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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

DOMINION7.5in大阪城ホールまであと4ヶ月・・・初めての大阪城ホール

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DOMINION7.5in大阪城ホールまであと4ヶ月・・・初めての大阪城ホール

 7月5日、大阪城ホールで新日本プロレスが「DOMINION7.5in大阪城ホール」を開催する。


 大阪城ホールでプロレスが開催されるのはWWE RAWツアー以来で11年ぶり、新日本プロレスは21年ぶりとなる。


 大阪城ホールがオープンしたのは1983年(昭和58年)プロレスが初開催されたのは昭和59年3月21日の新日本プロレスでメインカードはアントニオ猪木、坂口征二vsディック・マードック、アドリアン・アドニスと長州力vs藤原喜明、当時の新日本は新間寿氏がUWFを設立、前田日明やラッシャー木村らが離脱し移籍したが、猪木の新日本正規軍と長州率いる維新軍団との抗争で全盛期よりは翳りを見せていたが、まだまだ勢いを見せていた。


 この時点では大阪城ホールは旧大阪府立体育館が常打ち会場だったこともあって頻繁に使われることはなかったが、府立体育館が老朽化のため改築工事に入り、プロレス興行は大阪城ホールへと移るも、マット界に激震が走り新日本の看板だった長州率いる維新軍団や永源遙ら中堅、若手がこぞって新日本を離脱して全日本プロレスと提携していた新日本プロレス興行(後のジャパンプロレス)へ移籍、提携ラインで全日本プロレスに参戦するようになった。


 全日本もジャパンプロレスの主催で昭和60年2月21日に大阪城ホールへ進出、長州vs天龍源一郎、谷津嘉章vsジャンボ鶴田、キラー・カーンvsジャイアント馬場で12000人を動員した。

 
 自分が大阪城ホールでプロレス観戦したのは昭和61年3月4日の全日本プロレスで、まだジャパンプロレスとの抗争が続き、最終戦の武道館大会では全日本vsジャパン7vs7シングル対抗戦が控えていた。
 メインはインターナショナルタッグ選手権(王者)長州力 谷津嘉章vs(挑戦者)ジャンボ鶴田 天龍源一郎、タイガーマスクvsザ・グレート・カブキ、キラー・カーンvsタイガー・ジェット・シンで、長州と谷津は鶴龍コンビを降しインタータッグ王座を奪取、カブキは全日本軍に叛旗を翻していた。
 カーンvsシンはほとんど試合にならず、カーンのクロスチョップがレフェリーに誤爆したため反則負け、タイガーvsカブキはタイガーは場外のカブキにプランチャを放ったがカブキが毒霧で迎撃したため反則負けに、メインのインタータッグ戦は4選手が入り乱れる混戦となるが両者リングアウトの引き分けでジャパン側が防衛となった。
 そしてジャイアント馬場さんは大熊元司と組んでハーリー・レイス、クラッシャー・ブラックウェルと対戦、試合はレイスがダイビングヘッドバットで大熊を降したが、実況席での解説を終え控室へ引き揚げようとする馬場さんを間近で見たが、初めて見る馬場さんは改めてデカイという印象を受けた。


 大阪城ホールは大阪府立体育会館が改装工事中の2年間、大阪でのプロレス常打ち会場となり、その間に藤波辰己vs前田日明、ジャンボ鶴田vs長州力など様々な名勝負が生まれていった。
  

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