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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

ヒロ・マツダがWWE殿堂入り…力道山に反逆した男

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ヒロ・マツダがWWE殿堂入り…力道山に反逆した男

 
 WWE殿堂入り式典でプロレス創世記に活躍した選手に贈られるレガシー部門でヒロ・マツダが殿堂入りが発表された。日本人でWWE殿堂入りするのはアントニオ猪木、藤波辰爾、力道山に次いで4人目となったが、おそらくマツダが生きていたら力道山より後という部分では不満だったのではと思う。


 力道山がアメリカマットで活躍したのはアメリカ西海岸エリアのカリフォルニアやハワイなどで、マツダが活躍したのはWWEとも縁があるNWAの主要エリアの一つであるフロリダ、ダニー・ホッジを破りNWA世界ジュニアヘビー級王者にもなり、またヘビー級王者だったルー・テーズにも挑戦した。アメリカでは力道山よりマツダの方がビックネームであり、マツダも自負していた。


 マツダは1957年に力道山に憧れて日本プロレスに入門してデビューしたが、デビュー戦で急遽道場破りにきた空手家を相手にすることになり、マツダは勝ったものの「なぜ時間をかけて相手にも見せ場を作らせず、客を楽しめることが試合が出来なかったんだ!」と力道山から殴られたのをきっかけに、力道山への反発心が芽生えて、「打倒・力道山!」を胸に秘め日本プロレスから飛び出して海外へ旅立っていった。


 ペルーから北上してアメリカマットに上陸を果たしたマツダはセントルイスで、力道山を指導したボビー・ブランズから現在のリングネームを名づけられ、アメリカマットで一躍トップスターへと昇り詰めたが、日本ではマツダの活躍は力道山の圧力によって報じられることはなかった。実は力道山は馬場さんのアメリカ武者修行時代での活躍もマスコミに対して圧力をかけるなどして報じさせず、報じようなら取材拒否とチラつかせて徹底的に握りつぶした。力道山にしてみれば愛弟子である馬場だけでなく、飛び出していったマツダがアメリカでは自身より格上と扱われる。馬場やマツダの報道を徹底的に握りつぶしたのは力道山なりのジェラシーだったのかもしれない。


 1965年12月に力道山が急死するが、一報を聴いたときのマツダは淡々としていたという。マツダにしてみればアメリカマットで力道山よりビックネームになったことで「打倒・力道山」は充分に果たされており、もう力道山から受けた仕打ちは過去のものとなっていた。力道山の死によってマツダの活躍も日本でも報じられるようになり、12月に負傷した左足を治療するために日本に帰国、力道山死去後の新体制から日本プロレスに参戦して欲しいとオファーを受けて、マツダはメインクラスという破格な扱いで逆上陸を果たし、1967年に日本プロレスから旧知の間柄だった吉原功と共に国際プロレスを旗揚げ、エース兼ブッカーを務めたが、マツダの目的は日本マットのリサーチで、国際プロレスを含めたどの団体がNWA会員になるのに相応しいかを調べるためだった。


 この時期には日本プロレスもNWAに会員申請しており、猪木の東京プロレスもセントルイスのプロモーターでNWA会長だったサム・マソニックと接触してジョニー・バレンタインをブッキングしてもらうなど、NWA側に接触していたことから、NWAは日本、東京、国際のうちどの団体を会員に入れるべきか、マツダを通じて見定めようとしていたのかもしれない。だが東京プロレスは内紛のため自滅、国際は不入りでマツダが負債を被ろうとしなかったため関係が決裂、マツダが国際から撤退したため、NWAは経営が一番安定している日本プロレスが会員になることを認めた。


 国際プロレスから撤退したマツダはその後フロリダマットを主戦場にしつつ、全日本、新日本の両団体に助っ人として参戦。新日本では上田馬之助、マサ斎藤、サンダー杉山、剛竜馬と共に狼軍団のリーダーとなってアントニオ猪木とも対戦。また長州力率いる維新軍団の助っ人にも参戦したことがあった。ハルク・ホーガン、ポール・オーンドーフ、スコット・ホール、レックス・ルガー、ロン・シモンズなどを指導し、またマサ斎藤や高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)、剛、武藤敬司、西村修の日本人レスラーの世話役にもなったが、日本マットは肌が合わなかったのか定着せず、あくまでアメリカを主戦場に置いた。


 1990年12月に浜松アリーナ大会で木戸修と対戦、マツダは既にアメリカマットでは引退していたが、この試合が事実上現役ラストマッチとなり、1999年11月に肝臓ガンで死去、この頃には西村と新団体を設立する計画があったが頓挫していたのきっかけに体調を崩していたという。


 マツダはジャイアント馬場や中邑真輔より先にアメリカマットで活躍したメジャーリーガーであり、日本に定着せずアメリカに拘ったメジャーリーガーでもあった。
(参考資料=ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol27)

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