忍者ブログ

伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

DOMINION7.5in大阪城ホールまであと2ヶ月・・・前田vs船木、夢と現実を見たUWF

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

DOMINION7.5in大阪城ホールまであと2ヶ月・・・前田vs船木、夢と現実を見たUWF

 大阪城ホールでの3度目の観戦は4年後の1990年10月25日、第二次UWFを観戦した。


 、大阪城ホールは新日本は年に1回程度は使用していたが、大阪での動員力が弱かった全日本プロレスは使用しなくなり、1987年に改築工事を終えた大阪府立体育館は大阪府立体育会館としてリニューアルオープンしたこともあって大阪城ホールもプロレス興行で使用されることが少なくなっていた。

 
 そしてUWFが大阪城ホールで初開催したが、当時のマット界は大きく揺れていた、UWFの大会スポンサーだったメガネスーパーがSWSを旗揚げ、新日本だけでなく全日本プロレスから天龍源一郎らを含めた選手が大量に離脱してSWSへ移籍、週刊プロレスがSWSを『金権プロレス』と批判しネガティブキャンペーンを起こし、また大仁田厚がFMWを旗揚げ、ターザン後藤とノーロープ電流爆破デスマッチを敢行し大きなインパクトを残した。


 SWSの旗揚げはUWFにも大きな影響を及ぼしていた、メガネスーパーがUWFの大会スポンサーだったことで、フロントがSWSとの提携話を進め、話を聴かされていなかった選手らとの不協和音が生じ、またフロントの会社経理における不正疑惑が発覚したことで、選手とフロントの溝はますます深まっていったが、フロントと対立していた選手らも一枚岩ではなく、船木は1989年に新日本からUWFへと移籍したが、UWFの方向性を巡って高田延彦ら他の選手らとも対立し鈴木みのると共に孤立していた。
 その状況の中で船木が山崎一夫、藤原喜明、高田延彦と得意の掌打で連破し前田日明戦となっていたが、そういった状況の中でセメントマッチになるのではと噂されていた。


 試合は序盤から船木が得意としていた掌打、前田がキックと打撃戦を展開、船木が掌打を中心に攻め立てるが、前田が力でねじ伏せにかかる、そして前田が久しぶりにジャーマンスープレックスホールドをを決めるとミスター空中レフェリーがフォールカウント、UWFはKOかギブアップが中心だったがフォールという概念はまだ残っていた、船木は掌打やローキックで前田を追い詰めていったが、前田は体格を生かしてグラウンドでリードを奪い、終盤ではミドルキック、首相撲からの膝蹴り、キャプチュードと猛ラッシュをかけ、最後は前田がスリーパーで捕らえ船木はタップ、前田が勝利を収めた。


 試合後には前田が船木と握手を交わした際に何か囁いた、そして自分は観戦していたターザン山本氏に声をかけたが、山本氏は「UWFは終わりだよ」とつぶやいていたが自分はその意味をわからないまま会場を後にするも、バックステージで事件が起きていた、前田がマスコミに対してのコメントで「船木のような選手をリング外でゴチャゴチャさせたくないんだよ。妨害やちょっかいをかけるヤツは容赦なく叩き潰す」と発言したことで、フロント側は体制批判と判断、後日前田に対して『会社への背任行為』として五ヶ月間の出場停止を通達するが、後になってわかったことだがフロント側は前田、高田、山崎をUWFから追放し船木をエースに据えるつもりだったという。


 週刊プロレスや東京スポーツなどで事件を知った自分は愕然、UWFはどうなるのだろうかと思った、そして12月の長野大会で船木が試合後に前田を呼び出し、前田がリングに登場して選手らも全選手が揃って一致団結をアピール、船木をエースに据えようとしたフロント陣は船木が前田を支持したことによって総退陣、UWFもフロントを一新して再出発するはずだった。


 ところが全選手を集めたミーティングで安生洋二と宮戸優光が今までの不満を前田にぶつけると、前田が反発と受け止め怒り解散を宣言、UWFはリングス、UWFインターナショナル、藤原組と三つに分裂した。


 UWFは自分らにとって理想郷というか“馬場、猪木時代を変えてくれと”いう一つのムーブメントだった、しかし理想郷としたUWFに待ち受けていたのは現実だった・・・、今でもUWFと前田日明は青春の一ページである。

PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。