ブラック・ジャック・マリガン
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ブラック・ジャック・マリガン
新日本、全日本、国際プロレスの三団体に来日したブラック・ジャック・マリガンさん(本名バート・デロイ・ウインダム)が死去した、享年73歳。
マリガンの名前は日本では馴染みがないかもしれないが、三団体に参戦しても主戦場はアメリカのAWA、WWE(当時WWWFまたWWF)においており、日本にはレギュラーでは参戦してしていなかった。
国際プロレスに初来日した1970年、また1973年はAWAのブッキングで来日し、IWA世界タッグ王座を奪取、当時国際のエースだったストロング小林とは金網デスマッチで対戦、AWAの提携先が全日本プロレスに変わると、1974年に全日本に参戦しジャイアント馬場さんの保持するPWFヘビー級王座に挑戦した。
新日本にはWWEと交流していたトロントマットとのブッキングで1977年に来日したが、外国人エースはスタン・ハンセンで、ハンセンとはタッグを組んでいたものの仲間割れ、険悪な関係と思われていたが、ハンセンの素質を見抜いていたマリガンは敢えて一歩引いた立場を取り、ハンセンには先輩として親身になってアドバイスしていたという。
現役最後の来日は1983年1月の新日本、マリガンはこの頃にはザ・ファンクスからアマリロ地区のプロモートを譲り受けるなど次第に一歩引いた立場を取り始めていたが、当時の新日本は長州力の台頭で日本人選手同士の抗争が主流になり始め、またシリーズ後半にはハルク・ホーガンが参戦、開幕戦ではアントニオ猪木とシングルで対戦したものの、次第に扱いが悪くなり、カードからも外されるようにもなっていった。
新日本参戦を最後に日本マットとの縁が切れたかに思われたが、1984年にAWA世界ヘビー級王者となってアメリカに乗り込んできたジャンボ鶴田に挑戦したが、1990年に次男で全日本プロレスにも参戦したことのあるケンドール・ウインダムと一緒にドル紙幣偽造の嫌疑で逮捕され、2年の懲役刑を受けたのを最後に表舞台には立たなくなり、事実上の引退となった。
2006年にAWAでタッグを組み、WWEのスタッフの一員として在籍しているブラック・ジャック・ランザとのブラックジャックスでWWE殿堂入りを果たしたが、息子であるバリーとケンドール、そして孫のブレイ・ワイアットとレスラーとして輩出した功績はいつまでも残る。
ご冥福をお祈りします
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