ってかがり火のほうへ向かうも、足がもつれて転倒したところで、斎藤は頭突きを連発し猪木も流血する。
猪木は斎藤をリングに上げてブレーンバスターで投げ、再びリングに降りるとしばらく歩いてから疲れが出たのか、膝をついてしまうと、斎藤が起き上がり「猪木!まだだ!」と叫んで、猪木にとびかかって頭突きを連打、鉄柱にぶつけてからリングにあげ、得意のサイトースープレックスを決めるも、猪木も起き上がって「死ぬまで闘うぞ!」と叫んで延髄斬りを一閃、だが斎藤はエプロンに置かれていた薪を取り出すと、猪木を殴打して再びサイトースープレックスで投げる。
斎藤はこれで猪木は敗れたかと思ったが、猪木が起き上がり、斎藤はラリアットを狙うも、猪木はドロップキックで迎撃、そして二人は再び草地へ転がり落ちるように降り、頭突きを乱打する斎藤を、猪木が晩年フィニッシュにしていた魔性のスリーパーで捕獲、絞め落としたと確信した猪木は夢遊病者のように出口へ向かう。ルールでは出口に出た瞬間猪木の勝ちとなる。意識は朦朧としていながらも猪木はまだルールは把握していたのだ。その前に山本氏が倒れ込んでいる斎藤の意識を確認、戦意喪失しているのを確認して試合はストップ、坂口が「殺し合いじゃないんだ、あれ以上、斎藤は戦闘不能、見届け人の権限で試合をストップしました」と説明、猪木の勝利で2時間5分14秒にわたる死闘を終えた。猪木は出口へ向かう途中倒れ、意識を朦朧としていたためか方向感覚を失い、出口とは違う方向へ歩き出すも、やっと出口に辿り着き、船着場で待たせたあった船に乗り込み、付き人だった船木や大矢と共に巌流島を離れたが、猪木も鎖骨、斎藤も肩甲骨を試合中に骨折しており全身はガタガタ、気力も使い果たして二人共精根尽き果てていた。斎藤は後日「巌流島はシュートだった」と答えていた。現代ではDDTや大日本プロレスなどがハードコアマッチや路上プロレスなどが行われているが、猪木vs斎藤の巌流島は慣れない試合形式を二人が真剣に命がけ挑んだ意味ではシュートだった、また派手な技はバックドロップやブレーンバスターのみ、主な技はパンチや頭突き、そして絞め技と原始的なものばかり、また見ていたのもマスコミや立会人だけだったということもあり、二人は客を意識することもなく、猪木は自分がやりたかったプロレスを命がけでやった。当日はどうしても二人の死闘を見たくて巌流島に上陸しようとしていたファンもいたが、おそらく観客などいたら二人は"プロレス"をやっていたかもしれず、考案者とされた藤波は長州と巌流島で命がけのプロレスをやることが出来ただろうか・・・、巌流島は猪木にとって究極のプロレスであり、猪木と斎藤でしか出来ない究極のプロレス芸術作品だった。
巌流島は翌日のワールドプロレスリングの特番で放送されたが、先に長州力のテレビ復帰戦が行われ、藤波か前田、どちらかを相手にするかコイントスで決められることになったが、コインがマットに落ちた瞬間に長州が藤波に襲い掛かって、長州vs藤波となるも、2度にわたる延長戦の末、向こう試合となり後味の悪い結果に終わったことで大きなインパクトを与えることが出来ず、巌流島を上回ることが出来なかった。そして16日に猪木が長年に渡って連れ添っていた倍賞美津子との離婚が巌流島決戦直前に成立していたことが明らかになり、またしても猪木に話題の中心を持っていかれることになる。離婚が報道された3日後の19日に静岡大会、長州は藤波と組んで猪木&X組と対戦したが、猪木はまだ若手だった山田恵一を抜擢したことで、長州は"世代闘争はこの辺が潮時"と考え、藤波と仲間割れすることでフライングし、自ら掲げた世代闘争に自分自身で幕を閉じ、猪木の思惑通り世代闘争は終焉となったが、猪木が一歩引いて長州が新日本を仕切るようになるのは、もう少し先のことだった。
斎藤はアメリカマットがテリトリー制が崩壊したことで、日本での定着を余儀なくされ、長州と共に次第に体制側へと入り、長州が現場監督に就任すると、斎藤は外国人選手のまとめ役である外国人ブッカーに就任、長州は普段外国人選手との交流があまりなかったことから、斎藤にまとめ役を依頼したものだったが、斎藤は外国人選手のまとめ役だけでなく、選手発掘やWCWのパイプ役となり、現役選手としては1990年2月10日の東京ドーム大会ではAWA世界ヘビー級王座を奪取、ジャンボ鶴田に次いで二人目の日本人王者であり、シングルで初めてビックタイトルだった。斎藤は1999年2月まで現役を続けながらも、外国人ブッカーとして長州だけでなく新日本プロレスを支えた。その斎藤も今年である2018年7月14日に死去、猪木は本葬には駆けつけなかったが、通夜には斎場の前までは駆けつけ、倫子夫人へのお悔やみの電話だけに留まり、お通夜の会場近くに車を寄せてくれて斎藤を見送った、猪木は車の中で巌流島の戦いを振り返っていたのかもしれない。二人が最後に会ったのは佐々木健介引退記念パーティーの席上で猪木は斎藤との再会を喜こぶも斎藤はタックルを浴びせ、猪木も頭突きで返してエールを交わし合い、最後に猪木は「いつか焼肉を食べに行こう」と約束して別れたという、猪木は「抱きついたらあの野郎タックルしてきやがった」って笑えば、斎藤は「アントニオ猪木がいきなり頭突きをかましてきたんだよ」と答えていたが、二人は引退してもライバルであり、斎藤が亡くっても、二人でしかわからないライバル関係はいつまでも続く…
(参考資料 日本プロレス事件史Vol.18 マサ斎藤著「プロレス『監獄固め」血風録)
追記
最後に斎藤さんのインタビューが掲載されているGスピリッツVol.40が物置から出てきた、これはおそらく斎藤さんにとって最後のインタビューであり、巌流島に触れたのもこれが最後なったと思う。「それを(巌流島)をアントニオ猪木の相手として出来るやつなんていないじゃん。俺しか出来ないんだよ、それをアントニオ猪木が見抜いて、俺を選んだ。(中略)アントニオ猪木も俺も…お互いの鬱憤をリングにぶつけ合って、その結果がああいうことになった。」
-観客不在の状況でよくモチベーションを持続できたなと
「簡単よ、無になればいいんだよ。リングさえあれば、どこだっていいんだよ。戦えば。こっちだって慣れたもんだよ。リングの中だけでなく外であろうと、どこでも戦える。アントニオ猪木もそう。でも、その真似は誰も出来ない」「あの時はハイになった。ハイで戦って。ふと気づいたら闇夜になっていてたいまつに火がつけられて…あれで余計にハイになった」
「アントニオ猪木のキックで骨が折れて、アントニオ猪木は鎖骨を折ったはずだよ。最後はスリーパーホールドで負けたけど、悔いはなかった。試合後、病院に運ばれて、額を縫って、胸をチェックしてもらってホテルに戻ったけど、ビールを50缶も飲んだんだ。2時間5分も戦って脱水症状になっているし、身体中痛いんだよ、だからガンガン飲んで、山本小鉄ちゃんが俺の部屋に来て、一緒に飲んだけど酔えなかった」
「巌流島はプロレスをやったよ、ああいうプロレスをやりたかったんだ。あれはやったものじゃないと、わからないよ。」
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アントニオ猪木vsマサ斎藤、巌流島の決闘① 全ては世代闘争への反発から始まった
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2018年8月2日1987年10月4日、宮本武蔵と佐々木小次郎の決戦の場である巌流島でアントニオ猪木がマサ斎藤と一騎打ちを行った。
同年3月、ジャパンプロレスから新日本プロレスへのUターンを目論んだ長州力が先兵としてマサ斎藤を送り込み、猪木は斎藤と3度に渡って対戦して全て勝利を収めたが、3度目の対戦となった6月12日両国で行われた第5回IWGP優勝決定戦後に、長州が「藤波、前田!今こそ新旧交代だ!、藤波、前田、今しかないぞ!俺達がやるのは!」と世代闘争を藤波辰己、前田日明に呼びかけ、スーパー・ストロング・マシンや木村健悟も呼応、猪木も「受けてたってやる、てめえら力で勝ち取ってみろ!」応じることで世代闘争が勃発、猪木&斎藤&坂口征二&藤原喜明&星野勘太郎率いるナウリーダーと、長州&藤波&前田&マシン&木村のニューリーダーと世代交代をかけた抗争が勃発した。
実は世代闘争はテレビ朝日側のアイデアで、「ワールドプロレスリング」は金曜8時から撤退し、「ギブアップまで待てない!ワールドプロレスリング」とタイトルを改めて火曜8時に移行していたが、移行時のバラエティー色がファンに受け入れられず、視聴率は一桁台に低迷、視聴率回復の切り札として新日本にUターンした長州も全日本や日本テレビとの契約がクリアされないため、テレビの画面に映ることはあっても試合を放送することが出来なかった。そこで考えたのが世代闘争で、猪木率いる正規軍、長州率いる長州軍、前田率いるUWF軍の三つ巴では視聴者に伝わりにくい、二つに編成してわかりやすさを全面的に押し出そうして視聴率回復を目論んでいた。長州も猪木を押しのけてトップに立ちたいだけでなく、"新日本へUターンしたからには大きなインパクトを残したい"と考えていたことからテレ朝の考えに乗り、IWGPを途中欠場していた藤波、前田とも会談して共闘へ向けてしっかり根回しをして、"いつまでも猪木の時代ではない”と意見が一致、共闘へ向けて合意に達した。やる気となったニューリーダーに対し、猪木は「なんで若い連中を引き立ててやる必要があるのか?」というのが本音で、世代闘争には乗り気ではなかった。理由は世代闘争は"猪木降ろし"の意味が込められていたことが猪木にはわかっていたからだった。この頃の新日本プロレスは1983年の「クーデター事件」からテレビ朝日に主導権を握られており、「猪木ではもう視聴率は稼げない」「長州と藤波にバトンタッチすべきだ」という声がテレ朝側だけでなく新日本内部にも出始めていた。猪木はテレビ朝日やニューリーダー達に新日本を任せる気はなかったものの、この頃の猪木はレスラーとしてのピークが過ぎたことでの体力の衰え、事業であるアントンハイセルの経営破綻、夫人だった倍賞美津子との離婚問題などを抱え、心身ともに体調もベストではなかったこともあって、世代闘争を潰す手立てを見出せていなかった。だが世代闘争に乗り気でなかったのは猪木だけでなく斎藤も同じで、これまで反体制として長州と組んで体制側に噛みついてきたが、猪木と組んで長州と対戦することにはピンと来なかった。
