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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

丸藤正道の"自由と信念"

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丸藤正道の"自由と信念"


 1999年7月10日、全日本プロレスが三重県立ゆめドームうえの大会を開催、この頃はジャイアント馬場さんが死去し、三沢光晴社長体制がスタートしたばかりだった。全日本が自分の地元で興行することを聞きつけ、自分は知人で全日本伊賀大会のチケットを置くことになっていた本屋の店主に「全日本の選手のサイン会をやらない」と冗談半分に持ちかけ、店主もダメ元で全日本側に依頼すると、営業から帰ってきた返事は「社長がサイン会にお伺いします」だった。自分らは「社長って…」と聞き返すと、「三沢がお伺いします」という返事だった。自分らは嬉しさではなく思わぬ大物が来ることで「えらいこっちゃ…どうしよう…」とオロオロしていた。7・10伊賀大会当日に、忙しい合間を縫って三沢が本屋を訪れてサイン会を行ってくれたが、さすが人気選手のサイン会ということで長蛇の列となるも、そのとき三沢に付き人として付き添っていたのは丸藤正道でデビューしてまだ1年も経過していなかったが、この青年が現在ではNOAHの中心選手になるとは思っても見なかった。

 三沢に追随してNOAHに参戦した丸藤は、三沢の掲げた"自由と信念"を、そのまま実践するかのようにメキメキと頭角を表した、そして2006年1月26日NOAH日本武道館大会で行われたKENTAvs丸藤によるGHCジュニアヘビー級選手権では、丸藤は敗れたものの、メインを凌ぐ大激戦となり、メインで田上明を破りGHCヘビー級王座を奪取した秋山準でさえも脱帽していた。自分はこの頃から丸藤は将来NOAHを託すことが出来ると感じさせた。秋山越えを達成してGHCヘビー級王者となり、KENTAとの試合で武道館のメインを飾り、2006年度のベストバウトを受賞したが、三沢光晴という壁だけはどうしても越えられることが出来なかった。三沢光晴という大きな存在…三沢が亡くなった後でも大きく圧し掛かり、三沢亡き後の体制で副社長になったとしても、それは変わらなかったのではないだろうか…

 自分が今でも思うことは、丸藤にGHCヘビー級王座を戴冠して一時代を築いて欲しいこと、これは今でも変わらないが、最近思うことはNOAH内で一時代を築くことよりも、外からNOAHを発信してベルトを越える存在になろうとしているのではないだろうか、GHCヘビー級を巻くことで三沢という存在を超えるのではなく、別のやり方で三沢という存在を超えようとしているのか、それが丸藤の考える"自由と信念"なのかもしれない。

 丸藤に贈る言葉があるとすれば、丸藤の考えていることは三沢の考えに反するものかもしれない。けど自分の出した選択がベストなら、三沢が生きていても文句は言わないと思う。丸藤の考えている"自由と信念"を貫いて欲しい。

 最後に丸藤正道選手、デビュー20周年おめでとうございます。

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