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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

DOMINION7.5in大阪城ホールまであと1ヶ月・・・初めて生で見たWWE

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DOMINION7.5in大阪城ホールまであと1ヶ月・・・初めて生で見たWWE

 2000年に入って大阪城ホールを訪れたのは2004年2月6日「WWE RAW TUOR」の大阪公演、この頃には自分はスカイパーフェクトTVを購入したことがきっかけにTVでWWEを見るようになっていたが、今回はWWE好きの友人に誘われ、またWWEとはどういうものかを生で見たいという興味から観戦を決意した。


 この頃の大阪城ホールは1997年に大阪ドーム(京セラドーム)がオープンしたのもあって、新日本プロレスは大阪ドームや府立体育会館での興行が主になり、ZERO-ONEの「真劇」や大阪プロレス、PRIDEやK-1など格闘技などは開催したが、プロレス興行で定期的に使われる機会はほとんどなくなっていった。


 当時のWWEはRAWとSMACKDOWN(SD)の2ブランド制を敷いており、各ブランドに選手が振り分けられていたが、大阪城大会はHHH、ショーン・マイケルズ、ランディ・オートン、リック・フレアー、バティスタ、クリス・ベノワ、ロブ・ヴァン・ダム、テスト、クリスチャン、ダットリーボーイズ(TEAM 3D)、ケイン、ハリケーンなどRAWブランドの選手が参戦するだけでなく当時RAWのGMだったエリック・ビショフ、セミリタイア状態だったスティーブ・オースチンが来日したが、注目は新日本プロレス時代にはワイルド・ペガサスとして活躍したベノワの凱旋、当初SD所属のべノアはツアーのメンバーに入っていなかったが、この年のロイヤルランブルで優勝すると、HHHの保持する世界王座に挑戦をするために突如RAWへ移籍し急遽ツアーのメンバーとして参戦が決まり、メインカードもHHHvsベノワの世界選手権に変更、急遽レッスルマニアの前哨戦が組まれた。


 久々に大阪城ホールへ来たが、会場の周りにはザ・ロックやケインのコスプレをしているファンもいたりで、日本の団体のファンとの質を感じたが、開場となると意外と空席が目立っていたこともあり、地方ではWWEは厳しいかなと感じさせた。
 試合もTVとは違って日本を意識してか日本スタイルの試合をしていたかなという印象があったが、第4試合後にはにはGMであるビショフが登場し挨拶しつつ理不尽な態度を取り、館内は罵声を浴びせるところでガラスの破裂音と共に“ストーンコールド”スティーブ・オースチンが登場、ビショフを罵倒した後でスタナーでKOしビールパフォーマンスを展開、これぞWWEらしさを堪能しつつ試合はぜすともオースチンのカリスマ性を堪能してしまった。


 メインのHHHvsベノワ、ベノワも日本を意識したのかグラウンド中心のテクニックで仕掛けるも、体格に優るHHHには敵わず、最後はペティグリーの前に完敗。
 試合後にはベノワは英語で「かつてのペガサス・キッドがいまやWWEのスーパースタークリス・ベノワだ。今日は失望させてしまったが、レッスルマニアでは必ずタイトルを獲得する」と約束して大会は終了、試合開始は19時だったが気づいてみれば22時を越えてしまっていた、22時を越えてまでプロレスを見たのはこの時が初めてだったと思う。


 その後ベノワは日本ツアー後に開催されたレッスルマニアでHHH、マイケルズとのトリプルスレッド戦を制して世界王座を奪取し、また同じ新日本で活躍したエディ・ゲレロもカート・アングルを破りWWE王座を奪取した、このときは新日本育ちの二人がレッスルマニアの主役になったと自分らも誇らしげに感じてしまったが、エディは翌年の2005年11月に急死、ベノワも2007年に死去、ベノワは家族と無理心中を図り、アメリカでは無理心中の概念はないため殺人と扱われ、WWEも事件を配慮してベノワの功績を全て抹消、大阪での試合が自分が生で最後に見たベノワの試合となった。


 いよいよ来月5日に新日本プロレスが大阪城ホール大会を開催するが、新しい光景を見せてくれるのか楽しみである。

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