8・19、20と「サマーナイトフィーバーイン・両国」が開催され、メインは猪木率いるナウリーダー(猪木、斎藤、坂口、藤原、星野)vs長州率いるニューリーダー(長州、藤波、前田、マシン、木村)による5vs5のイリミネーションマッチが組まれたものの、ナウリーダーの副将格の斎藤がパスポートの不備でアメリカから出国できなくなったことを理由に欠場、代役には次世代の武藤敬司が抜擢されるたが、斎藤が無理にでも参戦しなかったのは、世代闘争に乗り気でなかった表れかもしれない。肝心のイリミネーションマッチも、猪木が長州や藤波、前田とも絡ましなかったことで、猪木との対戦を狙う新世代に対して冷や水をかけてしまう。猪木はやっと前田と対峙するも、ヘッドシザースを仕掛けて場外心中を図って両者オーバー・ザ・トップロープで失格となり、長州と藤波は残った武藤に集中攻撃をかけ、藤波がジャーマンスープレックスで勝利を収める。20日のタッグマッチでも藤波と組んだ長州は猪木のパートナーである武藤をバックドロップで仕留め、結果的にはニューリーダーが連勝も、この時点でもまだ長州のテレビ登場はクリアされていなかったことから、ビッグマッチにも係わらずノーテレビとされ、肝心の対戦でも猪木が前面に出なかったことで、新世代の勝利もインパクトに欠けたものになり、長州にとっては満足のいくものではなかった。
8月24日から開幕した「戦国合戦シリーズ」も斎藤がが入国ビザのトラブルを理由に欠場するが、7日の京都大会に斎藤が突如現れが猪木と会談し「なんで20年間、一匹狼でアメリカで生き抜いてきたオレがニュージャパンの体制に入らなければならないんだ。猪木を倒すことが目的なんだから。今度こそ最後の勝負に挑みたい」と直談判する。猪木と斎藤は東京プロレスからの仲で、同年齢だったこともあって、互いにリスペクトし合っていた仲でもあったが、斎藤は常に猪木をライバル視しており、これまで新日本に上がって敵対してきたのも、常に猪木を追いかけてきたからだった。だからこそ長州の推進する世代闘争には乗り気になれず、中途半端な気持ちで猪木と組むどころか、長州とも対戦できないと考えた上での行動だった。
そこで猪木が「巌流島で闘うなら、斎藤の挑戦を受けてやろうじゃないか!」斎藤に対して巌流島の決闘を提案する。世代闘争を潰すための手立てを見出せなかった猪木にとって斎藤の要求は良いタイミングだったに違いない。猪木は"長州らと戦うより、オレと斎藤にしか出来ない究極を戦いをすることで、長州ら新世代だけでなく、オレを降ろしたがるテレビ朝日にも意地を見せるために巌流島の対戦をぶち撒けたのだが、実は巌流島の対戦は藤波のアイデアで長州とやろうとしていたものだったが、猪木が頂いてしまったものだったのだ。
猪木の巌流島発言に"世代闘争を無視している"としてニューリーダー達が猛反発するものの、藤波が「誰が闘いというのはレスラーの自由」と容認する発言をする。猪木の首一つを目的として長州、藤波、前田は結束してきたが、長州がテレビ問題がクリアされていないこともあって藤波にニューリーダーのまとめ役を任せていたものの、藤波が長州と共闘した理由は心身共に体調が良くない猪木を気遣っていたことで、猪木を押しのけてトップに立つ野心は薄く、前田も世代闘争ではなく個人闘争を求めていたこともあって、ニューリーダーらの足並みが乱れ始めていた。9・17大阪でのイリミネーションマッチの再戦ではニューリーダーは欠場の木村健悟の代わりに高田伸彦を抜擢、対するナウリーダーは前回出場しなかった斎藤は出場も、首を負傷した星野に代わり、既に試合を終えていたディック・マードックを抜擢、マードックも猪木の期待に応えて、開始早々長州と場外心中を図って失格、前田も斎藤の監獄固めに捕獲されギブアップで失格してしまう。最終的にはナウリーダーは猪木と斎藤、ニューリーダーは藤波だけが残り、二人は大流血となった藤波を競うように痛めつけるが、斎藤がとどめのバックドロップを決めたところで、猪木が張り手でカットして藤波をカバーして勝利、試合後に猪木と斎藤が口論となる後味の悪い終わり方となったが、この時点で二人は巌流島決戦に目を向けていた。(続く)
(参考資料 ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.25 マサ斎藤著『監獄固め』血風録) -
衝撃のKO劇や暴動…アントニオ猪木vsハルク・ホーガン戦の謎
1983年6月2日、テレビ朝日系列で放送されていたスポーツ生情報番組「速報!TVスタジアム」にて、第1回IWGP優勝決定戦でハルク・ホーガンと対戦していたアントニオ猪木がロープ越しのアックスボンバーを受けてKOされ、病院に搬送されたことを、蔵前国技館から駆けつけた古館伊知郎氏が速報と伝え、新聞だけでなくテレ朝以外の他局にも報道されたことで、大きなインパクトを与えた。自分も学校で猪木がホーガンに敗れて病院送りになったことで話題が持ち切りとなり、自分も3日放送された「ワールドプロレスリング」で猪木がホーガンのロープ越しのアックスボンバーを受けて場外でダウンして立ち上がれず、担架送りされたシーンを見たが、まるで"猪木が死んだ"と思わせるような感じで今での脳裏に憶えている。しかし後年になって猪木の失神KOは自作自演だったことが、いろんな形で伝えられたが、なぜ猪木がハッピーエンドを臨まなかったのだろうか…1980年に異種格闘技戦にひと段落をつけた猪木が"プロレス界における世界最強の男を決める、"世界中に乱立するベルトを統合し、世界最強の統一世界王者を決定する"とIWGP構想を掲げたが、当時の新日本プロレスは世界最高峰のプロレス組織であるNWAに加盟していたものの、NWA世界ヘビー級王者のブッキングは全日本プロレスに独占され、また猪木が権威を高めてきたNWF世界ヘビー級王座も、NWA加盟に当たってベルトから世界を外され、NWAから新日本内のローカルタイトルとして扱われた。NWAから冷遇された猪木は今後どうするかを当時の腹心だった新間寿氏に意見を求めると、「簡単じゃないですか。NWAの上にいくやつを創りましょう。創れるか創れないかではなく、創ればいいんですよ」と提案、それがIWGPの始まりだった。
猪木はIWGPを提唱するためにNWF王座を始め、新日本が管理する全てのヘビー級タイトルを封印、新日本のリングで日本人を中心としたアジア予選がスタートし、IWGPの主旨に賛同という名目で全日本からアブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー戸口を引き抜いた。しかし開催に向けて順調に進んでいたわけではく、猪木は事業にのめりこみ始め、糖尿病も患って昭和57年には2度に渡って欠場、また新日本のトップ外国人選手だったスタン・ハンセン、タイガー・ジェット・シンが全日本に引き抜かれてしまった。そして事業も上手くいかず猪木は資金繰りに追われ、新日本から資金を流用したことで、フロントだけでなくレスラーからも不満が噴出、コンディション調整も万全でないまま、念願だったIWGPを迎えざる得なかった。
1983年5月にIWGPが開幕、当初は世界ツアー規模でリーグ戦を行い、決勝戦をニューヨークMSGで行う構想を掲げていたが、開幕戦を行うはずだった日本での開催に留まり、日本からは猪木、キラー・カーン、カナダからアンドレ・ザ・ジャイアント、ディノ・ブラボー、アメリカからハルク・ホーガン、ビッグ・ジョン・スダット、メキシコからエル・カネック、エンリキ・ベラ、ヨーロッパからはオットー・ワンツ、ヨーロッパヘビー級王者として凱旋した前田明の10選手が参戦したが、予選リーグを開催していたのは日本とメキシコだけで、他は新日本と提携していた団体から選手を派遣されたに過ぎず、NWAも全日本プロレスが「IWGP王者は新日本プロレスのローカルチャンピオンである」と見解を示したことで、「世界各地の王者を日本に招いて世界最強のチャンピオンを決定する」というものにトーンダウンしてしまった。またブラボーもリーグ戦を行わないまま家庭の事情で緊急帰国し、代役としてラッシャー木村が急遽エントリーするハプニングも起きていたが、当時の新日本の絶大な人気もあって連日超満員札止めを記録、IWGPは大いに盛り上がっていった。
