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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

小川良成デビュー30周年・・・・全日本プロレス、NOAH

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小川良成デビュー30周年・・・・全日本プロレス、NOAH

小川良成
 NOAHのベテラン・小川良成が今年でデビュー30周年を迎えた、小川は1983年に全日本プロレスに入門するも、翌年には長州力率いるジャパンプロレス勢が参戦したことによって日本人選手が飽和状態となり、デビューしたのは2年後で相手は元UWFインターナショナルのブッカーだった笹崎伸司で、全日本の若手も小川だけだったこともあって笹崎や同時期にデビューした佐々木健介と凌ぎを削ってきたものの、体が小さいだけでなくケガも多かったこともあって伸び悩んできた。


 長州力らが新日本へUターンし小川は天龍源一郎の付き人をしていたこともあって天龍同盟に参加、しかし天龍、阿修羅原、サムソン冬木、川田利明の4人には割って入り込むことが出来ず、天龍同盟だけでなく正規軍とも組むなど扱いは準構成員扱いだったものの、しかし原が全日本を去ったことで天龍と組む機会が多くなり、メインにも抜擢される機会も増えていった。


 天龍が全日本を退団し、小川は追随せず全日本に残留、鶴田軍の一員となりジュニアヘビー級王座戦線に加わるも、同じ鶴田軍に属していた渕正信が王者、また超世代軍に後輩の菊地毅がいたこともあって、小川にはなかなか挑戦する機会には恵まれず、小川は派手な飛び技より地味なクラシカルなスタイルだったこともあってクローズアップされることはなく、小川より菊地の方が上と見られていた。


 その小川と菊地の立場が逆転したのは1997年1月、菊地を破って王座を奪取したが、この頃から小川の存在がクローズアップされ始めるも、ジャイアント馬場さんがジュニアを軽視していたこともあって半年以上も防衛戦が組まれず、初防衛戦でマウアケア・モスマン(太陽ケア)に敗れ王座から転落、ケアがヘビー級に転向したのもあって王座を返上してベルトは小川の腰に戻ったが、小川と全日本ジュニアの不遇の時代は続いた。


 その小川の運命を変えたのは三沢光晴が提唱した“三沢革命”だった、現場責任者となった三沢は自身のパートナーに小川を抜擢、その時の小川は「まさかオレが」だったという、小川のテクニックや老獪さを高く評価していた三沢は小川の良さを上手く引き出しつつ、息の合ったコンビネーションも披露、世界タッグとアジアタッグ二冠王の偉業も達成、NOAH旗揚げ後も三沢の片腕となって三沢体制のNOAHを支え続け、新日本プロレスに流出していたGHCタッグ王座も奪取するだけでなく、秋山準のからGHCヘビー級王座も奪取した。


 特に対抗戦では三沢が小川と組んで対橋本真也率いるZERO-ONEや新日本プロレスの永田裕志、棚橋弘至と対戦したときは、相手側は「なぜジュニアの小川が出てくるんだ」と不満を露わにしたが、橋本相手にはサミングなど古典的なラフプレー、永田と棚橋相手には老獪さを生かして翻弄するなど存在感を発揮した。

 
 今では旗揚げメンバーも丸藤、小川そして森嶋だけとなり、馬場全日本を知っているのもこの3人だけとなった。NOAHの最古参レスラーとしてこれからもNOAHを支えて欲しい。


 最後に小川良成選手デビュー30周年、おめでとうございます!

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