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伊賀プロレス通信24時「日常茶飯事(ちゃはんじ)」

略して「イガプロ!」、三重県伊賀市に住むプロレスファンのプロレスブログ!

鶴見五郎引退・・・国際プロレスと独立愚連隊

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鶴見五郎引退・・・国際プロレスと独立愚連隊

69.jpg 22日での国際プロレス・プロモーション新宿FACE大会で鶴見五郎が引退することになった。


 鶴見が引退することで国際プロレスからデビューし現役を続けているレスラーは高杉政彦だけとなった。(アポロ菅原は現役を続けているかどうか不明)


 鶴見のルーツである国際プロレスは元レスラーで日本プロレスでフロントを務めていた吉原功氏故人が設立した団体、最初はヒロ・マツダをエースとした純アメリカンプロレス路線でスタートとしたが、やっと着いたTV局(TBS)やスポンサーの思惑に振り回されて頓挫、ヨーロッパ路線に転換するが、ビルロビンソンを発掘し外国人エースとしてスターへと押し上げた。鶴見が国際プロレスに入門したのは、NWAのライバル勢力だったAWAと交流を開始していた昭和46年、当時はロビンソンの兄貴分だったカールゴッチも参戦しており、二人から指導を受けるも二人はレスリング論を巡って口論となると、鶴見は二人から呼び出されては実験台となっていった。

 
 だが外国人エースという発想は日本人エースという固定観念にとらわれた日本では受け入れられなかったのか、国際プロレスは絶大な力を持っていた日本プロレスを抜くまでには至らず、ロビンソンがAWAへ転出したことで国際プロレスも日本人エース路線に転換せざるを得ない状況となる、しかしエースに抜擢したストロング小林がジャイアント馬場やアントニオ猪木を超えるまでには至らず、その影響もあってか中継していたTBSからは放送を打ち切られ、小林も新日本プロレスに引き抜かれるなどして国際プロレスは窮地に立たされた。


 その国際プロレスの窮地を救ったのは旗揚げしたばかりの全日本プロレスの馬場さんだった、吉原社長を嫌っていた猪木とは違って馬場さんは「吉原さんには裏切られたことはない」と絶大な信頼を寄せていた、馬場さんは日本人選手が手薄だったこともあって国際プロレスから選手を借り、そのお返しとして馬場さん自身も国際プロレスに助っ人参戦、鶴見は旗揚げ戦に助っ人参戦したことで全日本との縁が初めて出来た。


 鶴見はすぐ海外修行に出発、ヨーロッパを転戦しイギリスでは『蛇の穴』と言われたビリー・ライレージムでレスリングを学んでいたが、国際プロレスは東京12チャンネル(テレビ東京)で放送が再開されるも、新日本や全日本と対抗戦路線では団体の力の差が出たのか後塵を拝し、新日本や全日本と比べてマイナー団体と位置づけられるようになった。それでも吉原社長は独自路線として金網デスマッチだけでなく、当時なかったキャプテンフォールマッチなど取り入れたが受け入れられなかった。


 鶴見が帰国して4年後にヒールユニットである『独立愚連隊』が結成された、これも吉原社長が日本人自らがヒールとなり、外人側の役どころに付けば支払うギャラも外人に比べて安くなると考えたアイデアだったが、『独立愚連隊』は新日本プロレスから上田馬之介が助っ人して参戦するなどテコ入れするも、選手らの上下関係がうるさかったせいもあって団体の席巻するまでにはいたらなかった。鶴見は後年 Gスピリッツで「あの人(吉原功)が理想としたプロレスに、お客さんがついていかなかったんだよ、社長は全てが先に行って、何もかも早すぎたんだ」と語っていた。

 

 国際プロレスは放送していた東京12チャンネル(テレビ東京)が打ち切ったのをきっかけに昭和56年8月に崩壊、フリーとなった鶴見は海外を渡り歩いた後で全日本プロレスに参戦、自分が鶴見五郎というレスラーを知ったのは昭和57年1月頃で日本テレビで放送されていた「全日本プロレス中継」で、初戦では元国際プロレスだった阿修羅原と対戦、ミル・マスカラスともTVマッチで対戦した。


 鶴見は国際プロレス時代にタッグを組んた上田との縁でタイガー・ジェット・シンらと結託、天龍源一郎vs上田とのランバージャックデスマッチではランバージャックルールを無視して試合に介入し上田にスパナを手渡したことで一気に悪名を轟かせ、鶴見は半年間全日本マットから追放(実際は全日本からプエルトリコに派遣だったという)、追放解除後は世界最強タッグにも参戦しシンや上田が参戦しないシリーズでも外国人側に立ち、またアジアタッグ戦線にも絡み同じ元国際プロレスだったマイティ井上や原とも対戦、シンや上田とのタッグが『独立愚連隊』の一番の理想系だったという。

 

 上田が全日本を去って新日本に移籍し代わって旧UWFからラッシャー木村、剛竜馬らが参戦、シンが木村らと結託し国際血盟軍に加わったが、ヒールスタイルに拘るシンや上田と違って国際血盟軍は木村を盛り立てるユニットだったことと、剛が木村と折り合いが悪いだけでなく、扱いを巡って馬場さんに反発していたことから、ユニットとしてはまとまりを欠き鶴見の理想とはかけ離れたものとなった、それでも鶴見は木村とのコンビで世界最強タッグではジャンボ鶴田、天龍源一郎の鶴龍コンビを2年連続で破るなど金星を挙げるなどして実績を挙げていたが、メンバーの剛やアポロ菅原、高杉政彦らがリストラされ国際血盟軍は消滅、木村もマイクパフォーマンスでコミカル路線に走り、馬場さんと義兄弟タッグを結成。鶴見は一匹狼となってしまったが仕事ぶりは馬場さんから高く評価されてフリーながらも中堅の一角として活躍した。

 

 鶴見は長年戦った全日本を離れてSWSへ移籍、全日本とはフリー契約だったのもあり、ジャイアント馬場さんと話し合っての円満移籍だった、SWSでは元国際の縁があって若松市政の『道場・激』に属したもののSWSは崩壊し、NOWに参加しシンや上田と再び合体したが団体は長続きせず崩壊、その後はインディベンデント中心に活動しつつトレーニングジムを経営、国際プロレスプロモーションで怪奇派路線のプロレスを展開しつつDDTのカリスマとなった高木三四郎を輩出した。


 鶴見はGスピリッツで鶴見がどインディー路線を推進したことでプロレス界をおかしくしたのではということを聴かれると「俺もそう思っているよ、悪いことしちゃったなって、悪知恵というか“誰でもイージーにレスラーになれる”“誰でもプロレス団体を作ってやっていける”って礎を俺が作っちゃったと自分が思ってるもん、(略)、俺なんか小っちゃな団体で変なことやっちゃったから。怪奇派とかさ。それをマネしたのは高木のDDT、でも彼らはひとつのスタイルを作り上げたよ」と語っていた。


 吉原社長が作り上げたことも後年になって受け入れられ、鶴見が作り上げた怪奇派路線も高木三四郎によってひとつのスタイルとして発展させた、その元が国際プロレスだったのではと思う。その国際プロレスも現役で続けている選手は一人だけとなった、これも時代の流れなのか・・・


最後に鶴見五郎選手、お疲れ様でした!

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