開幕戦では猪木がアンドレに反則負けで黒星スタートを喫したことで、優勝戦は猪木vsアンドレになるのではと思われていたが、ハンセンの全日本移籍を契機にのし上がってきたホーガンがトップグループに食い込み、猪木、アンドレ、ホーガンの争いとなっていったが、リーグ戦の最中にも猪木は事業の資金繰りや内部からの突き上げに追われ、また糖尿病を患ったことをきっかけにレスラーとしても下り坂に差し掛かり、また長州力とアニマル浜口による失踪事件も発生し、対応に追われたことで、体調面だけでなくメンタル面でも最悪の状態のままリーグ戦をこなしていた。リーグ戦は終盤でアンドレがカーンと両者リングアウトとなったため脱落、優勝決定戦には猪木とホーガンが進出した。6・2蔵前国技館は超満員札止めとなり、誰もが猪木の優勝を信じていた。しかしイザ蓋を開けてみると、ホーガンが猪木相手にグラウンドで互角に渡り合い、猪木がなかなかペースが握れない展開が続く、ホーガンは前年度からは猪木とタッグを組んでいたが、タッグを組みつつも猪木の試合運びやテクニックなどしっかり盗み取っていたのだ。そして猪木が不用意にヘッドロックを奪ったところでホーガンが高角度でバックドロップで投げると、猪木は後頭部を痛打してしまうが、おそらくこのバックドロップで猪木は意識が飛んでいたことは間違いないだろう。猪木はエアプレーンスピンで捕らえたまま場外へ転落し、意識が飛んでフラフラになった猪木は背中向けると、ホーガンが背後からアックスボンバーで強襲して、猪木は鉄柱に直撃、頭部に更なるダメージを負った猪木はエプロンに不用意に立ったところで、ホーガンがロープ越しのアックスボンバーを浴びせて、猪木は再び場外へ転落、そのまま立ち上がれず、セコンドの坂口征二らがダウンした猪木をエプロンにまで上げるが、猪木は起き上がることもなく、そのままKOとなり、ホーガンが優勝、意識を失った猪木は病院送りとなる。猪木のKO劇は"演技"なのではという話も出たが、試合内容を見た限りではホーガンのバックドロップを受けたことで頭部にダメージを負い、意識が飛んでいたことは間違いないと思う。しかし猪木が負けを"選んだ"理由は、上り調子のホーガンに対し、レスラーとしてピークを過ぎ、下り坂に差し掛かっていただけでなく、リング内外の問題も重なってコンディションは最悪、その状態でホーガンに勝ったとしてもインパクトは薄い、だから敢えて大負けしてインパクトを与えることでIWGPの名称も高まり、体調を整えてからホーガンにリベンジすれば大きなインパクトを残せるではと考えたのではないだろうか…、しかしそれが猪木にとって最大の誤算であることは、猪木自身も気づいていなかった。
猪木がホーガンにKOされ、病院送りにされたニュースは瞬く間に広まり、猪木が搬送された病院には当時の夫人である美津子夫人だけでなくマスコミやファンも駆けつけて猪木の安否が気遣われたが、後になって猪木はこそっと病院を抜け出していたことが、芸能リポーターである梨元勝氏に発見され、梨元氏から新間氏に猪木が病院を抜け出していることが伝わり、猪木が意識不明であると思い込んでいた新間氏は病室に駆けつけると、もぬけの殻で、このことを知った副社長の坂口征二は自分のデスクに「人間不信」の置手紙を置いて、しばらく連絡を絶った。新日本的には社内の不安定な状況だけでなく、猪木の体調不安説を一掃するためには、猪木に優勝してもらうしかなかったのだが、IWGPの存在を高めるために猪木は大きなインパクトを選んだことで、社内から不信感を煽る結果となり、猪木が欠場中の間に社内でのクーデター事件が起きると、猪木は会長に棚上げされて一時失脚するが、テレビ朝日のバックアップを受けて社長として復権するも、テレビ朝日のバックアップの条件は新間氏を新日本から追放だったことから、猪木は新間氏を斬らざる得ず、新間氏も猪木に対する不信感を強めたまま新日本を去っていった。
第1回から1年後の1984年5月に第2回IWGPが開催、前年度覇者であるホーガンはシード扱いされ、リーグ戦1位の選手がホーガンに挑むという形式とされ、猪木がリーグ戦を勝ち抜いて前年度覇者であるホーガンと対戦となり、前年度の大きなインパクトがあって蔵前国技館には入りきれないほどの観客が動員され、入りきれなかったファンに対応するために会場外にクローズサーキット方式でスクリーンを設けたが、誰もが期待していたのは猪木のリベンジだった。しかし開催まで1年間、マット界は激変しており、ビンス・シニアからビンス・マクマホンに代替わりしたWWFは「ロッキー3」に出演して知名度を高めたホーガンと独占契約を交わし、ホーガンはWWF王座を奪取して全米を代表するスーパースターへと伸し上る。ホーガンはハンセンやシンのように猪木と対戦することによってレスラーとして成長したわけでなく、猪木とタッグを組むことで成長を果たしていたが、第1回IWGPを契機に二人の立場は逆転してしまっていたのだ。
WWFも新日本との関係を見直し破格のブッキング料金を要求、これまで外国人ルートの大半はWWFに委ねていたのもあって、新日本にとっても死活問題だったが、新日本を去った新間氏が第1次UWFを設立しシニアのルートでWWFとの提携ルートを奪取に動いていたこともあって、新日本は渋々WWFとの新契約を結んだ。それは対等とされていたWWFと新日本の関係も大きく変わってしまった。試合は両者は互角に渡り合うが、次第に猪木が試合運びの上手さでホーガンを翻弄、延髄斬りを放っていく猪木に対し、焦ったホーガンはレッグドロップからアックスボンバーを狙うが、猪木がドロップキックで迎撃して場外戦となるも、ホーガンが場外ブレーンバスターを決めたところで両者リングアウトとなり、納得しないファンから「延長コール」が発生したため、延長戦となるが、今度は猪木が足四の字固めを決めたままエプロンに出てしまい、エプロンカウントアウトということで引き分けとなったため、欲求不満となったファンからは再び「延長コール」が発生、再延長戦となるが、これで終わると思っていたホーガンは「何故!」と怒り出す。再延長戦は焦るホーガンがいきなりアックスボンバーも、前年度の逆のパターンでホーガンがエアプレーンスピンで担ぎ、ロープを掴んだ猪木は場外へ引きずり出すも、ホーガンは場外でアックスボンバーを放ち、エプロンに上がった猪木に昨年度の再現を狙ったロープ越しのアックスボンバーを狙うが、場外カウントを数えていたミスター高橋レフェリーと交錯、ホーガンは鉄柱攻撃を狙うと、いきなり長州力が乱入して猪木にリキラリアットを浴びせ、ホーガンにもリキラリアットを狙ったがホーガンのアックスボンバーと相打ちとなって両者ダウンとなった瞬間ファンは物を投げつける。猪木はその間にリングインしてリングアウト勝ちとなったが、喜んでいたのはセコンドの新日本勢だけで、期待を裏切られたファンは怒り物を投げつけ、長州に対しても罵声が飛び交い、それでも怒りの収まらないファンは垂れ幕は引き裂き、設置されていた大時計を破壊するなど暴動状態となる。そこで国技館が警察に連絡し警官隊が鎮圧に駆け付け。この警察官と警備員の説得で何とか観客を会場の外に出すことが出来たが、それでも納得しない一部のファンが決起集会を開き、「坂口は新日本の責任者として謝罪せよ。混乱を招いた長州を処罰せよ」と新日本に対して要望書を提出した。
猪木のリベンジの場がこういう結末になったのか…、ホーガンへのリベンジこそ、猪木の望んだ展開であり、新日本的にも全ての不安を払拭するためには猪木には勝ってもらわなければいかず、館内もその空気で充満していた。だが全米の大スターへとのし上がっていったホーガンも負けられない立場になってしまっていた。引き分けではファンが納得せず、ファンの空気に押される形で2度に渡る延長戦となったが、それでも出口が見えなくなったかのように落としどころが見つからない状態となり、長州の乱入で全てを済ませようとしていたのか…だが1度目の裏切りはファンは許しても2度目はさすがに許さなかった。ファンが臨んだのは猪木がキチンとした形でのリベンジだったが、不透明な形での猪木の勝利は誰も望んでいなかった。それがファンの怒りに繋がり暴動に発展したのではないだろうか…
1985年も第3回IWGPがトーナメント形式で開催、前年度覇者の猪木はシードとされ、トーナメントを勝ち抜いたアンドレを降し、6月13日愛知県体育館で猪木の保持するIWGPヘビー級王座にホーガンが挑戦という形で対戦、猪木がリングアウト勝ちで勝利を収めたが、第1、2回と比べ大きなインパクトを与えることは出来ず、IWGPが終了してしばらくしてWWFとの提携が終わり、猪木とホーガンは2度と対戦することはなかった。第1回IWGPでの猪木の最大の誤算は自身が失神し大きなインパクトを与えたことでIWGPを大きく知らしめることが出来たが、ホーガンが自身を踏み台にしてのし上がり、手の届かないところまで登りつめてしまったこと、1984年のマット界の激変だったのではないだろうか…、時代を掌に乗せていたはずの猪木は時代からズレ始めようとしていることは猪木自身は気づいていたのだろうか…
蛇足となるが猪木とハルク・ホーガンが巻いた初代IWGPベルトは、IWGPがタイトル化してからも使用され、1997年の2代目ベルトが誕生するまで使用された。その後初代ベルトはIGFのスタッフに持ち出されしまったが、IGFで使われたのはレスナーに持ち出された3代目のベルトだった。IGFで初代ベルトを使っていたら、新日本への揺さぶりにもなり、また新日本もIWGPの封印も考えたはず、猪木は「忘れたな・・・」ってごまかすだろうが、自分は猪木がトロフィーやガウンなど人に簡単にくれてやることはあっても、どうしても自分の手元に残しておきたいものがあったのでは…それが自身の心血注いだ初代ベルトであり、NWFのベルトであると思っている。
(第1回、第2回、第3回IWGPで行われた猪木vsホーガン戦は新日本プロレスワールドで視聴できます) -
蝶野正洋がG1二連覇!NWA王者奪取も、もう一人の立役者はリック・ルードだった
1992年8月6日、静岡産業会館から両国国技館3連戦と第2回G1 CLIMAXが開催され、この年のG1はリーグ戦方式からトーナメントとされ、空位となっていたNWA世界ヘビー級王座決定トーナメントも併せて行われた。出場選手
蝶野正洋、リック・ルード、アーン・アンダーソン、スティーブ・オースチン、武藤敬司、バリー・ウインダム、トニー・ホーム、クラッシャー・バンバン・ビガロ、スコット・ノートン、佐々木健介、ジム・ナイドハート、馳浩、テリー・テイラー、橋本真也、ザ・バーバリアン、スーパー・ストロング・マシン1990年12月20日、新日本プロレスはこの年の10月に旗揚げしたばかりだったSWSがWWF(WWE)との業務提携を結んだことでの抗措置としてWWFとの競合団体だったWCWとの提携を結んだ。WCWは1988年まではNWA会長のジム・クロケット・ジュニアによるプロモーションに過ぎなかったが、全米侵攻で各テリトリーを飲み込んでいたWWFに対抗して、テリトリーを急激に拡大したことで経費がかさんで経営が悪化、WWFの攻勢もあって窮地に陥ったところで、アメリカの大実業家で、テレビ王であるテッド・ターナーにプロモーションに売却、世界最高峰とされたNWA世界ヘビー級王座もWCWの王座として存続、だがNWAはWCWの影響下に置かれても、あくまでWCWとは別組織とされ、WCWの一存ではNWA王座は扱えることが出来なかった。その影響もあってWCWもNWAの名前は外し、世界ヘビー級王座として呼称させていた。
1991年3月21日、新日本プロレス東京ドーム大会で藤波がリック・フレアーを破りNWA世界ヘビー級王者となったが、王座移動を巡ってWCW側からクレームが入ってしまう。結局藤波への移動はNWAは認められたが、WCWは日本での王座移動を隠すために、世界ヘビー級王座と呼称させたのを利用してWCW世界ヘビー級王座を誕生させ、フレアーを王者に据えて防衛戦を続けさせていた。5月にフレアーが藤波を破りNWA世界王座を奪還、フレアーは二冠王者となるも、その後すぐにフレアーがWCWの間にトラブルが起き、NWA王座ベルトを持ったままWWFに移籍する事態が起きてしまう。WCWはフレアーから2つの王座を剥奪し、WCW王座はレックス・ルガーが新王者となるも、NWA王座は1年間放置され空位となっていた。
トーナメント開催にあたってNWAの会員だった坂口征二が会員の推薦で会長に就任した。NWAの権威は下がっていたが、腐っても鯛でまだ利用価値はあり、まだ日本ではNWA世界ヘビー級王座は世界最高峰のベルトと扱われていたことから、WCWも新日本との提携にNWAの存在を大いに利用しようと考えたのかもしれない。この年のG1はIWGPヘビー級王者の長州力、前王者の藤波辰爾はエントリーせず、代わりに馳、健介、マシンが参戦も、馳はG1開幕直前で右肩を負傷したため欠場する。外国人勢はビガロ、ノートン、ホームの常連勢に加え、WCW提携路線に乗って、WCWからはルード、アンダーソン、後に"ストーンコールド"となるオースチン、ウインダム、ナイドハート、テイラー、バーバリアンが参戦した。開幕直前の予想では第2回はWCWを経験している武藤が本命視され、また16日神戸ワールド記念ホール大会でムタとして長州の保持するIWGPヘビー級王座に挑戦することも決まっていたこともあって大きな期待が寄せられていた。
8・6静岡、8・7愛知で1回戦が行われ、オースチンがアンダーソン、武藤がウインダム、蝶野がホーム、ノートンがビガロを破り1回戦を突破、8.7愛知ではルードがマシン、橋本がバーバリアン、健介がナイドハートを降し、テイラーも馳の代役が誰も立てられなかったこともあって不戦勝で1回戦を突破したが、この時点ではルードがダークホース的な存在になるとは誰も予想していなかった。
8・10から両国3連戦がスタート、自分もG1の興奮を味わいたくて上京し3泊4日で国技館3連戦を観戦、升席での観戦だったが4人押し込められて窮屈だった。武藤はオースチン、蝶野はノートン、健介はテイラーを破り準決勝へ進出したが、ルードと対戦した橋本がルードのインサイドワークに翻弄されて敗れるという波乱が起き、この時点でルードが注目株と目されるようになる。ルードはWWF在籍時にはマッスルボディと腰をクネらせるパフォーマンスで注目を浴び、ハルク・ホーガンの保持するWWF世界ヘビー級王座にも挑戦し、アルティメット・ウォリアーを破ってインターコンチネンタル王座を奪取する実績を誇っていたが、日本のファンからは単なるショーマンレスラーでしか認知されず、WWF離脱後は1991年7月には全日本プロレスに参戦したものの、テリーゴーディ、スティーブ・ウイリアムス、スタン・ハンセンがトップだったこともあって存在感を発揮することは出来なかった。
11日の準決勝でも健介と対戦したルードは橋本戦同様、本来の持ち味であるインサイドワークを駆使して健介を翻弄して破り決勝に進出、武藤は準決勝で蝶野と対戦も、蝶野のSTFの前に敗れてしまい、蝶野が2年連続で優勝決定戦に進出してルードと対戦することになった。12日に優勝決定戦となったが、客席にはワット、ローデスのWCW両首脳だけでなく、アントニオ猪木、WCWの一員となっていたヒロ・マツダも客席に陣取り観戦、だが蝶野は7・11札幌で行われた越中詩郎戦でドラゴンスープレックスを喰らった際に古傷である首を負傷しており、最悪のコンディションでG1に突入も、決勝戦になって悪化してしまい、痛み止めの注射を2本打って優勝決定戦に臨んだ。。
開始前にルードが張り手を仕掛け、蝶野が返したことで試合開始となり、蝶野は開始からいきなりラリアットの連打、ケンカキックを狙うが、ストップをかけたルードがうつ伏せで倒れ焦らしにかかり、蝶野の勢いを止めるも、対する蝶野も腰クネポーズで挑発する。
ルードは蝶野の首を痛めていることを熟知していたのか、首あたりにエルボーを連打、串刺し狙いは蝶野がキックで迎撃しネックロックやスリーパーで動きを止めにかかるが、ルードはチンクラッシャーで脱出、クロスチョップの連打で再び首にダメージを与える。
ルードはラリアットを狙うも、かわした蝶野はスリーパーで捕獲、ルードはまたチンクラッシャーを狙うが、蝶野は技を解いたことでルードはすっぽ抜け、蝶野は再びスリーパーで捕獲も、ルードも袈裟固めで切り返し、グラウンドで切り返しの攻防から、ルードがヘッドロックで捕らえると蝶野はニークラッシャーを決め、ローキック連打からトーホールド、レッグロック、足四の字固めでルードの足を狙い撃ちにする。
コーナーに逃れたルードに蝶野はローキックの連打も、ラリアットで返したルードはコーナーへ昇る、だが蝶野はデットリードライブで叩き落すとダブルレッグロックで再び足攻め、上から覆いかぶさると腕十字で捕獲、だが逃れたルードはパイルドライバーで突き刺し蝶野の首に再びダメージを与えると、場外に逃れた蝶野に鉄柵攻撃、リングに戻して蝶野を戻して、コーナーから手刀、ラリアットを浴びせて腰クネポーズと自身のペースへと戻す。
ルードはキャメルクラッチで捕獲し執拗に絞めあげるが、蝶野が強引に起き上がるとルードを肩車にした状態から後ろへと倒れてバックドロップのような形で叩きつけ、ドロップキックからコーナーへと昇ってダイビングシュルダーを発射も、ルードがかわして自爆となり、今度はルードがコーナーへと昇ってミサイルキックを発射すると、ジャンピングDDT、ネックブリーカーと蝶野を追い詰めにかかる。
勝負に出たルードはコーナーからのダイビングダブルニーを狙うが、起き上がった蝶野は雪崩式ブレーンバスターで投げて、今度は自身がコーナーへ昇るも、ルードが起きて雪崩式ブレーンバスターで返し、ツームストーンパイルドライバーを狙うも、蝶野が切り返して逆に突き刺す。
蝶野はルードをロープへ振ろうとしたが、逆に蝶野をロープへ振ったルードがスリーパーで捕獲、蝶野はロープを蹴って浴びせ倒して逃れるも、ルードはマットに蝶野の頭部を叩きつけ、エルボーの連打もショルダースルーを狙った際にケンカキックを連発、ショルダースルーからSTFで捕獲して勝負に出るも、ロープに近かったためロープブレークで逃れられてしまう。
ルードは再びパイルドライバーで蝶野を突き刺すと、コーナーからのダイビングダブルニーを投下、これで勝負あったかに見えたが、タイガー服部レフェリーがルードの女性マネージャーとしてセコンドに着いていたメドゥーサに気を取られ、カウントに入るのが若干遅れてしまい、蝶野はカウント2でキックアウトし九死に一生を得る。
勝機を逃したルードに蝶野がショルダースルーからSTFで捕獲、リング中央で決まるも、首の痛みのためか腕に力が入らず、ロープに逃れられてしまい、蝶野も勝機を逃してしまう。ルードは場外へ逃れるも、蝶野が強引にリングに戻して延髄斬りを発射、グラウンドコブラで丸め込むも、カウント2でキックアウトされてしまう。
ルードは苦し紛れに蝶野を場外へ出すが、蝶野はコーナーへ素早く昇ると、コーナーに昇っている蝶野に気づいていないルードにダイビングショルダーを発射して3カウントを奪い、G1二連覇を達成、ジャイアント馬場に次ぐ二人目のNWA世界ヘビー級王者となり、新NWA会長の坂口によって蝶野の腰にベルトが巻かれた。
蝶野はG1二連覇を達成することで「夏男」の異名も得たが、自分は第2回の立役者はルードであり、蝶野同様下馬評を覆して決勝へ進出することで、第2回でもG1は大きなインパクトを与えることが出来たと思っている。その後ルードはWCW提携路線に乗って新日本に何度も来日、一旦WWFへ移籍し再びWCWへ戻ったが、1999年4月20日に心臓麻痺で死去、40歳と若すぎる死であり、自分も忘れられないレスラーの一人として今でも記憶に残っている。
NWA王者となった蝶野は9・23横浜アリーナでオースチン、11・23両国でスコット・スタイナー相手に防衛戦を行い、アメリカWCWでもルードやグレート・ムタ相手に防衛戦を行ったが、1993年1月4日、前年8・15神戸ワールド大会で長州を破ってIWGPヘビー級王者となっていたムタとのダブルタイトル戦で敗れ王座から転落、だが2月にムタもWCWマットでウインダムに敗れて王座を明け渡すも、同時期に副社長のビル・ワットが失脚して辞任する。7月にWCWに復帰したフレアーがNWA世界ヘビー級を奪還したが、WCWはNWAを脱退、新日本もならってNWAを脱退したが、NWAからの脱退もワットの失脚が大きく影響し、その時点でWCWは利用価値がもうなく切り捨てたのかもしれない、NWAは団体としては存続したが、マイナータイトルに格下げし、2013年に再び新日本と提携するも、NWA世界ヘビー級選手権はIWGPヘビー級選手権の前座として扱われ、かつての権威も失われてしまっていた。IWGP創設時はNWAはあくまで新日本のローカルタイトルであると強調していたが、立場はすっかり逆転してしまっていた。
(参考資料 新日本プロレスワールド 蝶野vsルード戦は新日本プロレスワールドで視聴できます) -
蝶野が優勝、長州の全敗、闘魂三銃士の主役独占…3つのインパクトからG1 CLIMAXが始まった!
1991年8月7日、愛知県体育会館から第1回「G1 CLIMAX」が開幕した。G1開催のきっかけは1990年に新日本が8月に後楽園ホール7連戦開催したことだった。当時のマット界は新日本、全日本、UWF、パイオニア戦志、FMWの6団体だけで、SWSも旗揚げ前だったが、新日本はUWFだけでなく全日本にもファンのシェアを奪われ、新規の客層開拓を急務とされていた。そこで企画されたのは後楽園7連戦で、当時マット界はニッパチは客が入らない(12月~1月はクリスマスや正月などで出費のかかる行事があり、8月はお盆でお店に行かないので売り上げが下がる)として2、8月の興行は避けていたが、新日本は敢えて切り込み、後楽園ホールも空いていたということもあって7連戦を敢行、7連戦とも超満員となって大成功を収めた。そこで勢いに乗った新日本は翌年は両国だということで3連戦を開催することを決定、シングルのリーグ戦を行う、それがG1の始まりで、G1の名称は当時の社長で競馬ファンだった坂口征二が命名。ヘビー級によるシングルリーグ戦の開催は1988年「IWGPヘビー級挑戦者決定リーグ戦」以来で2年ぶりだった。国技館の3連戦は新日本にとっても初の試みだったが、UWFや全日本に押された新日本にとって起死回生を狙った企画だった。
出場選手
Aブロック 武藤敬司、藤波辰爾、スコット・ノートン、ビッグバン・ベイダー
Bブロック 蝶野正洋、橋本真也、クラッシャー・バンバン・ビガロ、長州力出場選手は8選手でA、B両ブロック4名ずつが振り分けられた。IWGP王者の藤波、トップ外国人のベイダーも、現場監督となっていたが長州もまだまだ健在で三銃士にとって高い壁と立ちはだかっており、三銃士も壁を打ち破れないでいた。そのためか優勝候補は本命が長州、対抗は藤波とされ、優勝決定戦は長州vs藤波と予想視されていた。
8・7愛知県体育館でG1が開幕したが、長州が蝶野のSTFでギブアップ負けを喫するなど波乱が起き、8・9から国技館の連戦が始まるも、長州は8・9でビガロ、8・10では橋本と敗れ、全敗でリーグを終えて脱落、実は長州は長年に渡る蓄積されたダメージが肩、頚椎、膝にきてしまい満身創痍でG1に臨んでいたが、最終戦も精密検査を受けるために欠場する。藤波も開幕戦ではベイダーを破ったものの、武藤に敗れ、ノートンと両者リングアウトの引き分けと脱落してしまう。Aブロックは開幕戦ではノートンに敗れたものの藤波、ベイダーからフォール勝ちを奪った武藤が優勝決定戦に進出。Bブロックは蝶野と橋本がそれぞれ長州、ビガロを降し、蝶野vs橋本の直接対決では引き分けとなったことで首位タイのまま公式戦を終了、8・11最終戦では蝶野vs橋本の優勝戦進出決定戦を行い、その勝者が武藤と対戦することになった。
橋本vs蝶野は第5試合で行われ、橋本は蝶野を蹴りまくってリードを奪ったが、橋本も痛めている右膝を攻めた蝶野が形勢を逆転させ、橋本のDDT狙いを右膝を蹴って阻止した蝶野がSTFで捕獲し、橋本がギブアップで優勝戦進出を決めたが、橋本戦のダメージを考えると、誰もが武藤が優勝すると思っていった。3試合後でメインの優勝決定戦が行われロックアップからじっくりとしたスタート、橋本戦でダメージを考え速攻勝負を狙うと思われていたが、自分から動くとスタミナをロスし武藤のペースになると考えたのか、グラウンド中心の攻めで武藤を切り崩しにかかる。
蝶野の流れを嫌った武藤はソバットからブラッシングエルボーで反撃も、スペースローリングエルボーがかわされると、蝶野はバックドロップあら裏十字固めと再び武藤を捕獲、張り手合戦を競り勝った蝶野はナックルも、武藤もエルボーで打ち返しアキレス腱固めで捕獲、更にリバースインディアンデスロックから鎌固め、リバースフルネルソン、腕十字固めと蝶野のスタミナを奪いにかかる。しかしその状態から起き上がった蝶野はストンピングで逃れるとケンカキックを連発、エプロンに逃れた武藤をケンカキックで場外へ蹴り出すと、トペを発射し、更にコーナーから場外の武藤にダイビングショルダーアタックを発射、一気に蝶野の流れに戻す。
リングに戻った蝶野はパイルドライバーを連発してSTFを狙うも、完全に決まる前に武藤が場外へ逃れ、蝶野は場外パイルドライバーを狙うが、リバースした武藤は通路に蝶野を連行、硬い床の上でのパイルドライバーを敢行して蝶野の首に大ダメージを与える。
リングに戻った武藤は蝶野にミサイルキックを発射、バックドロップからジャーマンスープレックスホールド、ゴッチ式パイルドライバー、ドラゴンスープレックスホールドと蝶野の首を攻めつつ勝負に出ると、ムーンサルトプレスを狙うが、どのコーナーから飛ぶのか躊躇してしまい、慌てて投下するが自爆となってしまう。
武藤のまさかの失策を逃さなかった蝶野はケンカキックからSTFで捕獲、武藤はロープに逃れるが、蝶野はコーナーからのダイビングショルダーで追撃してから卍固めで捕獲、武藤がロープに逃れたところでバックドロップで投げるが、武藤は高速ブレーンバスターで応戦し、今度は武藤から卍固めで捕獲する。
武藤は首投げからダイブを狙うが、蝶野は下からのドロップキックで迎撃、ところが武藤は飛び越えて自爆に追いやると、バックドロップからミサイルキックも、蝶野も下からドロップキックを放って相打ちとなり両者ダウンとなってしまう。
先に起きた蝶野はSTFを狙うが、武藤は慌ててロープに逃れドロップキックを狙うも、蝶野がかわしてケンカキックを浴びせ、受けきった武藤もランニングフォアアームで応戦し、シュミット流バックブリーカーからムーンサルトプレスで一気に勝負を狙う。ところが剣山で迎撃した蝶野はパワーボムで3カウントを奪い、G1を優勝。優勝候補にも挙がっていなかった蝶野の優勝に館内は大興奮となって座布団が飛び交い、リング内も座布団だらけとなった。後年、長州は「蝶野が(G1を)優勝するのもインパクトだったら、オレの全敗もインパクトだった」と応えていたが、本命視されていた長州が全敗で終わり、闘魂三銃士の中では橋本と武藤の影に隠れがちだった蝶野の優勝、この2つのインパクトがG1 CLIMAXが始まったといっても過言ではなく、また藤波と長州、ベイダーを差し置いて三銃士の三人が上位を占めた。第1回のG1は闘魂三銃士が主役を奪い取った夏でもあった。
だが夏の主役を奪った三銃士だったが、まだ新日本での主役に躍り出ることが出来ず、三銃士の時代が到来したのはもっと先にことだった。 「G1 CLIMAX」は第1回の大成功を受けて、新日本の一大ブランドと化し、今年で28回開催されるというロングセラーとなった。今年も「世界で一番熱い夏」がやってくる…
(参考資料、新日本プロレスワールド 第1回のG1優勝決定戦は新日本プロレスワールドで視聴できます)
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ベイダーがUWFインターに電撃移籍!高田延彦と真冬の神宮決戦!
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— 伊賀プロレス通信24時 (@igapro24) 2018年7月2日
1993年2月14日、UWFインターナショナル日本武道館大会に取締役の鈴木健氏が"ある勇気"あるレスラーからの手紙を読み上げた。そしてその手紙の主がWCW世界ヘビー級王者であるビックバン・ベイダーであることを明かすと、館内は大歓声となった。1992年、UWFインターナショナルは絶対エースである高田延彦が北尾光司をハイキック一発でKOしたことが高く評価され『東京スポーツ制定プロレス大賞MVP』を受賞するなど絶頂期を迎えていたが、Uインターの仕掛け人である宮戸優光は更なる高みを目指すために、WWFやWCWで活躍しているトップ選手をUインターに参戦させることで、Uインターのスタイルを世界に広め、プロレス界に刺激を与えたいと考えていた。ところがその矢先にUインターで外国人ブッカーである笹崎伸司がベイダーと新日本の間で関係がこじれていることを聞きつけて宮戸に報告、宮戸もベイダーの身辺調査を笹崎に依頼するが、事実であることが判明する。
1988年12月に新日本プロレスに初来日を果たしたベイダーは"両国暴動事件"もあって、トップ外国人選手として新日本に定着、3度に渡ってIWGPヘビー級王座を奪取するなど、外国人選手でありながら新日本の頂点に君臨した。1991年から新日本と提携していたWCWに定着するとWCW世界ヘビー級王座を奪取するなど、WCWでもトップ選手として活躍するが、それと共に新日本よりWCWのスケジュールを優先し始めたことで、新日本と摩擦が生じ始めていた。ベイダーはこの時点でまだWCW世界ヘビー級王者でもあったが、元IWGPヘビー級王者だった実績を買った宮戸は、高田が巻いているルー・テーズベルトである世界ヘビー級を高めるだけでなく、ベルトの提唱者であるテーズが考える世界タイトルの統一にに相応しい選手と考え、早速獲得へ向けてベイダーとコンタクトを取り、ベイダー自身も新日本を離れる意向であることを宮戸に明かした。
宮戸は同じ取締役だった安生洋二と共に渡米し、合流した笹崎と共にWCW本部でWCW会長の立会いでベイダーと会談、スケジュールを確認し3試合分の契約を締結したが、WCWは提携関係を結んでいた新日本とのトラブルを避けるために、あくまでWCWのブッキングではなくUインターとベイダー個人の契約としてUインター参戦を黙認した。WCWは新日本とベイダーを共有していたが、新日本とベイダーの間で起きているトラブルは、あくまで新日本の問題でWCWは関係ないとしたかったのだ。
ベイダーは5月6日、Uインター武道館大会に参戦し、中野龍雄と対戦することになったが、大会当日になってベイダーを引き抜かれた新日本側が顧問弁護士を伴って来場し、武道館大会出場禁止とリングコスチュームとリングネームの使用を禁止と書かれた仮処分申請書をベイダーに手渡す非常手段に打って出る。実はベイダーと新日本と3年契約を結んでいたが、ベイダーは契約を消化しておらず、またビックバン・ベイダーやキャラクターなどの権利関係も新日本が商標登録をしていたのだ。この頃は新日本とUインターは、高田がNWA世界ヘビー級王者となった蝶野正洋と対戦表明したが、交渉段階でこじれたことでUインター側が新日本を批判したことをきっかけに関係が悪化しており、またWCWを優先するベイダーに対して背後にUインターが絡んでいるとして新日本側は勘ぐっていたという。なぜベイダーが、新日本との契約を消化しきれないままUインターへ移籍しようとしていたのか、この頃の新日本はvsWCW中心路線から、闘魂三銃士(武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也)、そして他団体との対抗戦路線へ軸を置き始め、スコット・ノートンやトニー・ホームをトップ外国人へ押し上げようとしており、1992年5月17日大阪城ホールで行われていたベイダーvsホーム戦でも、ベイダーが圧倒しながらもホームに逆転負けを喫していたことから、三銃士やノートンらの踏み台として扱われることに納得しがたいものがあった。ベイダーはレオン・ホワイト時代にAWAでスタン・ハンセンやブルーザー・ブロディと二人からプロレスラーとしての意識を学び、特に自身の商品価値を落とされるのを嫌い、プロモーターとトラブルを起こすブロディから大きな影響を受けたことを考えると、このまま新日本に留まっても自身の商品価値は落とされる。自分の価値を評価してくれる団体に移ったほうが良いと考え、新日本と距離を取りWCWのスケジュールを優先、また日本での新しい活躍の場を求めたところところでUインターが引っかかってきたに過ぎなかったのかしれない。
新日本からの非常手段に対し、Uインター側もビックバン・ベイダーのリングネームを使わず、リングネームをスーパーベイダーにすることで、出場許可が下りて予定通りに中野戦が行われ、ベイダーは正面から挑んでくる中野を粉砕する。その後ベイダーは8・13武道館で山崎一夫、10・4大阪で佐野直喜を連破、遂にエースである高田に王手をかけた。
高田vsベイダーの決戦の場は12月5日の神宮球場となった。Uインター側は東京ドームを考えていたが、希望の日にドームは開いておらず、またどうしてもドームクラスの大会場という意向も強かったため、神宮球場になった。しかし会場のことより最も怖れたのはベイダーがWCW世界ヘビー級王者として来日することだった、たとえ高田の保持する世界ヘビー級王座とのダブルタイトル戦にならなくても、WCW王者を破ったとなれば高田の存在が世界中に伝わり、テーズベルトである世界ヘビー級王座はWCW王座より上と権威が上がる。またUインターの名前も世界中に広がると考えていたからだった。ベイダーは宮戸の期待通りにWCW王者として来日、高田の世界王座に挑戦した。
試合はベイダーが巨体を生かしてベイダーハンマーを乱打、高田から4度ダウンを奪い、エスケープ4回まで追い詰める。通常のUインタールールならKO負けだが、特別ルールにより規定はなく、高田はルールに助けられる。高田はローキックでベイダーの足を切り崩しにかかると、ベイダーの右腕腕十字で捕獲、ベイダーはギブアップとなり、高田はWCW王者より最強であることを示すことが出来た。ベイダー戦と神宮大会の成功はUインターにとっても一番の頂点だった。
高田vsベイダーの2度目の対戦が行われたのは94年8月18日武道館「プロレスリング・ワールド・プロレスリング・トーナメント」の決勝戦で、ベイダーはUインターの常連として定着、日本武道館など大会場を主にしていたUインターにとってトップ外国人選手として欠かせない存在となっていたが、宮戸にとってもベイダーは選手として大きな信頼を置いていたのかもしれない。決勝戦には高田は保持する世界ヘビー級王座もかけたが、ベイダーのベイダーハンマーのラッシュを浴びた高田はKO負けを喫し、ベイダーがリベンジを果たして王座を奪取するが、トーナメント開催にあたり、各団体のエース格の選手を招くために招待状を送り、賞金1億円を提示したことで各団体から反発を招き、また唯一参戦に前向きだった前田日明のリングスと交渉過程で泥仕合に発展してしまったことで、トーナメントの存在は薄れ、ベイダーのリベンジも大きなインパクトを与えるまでには至らなかった。
3度目の対戦は95年4月20日の名古屋レインボーホールで、ベイダーに流出したままである世界王座に高田が挑戦したが、Uインターは前年度の12月7日に安生がヒクソン・グレイシーの道場破りを敢行して惨敗を喫した"ヒクソンショック"の影響や、宮戸と経理を担当していた鈴木健氏による対立が生じ、団体が大きく傾き始めていた。Uインターは宮戸の方針で特定のスポンサーは付かせず、自己資金で運営していた団体だったが、”ヒクソンショック”の前後から経営が苦しい状況に立たされており、常連として参戦していたベイダーの高額なギャラもUインターの財政を圧迫させた一因となっていた。だが経営に理解のない宮戸は鈴木氏が不正を働いているとして疑い、鈴木氏の説明にも聞く耳を持とうともしなかった。
3度目の対戦はUインターでは珍しい場外戦も繰り広げられたが、最後は高田がハイキックでKO勝利を収め王座奪還に成功、しかし同日にはヒクソンが参戦する「VALE TUDO JAPAN OPEN 1995」が開催され、前田率いるリングスから山本宜久が参戦してヒクソンと対戦して善戦したことでリングスの株が上がり、Uインターは安生どころか、誰も刺客を差し向けなかったということで株が下がるどころか批判の的にされ、高田の王座奪還もインパクトの薄いものになった。元々Uインター名古屋大会は、当初4月上旬に開催する予定だったが、この年に起きた阪神・淡路大震災の影響で日程をずらさず得ず、4月20日しか会場は空いていなかったのだ。ベイダーは名古屋大会をもってUインターを離れた。理由はUインターがベイダーにギャラを支払う余裕もなくなったことで切らざる得なかったと見て良いだろう。ベイダーは最後のインタビューとなったGスピリッツVol.44では「UWFのスタイルは特に異質で難しかった」と答えていたが、Uインターのことは多くは語らなかった。ベイダーにしてみれば"ヒクソンショック”やUインターの内紛は関係はなく、契約が打ち切りとなればそれまでの関係で、数多く参戦した団体の中の一つに過ぎなかったのかもしれない。
(参考資料 エンターブレイン社、宮戸優光著 UWF最強の真実) -
鈴木みのるデビュー30周年…プロレスへの回帰を決意させたライガー戦
2002年11月30日、パンクラス横浜文化体育館大会で鈴木みのるが新日本プロレスの獣神サンダー・ライガーと対戦した。当時の新日本プロレスは1月に武藤敬司が小島聡、ケンドー・カシンと共に新日本を退団して全日本プロレスへ移籍、現場監督だった長州力も武藤退団の責任を問われ失脚、長州と共に90年代の新日本を支えてきた仕掛け人の永島勝司氏も新日本を去ったことで、蝶野正洋とフロントの上井文彦氏が現場を取り仕切り、オーナーである猪木が格闘技路線を推進し始めたこともあって、新日本とパンクラスの間で交流が開始していた。
新日本プロレスの30周年を記念した5月2日の東京ドーム大会にはOB達も来賓に招かれ、船木誠勝や鈴木みのるも新日本OBとして来場、佐々木健介と再会した鈴木は握手をかわして対戦を迫った、二人は若手時代に凌ぎを削り「いつか大きな会場で闘おう」と約束しあった仲だった。しかし鈴木は第2次UWFへと移籍してしまい、二人の約束は宙に浮いたままで14年が経過してしまっていた。
鈴木は1988年に新日本でデビュー、わずか1年足らずでアントニオ猪木とも対戦して、猪木相手に顔面を張る度胸ぶりを猪木が高く評価して付き人に据えたが、兄貴分の船木に追随する形で第二次UWFに移籍、1991年に第二次UWFは分裂して、船木と共に藤原喜明のプロフェッショナルレスリング藤原組へ移籍するも、1993年1月に船木と共に藤原組を退団してパンクラスを旗揚げ、1995年5月にケン・シャムロックを破って第2代キング・オブ・パンクラシストとなるとなったが、9月にバス・ルッテンに敗れ王座から転落、そして首の頚椎からくる椎間板ヘルニアを患い、一時は引退勧告を受けたが、本人は反発して現役を続行、長期欠場から復帰するも、首だけでなく左足や股関節も負傷するなど故障が続き、後輩に追い越されるどころか試合からも外されるようになった。鈴木が健介との対戦を考えたのは、引退という文字が頭によぎったからかもしれない。
健介と鈴木の再会は注目を浴び、マスコミも対戦へ向けて煽りまくった。鈴木vs健介は11月30日パンクラスの横浜文体大会でパンクラスルールでの対戦が正式決定、健介はヒクソン・グレイシー戦の対戦候補の一人としてアメリカでMMAの特訓を積み、アメリカでゲージでの試合も経験してことから、パンクラスルールでの試合もOKだった。ところが対戦が実現するまであと1ヶ月となったところで、健介が負傷を右足首をを負傷したことを理由に辞退を申し入れ、当時新日本のマッチメーカーだった上井氏は獣神サンダー・ライガーを伴ってパンクラスの事務所を訪れ謝罪、鈴木も健介の突然の辞退に戸惑うも、ライガーが代役に名乗りを挙げたことで決定する。実はライガーは事前に鈴木と電話で会談しており
(ライガー)『おい、健介がお前とやらないって聞いたぞ?なんでアイツやんねえんだよ!』
(鈴木)『何回聞いてもできないとしか言わないんですよ、なんだアイツ、知らないっスよ』
(ライガー)『そこまでいったのにどんな理由があるにしろ出れないってなったら、おまえは健介が逃げたと思うだろ?』
(鈴木)『思います』
(ライガー)『ってことは新日本がおまえから逃げたってことになるんだよ。俺は絶対それを許さない。俺がやる。新日本は逃げねえからな。マスクを脱いででもなんでもいいよ、やるよ』
と"健介の代わりはオレがやる"と鈴木に告げていたのだ。ライガーは異種格闘技戦の経験はあり、また合間を見てMMAのトレーニングをしていた。畑違いのパンクラスルールは初体験だったが、鈴木はライガーの男気に感謝していたという。ところが健介が会見を開き「鈴木とは試合がしたい、だからこの1戦のために辞表を提出します」と"鈴木みのる戦を巡る交渉の過程で新日本への不信感を抱いたことを理由にして退団を表明する事態が発生してしまう。5月には健介の師匠である長州が猪木を批判した上で新日本を去り、永島氏と共に新団体設立へと動いていたことから、健介が長州&永島氏によって引き抜かれたことは明白だった。健介の行動にライガーが怒り「鈴木とやりたかったんだったら、11月30日に会場に来て鈴木と来てやれよ、健介がやるんだったらオレは身を引くよ」と発言すると、健介に会い納得するまで話し合った。ライガーは健介の事情を察しつつも「鈴木と対戦したい」という意思を確認し、パンクラス側にライガーvs鈴木戦を辞退して、代わりに鈴木vs健介戦実現に動こうとしていた。だが既に遅くパンクラスはライガーが出場することを前提にポスターなど印刷物も発注してしまっていたのと、鈴木自身がライガー戦を想定して調整してしまっていることから、ライガーの申し出を断ざる得ず、鈴木vs健介は断念となった。
ライガーはシリーズは休まず、試合前には中西学や選手達とじっくり調整して万全の状態で鈴木戦に挑んだ。ライガーが参戦するに当たってはパンクラス側も他の選手らからマスクマンをパンクラスのリングに猛反発する声も出ており、鈴木が自分の意思を押し通して反発を抑えたが、この頃のパンクラスはプロレス団体から脱し、格闘技団体へと変貌を遂げようとしていた。リングに「怒りの獣神」が鳴り響く中でライガーが登場、ライガーは特例としてマスク着用は許可されるが、対ヘビー級用のマスクを着用、派手なマントではまくTシャツを一枚着ただけで、スパッツ一枚とまさに格闘技仕様で鈴木に挑み、またTV解説には船木、観客席では健介が試合を観戦していた。
試合は開始30秒からライガーが狙っていた浴びせ蹴りを狙うが、鈴木がかわすと覆いかぶさりマウントを奪ってパンチを落とすも、ライガーは殴られながらも笑い、鈴木も殴りながらも笑顔を浮かべた、このときの鈴木は「今日は本当に楽しくなっちゃった。本気で殴り合えて最高」だったという。最後は鈴木がバックマウントからチョークスリーパーを奪い、ライガーがタップで勝利となったが、試合後の二人は抱擁をかわして健闘を称えあい、鈴木もマイクで「ライガーさん、(大会前の会見でも話していた『刀』が)ちょっとだけ錆びついてましたね。でも、あんた最高だよ!」と叫ぶとライガーも「もう1回やろう。でもすぐにというわけにはいかん。2年くらい余裕をくれ。次はブチのめす」と再戦を要求、そして健介もリングサイドに現れ、鈴木も「いいかげんやるのかやらねえのか、はっきりしろよ」と挑発。リングインした佐々木は「燃えてきた。次は俺の番。あのときの青春を俺とお前で取り戻そう」とアピールし、尾崎社長にパンクラスのリングでの対戦を直訴も、健介はこの日で新日本を正式退団しており、パンクラスのリングでの対戦は事実上不可能となってしまった。
大会後に尾崎社長は専属リングドクターから「鈴木はパンクラスルールでの試合はこれ以上無理」と忠告を受けたことで、鈴木をプロレスに回帰させることを決意、安田拡了氏を通じて上井氏に話を持ち込み、上井氏が承諾したことで新日本への参戦を決め、尾崎社長は鈴木にパンクラスに属したままでプロレスへの回帰を薦める。当初は鈴木は拒否するも将来的なことを考えた上でプロレスへの回帰を決意、佐藤光留をパートナーにしてプロレスの練習を開始し、パンクラスもプロレス部門としてパンクラスMISSIONを立ち上げた。2003年6月13日武道館で鈴木はプロレスラーとして新日本のリングに上がり、元リングスで新日本所属だった成瀬昌由と対戦、鈴木は逆落としからのスリーパーで勝利を収め、プロレスラー復帰第一戦を勝利で飾った。
そして念願だった佐々木健介戦が実現したのは11・13大阪ドーム事変が起きた2004年11月13日の新日本大阪ドーム大会で、この頃の健介は長州の下を去り、フリーのレスラーとして新日本に参戦しておりIWGPヘビー級王者となっていた。この試合も猪木事務所から干渉を受けるのではと懸念されたが無事行われ、鈴木は健介のラリアットのラリアットを真正面から喰らい敗れるも、念願だったシングル戦が実現しただけでも二人は満足だった。
その後鈴木は全日本、NOAHだけでなく他団体にも参戦、現在は鈴木軍を率いて新日本を席巻することで、プロレス界を代表するレスラーへと昇り詰め、今年でデビュー30周年を迎えることになった。
最後に鈴木みのる選手、デビュー30周年、おめでとうございます!
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三沢光晴vs小川直也、禁断の遭遇!暴走王を封じ込めた"王道の理論"
2001年4月18日 ZERO-ONE日本武道館大会で三沢光晴が力皇猛と組み、小川直也と村上一成のUFO組と対戦、三沢と小川の馬場イズムの三沢、猪木イズムの小川の遭遇だったこともあり、禁断の遭遇と言われ、注目の一戦とされた。きっかは同年3月2日、両国国技館で行われたZERO-ONE旗揚げ戦、三沢は秋山準と組み橋本真也、永田裕志と対戦。試合は三沢が投げ放しジャーマンで橋本を降したが、試合後に小川がエプロンに上がり「橋本!だらしねぇ試合してんじゃねえよ!この野郎!三沢(ここで)組んでもらおうじゃないか!」とマイクアピールすると、三沢は小川にエルボーを放ち、橋本側のセコンドについていた藤田和之も秋山につかみかかるなどリング状はカオス状態となった。
三沢がなぜ小川にエルボーを放ったのか、三沢はZERO-ONE参戦にあたり、小川に対して「ウチ(NOAH)に絡んだら、ただじゃおかない」と釘を刺しており、また「マイクをオレに振ってはいけないの!相手の発言は殺しちゃんだから!」とコメントしていたとおり言葉のプロレスを何よりも嫌っていたことから、三沢にしてみれば小川に放ったエルボーはハチの一刺しに過ぎなかったのかもしれない。だが三沢が小川に放ったエルボーが思わぬ波紋を呼び、マスコミは三沢vs小川の実現に期待をかける。だが三沢は試合後に「向こうは向こうのやり方でやればいい、こっちはこっちのやり方でやるから、それを相手に押し付けようとしなくてもね、(UFOとの今後に関して)断じてない」と断言、小川戦実現に否定的な立場を取った。三沢にしてみれば"うかつに小川を相手にすれば背後にいる橋本のペースにハマってしまう"という考えだったのかもしれない。
しかし橋本が日本武道館大会開催に当たってNOAHに対して「メンバーを用意したから対抗して欲しい、誰が出るかは三沢に任せます」とNOAHの選手を空欄にしてカードを発表すると、橋本の仕掛けに対して三沢は「人任せだろう!」と不快感を示す。この頃のNOAHは旗揚げ戦ではファイティングTV SAMURAIで放送されていたこともあって縛りはなく、簡単に他団体に選手に貸し出すことは出来たが、4月からは日本テレビによる独占放送も開始しており、日本テレビの承諾なしで他団体に上がることは出来なくなってしまっていた。しかし三沢は小川にエルボーを放ったのは自分だったこともあって、自分の撒いた種を自分で刈り取るために出場を決意、15日有明コロシアムで高山善廣を破り初代GHCヘビー級王者となった三沢はZERO-ONE武道館大会に出場する選手を発表、旗揚げ戦では秋山準、大森隆男、高山、丸藤など主力を出したが、武道館では旗揚げ戦に出場した丸藤を含め中堅からは本田多聞、井上雅央、若手から力皇猛、デビューして3ヶ月目の杉浦貴を選抜、そして三沢は小川&村上のUFOコンビに対してデビューして1年半目ながらも、森嶋猛とのタッグで秋山に宣戦布告し自己主張し始めていた力皇をパートナーに抜擢した。小川や橋本にしても、"なぜNOAHの主力を出さずに中堅・若手なんだ!"と不快だったと思う。だが三沢の選んだ人選は後に大きな意味合いを残すものになるとは小川や橋本も知る由もなかった。また日本テレビも三沢らNOAH所属選手が出場する試合に限って「NOAH中継」で放送することを条件にしたことで、三沢出場にGOサインが出された。
第1試合では丸藤はヘビー級転向を宣言したばかりの高岩と対戦し、不知火狙いの丸藤を高岩ドリラーで突き刺した高岩がラリアットで勝利も、第3試合で行われたアレクサアンダー大塚vs杉浦貴は、PRIDEでマルコ・ファスを破りMMAでは実績を残しているアレクを、デビューしたばかりの杉浦がレスリングで圧倒する。アレクもレスリング出身だが、杉浦はアマチュアレスリングの全日本選手権グレコローマン82kg級優勝および国体で3度優勝の実績を誇るレスリングエリート、アレクに対して格の違いを見せつける。自身のプライドを傷つけられたのかアレクは杉浦に頭突きを放つが、逆に自身の眉間を割ってしまい杉浦に競り負け、最後はアレクが足極め腕固めで強引に勝ったものの、内容では杉浦が圧倒、試合後にアレクが「三沢ー。デビュー4ヶ月の新人につきあわせるんじゃあねえ」とアピールするも、その新人に散々な目に遭ったアレクに観客はブーイングを浴びせる。
セミでも橋本が安田忠夫をと組んで多聞&井上と対戦も、多聞が安田にデットエンドで投げれば、井上も橋本のキックを正面から受けきり、橋本と安田をアルゼンチンバックブリーカーで担ぐなど怪力ぶりを見せつける。試合は橋本が三角絞めを決め、井上を脱臼させたことで試合はストップとなるも、井上の評価を上げる結果となってしまうなど、内容を残したNOAHに言いようにされてしまう。
そして注目のメインである三沢&力皇vs小川&村上は、開始直前から三沢と小川は睨み合い視殺戦を繰り広げる。だが力皇が先発を志願し三沢も託すと、力皇を格下と見なしたのか小川は激昂し三沢を挑発も、三沢は小川の挑発には付き合わず、コーナーに下がる。
試合開始となるが小川ではなく村上がいきなり力皇に襲撃をかける、小川にしても格下相手に自分は出る幕がないとして村上に任せたのだろうが、村上がパンチの連打を浴びせるも、パンチを受けきった力皇はがぶってコーナーに押し込み、上手投げからぶちかましで村上を吹き飛ばす。村上も後年「あの人はまるで戦車。自分も相撲をやってましたけど、ガーンとかまされ"こっちが胸出してないのに反則じゃないの?"ぐらいの勢いがあった」と語っているように、三沢が自身のポリスマンとして力皇を抜擢した理由は前頭4枚目と大相撲で幕内を経験している潜在能力と、横綱や大関クラスと対戦し曙の張り手もまともに喰らった経験もある打たれ強さを買ったからだった。その後も村上は顔面にジャブを放つも、相撲の張り手を受けている力皇は平然と受けきり村上を挑発、逆に突っ張りに連打で押し返し、がぶってから自軍に押し込んで三沢に交代する。
村上は三沢にローで牽制も、三沢は片足タックルからグラウンドを仕掛け。村上は膝十字で捕らえるが、三沢は慌てずロープに逃れ、パンチを仕掛けてくる村上の頭部を押さえ逃げられない状況にするとエルボーを連打、その数発かは鼻に入れており、後で村上の鼻骨が折れていたことが発覚する。
村上は小川に交代するが、ここでも三沢は小川のペースに付き合わず力皇に交代、自分との対戦を避ける三沢に小川は挑発するも、力皇がコーナーに押し込んで張り手を浴びせ、小川のグラウンド狙いも足腰の強さで撥ねのけ、キックやパンチも平然と受けきるなど、さすがの小川も思わぬ強敵が現れたことで表情が変わる。力皇が胴タックルを狙ったところで小川がキャッチするとSTOを決めて、やっと自身のペースに引きこめたかと思えば、三沢がエルボーの連打でカット、小川のペースにはさせない。
やっと三沢vs小川となるが、三沢がミドルキックで牽制すると、小川は左ハイキックを狙うが、三沢は左のエルボーでブロック、小川は片足タックルからグラウンドを狙うが、三沢は体を引いて潰すと首根っこを押さえてフロントネックロックに捕らえ、レスリング時代の引き出しを出して小川の動きを封じる。
小川はやっと背負い投げから横四方に捕らえてマウントを奪いパウンドを落とすと、三沢がガードしているところで力皇がぶちかましでカット、力皇はそのまま小川を場外へ排除して捕らえ、その間に交代した村上を三沢はジャーマン気味のバックドロップ3連発で3カウントを奪い勝利、小川は試合後に三沢を襲い掛かるが、セコンドにいた丸藤、杉浦らNOAH勢が駆けつけて小川を袋叩き、この事態の慌ててZERO-ONE勢も仲裁する。小川もマイクで「三沢、数さえ揃えれば勝てると思ってるんじゃねぇよ!今度まとめて勝負してやるからな!」と叫んで退場となるが、内容的にも小川は自分のペースにはさせてもらえず、三沢と力皇に美味しいところ全てを持っていかれて完敗だった。小川はバックステージインタビューで「こうやってボコボコにされたのは久しぶりだね、NOAHには触れちゃいけないイメージがあると、蓋が開けてみれば全然違うじゃん。びっくりだよ」と答え、後年村上も「新日本の人たちみたいに闘志剥き出しじゃないんですけど、やることがエグいんですよ。表情を変えず、やることがエグい…必殺仕事人みたいですよ、的確に仕事させていただきます、葬らせていただきますって感じ」と答えていたが、小川&村上、そして橋本の頭の中ではアントニオ猪木の影響なのか全日本系の選手が"ガチンコ"が出来ないという認識だったのかもしれない。しかし三沢の師匠であるジャイアント馬場は常に見せるプロレスにこだわり、ガチンコ的なものが避けていたものの、決してガチンコが出来ないわけでなく、見せる必要はないと考えており、相手がガチンコ的なものを仕掛けて来たら、対処するいわゆる”護身用”として使っていた。輪島大士との特訓でも、途中からマスコミを非公開にして、”相手がこう仕掛けたら、こう対処する”とシュート的なテクニックを輪島に叩きこんでいたが、決して試合では使うことはなく、馬場から教えを乞うた三沢もNOAHのリングではガチンコ的なものは使わず、自分らのプロレスを貫いていた。
試合後に三沢は「ぶっちゃけ、頭が使わなくていいから楽だよね、プロレスの難しいところは、闘いながら頭を使わなければならないわけで、あの試合ではそれがないわけだから、気分的に楽だったよ。まあ体の動くままに…みたいな感じだったし、そんなに技術や華麗さにこだわらなくても倒せばいいっていうね」とサラリと答えていたが、馬場は「シュートを超えたものがプロレスである」と言葉を遺したように、まさしく三沢vs小川の遭遇は三沢が「シュートを超えたものがプロレスである」をそのまま実践したような試合だった。
小川は三沢の命日の前日である今年の6月12日にレスラー、格闘家から引退を表明したが、その間は二度と三沢やNOAHに触れることがなかった。結局三沢の考えるプロレスと小川は相容れないということでネクストがなかったのかもしれない。